放課後パレット
昔に書いたお話です。
パレット・一 花と少女と少年と
五月も末の風が香る。
とある中学校の放課後、一人の少女が図書室から姿を見せた。
地味なヘアゴムで結わえた、黒く長い髪。昭和の大学生がつけていたような無骨な眼鏡。眼鏡の奥の瞳はいかにも気弱そうな淡い光を帯びている。
この中学の二年生、瑠璃原 流奈は黒いセーラー服のスカートを微かに揺らし、重そうに手提げバックを抱え上げた。
(ちょっと借りすぎちゃったかな……?)
のぞきこんだバックの中には、絵本が何冊も入っている。
(でも、ま、いっか。みんなお気に入りの本だしね)
流奈は今まで何回借りたか分からぬ絵本に目を落とし、ふっと小さく微笑んだ。背中のかばんとバックの重みに苦戦しながら、自分のクラスを廊下の窓からのぞきこむ。
「……良かった、誰もいない」
少女はぽつりと呟くと、ほっとしたように肩の力を抜き、教室の中へ入っていった。
窓ぎわの自分の席につき、おもむろに長い髪を解いてたくし上げ、くるりと頭の上でおだんごに仕立てヘアゴムで留める。垂れかかる前髪を、ポケットから取り出した赤いヘアピンで留め、良し、と小さく気合を入れた。
何となし少し可愛くなった少女が、窓べりに飾られたミニサイズのパンジーの鉢植えを、そっと机の上に置く。
「ちょっと描かせてね」
律儀に花にあいさつすると、流奈は単行本サイズの小さなスケッチブックをかばんから取り出した。芯を太く長く削った鉛筆を手に、パンジーの花を描き始める。
おおまかな形をとり、一つ一つの花の輪郭をおぼろげに、徐々にはっきりと。描きながら、流奈の頭に淡く甘い記憶が浮き上がる。
『上手いじゃん』
耳の奥に染みついた言葉。こうしてこっそり絵を描いていた時に、忘れ物をしたクラスメートが絵を眺めてこぼした言の葉だ。
クラス替えしたばかりのあの頃、同じ教室の生徒にそんな事を言われたのは初めてだった。そうして多分、卒業するまでもう誰にも言われない。
「……へたくそだもんなあ、自分」
流奈はこの後の色塗りの工程を思い、思わずため息混じりに呟いた。
上手いじゃん。
そう言ってくれた男の子の顔を、改めて脳裏に描く。
きつねみたいなつり目が可愛い、築山 月人くん。学校での好きな時間は体育と昼休みと放課後という、典型的な陽性男子だ。
それから流奈は、彼の事が何だか気になるようになった。でも、まともに声もかけない。かけられない。明るく陽気な月人と自分では、あまりにつり合わないからだ。
(……でも、嬉しかったな。『上手い』なんて言ってもらえて)
少女はどこか淋しげにはにかむと、またスケッチの続きを始めた。
植木鉢と花と葉と茎、大体の下描きが終わったところで、ふいに大きな音を立てて教室のドアが開けられた。流奈がびっくりして振り返る。ドアのところで、相手もびっくりしたように目を見張ってこちらを見ていた。
茶色がかった短髪に、きつねみたいな可愛いつり目と学生服。ちょうど今さっき思い出していた、築山 月人その人だ。月人は、にっと歯を見せて笑い、
「よ、瑠璃原。居残りしてんの?」
と人懐っこく訊いてきた。
「あ……うん、自主的に……築山くんは?」
とっさに目を泳がせて答え、流れで問い返す。月人は
「俺? 俺は忘れ物。弁当箱」
と言いながら教室の中へ入ってきて、自分の机のわきにかかった弁当袋を手にして笑った。
「また絵ぇ描いてんの? 見して」
近づいてきた月人が、さっと流奈のスケッチブックをかっさらう。
「あ、ああ! それ、まだ下描き……っ」
「ええ? 下描きでもいいじゃん、上手いんだから」
あわてる流奈をあっさり笑って受け流し、月人が絵を眺める。半ばまで使われたスケッチブックの他のページが気になるのか、
「他のも見て良い?」
とおうかがいを立てたが、流奈が強固に首を振るので残念そうにあきらめた。スケッチブックを返しながら、
「やっぱ上手いよな、流奈は」
とさらりと名前を呼び捨てた。純な少女の柔い頬に、すう、っと赤く血が昇る。その事に気づいていないのか、少年は流奈の机に手をかけて、また自然な口調で話しかけた。
「俺ん家にも絵の上手い姉ちゃんがいてさ、美大目指してんの。俺がたまーにいたずらで絵ぇ描くと、めっちゃこきおろすんだぜ。それが悔しくてさあ」
苦笑した月人が、緊張と嬉しさに苛まれている流奈に向かい、
「絵ぇ描くの、好き?」
と問いかけた。少女は素直にうなずいて、
「……好きなんだけど、色を塗るのが苦手なの。特に水彩絵の具が……。むらが出来たり、濃すぎたり、薄すぎたりして」
