見えない悪意
王様はさっそく女官長を呼び出して、アルカの部屋を用意させようとしました。
「陛下、恐れながら王族でもない者を王宮に住まわせるわけには参りません」
「女官長。この娘は王妃の養い子なのだよ。それなら私にとっても娘も同然だ。だから家族として遇して欲しいとそう言っているのだ。固いことは言うな」
「いいえ、陛下。ここで秩序を崩してしまえば、この先陛下や殿下に妃を迎えられた時の示しがつきません。陛下はこの娘を王女として迎え入れるとでもおっしゃるのですか?」
「いや。そうは言っていない。しかしメアリー。お前はずっとベルを大切に想ってくれていたではないか。ベルはこの娘を我が子としていたのだよ。ベルの意思を少しは汲もうとしてはくれないのかね」
「あの、陛下、それに女官長さま。私はこちらできちんと働きます。お仕事さえいただければ……」
たまりかねて口を挟んだアルカを、女官長はギロリと睨みました。
「無作法な! 目上の者の話に口を挟むとは、最低限の礼儀も知らないようですね。言っておきますが王宮に勤める者は貴族階級から下々の洗濯女にいたるまで、身元の保証のあるものだけです。躾もできていなければ身元も確かでない者に与える仕事などありませんよ」
シンと静まりかえってしまった中でナイトが口を挟もうとするのを王が制しました。
「メアリー。ではどうすればいいというのかね。私はこの者に約束したのだ。娘として遇するとね。私は約束を必ず守ってきた。それはお前が良く知っている筈だがな」
それはそうなのです。
あの王妃と王子を襲った悪意の源を見つけ出し、それを排除するまで王は少しも諦めることなく努力し続けました。
その陰謀の源は神殿にあって神の領域は王とはいえ不可侵であったので、10年もの歳月を費やしはしたのですけれども……
「かしこまりました。この娘は王の縁者として先王の愛人の住まいであった離宮に住まわせましょう。王女に準じる教育も受けさせますが身分はいかがいたしますか? 庶民を王宮に住まわせるわけにはいきません」
王様はとうとう頭を抱えてしまいました。
そのときノアが口を開きました。
「この娘は我れの娘だ。ナイトとともに竜の谷で暮らしてきた縁で王宮で人族としての暮らしを学ぶことになったのだ。王よ、我は確か大公位を持っておろう。そんなものを使ったことはないがな。公女となれば王宮で暮らすにやぶさかではなかろうが」
王は嬉しそうな顔になりました。
「そうであったな。リズワン・ノア・ブース大公。貴公の娘アルカ・エルザ・ブーズ公女は責任をもって、アストリア王アーサーがお預かりいたしましょう。メアリーよいな」
目の前の茶番に眉ひとつ動かすことなく女官長は応えました。
「かしこまりました陛下。アルファナイト殿下の部屋の階下に公女の私室をご用意いたします。アルカ公女。私は王宮において女官長を務めますメアリー・アン・モンタギューと申します。お部屋にご案内いたしますので、大公閣下とのお別れをお済ましくださいませ」
アルカはぽかんとして自分にうやうやしく礼を取るメアリーを見つめてしまいました。
プロというのは、こういう人のことを言うのでしょう。
そんなアルカにノアは優しく声をかけてくれました。
「アルカ。迷いの森と精霊獣のことはわたしに任せておきなさい。この子たちも毎月様子を見に来が、何か困ったことがあれば私を呼びなさい。お前は私にとっても大事な娘なのだからね」
「アルカ、しっかりな」
「アルカ。任せとけ」
「アルカ、寂しくなるね」
精霊獣たちも口々に別れを惜しんでいましたが、女官長はさっさとアルカを促して部屋を出てしまいます。
「相変わらずだなぁ、メアリーは。アルカが来て一番嬉しいのはメアリーだろうに。あれは私の娘を随分大事にしてくれたようだしなぁ」
ノアが感心したようにそう言えば、王も頷きました。
「あぁ、慣れない王宮暮らしで困っているベルをメアリーはよく支えてくれたものだ。あの事件の時だってベルを真向から庇ったのはメアリーだけだったよ。皆、神殿の威光を恐れて口をつぐんだというのにな」
「そうだろうとも。ベルはメアリーと姉妹の契りを結んだと言っておったよ。メアリーはだからアルカが可愛くてならない筈なのに、お役目から一歩も離れないのだから、頑固な奴だよ」
大人たちがそんな噂話に興じているとは知らないアルカは、ビクビクしながらメアリーの後をついていきます。
なんだかおっかなそうな人だなぁというのが、アルカの印象でした。
ずっとベル母さまと精霊獣と呑気に自由に生きていたアルカには、こんなに規則に厳しくて表情の変わらない人に会ったのは初めてだったのです。
「公女殿下。こちらが公女殿下のプライベートな私室となります。ただしこの扉を開けますとこちらからは公女殿下として相応しい対応が必要な公的なスペースとなりますのでご注意くださいませ」
次々と案内される部屋は広い上に数も多くて、アルカは目がくらくらしてきました。
アルカはこんなに豪華な部屋も沢山の部屋もいらないから、森の家のように落ち着くことができる場所が欲しいと切に願いました。
「あの、女官長さま。できれば少し休みたいのですが……」
