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剣聖伝記譚全十話

刀と運否

作者: 中ノ 晁

 ――運、ツキ、縁、業。吉兆凶兆、幸に不幸に禍から福。所詮は結果がすべてを語るとはいえ、そこへ至るまでの道のりには蛇の道かはたまた……。

そう、戦国の世で生き残るのは何も腕の優れた剣士ばかりでない。運、いや運命に恵まれた者でなければならない。それは例え天下無双の十剣聖であろうと変わりは無い。この時点から我が伝記、この伝奇を読み始めた読者には悪いが、十剣聖なる称号を冠す十人の男女の内で既に二人は死に、一人は女中に身を落とした。後者に関して身を落した、というのは彼女の抗議を招きかねない故に適切な言葉では無いかも知れぬが、まあ彼女がこれを読むことはないのであるから端的にこういった表現を通そう。……などと考えていると何処でこれを知ったか我が屋敷の女中である件の彼女――左 室町がやってきた。左がその際、包丁を手に握っていたのであわや討ち死という結末が己の脳裏によぎるが、幸い彼女は次の通りの健啖を切ると急かしそうに炊飯の蒸気立ち込める台所へと戻っていった。曰く、『妾は自分の意思でこうなったのであって、第一に女中へ落ちたというのは差別的であり職業選択の自由への冒涜だ』と。彼女が現役の剣士であった頃より随分と舌鋒鋭く、気も強くなったものだと思うものの、彼女の言い分は成程尤もである。自家の女中に説教され小さくなる己が平に服して謝罪したのは夏の盛りの昼の事であった。

言ってしまえば、この話は四話目に当たる。案ずること無かれ、各人の事の顛末が知りたければ彼らの話も併せて覗いてみればよい程度の話である。さて、運命、ツキの話に戻ろう。――先に述べた剣聖三人の内、後者の女中については本人立っての希望であるが故に何とも言い難いのであるが、彼女にはある程度のツキがあったのやも知れぬ。運命は彼女をまだ殺さなかった。それがどういう意味を持つかは己に知る由も無い。知るのは歴史か、この伝奇の読者しかないのだ。

申し遅れた己が名は阿倉伝奇である。隣で酌をするのが妹の裂記であり、何故このようにツキの話をするに至ったかというと月見酒に興じているからに他ならぬ。無論、このような下世話な――失敬、巧みな話題転換を思いついたのは己では無く、今共に酒を飲み交わしている筑前国の家老である轆轤 十字殿である。


「薩摩へゆけ」


「と、申しますと」


己が訊くと轆轤殿は鶴のような首にしなを作って一口杯を舐めると、地を這う様な低い声で続けた。――言わずとも分かろう、と。


「十剣聖が一人、今帰仁 不如帰が薩摩に現れたとの一報が我らの放った草から届けられた。他国の動きはまだ見られぬが、それも時間の問題じゃ。何処も次なる決戦に向け剣聖を自陣に迎え入れようと躍起になっておる。急ぎ、薩摩へ行き今帰仁を我が陣営に組すよう働きかけるのだ」


「承知」


「……お主と接触した剣聖は尽くその後に席を空けておる。確かに儂は敵側につくようならば消せと申した。だがお主、故意にそのように仕向けてはおらぬか?」


「滅相も御座らぬ。第一、一介の剣客に過ぎぬ己が剣聖を何人も謀殺せしめるなど出来ぬ話で」


「そのような言葉ももう聞き飽きたわ。心しておけ。次はないぞ。交渉はそなたに任せる。必ずや今帰仁を我が筑前の手駒に加えるのだ」


「はは」


轆轤殿はすっくと立ち上がり、景気付けのようにカカカッと脈絡なく笑った。それが月明かりに照らされてまるで狂人のように見えたので己は覚えずこの老人に嫌悪の情を抱いたのであった。


「見送ってくるわね」


裂記が着物の膝をはたきながら立ちあがって、轆轤殿の後を追う。


「さてはて、この度ばかりはどうなるものやら」











――名は今帰仁 不如帰(なきじ ほととぎす)。数年前から琉球の王のもとに身を寄せていたそうだが、先月そこから姿を消していた。その今帰仁をこちら手の者が薩摩の港に姿を見たと報告をあげた。幸いにして発見場所がここ西海道にあるからして、他国の者もまだ動き出していない筈である。この好機を逃す手は無い。

『十剣聖』 剣の道を極め、たった一人で一国さえ滅ぼす力をもった規格外の剣士十人を人々はこう呼び、武芸を志す者ならばその名を知らぬ者はいなかった。戦国の世も末、天下を争う徳川と石田は決戦に備えて彼らを自陣へ引きこもうと諸国へ密使を放った。しかし十剣聖を召抱えたいのは他の大名たちとて同じこと、様々な思惑と画策が絡みあい、静かな決闘が各地で火花を散らし、血を血で洗っても未だどの国も成果をあげたと云う話は訊かなかった。己が仕える筑前国も既に3人の剣聖と接触はしている。だが残念ながら成果らしい成果はなく、3人とも戦力という観点から排除される結果となっただけである。確かに彼らが他の国に取られてしまうという危険性は排除したものの、これでは戦況は変わらない。筑前国も強大な国ではないからして、ここで是非とも剣聖を召抱えたいという思惑が轆轤殿にはあるようであった。


「十剣聖は引き入れてこちらの戦力に加えたいと言うのが本懐。幾らお主の父の仇がそこに居るやも知れぬからといって、無闇たらに決闘を挑むのは儂に対して不義理じゃとは思わんか」


「親の仇をとるのが義理ですわ」


とプンスカ言い放つ裂記の口を手で塞ぎながら、己は言い訳して言い逃れようとする。


「いえ、そのような私心は御座らぬ。第一、決闘となったのは交渉の決裂、並びに交渉の結果によるもので、彼らとの戦いを自ら所望したことはありませぬ。轆轤殿には十剣聖の居場所を教えて頂ける境遇を与えて下さった恩義に報いる為にも、仇打ちは『事の済んだ後』に致すこと、決して約束に違えませぬ」


「『事が済んだ後』とは我々が関ヶ原を制す時じゃ、忘れるでないぞ」


昨夜のこととなった回想中の轆轤殿の言葉を思い出しながら、己は小さな港町へ来ていた。


「握り飯を三つ、包んでくれ」


――さて、今帰仁が目撃されたのはこの町であるという。だがまずは腹ごしらえである。腹が減って戦は……いや、これは縁起でもない。あくまで己の任は剣聖を勧誘することなのだ。そういえば、今の今まで成るべく剣聖との闘いは避ける積りでいたが、結局は刀を交えているではないか。

