第二章 2-4
本木君と津坂先生の事件は忘れようにも忘れられない。
本木君は頭の良い、控えめで痩せた男の子で、小学校時代僕とはけっこう仲が良かった。僕が学校でよく一緒にいた友達グループの中に、彼もいた。本木君はかなり無口な方だったから、しゃべった記憶はあまりないが、昼休みに缶けりやドロケイなど、他の仲間と共に遊んでいたことを覚えている。僕たちは彼のことを「モトキっちゃん」と呼んでいた。
さて、僕が忘れられない本木君と津坂先生の事件というのは、僕たちが卒業を間近に控えた、小学校六年生だった冬ごろに起こった。
そのころ津坂先生は、また彼独特の発想で、「毎朝のホームルームで、一日にひとりずつ、クラス全員の前で歌を披露すること」を僕たちに課題として義務づけた。それぐらいできるようになっておかないと、将来人前で歌うこともあるだろうし、生きていくのに困るから、というのが、津坂先生の言う、それをする理由だった。
津坂先生は若いころバンドのボーカルをやっていて、僕たちを担任していた当時も作曲が趣味という、つまるところ人前で歌うのが好きな人だった。そのために「人前で歌えないと将来困る」という偏見を持つに至ったのだろうと思われるが、とにかく僕たちは先生のその命令に従い、毎朝出席番号順に一人ずつ、教壇のそばに立ち、歌を歌うことになった。
――この「皆の前で歌を歌うこと」が、できなかった生徒が一人いた。本木君だった。なぜ歌わなかったのか、それを本人に聞いたわけではないから、正確には分からないが、元々おとなしく引っ込み思案な彼には、クラス全員の前で歌を披露することがいかに苦痛であるかは容易に想像できた。
歌を歌わねばならない順番が回ってきたその朝、本木君は津坂先生に命じられて、教壇の横に立った。心なしか顔が青白かった。
「よし、じゃあ、はじめ」
先生が機嫌よく言った。本木君は歌わなければならなかったが、黙って、僕たちクラスメートの方を向いたまま、突っ立っていた。五分、十分……時間は虚しく過ぎ、先生が何度か声をかけたが、本木君は応えない。そのうち先生の機嫌が悪くなった。ホームルームの時間が終わり、授業時間になったが、先生は本木君を立たせたままだった。
津坂先生の異常さは、このまま、給食の時間と休み時間を除いて、本木君を丸々一日中立たせたことだった。そのためその日の授業は全部つぶれた。先生は「歌うまで待つからな。諒子(非常に内気な女子生徒の名前)だって歌ったし、みんな恥ずかしいのをこらえて歌ってるんだ。お前だけ歌わないで済ませるわけにはいかない」ということを厳しく言ったり、突如、「ああ、もう、歌っちまえよ!」と怒鳴ったりした。
本木君はとっくに泣き出して、ときどき嗚咽しながら立っていた。人間、よくこんなに泣けるものだなと思わされるくらい、顔を真っ赤にして一日中泣いていた。
この異様な状態に、僕たちクラスの生徒は、――前に述べたとおりだいたいの生徒が津坂先生に心酔して、先生のすることはなんでも正しいと思っていたうえ、自分たちも一人も漏れずに歌を歌わされているのだ、という思いがあったので――ほとんど全員が本木君を冷ややかな視線で眺めていた。休み時間だけは、津坂先生は本木君と僕たち生徒を解放して、トイレ休憩などさせる。チャイムが鳴り、休み時間になると、先生は「はい、休み時間」と言って教室を出て行く。すると僕たち生徒は口々に、
「あーあ、ふざけんなよ」
「早く歌えって。授業できないじゃん」
などと、本木君に聞こえるように愚痴を言うのだった。本木君は怨嗟をあげる僕たちをきょどきょどと見、また嗚咽するのだった。
しかしこれで終わりではなかった。津坂先生は次の日も、朝から本木君を皆の前に立たせて、歌を歌わせようとしたのである。本木君はこの地獄に、相変わらず歌おうとせず、ただひたすら涙を流した。
何時間目になったころだったか、先生は隣の空き教室に、本木君と、本木君と仲の良い、僕を含めた数人の生徒を連れ出した。静まり返った空き教室で、先生は、
「俺の言うことは聞かないから、歌うようにお前らで貴広を説得してくれ」
と僕たち友人グループに頼んできた。そうして、しばらくしたら戻るから、と言って自分は空き教室から出て行った。
先生が出て行き、扉をガラガラッと閉めてしまってから、そこで行われたのは愚劣な行為だった。本木君の味方であるべき僕たち仲良しグループの友達一同は、優しく説得するどころか、本木君を激しく責めたのである。
「てめえ、いい加減にしろよ」
「皆歌ってんだよ」
「こっちはうんざりしてんさ」
罵声を次々浴びせられた本木君は、すっかり怯えきった表情をして、またしゃくりあげて泣いた。
さんざん本木君を責めたころに、津坂先生が戻ってきた。「どうだ?歌う気になったか?」と僕たちは問われると、その直前までいじめていたのが嘘のようにけろりとして、
「いや、何にも言わないので分からないです」
「説得はしたんですけど」
と言ったのだった。
それから自分たちの教室に戻り、先生はまた延々と本木君を立たせはじめた。本木君はただえづき、しゃくりあげ、嗚咽してそれに応えた。そうして午後になり二日目が終わろうとしたころ、先生はしびれを切らして、教室の生徒の机の間を歩き回りながら、怒鳴った。
「こんなところで歌も歌えないようじゃ、将来が思いやられるんだよ」
本木君は涙がいっぱいに溜まった瞳で先生を見返した。
「歌えないのか、歌いたくないのか、どっちだ!? ん? 歌いたくないのか!?」
本木君は先生のこの問いに、またひとつえづくと、コクリ、と小さくうなずいたのである。
「はあ? 歌いたくないのか」
やはり、コクリ、コクリとうなずいた。それはこれまでただ泣くだけだった本木君の、ささやかな、しかし精一杯の抵抗だった。
僕は彼のその意思表示を見た瞬間、それまで自分の心の中に氷山のように存在していた、津坂先生を正しいと信じ、この状況を本木君への正義の断罪と信じていた自分の偏見が、一気に氷解していくのが分かった。本木君は何も悪くない。そんな当たり前のことが、学級という閉鎖的な組織の中で、分からなくなっていた自分を発見した。生徒のうちの何人が、本木君のうなずきに僕と同じような感じ方をしたかは分からなかったが、僕は自分を恥じた。
一方で先生はこの本木君の抵抗に呆れてしまったらしい。怒りを含んだ大声で、
「そうか! 分かったよ! もういい! 負けたよ、俺の負けだ!」
と言うと、トーンを落として、
「皆さん、これ以上授業を遅らせるわけにいかないので、歌は次の矢口さんに回すことにします。貴広、座りなさい」
ようやく通常の授業が再開されたのだった。




