表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/34

第四章 2-1

 五時過ぎ、僕はTシャツにハーフパンツにスニーカーという格好で家を出た。


 目的地までの距離とこの日の暑さを考えると、本当は自転車を使いたかったが、あえて歩くことにした。もちろん、この徒歩での道のりも『散歩の文学』に反映させるつもりだからだ。


 繁桂寺の前まで歩き、その境内の周りをぐるりと回って、前に津坂先生と立ち話をした、東西に伸びている通りに出た。この通りを数百メートル東に進むと、目的のセブンイレブンが左手に見えてくる。


 僕はこのセブンイレブンによく行っている。僕の家から一番近いコンビ二なのだ。散歩をしている時もよく立ち寄るし、昨晩ATMを利用したのもこのセブンイレブンだった。


「いらっしゃいませえ」


「いらっしゃいませえ」


 店の中に入ると、二人の女性店員の挨拶がレジから聞こえてきた。ひんやりと、気持ち良くエアコンの効いた空気。僕は声のしたレジの方をちらりと見た。声の主の片方は、おばさんの店員だった。おばさん店員がこちらを向き、目が合ったので、僕は軽く会釈をしてから雑誌コーナーへ足を運んだ。


 このセブンイレブンにはかなり変な店員がいる。いま僕と目の合ったおばさん店員がそれだ。


 この店員は、五十歳くらいの、小太りで、彫の浅く鼻の低い平板な顔に眉毛をきりっと描いている中年女性だった。当たり前の話だがセブンイレブンの制服を着て、下は大抵黒のスラックスを穿いている。そのスラックスのベルトに、鳥の羽根のついたはたきを差しているのが少し目立つくらいで、見た目はごく普通のコンビ二の店員である。


 ところが、この地味な印象さえあるおばさん店員が、ちょっと信じられないくらい変なのである。というのは、彼女がレジで会計をしている時、客がホットスナック(コンビ二のレジ脇に置いてある、唐あげやフライドポテトやコロッケなどといった温かい惣菜)や、中華まんなどを注文すると、


「太りますよおおおっ」


と、かなり大きな声で叫ぶのである。


 僕がその叫びを初めて聞いたのは、会社を辞めて毎日散歩をするのが日課になり、よくこのセブンイレブンへ通うようになった、今から四年ほど前のことだった。その時僕は店で週刊少年マガジンを立ち読みしていた。すると突然「太りますよおおおっ」という声がしたので、びっくりして雑誌を閉じレジの方へ行ってみた。すると例のおばさん店員と背の高い男の客が、レジを挟んで対峙していた。


「はい? だからアメリカンドックを……」


 男性客は突然のことに戸惑って、どう反応していいかわからないといった感じの声をあげた。


「太りますよっ」


 おばさん店員は、今度は抑えた声で繰り返した。


「はあ……じゃあいいです」


客は明らかに不機嫌そうな声になって言った。


「○○円になります」


 おばさんは何事も無かったようにそう言い、会計を済ましてごく普通に「ありがとうございましたー」と客を送り出した。僕はその様子を眺め、ずいぶん変な店員がいるなあ、と思った。


 それ以後、僕はこのおばさん店員が「太りますよおおおっ」という叫びをあげるのに、しばしば遭遇するようになった。おばさん店員は客が誰であろうと、ホットスナックや中華まんが注文されると甲高い声で「太りますよおおおっ」と叫ぶ。大抵の客はその声と態度に引いて、黙り込んでしまうか、注文を取り消すのだった。客が黙り込むと、おばさん店員はあえてそれ以上絡みはせず、注文された品を保温するケースから取り出して、袋に詰める。客が注文を取り消せば、他の品だけを会計して済ませてしまう。


 こんな対応をして、客とのトラブルにならないのかと疑問に思うかも知れないが、客の方が引くので意外にもトラブルになっているところをあまり見かけない。おばさんも「太りますよおおおっ」と叫ぶ以外はレジ打ちや袋づめも迅速で正確だし、挨拶もしっかりしていてまともなので、叫び声だけが一瞬その場の空気からシュールに浮いて、後は淡々と平凡なコンビ二のレジ対応の光景が続いていくのである。


 それでも僕が見ている限りで一度、おばさんの叫びが客のクレームを招いてしまったことがあった。


 それは小さな子供を抱えた中肉中背の女性客が、ジュースや雑誌に加えて「スペシャルビッグフランク」なるものを二本、注文した時に起こった(僕はこの時、その女性客の次に並んで会計待ちをしていた)。


「スペシャルビッグフランクですね、太りますよおおおっ!」


 おばさんはいつも以上に元気よく叫んだ。


「は?」


 女性客は驚きと怒りが半々に詰まったような反応をした。


「ですから、太りますよっ」


「太るって、どういうことですか? なんなんですかその態度」


 女性客は緑と黒のラインの入った、変わった色のフレームの眼鏡をかけていた。片腕で子供を抱き、空いている手でその眼鏡をちょっと直し、


「ちょっと、意味が分からないんですけど。店長呼んでもらえます?」


 場が凍りついた。僕がななめ後ろからそっとのぞくと、丸顔に薄く化粧をした、一見穏やかそうな顔をしている女性なのである。しかしこういう人のほうが、一度怒らせると怖いものなのかも知れない。