思い返してみれば不可抗力とはいえ、己は何とも運がないようである。それとも、剣聖と相見えても生き延びているだけ運が良いのだろうか。


「不幸中の幸い、とは果たして喜ぶべきなのかな」


と、茶屋の主人から握り飯を受け取りながら己の幸不幸を定めかていると、随分と臭気の漂う名実ともに辛気臭い若い女童がこちらを見ているのに気付いた。


「お尋ねするが、あの子はここの子供か?」


「いやあ知らんばい、ごめんなはり。あん子供、一昨日から昼時になるとやってくるんじゃ」


渦巻き模様の入った奇妙な襤褸を着た、褐色の肌をした年端も行かぬ幼い女である。乱世にこのような親のいない貧しい子は珍しいものではないが、そこで己の目を惹いたのは彼女が腰に帯びた見事な短刀である。柄にも鞘にもグルグルと薄汚れた布切れが巻いてあるが、僅かに覗く柄の先には黄金の螺旋模様の装飾らしきものが伺える。

常ならぬものを感じて様子それとなしに見つめていると、少女は己の視線に気づいたのかサッと刀を自分の後ろへ隠した。


「――おい、そこな子供。それを見せてくれんか」


ジリ、と白砂から照り返した日差しが頬を焙る。


「まさかそれは――


「これは、一族に伝わる宝剣なんかじゃないから全然価値なんて無いからなっ」


「そ、そうか」


恐らくこの子は阿呆の子のようである。阿呆というよりは馬鹿であり、馬鹿であるというよりは正直なのだろう。つまり限りなく馬鹿に近い正直者なのだろうとすぐに分かった。鈍感と言われるところ多く自他ともに現実問題に疎い己にも、好機というものが見えるのだと知った初めての瞬間である。


「別にそんなこと聞いていないのだが……。しかし、一族とはなんだ? 琉球の王のことか? 国主の島津殿のことか?」


己は大体察しの付きそうなところからとぼけて尋ねてみる。


「島津だと、そんな訳あるかっ!」


しめしめ、と思う。


「ふむ? では誰なのだ」


「うっ……そ、それは。って、お前にそんなこと教えてやる義理なんてないじゃんかっ! あー危ない危ない。ま~た、和人に騙されるところだったよっ」


「全力で罠を踏みに来るお前が言うか、それを。おっといかん、つい本音が」


「ふんっ! やっぱり騙す気だったんだな。決めた、お前とはもう口を聞かないぞ」


しかし、と己は心のうちで思案していた。

間者の言っていた今帰仁不如帰の特徴と、この一見頭カラッポの小娘は見事に一致している。性別、年齢、肌の色、奇妙な服装……。

まさかとは思うが、この明らかに頭カラッポの小娘が剣聖だとでもいうのだろうか。

グウゥ~、と地鳴りのような腹の音をあげる、この頭も腹もカラッポの小娘が。それにしても、話が出来過ぎている。まるでご都合主義のように、今回ばかりは己の方から近づいていくまでも無く剣聖と出会えたのである。しかもこの女童に限って、特別頭が切れるようには思えない。上手く丸めこめば空前絶後で最短の字数でこの物語は完結できるやも知れぬ。――と、後々思い返してみればこの時に油断したのは幸い中の不幸であったと悔いるばかりである。


「なあ」


「もう口を聞かないって言っただろっ」


「普通に喋っているではないか」


「……」


「まあどうだ、握り飯でも食うか? 腹が減っているのだろう」


「……減ってないから」


「別に、その代わりにどうとか言う積りはないから安心せよ」


「……本当だな?」


「武士に二言は無い。ほれ」


グウゥゥ! と、この娘は腹の音で返事をすると手渡された握り飯をガツガツと一心不乱に食べ始めた。見ている方が痛快なほど小気味の良い食べっぷりであった。


「……美味いか?」


「うん」


もぐもぐと一所懸命に口を動かしながら答える。


「名前は?」


「わたしは今帰仁不如帰」


「己の名は阿倉伝記だ。筑前より参った」


今や、この涙さえ浮かべながら握り飯を頬張る小娘が今帰仁と判明してしまったが、当の本人は二つ目の握り飯に夢中で正体が露見したことに露ほども気付いていない様である。


「なあ今帰仁 不如帰よ。」


「…んん、なんだ?」


「握り飯をもう一つやろう」


「わーい」


今帰仁がその握り飯にかぶり付く。


「だからどうかその剣聖の力を貸して貰えぬだろうか」


「――んごっ!? さ、さっき代わりには言わんと言ったじゃないか!」


「さっきのはタダで呉れてやったが、これもそうだとは言っていない」


「ううっ、全部罠だったのかっ! よくも騙してくれたなっ。叩いてやる」


不味い殺される。


「ま、待て待て!」


「何で待たなきゃいけないんだよ! どうせまた、騙すんだろう!」


「違うんだ。いや、違くはない。騙そうとして悪かった。この通りだ」


子供に向かって平身低頭する武士の絵面がここにある。奇想の絵師でもこれは描くまい。


「本当に反省しているのか?」


「している。お詫びに、貴殿の助けになりたい。いや、是非そうさせて貰いたい」


「ふ、ふーん……。まあ、どうしてもって言うなら」


「どうしても、助けになりたいのだ」


「じゃあ話くらいは聞かせてやってもいいよ」


「しかしその姿恰好、尋常の沙汰ではないようだが、一体全体何があったのだ。まさかその家柄で自ら望んで乞食になったわけではあるまい?」


「それは……」


今帰仁不如帰があどけない瞳を己の回想に向けると、悔しそうにその表情を歪めた。


「……わたしは剣聖を辞めるために来たんだ」


まったく、近ごろの若者はすぐ物事を投げ出そうとする。己はげんなりと思うのであった。




 桜島の大火山の見える浜辺にて、己は今帰仁と波打ち際を歩いていた。海から吹きつける磯の香り濃い風が首元をさらって行く。恐らくこのとき、今帰仁のその小さな体一杯に貯め込んでいたような怒気は悔しさという形に代わり、それをじわり滲ませながらも、あくまで淡々であろうと努めて生い立ちを話していたのであろう。

 

「うちらの一族は流浪の民なんだ」


「む? おまえは琉球の人間なんじゃないのか?」


「正確に言えば違う。今現在は――いや、ちょっと前までは琉球の王家に仕えていたってだけだから。かつては大陸の小国だったり西方の王朝で召抱えられていたりもしたからね。一つの場所に留まるのは一代限り。そのときの当主が死ねば場所を変えるんだ」


