第1話:青年と「8・9・3」
少しずつ更新。
「ヤクザ」という言葉に対してどんなイメージを持つだろうか。
怖い? 悪人? 犯罪者?
それとも任侠? 弱きを助け強きをくじく?
俺、山本英治は後者だった。
「ヤクザは社会の弱い人を守っている! 任侠道は今も健在なんだ!」
そんな妄想を抱いて、小さい頃から切った張ったの任侠映画を食い入るように見ていた。
俺みたいな一般人が、決して踏み入ってはいけないアウトローの世界。
でも、だからこそ、俺は憧れと畏敬の眼差しで「彼ら」を見ていた。
そう、現実的な目では決してなく、妄想の延長線で捉えていたのだ。
「いつまで寝てんだコラァ!! さっさと起きろこの野郎!!」
「ひゃい!?」
突然の怒号。なんだ?何が起きた?
「山本、てめえこの野郎! 先輩より遅く起きるとは良い度胸だな!!」
頭をかなづちで叩かれたようにクラクラする。
部屋いっぱいに射し込む朝日に視界がぼやけてよく見えない。
「寝ぼけてんじゃねぇ!」
三度目の怒鳴り声。この声は……ああ……林さんだ……。
「す、すいません……。あの、起きました……」
「起きましたじゃねえよこの野郎! さっさと着替えて用意しろ!!」
林先輩は俺の頭をはたくと、扉を乱暴に閉めて部屋を出ていった。
その衝撃でやっと目が覚める。
何度かまぶたをパチパチさせると、視界のもやも晴れてきた。
日に焼けた畳と白い壁、朝日に照らされた無骨な本棚と大きな掛け軸。埃臭い布団の臭いが鼻を突く。
昔の夢か……。
起きた頭でそんなことを考える。できれば覚めてはほしくなかったのに。
上下白のジャージに着替えると、急いで布団をたたみ、階下の事務所へ向かう。
寝ぼけていてよく分からなかったが、部屋にまで朝食の良い匂いが届いていた。
今日の朝食は何かな。
そんな考えが頭をよぎる。気分は最悪だが空腹には勝てない。
「おはようございます!」
無理矢理張り上げた大声に、その場にいた全員がこちらを振り返った。全員ジャージ姿に坊主頭。まるで野球部員のようだ。俺の挨拶も野球部員のようだ。
「おせーぞ、山本。さっさと飯食え」
一番体格の良い坊主頭が凄みのある声で静かに言った。
声の主は中野さんだ。顔中にある傷と鋭い眼光。「暴れ虎」の異名を持つ怖い人だ。
「はい! すいません! ありがとうございます!」
素早く90度までお辞儀をすると、俺は降りてきた階段の左横にある台所へそそくさと移動する。
流しの横におにぎりが1つだけ置いてあった。これが寝坊した俺の今日の朝食だ。
「残念だったな~、山本。お前が起きてこないからおかず全部食っちまったわ!」
箒で床を掃きながら、林さんがニヤニヤと嫌みを言う。
この人はいつもこうやって後輩に嫌味を言うのだ。それなのに――。
「林ぃ。くだらねーこと言ってる暇あったらさっさと掃除しろ」
「は、はい! すいません中野さん!」
自分より目上の人にはすぐにペコペコする。
でも俺は林さんが露骨に嫌な顔をするのを見逃さなかった。
少ない朝食を手早く食べ終えると、溜まっていた食器を洗う。生ゴミからして今日の朝食は目玉焼きか卵焼きだろう。事務所の定番メニューだ。
「……山本」
「あ、は、はい!」
突然背後から声をかけられた。
驚いて振り向くと190㎝はあろうかという長身痩躯の男がこちらを見下ろしている。川島さんだ。
「な、なんでしょう?」
「……これ」
川島さんの手にはバケツと雑巾が握られていた。
「……ん」
川島さんは半ば強引にそれらを渡すと、面長の顔をやや右に傾けた。
視線の先にはトイレがある。
……要は寝坊した罰としてトイレ掃除をしろということらしい。
「……わかりました」
今日のトイレ掃除は川島さんが当番だ。だが、ここで文句を言っても仕方がない。
渋々掃除用具を受け取ると、川島さんは何も言わずに窓を拭き始めた。
俺には反論の余地もないらしい。
洗い物を急いで終わらせトイレ掃除に向かう。
トイレは事務所の2階と3階に1つずつある。優先順位としては2階のトイレが先だ。ここを先に済ませないと、後から来た人たちに掃除がなってないと怒られる。
以前それで林さんが怒られて、顔が腫れるまで殴られているのを見たことがある。
同じ轍を踏んではいけない。
「山本、1階の掃除頼むわ」
「はい!」
「山本ぉ! 新聞取ってこい!」
「はい!」
「……これ」
「はい!」
「山本ぉ! 布団干しとけよな!」
「はい!」
「……あれ」
「はい!」
その後何度も繰り返される雑用の押し付けアンド押し付け。
8時前にはあらかたすべての作業が終わったが、そのほとんどを俺1人でやった。
朝の雑用が終われば、今度は別の作業がある。
……俺の嫌いな作業が。
「山本。これ」
「……はい」
「またいつも通り頼むわ」
「……はい」
「てめえ山本! 何だその返事は! なめてんのか!?」
「いてっ! す、すいません!」
中野さんから渡された書類を渋々受け取ったら、後頭部を思いきり殴られた。
林さんがここぞとばかりにお株を上げにくる。
「すいませんってのはなめてるってことか、おぉ!?」
「い、いえ、そんなことは……」
「じゃあグダグダ言ってねーでさっさとやれよ、この野郎!」
いってぇ……。 今度は横っ面を殴られた……。
頬がジンジンと熱い。口の中が切れたのか血の味が口いっぱいに広がる。
「林ぃ。そんなに言ってやんなよ。ちょっと寝ぼけてただけだよな山本?」
「は、はい……」
「じゃあ、頼むわ」
「はい……」
「あ?」
「はい! やらせていただきます!」
「うん、頼むわ」
そう言うと中野さんは、林さんを連れてタバコを吸いに行った。川島さんはソファーに腰かけながら新聞を広げている。
手渡されたのは詐欺サイトの製作に関する書類だ。
どういう人たちを対象に、どういうやり方で、どういうコンセプトで騙すのか。
ざっくりとした箇条書きの書類。これをもとに詐欺サイトを作れと言うのだ。
――情けない。
悔しくて、みじめで、情けなくて仕方がない。
何でこんなことになってしまったんだろう。
俺はここで何をしているんだろう。
目立つことはないけど、特に問題が起きることもない。
これからもずっと続くと思っていた平凡な俺の人生。
「8・9・3」の手札とは無縁のはずの人生が、今ではその手下としてアゴで使われる毎日。
「はぁ……」
文句を言うこともできないまま、俺は静かに作業を始めた。
次回も組事務所。