第二章 3-4
それからこんなこともあった。
夏ごろ、今度は夜に、小学校近くの神社の前を通るように、とおじさんに予言された。そうすると、その神社の社の脇にある小さな公園のブランコを、五歳くらいの女の子がこいでいたのだ。女の子の背中を、まだ若いお母さんが押している。背中を押されてブランコの揺れが加速するたび、女の子の笑い声があたりに響く。
こんな夜に、と僕は驚き、気味悪がりながらも、一方でこれが今回の小説のネタになる出来事に違いない、と思い、立ち止まって女の子とそのお母さんを眺めた。すると、お母さんが僕に気づいてこちらへやってきて、
「あの、すみませんが」
話しかけてきた。体にぴったりしたTシャツに、やはりタイトなジーンズを穿いた、まともそうな見た目をした女性だった。それが、
「ちょっとの間でいいので、ブランコを押すの、代わってもらえないでしょうか? 私、少し用事があって」
と、およそまともでないことを言った。僕が、はあ、ええ? ととまどっていると、お母さんは、お願いします、すみません、と重ねて言い、足早に路地の向こうに去っていってしまった。
取り残された僕が、呆然として神社の敷地内を見てみると、母親に去られた女の子が無表情でブランコに揺られていた。僕が仕方なく女の子に近づいていくと、女の子はブランコを止めて、白い顔でじっと僕を見上げた。
「お母さん、ちょっとしたら戻ってくるって。押してあげるよ」
僕は女の子の後ろに回り、ブランコを押しはじめた。女の子は、突如現れたおじさんに押されても面白くないのだろう、黙ったままただ揺られていた。女の子の背を押すたび、彼女の体温が手のひらに伝わってくる。
……しかし何十分経ってもお母さんは帰ってこなかった。僕と女の子はとっくにブランコをこぐのに飽き、疲れて、ふたつ並んでいるブランコにそれぞれ腰掛けて、虚しく前を見つめていた。夏の虫がジージー、周囲で鳴いている。
(これは警察呼んだほうがいいかなあ)
僕がそう思いはじめた時、それまで大人しかった女の子が、しくしく、泣きだした。
「おなか、すいた……」
僕が彼女の横顔を見ると、うつむいて、しきりに手で目をこすっている。僕はかわいそうになり、気づいたら、
「夜ご飯、食べてないの? おじさんのうちに来る? 何か、食べさせてあげる。そうだな、そうめん好き? いっぱいあるよ」
と言っていた。
アパートに女の子を連れていくと、当然妻は驚いた。僕が事情を話すと、納得してくれ、
「有紀くん、ロリコン趣味があったの? 知らなかった」
と言った。
「そんなわけないじゃん、ただなりゆきで仕方なく連れてきただけだよ」
僕が反論すると、妻は、冗談だよ、と笑った。
女の子が夕食代わりのそうめんを食べ終えると、僕と妻はこれからどうするかを話しあった。妻は警察に連れていくしかないだろうと言う。僕はそうする前にもう一度神社に戻ってお母さんを待ってみたい、と主張して、それを押し通した。
僕たちは三人で並んで歩き、神社へ向かった。だいぶ女の子は馴れてくれて、女の子を真ん中にして、三人、手をつないで歩いた。女の子の手は柔らかかった。神社に着くと――良かったことにお母さんがいて、顔を引きつらせて無言で小走りに走ってきて、「ごめんね」と繰り返し言いながら女の子を抱き上げた。
事情を聞くと、なんのことはない、夫婦喧嘩が原因なのである。その日は女の子のお父さんの誕生日で、女の子とお母さんはごちそうを作って、手をつけずにお父さんの仕事の帰りを待っていた。しかしお父さんは食事を外で済まして帰ってきてしまった。お母さんはそれまでも夫へのささやかな不満を色々溜め込んでいたのだが、それがこのことで連鎖反応を起こすように全て爆発して、女の子を連れて家を飛び出した。行くあてもなく神社にたどり着き、女の子をブランコに乗せて、僕が通りかかった時、彼女は全てが――娘さえも――発作的に煩わしくなって、娘を捨てるつもりで僕に女の子を預けた。しかし一時間もその辺りをさまようと、いくぶん冷静になって、とんでもないことをしてしまったと思い、神社に引き返してきた。すると僕と女の子がいないので、動転しながらも仕方なく待っていた、というわけだった。
お母さんにこれからどうするのか聞くと、もう気が済んだらしく女の子を連れて家へ帰るという。僕と妻は、夜分若い母娘だけだと危ないと思ったのと、乗りかかった船で、家まで二人を送ることにした。
二人の家は、(比べるわけではないけれど)僕たちが住んでいるのより古そうなアパートだった。建物の手前の駐車場の縁石のひとつに、男が煙草を吸いながら座っていて、それが女の子のお父さんだった。見るからに人の良さそうな、青年か中年のどちらで呼ぶべきか迷わせるような年恰好の男性だった。
お父さんはお母さんと女の子に気づくと、駆け寄ってきて、泣きそうになりながら二人に何度も謝った。お母さんが僕たちのことを説明すると、今度は僕と妻の方に、こっちのほうが恐縮するくらい平身低頭した。
僕たちみんなはすっかり安心し、幸福な気分になって、少しの間談笑した。それも一段落して、僕と妻は帰ることにした。すると去り際、女の子が僕の腰に抱きついてきて、
「おじちゃんおばちゃんありがと!」
とかわいい声で言った。
「お兄さん、お姉さんでしょ」
女の子のお母さんが慌ててたしなめた。僕と妻は思わず笑った。
真っ暗な帰り道、僕と妻はなんとなく手をつないで帰った。妻と手をつなぐのは久しぶりだった。だいぶアパートが近づいたころ、
「あの子、かわいかったなあ。子供がいたら、あんな感じなのかな」
と妻が言った。
「そうだね……」
僕は口ごもった。今の僕の甲斐性のなさでは、とても子供など育てられない。
「作っちゃおうか、子供」
「え?」
「冗談だよ」
妻は、ふふ、と一声笑ったが、その横顔はどこか寂しげに見えた。僕は笑わなかった。せめてこんな時、妻に寂しい冗談を言わせないようにしたいものだなあ、と思った。