「雇われ用心棒のようなものか」


「確かに、そう言われればそうかもね。うちが6歳のとき、薩摩の兵が琉球に攻めてきた。当主だったお父ちゃんやお兄ちゃんたちは勇敢に戦って、薩摩を追い返したんだけれど、その戦いで味方も殆どがやられていたんだ。お兄ちゃんたちも皆、鉄砲にやられて帰って来なかった。剣聖だったお父ちゃんは怪我一つしなかったけれど、それから酷く沈みがちになった」


落ちていた貝殻を今帰仁が拾い、裏表を眺める。


「そんなある日、お父ちゃんが私にこの剣を渡したの。これは宝剣『不如帰』、大切なものだから決して手放すんじゃないぞって。お父ちゃんはその日から数日たってすぐに病気で死んじゃったわ。そして、私が今帰仁不如帰になった。そう、この名前はうちの名前じゃなくて「私たち」の名前なの。こっちの島で云う、剣聖 今帰仁不如帰とは、人じゃなくてこの剣のことを云うと言った方が、正確なんだ」


「成程……。だがその英雄を受け継いだお前がいわば故郷といってもいい琉球から離れてしまっていいのか? 薩摩の国主は英雄の不在を易々と見逃す愚鈍ではないぞ」


「言ったでしょ、一つの場所に留まるのは一代だけって。お父ちゃんが死んだから私は一族の掟に従って島を出たんだ。といっても、琉球も暫くは安泰じゃないかな。薩摩の奴らの狙いは、いや狙いの一つはと言ったほうがいいのかもしれないけれど――、欲しいのはこの刀なんだ」


確かに、そうであろう。事実この己の課せられた目的も十剣聖の力を狙うという点では薩摩と同じなのだから。


「薩摩に下る気なのか?」


「そんな、まさか! 例えお握りを10個貰ったって皆を殺した奴らの所に行く気はないよ」


相場が安いのは置いておいて、話を進めたい。


「では今現在仕えるところのない流浪の身なら、早く好きなところに行けばよいではないか」


「そうはいかないよ。この剣はね、持ち主に幸運を呼び寄せる――いや、周りに不幸を押し付ける。だからこれの持ち主は他から見ればまるで絶対的な力を持っているように見えるんだ。つまり分かるでしょ? 人の世の常ってやつだよ。本人が幸運であればある程、周囲から憎しみが湧きだす。じゃあ幸運であることは本当に幸福なのかな?」


今帰仁が布切れから宝剣を覗かせる。


「そう、望まぬ幸運こそが剣聖 今帰仁不如帰の本質なんだよ」




十剣聖の持つ異能。

これまでの経験則からして、そのどれもが傾国落城も容易くなされる絶大な力であるが、それ故に我が身を滅ぼすこともまた容易い。運命に翻弄されることを嘆く人など今の世に掃いて捨てるほどいるが、運命と常に隣り合わせであるとも言うべき彼ら十剣聖の命ほど軽いものはないのだ。


「うちはあの火山にこの剣を捨てる積りだよ。今やもう、今帰仁一族はうちだけになっちゃったし、剣聖だなんだって毎日殺し合いなんてしたくないしさ」


「なぜわざわざ火山に捨てるんだ? 捨てるなら海なり山なり、どこだっていいのではないか」


「この剣は造られたときの火でないと壊せないんだ。それにもし、この次に刀を拾った人がいたら、大変だから」


己は思わず目を細める。


「左様か。しかし、へえ。薩摩で作られた剣なのか。どこかにありそうな話だな」


「なんの話だ?」


「いやまあ、それはいいんだが……」


会話をしながら、己は考えていた。その決断に異存がある、と己が言えようか。不幸を周囲に押し付ける故に、一つの場所に留まることは叶わない。それは不幸を一つの場所に押し付け続けるということに他ならないからである。家族を持つことすら、恐らくは苦渋の決断であろう。彼女の父がそうしたように、家名を継がせる為に不幸な家庭を築く覚悟を、今帰仁不如帰以外に左右させるより他にあるだろうか。

だが、己にそれは関係がないのだ。十剣聖の招聘という己の都合をたった一人の少女の「幸福」――いや、「不幸」、まあどっちだって同じことであるが、それによって変えることは無いのだ。


「なあ今帰仁」


「なんだ?」


「捨てる位ならその剣、己に呉れ」


「やだよ。これは今帰仁不如帰だ。今帰仁の運命は今帰仁が決める」


「さっき言っていたが、それを持ってる人間が今帰仁になるんだろ? ならそれを渡して呉れるだけでいいだろう? 己は婿養子でも構わんぞ」


「断固拒否する!」


「無論冗談だ」


「目が本気だった。とにかく、駄目っ。この刀を狙う人間は過去にも沢山いたみたいだけど、今帰仁当主の血脈は初代から私まで続いてる。つまりどういうことだか、分かるでしょ」


今帰仁は再び、出会ったときのように、いや出会った時以上に目を鋭くしてこちらを警戒していた。


「分かった。じゃあ仕方がないから己も諦めよう」


「ふーん。へー。意外とあっさり諦めるんだね」


「疑っているな? だが己の目を見ろ。これが嘘を吐いている目に見えるか」


「…………うーん」


「なんだその微妙そうな顔は。第一、十剣聖とまともにやり合うなんて正気の沙汰じゃないことくらい分かってる」


直接対峙した唯一の剣聖、十剣聖の中でも最強である午莉阿手との数か月に及ぶ戦いで今でも悪夢にうなされているのだ、身にしみて分からない筈がない。


「火山まで行くのなら船がいるだろう。手配してやるから宿で待っていろ」


「ほ、本当かっ」


「どうしても己の手に入らないのなら、誰の手にも渡らないようにしてしまう方が良い。それだけだ。べ、別にお前に同情したから手助けしてやるって訳じゃないんだからな」


「じゃあなんで助けてくれるの」


「おいそこは食い下がってくれんか。この流れ的な暗黙の了解があるだろ」


「おー。なんだか大人な感じのやり取りだったんだな。この戦争が終わったら結婚するんだ、みたいな」


「全然違うけどそんなものだ」


そういって己は背を向けた。隙を見て剣を盗み出すのが最も容易い手段であるなら、それまでは親切な隣人を装うのが最適であるからだ。




「求められるとき、僕はいつも求められなかったときのことを考えてしまうのさ」


十剣聖の一人である病葉 祇園はこう己に語った。この男は文机で鶴を折っていた。


「結局、剣聖を成り立たせているのは人の世だ。剣がなければ成り立たぬ、戦がなければ生きられぬ。そのどちらもが人の生業によるものだ。字の通り生きる業、なんて正にその通りだね。僕らはその権化だ」


