#1
9:30。
「なるほど。どこからどう見てもシャーロック・ホームズね」
弥生さんは、僕の姿を見ると、感心したようにそう言った。
場所は、僕が一人暮らしをしている安アパート。ささやかなキッチンとユニットバスがあり、部屋の中のほとんどをベッドと机と本棚が占領しているという、どこにでもある普通の大学生の部屋である。大学への所要時間と、インターネット回線の速度だけは自慢できるが、それは今はあまり重要ではない。
自己紹介をしておこう。
僕の名前は、市原勝也。
親しい者は皆、僕を『イチガツ』と呼ぶ。苗字と名前から一文字ずつ取って縮めた、実に分かりやすいニックネームだ。
N大学に通うごく普通の大学生だ、と続けたいところだけれど、これには外せない注釈が付く――ただ一点を除いて、と。
そう、普通・平均・平凡と三拍子そろった僕が、たった一つ、他人と明らかに違うこと――それが、予知能力を持っているということだった。
ひどい頭痛とともに僕の脳裏に飛来するイメージは、それが画像にせよ、断片的な言葉にせよ、あるいは香りのような感覚であったとしても――経験上百パーセントの確率で現実となる、未来の何かなのだ。
それは、僕にとっては明らかにできない現実であり、弥生さん以外の人には隠すべき秘密である。
しかし。
今に限って言えばもう一つ、普通から外れたことがある。
それは、弥生さんのセリフで表現されていた通り、僕の格好がどこからどう見てもシャーロック・ホームズだと言うことだ。
具体的には、スーツの上下にネクタイを絞めて、茶色のインバネスコートと同色のハンチング帽を身に付けている。小道具に、虫眼鏡とパイプも忘れていない。ダメ押しとばかりに『シャーロック・ホームズ』と書いた二枚の白い板で胸と背中を挟み込み、サンドイッチマンになっているのだ。
これ以上に自分をシャーロック・ホームズだと主張する格好があるというなら教えて欲しいくらいだ。
「わざわざ見に来たかいがあったわね。なかなか似合ってるし」
もう一度、僕の姿を上から下まで眺めて、弥生さんはそう言った。
「ありがとう。そう言ってもらえると、わざわざ見せたかいがあったというものだよ」
ここで、弥生さんのことも紹介しておこう。
如月弥生。
世界にとって、それは『名探偵』の名前である。
存在自体が既に驚嘆に値する、自他ともに認める『名探偵』、それが彼女の特筆すべき特徴なのだ。
けれど、僕にとって、それは一人の女性の名前だ。
彼女、恋人、つきあっている人。
表現は数あれど、それが意味するところは同じ――僕の大切な人だ。
「その格好で大学祭の企画を手伝うのね。何だっけ、『リアル脱出! 名探偵は君だ!』だっけ?」
「正確には『リアル謎解き! 名探偵を探せ!』だね。この格好で、大学祭の会場を一日歩き回るだけの簡単なお仕事だけどね」
僕はそう言って、弥生さんの言葉をやんわりと訂正した。
そう、我らがN大学は、今日から三日間の日程で大学祭を開催する。
僕がこんな格好をしている理由は、大学祭の企画を手伝うためだった。
「面白そうだし、やっぱり私も参加するわ。ちょうど今は何も事件を抱えていないから」
「大歓迎だよ」
弥生さんにそう応えた、次の瞬間――。
僕の脳裏に、ほんの一瞬閃光のように、本当に唐突に脈絡もなく、ある映像が浮かんで焼きついた。
場所はここ、僕が住む安アパート。僕はホームズの格好をしていて、弥生さんを見ている。弥生さんは携帯電話を耳に当てている。時計は9:45を指している。唐突に聞こえる弥生さんの声『わかりました。すぐに行きます』――。
「あ――」
僕は思わず声を上げて、額を押さえた。
その痛みは鋭すぎて、逆に鈍く感じるほど。頭を内側からがんがんと叩かれているようだ。
こうなると、目を開いていても何も見えないので、僕は目を閉じてしまう。
「ちょっと、イチガツ?」
僕の様子に気付いたのか、弥生さんが肩に触れて声をかけてくれる。
「――大丈夫。これは、いつもの」
「予知能力?」
鈍痛はまだ残っていたが、弥生さんの声で少し落ち着く。
「どうやら、今日の予定はキャンセルみたいだ」
「それって――」
そのタイミングで、弥生さんの携帯電話が着信を知らせて音を鳴らした。
弥生さんは、一瞬申し訳なさそうな表情を見せたが、すぐに背筋を伸ばして電話に出た。
「はい。そうです。はい――」
彼女の声は、特に事件に向かっている時に凛と響く。個人的には可愛らしい声だとも思うのに、不思議と張りをもって聞こえるのだ。
「え、爆弾――?」
聞き返した声が、重く残る。
僕の聞き間違いであれば良いが、その可能性は低そうだ。
確かに弥生さんは言った、爆弾、と。
「私を? なるほど、問題ありません。名探偵の掟、その10。名探偵は、いつでも誰からでも、あらゆる挑戦を受ける」
そこで、弥生さんお得意の『名探偵の掟』が出た。彼女が、名探偵たる者かくあるべしと無数にリストアップしているモットーのようなものである。彼女は、時には得意げに、時には自らを戒めるように、この掟を口にするのだ。
そして、弥生さんは電話をこう締めくくった。
「わかりました。すぐに行きます」
ちらりと部屋の時計に目をやると、ちょうど9:45を指していた。
これでまた一つ、僕の予知が現実になった訳だ。
「ごめんねイチガツ。私、行くわ」
「分かってる」
でも、と僕は続けた。
「何やらいつもより物騒な感じだけど――必ず無事に帰って来てね」
「ええ。名探偵の掟、その7。名探偵たるもの、必ず無事に帰れ」
そう言葉を残して、弥生は颯爽と出掛けて言った。
僕はそれを見送ることしかできないが――いや、僕もそろそろここを出発しないと。
イベントを企画した先輩と待ち合わせがあるのだ。
さて。
これから少し時間を使って、如月弥生が解き明かしたある事件について語ろうと思う。
一つだけ先に言わせてもらえば、これから語るのは『決着』についての話であり、その『刻限』に至る物語である。
次々と迫り来る三つの制限時間に惑わされそうなら、気をつけて。
そんなことでは、如月弥生の紡ぐ真実に辿り着くことなど出来はしないのだから――。
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