「店長ですね、少々お待ちください」


 もう片方のレジで会計をしていた若い男性店員が、慌てて割り込んできて女性客に言い、レジの裏のバックヤードに消えた。すぐに、パグかブルドッグを思わせるたるんだ頬を持った、店長らしき小柄な男が出てきた。白髪頭を七三に分け、その七三分けも大分後退しており、六十歳前後に見えた。


 この間、レジは凍りついたまま、女性客とおばさんが睨みあっていた。おばさんはどういう神経をしているのか、まるで他人事のように平然とした顔をしていた。店長が女性客に話しかけた。


「どうされました?」


「フランクフルトを買おうとしたら、この店員さんが、太るって言ったんですよ」


「太る。お客様にですか?」


「そうです」


「それはそれは――」


 店長はおばさんをバックヤードに下がらせ、女性客に平謝りに謝りだした。それから僕は戻ってきた若い男性店員に案内されて、もうひとつのレジで会計を済ませ、店を出てしまったのでその後どうなったのかは知らない。


 このおばさん店員がなぜこんな叫びをあげるようになったのかは、もちろん僕には分からない。ただ、ぼんやりと僕は(ストレス社会だからなあ)と想像してきた。仕事のストレス、家庭でのストレス、その他もろもろのストレス、それらが接客中に噴出してこんなことになっているのではないか、と思われるのだ。


 叫ぶ理由がなんであれ、普通ならこのおばさん店員はとっくにクビにされるか、注意を受けて叫ぶのを止めさせられるかしているところだろう。しかしそうならないのは彼女と店長の関係性にあるようだった。というのは別に難しい話ではなくて、おばさんと店長が制服の胸につけている名札の名前(名字)が一緒なのである。


 恐らくこの店長とおばさんは夫婦なのだろう。つまりおばさんは店長夫人ということになる。それでまずい客対応を繰り返しても、クビにはならないのだろう。他の店員も遠慮しておばさんに注意することができないでいるに違いない。そして唯一彼女に注意できる立場にある店長だが、例えば店長も彼女との夫婦関係が微妙で、奥さんに対して注意したり怒ったりできないでいるとすれば――おばさんは誰からも注意されること無く、この異常な客対応を続けられることになるわけだ。


 とにかく、おばさんはこの「太りますよおおおっ」という叫びを、僕が知る限りで少なくとも四年間、セブンイレブン栃木F町店で続けていることになる。


 いつのころからか、僕はこのおばさんの叫びに一種のおかしみを感じるようになり、自分も「太りますよおおおっ」と叫ばれてみたいと思いはじめた。それでレジ対応におばさんが当たった時には、時々わざと「揚げ鶏」や「からあげ棒」などを頼んでみるようになった。するとやはりおばさんは、


「揚げ鶏ですね、太りますよおおおっ」


と毎回律儀に叫んでくれる。僕は笑いをこらえながら、


「そうですか、じゃあいいです」


と言って断るのだ。


 そのうちおばさんも僕がわざとホットスナックを頼むことを分かってきたようで、笑いをこらえている僕に迎合するように、にやりと口端に笑みを浮かべて明るく会計を済ませるのだった。


 ……話を今に戻そう。僕はおばさんに会釈をしてから雑誌コーナーへ行き、毎週立ち読みしている漫画作品を二、三読んだ。それから店の奥へ行って冷蔵ショーケースからコカ・コーラゼロ500mlを取り、レジへ向かった。


 レジは空いていた。僕がレジ台にコーラを置くと、レジ横でタバコの棚の整理をしていたおばさんがやってきた。僕にちょっと目を合わせて一瞬笑みを浮かべ、それから「いらっしゃいませ」と言って素早くバーコードリーダーでコーラをスキャンした。


「百二十九円になります」


 おばさんのとりすました顔を見て、僕はついうずうずっとした。


「えっとそれから、『丸から』五個と『サクッとメンチ』ふたつ、あと『フライドポテト』と『春巻き』を」


おばさんは一瞬で切り返してきた。


「太りますよおおおっ!すっごく、太りますよおおおっ」


それは僕が知っているおばさんの叫び声の中で一番大きな声で、店内中の視線がこちらに集まったのが分かった。


「ははは、じゃあいいです」


 僕は言いながら財布から百三十円を出した。おばさんもにやにやしながらそれを受け取って、会計した。レジの引き出しが開き、レシートが出た。


「一円と、」


「あ、レシートはいいです」


 僕がそう断ると、おばさんは「いえ……」と言いながら、レシートをレジカウンターの上に裏返して置き、制服の胸ポケットからボールペンを抜くと、レシートに何か書き込んだ。そうしてレジから出していた一円に添えて、


「一円とレシートのお返しです」


僕に渡してきた。


 僕は黙ってそれを受け取った。


 店を出る途中、レシートの裏をそっと見ると、案の定――docomo.ne.jpで終わるメールアドレスが書いてあった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