「己は、決してそれだけだとは思いませぬが」


「それは、なんともこそばゆいね。だけれども……」


最悪の剣聖、呼ばれるところの『国崩し』病葉は折り鶴を燭台の火に架けた。


「僕が求められることがいつも終わりの為の始まりと思うと、どす黒い気持ちが込み上げてきて、気が付くと血濡れの刀を手に一人で立っているのさ。業の深いことだとは思うのだけれど、どうも、止められなくてね」


そう言って彼は柔和に笑った。





「お前の国じゃ、剣聖の力を必要としてたんじゃないのか?」


己が病葉とのことを思い出したのは、今帰仁が湯の中を泳ぎながら、ふと聞いてきたからであった。湯気の中で今帰仁の褐色の肌がぼんやりと浮かんでいる。


「それは己には直接関係のない話だ。言ってしまえば君の力を使った連中がどうなっても知ったことではないからな。己には己の目的がある。己の今の立ち位置は言わば手段に過ぎんということだ」


「目的……?」


「敵討、といえば聞こえはいいが実際は史実の完成だな。己の父上は君と同じ十剣聖の一人だった。――が、今から一四年前に何者かに殺され剣聖の称号は奪われた。己は父上を殺したのが誰か知らなければならない。だから今こうやって剣聖を訪ねて日本中を回っているのだ」


「言っておくけど下手人はうちらではないぞ! 不如帰にまつわる十剣聖の称号は代々今帰仁家の世襲だからね」


「そりゃ分かってるさ。今回のは点数稼ぎで、気の進まない仕事さ」


「まあ、良く分からないけど大人は大変ってことか」


ざあ、と湯の跳ねる音がして、今帰仁が温泉を囲む岩の上に尻をぺったりつけて胡坐をかいた。宝剣は手拭でほっそりした左足に括り付けてある。恐らくは剣を片時も手放すなという家訓でも守っているのだろう。それは己のような人間への対策としては確かに有効である。湯気の立ち昇っていく夜空を眺めている。月がおぼろげだ。


「子供だって大変さ」


己は湯に映る月を両手で掬う真似をして、言った。




 この港から桜島へ入る最も手近な手段としては船で湾口を横切るのが得策である。無理に陸路でいくことも出来なくは無いが、島に入る道は大きく迂回せねばならず、また島への入り口は狭く関所で堅固に守られている。これは船でいくしかあるまいと言うと今帰仁は船は嫌いだと答えた。これは船酔いするらしい。とはいえ背に腹は代えられぬ、薩摩の追手もいずれこちらの動きに気付くだろうと説き伏せると素直に今帰仁は頷いた。やはり子供であるらしい。

さて船はどんぶらこ、と恙無い航海をするかと思いきや矢張り事が事だけに簡単にはいかぬ様である。


「もうバレていたとは恐れ入る」


船員達が皆薩摩の刺客であったのに気が付いた頃には湾の真ん中である。否、どうせこんなことだろうとは思っていたのである。それを敢えて見逃して虎穴に入ったのは今帰仁の「力」を見る為であった。幼くとも十剣聖に名を連ねる剣士である。その腕前、異能とは如何なるもかこの目で確かめておきたかった。


「其方、今帰仁殿とお見受けする。その刀さえ我らに帰納したらば一族郎党の安堵は保証すると伝えてあった筈じゃ。返答は如何に」


慇懃に申し入れてきたのは頭目らしき初老の男で、甲板の隅からそのしゃがれ声は問い掛けてきた。渋茶色の着物の襟辺りに吐瀉物が付いているところこの男も船酔いする質らしい。


「この刀は渡せない。こんなものはこの世にない方がいい。だから私は今日、これを棄てにいく。邪魔するな」


今帰仁は何時にもなく真剣な口調で宣言する。


「勿体ない事をするな。棄てるなら呉れんかのお」


「こんなもの手に入れたって、何も良い事なんかないのに」


「そんな事やってみんと分からんじゃろうて。どれ、おじさんにそれを貸してみい」


「おっと、それ以上近づいてくれるな。己は阿倉伝奇だ。訳あって今帰仁の護衛をしている。以後交渉ごとはこちらが窓口となるので悪しからず」


「摂政阿倉殿とやら。今3つ数える。その間に海に飛び込んで運が良く岸まで泳ぎ着けられれば生き残れるぞ」


「待て待て、それは3と言った瞬間に斬りかかって来るのか、それとも3を言い終わった時に斬りかかって来るのか、どっちだ」


「確かめてみれば好かろう。――ひとつ」


酷く状況が悪いので適当に会話を続けたかったがどうもそれすら叶わぬらしい。と、隣で鍔がカチャリと鳴った。


「駄目だよ。2を言い終わる前にお前たちは死ぬからね」


今帰仁が刀を抜いていた。刀身は幸運の刀らしからぬ毒々しい赤紫色に照っている。


「ふむ。阿倉某とやらが今帰仁、そんなに大切か?」


「べ、別に大切だからとかじゃない! 阿倉を殺されたら嫌だから言っているんだ」


「答えになっとらんの。じゃが、良し。やれやれ……こんな子供相手に刀を抜くなんて武士の名折れじゃが。いいな、油断するでないぞ。相手は女童といえ十剣聖。迂闊に手は出すなよ。あの従者の男を人質に取れ。腕の一本や二本くらい斬り落とすのは構わないどころか尚良し。そのほうが怖気づく」


「物騒なことだ」


「名乗り遅れた、鳴崎 嗚咽じゃ。小生も生きるのに必死でのう。色々となり振りを構っておられなんだ。許せ」


刺客たちは柄に手を掛けた。薩摩は居合斬りによる初手必殺に重きをおく流派の多い土地である。初手さえ凌げば打ち合いでは一段劣るが、抜刀の鋭さはいかな達人でも肝の冷えるものがある。更にこの敵の数では、初手だけで一体何回斬りこまれるものか。


「――ッ!!」


刺客の口から呼気が漏れ、同時に抜き打ちの刀身が空気を裂いて向かってくる、――いやそんな音速のものが目で捕えられたわけでなく、動物的な本能から、そのように向かってくるであろうことが容易に予想できたのである。

だが刃は己の体には触れず、血飛沫がハタタと甲板を打って刺客二人が崩れ落ちた。今帰仁の刀で刺し貫かれた男の一太刀が絶命によって手元が狂い、隣の刺客の男の腹から肩口までを斬り上げたのである。