「メアリーとお呼びください。殿下。寝室に案内しますから夕食までお休みください。マナーが完璧になるまではこちらでおひとりで食事をとっていただきます。今のままでは人前に出せませんからね。殿下付きの侍女に寝室まで案内させます」
そう言って女官長は3人いた侍女に目くばせをすると、さっさと下がってしまいます。
「私はニーナ。隣がジャンヌ。その隣がマリーです。公女殿下。お疲れでいらっしゃるようですからひとまず湯殿に案内いたします」
それからアルカは湯殿でメイドたちによって磨かれ、拭き清められ。着替えさせられて今までで一番ぐったりとしてしまったところでベッドに運ばれました。
思わずアルカはニーナを見つけて頼み込みました。
「ニーナさん。もう夕食はいらないからこのまま朝まで寝かせておいてください」
「ニーナとお呼び下さい殿下。それでは暖かいミルクにハチミツを入れてお持ちしますね」
「ニーナ。私のことはアルカって呼んでくれない? 殿下って呼ばれるとまるで他人のことのような気がするの」
「かしこまりましたアルカさま。竜の谷というところは自由で格式ばらないと聞いております。けれどもニーナさまも人間の世界に来られたからには、少しづつ格式というものを覚えていただかなければなりませんわ」
ニーナはそれでもアルカを殿下とは呼ばなかったので、アルカは少しほっとしました。
けれども王宮で過ごし始めて僅かだというのに、アルカはもう森を離れたことを後悔し始めています。
ホットミルクを飲み終わったアルカは、そのコップを返そうと寝室の扉を開けようとしました。
けれどもそこでアルカの噂話をしているのが聞こえてしまったので、アルカはそっと扉の隙間がら耳をすませてその声を聞いてしまったのです。
「どういうことよニーナ。公女殿下付きになれると思ったら、あの娘どう見たって貴族とは思えないわ。いったいどういうことなのよ」
「そうよねジャンヌ。人に傅かれることに慣れていない感じがするし、第一大公の娘って王妃様だけなんじゃなかったのかしら? いつの間に竜はあんな娘を産ませたの?」
「まぁまぁ、2人とも。そんなに騒がないの。表向きは公女殿下なのよ。あんなのでもね。だから私たちだって公女殿下付きの侍女って訳じゃない。陛下も殿下もあの娘を可愛がっているのは本当みたいだわよ。だからまぁ大事にしときましょうよ」
「へぇ、ニーナは貴族でも無い娘に仕えられるの? 私たちは家格は低くても立派な貴族の娘だっていうのに」
「そうよ。どう見たって竜の子供じゃないわよ。竜の子供ってしっかりと色を纏うもの。王妃さまだって黒を纏てたじゃないの」
「そうよねジャンヌ。どうせあれは陛下が下賤な女でも産ませたのよ。出自を誤魔化すために公女にしたんでしょ。いやだわぁ。そんな不潔な女の世話をするなんて」
聞いていられなくなってアルカはベッドに潜りこむと、硬く目をつむりました。
下賤な女
不潔な女
そんな嘲りの声が頭の中をぐるぐると回ります。
違う!
そう言いたくてもアルカ自身が自分の出自を知らないのです。
何を言われても反論できないのが悔しくてたまりません。
だからなかなか寝付かれなくて、やっと眠れたと思ったら、いきなり眩しい日差しが目にあたりました。
ニーナがカーテンを開けたようです。
「アルカさま。起きてくださいまし。陛下と殿下が朝食をご一緒したいと仰せです。すぐにお仕度をしないと間に合いませんわ」
「でもニーナ。食事は私室でとるってメアリーが言っていたのよ」
「女官長はそのおつもりでしたのよ。アルカさまはどうやらマナーに少し足りないところがおありみたいですからね。でも陛下の命ならしかたありませんでしょう。面倒を掛けないでくださいな。遅れると叱られるのは私たちなんですからね」
そうしてアルカはほんの欠片も敬意のこもらない、それどころかいささか乱暴すぎる態度で洗面や着替えを済ませて、朝食の席に送り出されました。
見えない悪意とはこのようなものなのでしょうか。
一見するとどこにも落ち度はないのに、アルカにだけは軽侮の気持ちがひしひしと伝わってくるのです。
「おはようございます。陛下。いいえ、お父さま」
アルカが綺麗な礼をしたのをニーナはぎょっとした目で見つめました。
庶民の娘がこのように自然に美しい礼が取れるでしょうか?
「おはよう、アルカ。よく眠れたかな」
陛下が鷹揚に頷くとナイトもにこやかに声をかけてくれます。
「おはようアルカ。馴れない場所だと寝付けなかったんじゃないの。今日はのんびするといいよ」
「おはようございます。ナイトお兄さま。確かにあまり眠れませんでしたわ。お兄さまもここに来た当時はそうでしたの?」
「いいや。僕は男だからね。どこでも眠れる訓練を受けていたんだ。それこそ岩山の上や木の上でだってね。アルカみたいなか弱い女性じゃそうもいかないだろうと思ったのさ」
朝食の間の空気は暖かさと穏やかさに満ちていたので、アルカも安心して食事を楽しむことができました。
けれど食事終わるのを待ちかねたかのように、女官長が大勢の教師陣を引き連れてアルカの部屋にやってきました。
アルカの受難は始まったばかりのようです。