死前の喘鳴がその男の口から洩れださぬうちに、もう一人。刃を鞘から走らせた。一太刀目は水平に、今帰仁の首を狙って空を裂いていく。それを防ぐ為に翻した妖刀で辛くも今帰仁は鋭い一撃を弾くと、方向を変えられた敵の刃は帆を支える柱に食い込んだ。


「くっ」


「下がれ!」


今帰仁は嚇すように叫んだ。だが男は脇差を抜いてなおも打ちかかり、一太刀、二太刀と斬り込むも今帰仁は柱を盾にしつつ、ひらりひらりとそれを躱した。不意に船が波に煽られ大きく揺れ、まだ脇差で斬りかかろうとしていた男は体勢も前のめりに転がり込み、柱に食い込んだままの刀に「あ、わああ――」と叫んで自分の首を奉げた。

残りの刺客たちは引いて間合いを取り平たい眼でこちらの隙を窺っているが、誰もが嫌な気配に怯えるような息をしている。

かくいう己もそうである。これまで剣聖といえば圧倒的な力を持ち、普通の人間では彼らと一合の撃ち合いさえ対峙することは不可能と思わせるような者たちであった。けれども、今帰仁は違う。力に絶対的なものを感じない。死に物狂いで斬りかかれば、数人がかりなら、もしかすれば――。

そんな「希望的観測」が頭をよぎるにも拘らず、絶対にそんな風に上手くいかないという運命の嘲笑に怯えが止まないのである。そして怯えは蛮勇に変わり、恐怖に囚われた者たちは無謀な攻撃を仕掛けていくのだった。

断末魔の叫びが白波の立つ海に響く。向かってきた最後の一人の初太刀は風切り音を鳴らして今帰仁の頭上から襲ったが彼女の短刀に横から薙がれて、そこから真っ二つに折れてしまった。折れた切先が甲板にカツンと突き立つ。


「くっ……!」


刺客はもう一本の脇差を抜いて果敢に立ち向かうが今帰仁はそれを蝶のように難なくかわし、翻って今度はその細腕で短刀をヒラリと振い相手の軸足の方を斬りつけた。刺客が思わず体勢を崩し倒れたところに、運悪く先に折れた刀の破片が首に突き刺さった。

こうして、ばっさばっさと何かの芝居のように刺客たちが斬り倒され、船に生き残ったのは己と今帰仁、そして鳴崎と他3人の刺客のみである。


「流石は剣聖。伊達でない。だが……」


鳴崎は唸るように言った。己は鳴崎の言葉に今帰仁を省みると、少女は真っ青な顔で目を丸く開けている。血に染まる両手はブルブルと震えていた。


「人を斬ったのは、初めてという訳か」


「う……う」


「しっかりするんだ、吐くな」


「吐くなよ、儂も貰ってしまうからな。ははは、そうかそうか。人を斬ったことのない剣聖とはまた面白い。だが見よ、そやつらを斬り殺したのは其方じゃ。最後に斬り斃した、そこに転がってるやつなぞ、5つの時から儂が世話をしてやった男で清尾 六衛門という。毎朝道場を掃除して、酒も飲まん真面目な奴じゃったぞ」


「うちは……そんなの……聞きたく、ない」


「やはり剣聖も人か」


己は今帰仁の手を掴んだ。


「それを寄こせ。お前にはやはり手に負えんものさ。意地など張らずに、さあ」


この娘の心が壊れる前に、と珍しくそんな気を起こした己が馬鹿であった。ものには伝えるべき言い回しと伝えるべき瞬間がある。己はそのどちらも不味かったらしい。

今帰仁は泣きだしそうな顔を雷雲のように不吉に曇らせると、不意に船の縁に駆け寄り海へ刀を放り投げた。


『何をしてる!?』


と鳴崎と同時に叫んで走りだすが、時すでに遅し海面は荒波立ち刀の影も無い。暗い水面に白波が無情に押しては消えていくばかり。どうしようもなしに鳴崎と顔を見合わせていると、それまで照りに照っていた日差しが急に陰った。奇妙な沈黙、不吉な静寂、そして間もなく大筒を地平線まで並べて斉射したような大音響の爆音と、それに一瞬間を置いて生暖かい風が顔に吹き付けた。見上げれば桜島の火山が朦々と噴煙を上げ、海も暗く潮を荒立てている。


「な、何が起こるんじゃ」


「己が知るか! ふ、船を港に戻そう」


「船頭――は死んどる。舵とり――も駄目じゃ。ええい誰でもいい、帆を張って港へ急げえっ!!」


そういう間に狂風が雨を連れだってやってきた。帆を張っている内に最早方向さえ分からない闇の中である。噴煙の粒子がぶつかり合って朦々と立ち込める塵芥の闇の中で稲妻を光らせている。


「今帰仁、大丈夫か」


己は波と雨にずぶぬれになりながら今帰仁を探した。童女は端っこの方で蹲って身動ぎ一つしていない。揺れる船の上で己はようやく小さな元剣聖の手を握るが、次の瞬間甲板から放り出されて彼女と共に海に飲み込まれたのであった。




冷たい雨に頬を叩かれ目を覚ますと、不吉に唸る火山の噴火口が頭上に聳えているのが見えた。岩礁に半身を乗り上げて、己は船から投げ出さた後に不幸中の幸いか桜島に流れ着いたことを知ったのである。


「一体全体、話はどうなっているんだ。今帰仁は何処だ。刀は?」


しかし返答も無く、やはり一人語りでは物語も進まぬようだ。


「船の残骸が向こうの浜辺に散乱しているな……。今帰仁や、他の連中もここに流れ着いている可能性は高そうだ。ともすれば刀もこちらに流されているかも知れん」


とここまで考えて、己と同じ結論に至って刀か、今帰仁を探して浜辺をうろつく者もいる筈だと、物陰に隠れて様子を窺うとまんまと人影が一つ現れた。確か鳴崎と一緒にいた刺客の一人で、背の低い太った毬玉のような男が小さな目をきょろきょろさせて浜を歩いている。腰に刀らしきものはなく、ここに流れ着く前に失くしてしまったのかもしれない。


「こちらも刀は流されてしまった。さて肉弾戦か、それともどうしようか」


己は取りあえず手近にあった石を拾い上げた。しかし如何せんこれでは、今までと打って変わって酷く血みどろで互いに肉潰れ骨ひしゃげる醜い争いを演じてしまうような感じがして気が乗らぬ。

ともあれそんなことを言っている訳にもいかぬので、希望的観測に基づく作戦を立てた。まずこの石を自分の居る場所と正反対に投擲し、次いでその音で相手の注意を反らせている間に後ろから近づき拳骨を見舞うと言う寸法である。貴様、石を使うという戦闘方法が剣士として恥ずかしいからとか主人公格としてするべきでないからだとか言う諸賢の非難は己に当たらない。現実的なやり方が必ずしも全ての状況下で正しいとは限らぬのだ。と、己は言い訳をここに記そう。とまあ但し書きは以上として、己はまず作戦に従い石を投げた。雨で濡れた石は滑っこく手から抜けて狙いを随分と外し、図らずも毬玉男の後頭部を直撃し


「うっ」


と一声叫んでかのものを見事戦闘不能に至らしめた。再び言い訳じみた事を書くがこれはご都合主義的だがまったく脚色でなく、事実である。


「しめた」


と己は完全に男が気を失っているのを半信半疑で確認してから、周囲にもう人の気配がない事を用心深く探り確信に至った。恐らく残る刺客は今帰仁のしようとしていたことも既に知っているのだろうから、もし己と今帰仁が刀を手にしていれば向かうであろう山の火口に向かっている筈である。そして今帰仁は――。彼女ならば、捨てたとしても必ず刀と再び巡り合う。剣聖とは最も運命に縛られた――そう、がんじがらめになった人間のなれの果てである。決して刹那的な行動によって逃れられるものでないのだ。彼女が刀を持っていようと、持っていまいと、きっとあの山の上に来る。そして、すべてを決するだろう。己は覚悟を決し、そろそろ小馴れてきた登山へと歩を進めるのであった。



今にも爆発噴火しそうな兆しをこちらに見せつけるかの如く、幾度も地震が山の木々を揺らす。緩くなった傾斜を時々岩が転がり落ちていくから、まったくもって油断できないのである。しかも登れば登る程、落石やら急こう配が増えてくる。無論山を登ったことへの後悔はないが、うんざりするものである。そんな中、左の方から声がする。見やれば鳴崎と若い男が太い木の後ろにぺったり張り付いている。


「なんじゃ阿倉よ、悪運強く無事だったか」


「鳴崎、こっちの台詞だ。その様子では刀は持っていないようだな」


「ああ、持っておらん、残念ながらなあ! だがこの火山の尋常じゃないところを見るに、元凶は山を登っているに違いないぞ。あれが山に近づけば近づくほど、噴火は激しくなっておるようじゃ。しかし、あの小娘一体なんて力を」


「彼女のせいじゃない。彼女はただの童女だ。問題はあの刀だ。恐らくこの異変は刀が……」


この時運にこれ程丁度よく火山が活発化するのはおかしい。否、説明はできる。


「あの刀が今帰仁から離れ、持ち主の不幸を周囲に押し付けられなくなった。となると、刀自身の不幸を、火山に投げ込まれ滅ぼされようとしている不幸から逃れるために、周囲にいる外敵をまとめて屠る大災害を引き起こそうとしているのだろう」


「意味が分からん。もっと年寄りにも分かりやすく説明してくれ」


「鳴崎先生、あれを! 今帰仁です!」


鳴崎の横の若者が指差す先、岩だらけの山頂近くにそぐわない少女が岩壁をよじ登っていっている。己はその小さな背中に目で縋りつくように、進むのであった。


「急ぐぞ! あの小娘、刀を捨てる積りじゃ!」


鳴崎達が、転がり落ちてくる岩をかわしながら前進し始める。


「今帰仁は刀を持っているのか?」


「噴火は激しくなっておる。お前の話が本当なら刀は山頂に近づいとるということなのじゃろう?」


「だが、それでは辻褄が……」


「いづれにせよ山頂にいけば答えはでる。阿倉、停戦じゃ! こちらも流されて自前の刀も持っとらん! ほれこの通りだ。互いの足を引っ張るよりまず協力しよう。昨日の敵は今日の友じゃ」


「まだ敵だった日を跨いでいないわ!」


「そういう狭量さが人同士を争わせるのが分からんかこの愚か物が! 生きる立場や役割で互いを憎しみ殺し合う、そんな世を間違っていると思わんのか!」


「た、確かに……」


と、己が清らかな言葉に心動かされかかったとき、再び鳴崎の隣の若者が己らの後方に何かを見つけたようである。見れば、浜辺に居た毬玉男である。どうやら意識を回復し、己らの言い争うに間に追いついてきたようである。


「煙野、どうした。宇都見は一緒ではないのか。浜辺を『掃除』してこいと言うたじゃろが」


鳴崎が木陰に飛び隠れて、息も切れ切れ尋ねている。毬玉の名は煙野というらしい。


「まあまあ、そう怒鳴るなよな鳴崎先生。こっちは怪我してんだから頭に響くんだ」


煙野は能天気な口調でいう。


「怒鳴るわ! 阿倉なんぞ、もうこっちに来てしまっとるわ。見つけ次第殺せといったじゃろうが」


「貴様、やっぱり己を殺す気だったんじゃないか!」


「ったり前じゃ! 死ね!」


「くっくっくく」


と、煙野は何故か急に笑い出した。


「鳴崎先生ェ。いや、船酔い爺ィ! 俺に土下座しろォ!」


「煙野、お前なにを言っておる? 気でも違ったか」


己は当たり所でも悪かったかと、申し訳ない気分で先に謝ろうかと言いだす機を見計らった。だがそれは杞憂だったらしい。事実は期待のもっと下をいく。


「俺は正気だよ。そうそう……この刀、浜辺にあったぜえ。宇都見が見つけてくれた」


そういって懐から小刀を取り出した。それはまさしく聖剣『不如帰』である。


「おお! でかしたぞ!!」


と言ってから、鳴崎は訝しげに眉をひそめた。


「で、宇都見はどうした?」


「さあて」


「――お前まさかそれを持って国から出ようとなぞ考えておらんよな? 例えば目撃者であるこの島に流れ着いた者全員消してから、などとは」


「くっく。爺ィ、俺のことが良く分かってるじゃねえか! 始めに宇都見がこの刀を見つけたんだが、それを俺に黙って持ち去ろうとしてたもんでな。怪しからん奴だと成敗してくれたんだよ」


「そりゃお前に見せれば、大体こんなようなことになるのが分かってたからじゃ」


「やっぱり俺のことを信じてなかったんだな! よーぅく分かったよ! 爺ィ、死んで償え!」


煙野が満面の笑みで駆け登って来て、うろたえている鳴崎を斬りつけた。鳴崎は寸前でそれをかわし、煙野は勢い余ってその背後の木に刃をめり込ませた。すると木は瞬く間に色を失い、枯れ朽ちた。


「くくく、何て刀だ! 意味が分からねえ!!」


煙野は嬉しそうに叫んだ。血走る目には涙が滲んでいる。


「煙野!」


叫ぶと同時に青年が木の棒で打ちかかり、煙野がサッと身をかわした。


「鞍馬、刀を奪え! 奴はお前より格下じゃて」


鳴崎も助太刀する為にその辺に落ちている木の棒を探しているが、どうにも具合のいいのが見つからずに右往左往している。それを尻眼に鞍馬と呼ばれた青年は巧みな刀さばき、もとい木の棒さばきで煙野の短刀を打ち払い、隙をつきようやく腕を掴んだ。次の瞬間、地鳴りが轟いて火口に湧きあがる溶岩の赤々とした暗い光が辺りを照らした。そして風を切って飛来した無数の大小の石つぶての一つが打ち合う煙野の肩に当たり、バシャっと地を赤く染めた。


「がああああッ!!!」


千切れた左腕を押さえてうずくまる煙野を尻眼に、飛んでいった手がまだしっかりと握る刀を、鞍馬が急ぎ取ろうとするが、直後に彼は頭部に火山弾を受けて斃れた。


「鞍馬! むうう、どうなっておる? その刀は不幸を押し付ける、幸運を呼ぶ刀な筈だぞ? なぜ触れたものが死ぬ!?」


「知るか! くそ、今帰仁だ、あの子は知っている筈だ。その刀の本当の力を」


「急げえ、火山がいよいよ噴火するぞお」


己は煙野の腕ごと刀を拾い上げ、山を駆け登る。


「あの小娘に刀を渡せ! それか火山に――ぬ!? 煙野!」


「逃がすか、俺の刀と腕だ!」


煙野が叫びながら追いすがってくる。


「ッ! 邪魔だ!」


足を掴もうと伸びてきた手を飛んで避けつつ、反転して迫る煙野に千切れた腕ごとの刀を振う。と、それをなんと煙野は刃を歯で受け止めた。そして無理やり自分の腕付きの刀を奪い取ってしまったのである。恐るべき馬鹿力というより他にない。


「嘘だろう!?」


「阿倉、急げ! 今帰仁が必要じゃ! それまでは煙野よ儂が相手じゃ。教え子の不始末は師が償わねばならんからな!」


見れば鳴崎が木の棒を大上段に構えて煙野に打ちかかっていた。大したことに、鳴崎は一閃される呪われた刃を横から叩いて剣線を凌いでいる。こちらも正気の沙汰でないが、必死の覚悟とあれば是非も無い。鳴崎の木の棒が刀についた白く肉付きの良い死んだ腕を尖った先で斬り裂くと、煙野はまるでまだ神経が繋がっているかのような叫び声を上げる。


「俺の腕になにしやがる!!」


鳴崎は皺の深い顔に渋面を浮かべている。彼らの関係がどんなものだったのか知る由もないが、その表情が運命に狂わされた人間の苦しみをまざまざと感じさせる。


「見世物でないぞ阿倉! お主も武士なら察せ」


「失敬」


己は先を急いだ。




嵯峨たる峰が囲う山頂の大穴は底に灼熱を湛えて静かな怒りを滾らせている。そこにあの時見た、そして見慣れぬ童女の背中があった。童女は深遠を眺めながら、実は嘘を吐いていたんだ、と話し始めた。


「実は嘘を吐いていたんだ。前にあの刀は幸運を呼び寄せ、不幸を周りに押し付けると言ったでしょう? 覚えてるよね」


「ああ」


己はあの、剣聖と対峙する時に感じる絶望的な気分をこれまでになく感じていた。


「確かにそれは、現象的に見れば必ずしも嘘じゃない。でも、作用が――いやこれは私が関係ないみたいな言い方だね。正しく言えば、その現象が引き起こされる意味、つまり私の狙いであり私が剣聖である理由、それは災いをもたらす妖刀『不如帰』の効果を唯一人受けないのが、この私――絶対的な幸運を持つ異能者ということなの」


絶対的な幸運。妙な響きの言葉である。

幸運とはそれ自体、相対的なことが多い。誰よりも優れている、誰よりも愛されている。誰よりも富んでいる。誰よりも自由である。それは卑小な希望の持ち方かも知れない。だが、少なくとも絶対的な幸運よりは人間的だ。もしそんなものがあるならば、の話だが。なぜならそんな幸運は、どんなに近しい他者の不幸や絶望をも歯牙にかけず誰よりも幸運なのだから。


「だが先代はその刀を譲った途端に死んだのだろう。まるでそれまで堰き止めていた不幸がいっぺんに訪れた様に。父君が剣聖であったということは今帰仁と同じ能力を持っていたということなのだから、そんなことは今の説明からじゃ起こりえないだろう」


「疑ってるの? まあ無理もないか。阿倉も刀を狙っていたんだもんね。ま、教えてあげる。お父さんは自殺よ。死という、絶対的な幸福を受け入れてね。お父さんが言った、この刀を絶対に手放すなという言葉の意味はね、死という幸福をうちに選んで欲しくなかったからだと今になって思う。勝手だよね」


今帰仁は寂しそうにほほ笑んだ。唸りを上げて飛んでくる火山弾も少女には無いも同然に避けて通るが、己は小さな礫を何度も受けて、既に虫の息である。そのとき、背後で声が上がった。鳴崎である。


「おおい! おおーい!」


血まみれで闘いここまで辿りついたものの腕の健を斬られたらしく、右腕がぶらりと力無く垂れている。しかし左手には妖刀が握られていた。

今帰仁は憐れみを湛えた眼で、冷たい口調をつき立てる。


「互いの幸運を比べあって競い合って、それでも満足しないのは何故だと思う? それは絶対的な幸運があるという幻想がこの世に存在するからだ。満足した豚よりも不満足な人間こそ素晴らしいという歩き続ける存在価値が、私は妬ましい! 人の気も知らずに!」 


「今帰仁! お前の気なぞ分からぬ」


「そうよ。なら殺し合え! 苦悶のまま死ね! その不幸という幸福を胸に抱いたまま!!」


「阿倉ァ! これを――」


鳴崎がそう言って刀をかかげた瞬間、背後から煙野が岩で鳴崎の頭をかち割った。はずみで妖刀は滑り落ち、火口の縁に転がった。


「うぐう……! あく、ら……こんなもの捨ててしまえ」


己は咄嗟に滑り込むように刀を拾い上げた。捨てるのか。それとも今や完全に剣聖となった今帰仁とこの刀を持って帰るか。その迷いが、煙野が追いすがる時間を生んだ。


「俺のだ、返しやがれぇ!!」


「――ぐうっ」


己は首を掴まれ火口に突きかかられ、妖刀を手から逃してしまった。己は煙野の右手と襟を掴んだまま、もつれ込むように岩壁からよろめいていくが、煙野は獣のように叫びながら乱暴に己を引き剥がした。

そして、火口へと墜落しようとする妖刀を寸でのところで取り返し――否、取り戻せなかった。

煙野はつい、失った方の腕で刀を拾おうとした。一瞬の静寂――刀との距離は埋めようもなく、千切れた腕の断面の、露呈した筋肉がぴくっと動いただけである。妖刀は音も立てずに、深遠へと刀身を傾けた。煙野は「あ、ああ」と呟いて、そのまま火口を覗きこむ様に無くなった腕を更に伸ばしながら、放心したように倒れ込んで墜落し妖刀『不如帰』と共に溶岩の中へ消えていったのである。


「うちも、もういいかな」


と、岩壁に指だけでぶら下がる己の頭上から、今帰仁の声がした。


「そうか」


と己は言った。今更、この欲望ずくの自分がこの純粋な少女の死を説得することが出来ようか。


「一緒に死ぬ?」


一緒にだと? なんだ大層なこと言ったって、結局今帰仁だって死ぬのが怖いんじゃないのか。


「いや、己にはまだやることがある」


「そ。いいなあ、うちもそんな風に――まあいっか」


今帰仁が小さな体をよろめかせた。そして、赤々とした絶対的な幸運へとその身を焼き尽くしに落ちていったのである。





それを、己は細い脚首を掴んで止めた。


「別に、今死ぬ必要はなかろう。人は所詮、いや己だって先の先まで欲望に負けたり運命に翻弄されたりしていたからこのようなことが言えた義理でないが、意志の力が運命を変えるまでは出来ずとも、たまに軌道位ならすこしは変えられたりもする筈だ」


「あいまい過ぎだよ。大体、無駄な足掻きだし」


「潔い話より足掻く話の方が面白い」


「馬鹿。うちは足掻かなくても簡単に何でも出来ちゃうんだよ」


「出来ないことを探しに行けばよいではないか。結末が分かっていても、運否を見るのもまた楽しいぞ。本当だ、おにぎり5個賭けてもいい」


「……」


「先はお前の気持ちなぞ分からんと言ったが、お前だって己の気持ちは分かるまい。だからこそ、己は知られざる人の記録を紡がねばならぬ。お前の記録は、まだ始まったばかりだ」


「分かった。べ、別に阿倉の為とかじゃないんだからねっ」


「妙な伏線を張るなよ」


「伏線じゃないよ! わたしも、うちの為に生きるんだから」


「良し。だ、が、腕がもう無理」


恰好つけたはいいものの、己の限界が過ぎてしまって久しい指の感覚は既になく、あえ無く己らの命運は尽きた。かに思えたが、己の手は老いた腕にしっかりと掴まれた。


「あ、阿倉もう少しきばらんか。年長にこんな真似させるなっ」


鳴崎が額に血管を浮き立たせながら、唾を飛ばした。片腕は健を切られてもう使えない為に足を踏ん張り酷く不格好にこちらを支えている。


「泣き事言っていないで、息を腹に込めて引っ張ってくれ。あ、まずこのガキをそっちに投げるから、踏ん張っててくれ、反動で落ちるてくれるなよ」


「分かった分かった――あ、いかん」


「うぎゃああ」






 今帰仁は鳴崎と共に、薩摩を抜け大阪へと向かった。鳴崎はこの度の失策を問われて国を追われたようである。どうやらこの老人も身よりの無い、寂れた道場の主であったらしく、それを再興せんとの此度の行動であったものの、数少ない門下生を鬼籍に入れる結果となってしまった。もはや後腐れなく国を逃れたようだが、今帰仁はこの薄幸な老人に従った。


「罪滅ぼしのつもりかの? それには及ばん。此方も其方を殺す積りの死合じゃて。刀を握ればそれまで、刀を離せばそれまで。武士とはな、そういうもんじゃ」


「鳴崎爺、大阪に行って商いでも始めようとしてるんでしょう。でもこんなブシブシ言ってる幸薄い人が、1年も食べていけるとは思えないんだよね」


「……」


「やっぱりね、幸運の天女様に救いを乞わなきゃ駄目だと思う」


「……くっくっく。わっはっは、そりゃ其方のことか? こりゃ参ったのォ、随分と色の黒い、やんちゃな天女様じゃ」


「なにー!!」


己はそんな孫と祖父のような光景を見ながら、轆轤殿の待つ筑前に果たして帰ることが出来るか考えていた。


「阿倉」


と呼ばれ目を上げると、今帰仁が正対して立っている。


「きっとね、うちらは親しくなればなるほど苦しむと思う。お金を稼げば稼ぐほど、切なくなると思う。うちが後ろめたい位の幸運を呼ぶからね」


「まあ、だがあんまり『不如帰』を持っていたときと変わらないかも知れんな」


「それは儂が不幸の塊だということか阿倉殿」


「そう聞こえたなら失敬」


「もう話しの腰を折らないでよ! ……うちは、それでもそんな道だからこそ、絶対的な幸福が最後にはあると思う。絶望的な幸運とそれは似てるけど、どこかが違う、筈。うちはそれを見つけるよ。きっとね」


「無論、出来るだろうさ。ではさらばだ」


「お金に困ったら尋ねて来てよね。次に会うときはうちは億万長者よ!」


なんか言っている小娘を背に去ろうとすると、鳴崎が小さく言った。


「鳴崎爺とは、また懐かしい呼び名じゃ。清尾、宇都見、鞍馬や煙野、道場の皆が幼かった頃に呼んでおったわ」


「昔から老け顔だったんですなあ」


「喧しいわ。――儂は、どれだけあのことを武士らしく水に流そうと言ったところで、あの娘の言う通り、心の奥深くではあの娘を忌諱し、憎しんでおる。この儂の葛藤、闘いはきっと死ぬまで続くことじゃろう。この闘いから武士として逃げるわけにはいかぬ」


「まあ、無論……鳴崎殿と今帰仁の死闘は文学史上に残らざる希望に満ちた名作になるでしょうな。しかれど己の役目は剣聖の物語を残すこと。この度の話はこの辺りで締めくくるのが上等、これ以上長引かせるのは野暮というより蛇足ですらある」


鳴崎は分かったような分からなかったような顔で立ち止り、別れの言葉を述べた。今帰仁が、別れの言葉が見つからないかのように、大阪に行った後の予定を滔々と大声で告げている。

見上げれば街道の幅だけ木々の枝葉から開けた青い青い空に、高く積み上がった雲が山の向こうに聳えている。

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