それが仇となっているのか、小学校の初期までは図工で良い成績を取れていたが、授業で絵の具を使うようになってからは、ずっと平均以下の成績だった。中学になって、図工が美術と名を変えてからは、なおさら。
そんな事まで思い出しながら、流奈がため息混じりに自分の不得手を告白する。
「……色鉛筆なら、それなりにうまくいくんだけど」
小声でつけたす小柄な少女に、月人はふうん、と神妙な顔をしてうなずいた。
「あ、んじゃあな! 暗くなんないうちに帰れよ!」
日も大分伸びてきたというのに、月人がちぐはぐな気づかいの言葉をこぼして去っていく。残された流奈の胸のうちに、じわじわと嬉しさとこそばゆさがこみ上げる。絵好きの少女は頬を押さえ、とろけそうな顔をして微笑んだ。
「……また、『上手い』って言ってもらっちゃった」
何故だか目頭が熱くなり、少女が無骨な眼鏡を外してまぶたを押さえる。
青紫のパンジーの花の鉢植えが、そんな少女を物言わずに見つめていた。
パレット・二 姉と水筆と色鉛筆
流奈に別れを告げての帰り道、月人はずっと少女の事を考えていた。
(絵、上手いと思ってたんだけどな。そんな悩みがあったんだ)
考えているうちに少し動悸が早くなって、そんな自分に気づいてまたどきどきが早くなる。
「……可愛いよな、あいつ」
月人は思わず呟いて、誰かに聞かれやしなかったかとせわしくあたりを見渡した。周囲に誰もいないのを確認し、ふう、と小さく息をつく。
瑠璃原 流奈。
彼女はいつも物静かで落ち着いていて、あまり人の輪に入らない。いつも自分の席で黙って本を読んでいる彼女を、月人も最初はどうとも思っていなかった。
少し認識が変わったのは、クラス替えの後半月ほどが経った頃。さっきのように弁当箱を忘れて、放課後の教室に戻った時だ。
流奈は、さっきしていたみたいに髪をアップに結い上げて、薄ピンクのベコニアの鉢を描いていた。あの時も確か下描きだった。
その絵は、何だかとても好感の持てるタッチだった。温かくて、優しくて、柔らかかった。『少し冷たい』という月人の抱いていた、流奈本人のイメージとはかけ離れていた。
「上手いじゃん」
思わず感嘆の言葉をもらすと、流奈は意外そうに月人の顔を見上げて、嬉しそうにはにかんだ。ふわっと緩んだその顔が、びっくりするほど可愛いかった。
(へえ。こいつ、こんな顔も出来るんだ……)
それからだ、何となく流奈の事が気になるようになったのは。授業中も休み時間も、気がつくと目で追っている。
向こうも何となしこちらを気にしている風なのだが、とても引っこみ思案なたちらしく、まともに目すら合わせない。目が合いそうになると、す、っと目線を下げてしまう。
そんな具合なので、さっきのアクシデントは何だかすごく嬉しかった。
(にしても、なあ。絵の具が苦手かあ……もったいないな、あんな綺麗な絵ぇ描くのに。何とかなんないもんかなあ……)
考えながら家に帰ると、玄関に姉の靴が置いてあった。専業主婦の母親が
「おかえりぃ」
と軽く片手を持ち上げて呼応する。
「つく姉、帰ってるんだ?」
と確かめると、母は苦笑しながらうなずいた。
「その『つく姉』って呼ぶの止めなさいよ、月夜姉さんが『あたしゃ焼き鳥かぁああぁっ!!』って怒り狂うよ? またみぞおちにキック食らうわよ?」
「え? この頃はなんもされないよ? いい加減あきらめたみたいだし」
しれっと言い放つ息子に、母は笑いながら水切りかごの食器を拭き出した。
月人は弁当箱を母にたくして二階に上がり、姉の部屋の前に立つ。こんこん、と二回ドアをノックして、
「つく姉? 今良い?」
とドアの向こうの月夜に訊ねた。
「んー、ちょっと待ってー」
けだるそうな声が響き、ややあってから
「はい、どうぞ」
と声がした。お許しをもらった月人が部屋に入ると、月夜自作の絵だらけの、アトリエじみた空間がいつものようにそこにあった。
「で、何さ? 月人」
油絵を描いていた月夜が、換気のために窓を開けながら訊ねかける。
月人は改めて姉を眺めた。濃い紫のタンクトップに、デニムの短パン。グラマラスな体型におしゃれを気にかけないほぼすっぴんの肌。父親譲りのきついつり目が、嫌になるほど自分に似ている。
「何よ、何じろじろ見てんのよ?」
月夜がいぶかしげに肩をすくめ、つり目を細めて問いを重ねる。姉にうなずいた弟が、単刀直入に問いを発した。
「水彩絵の具が苦手なやつって、どうやったら上手くなる?」
「は? 何それ、あんたの事? 何言ってんのよ、あんた絵の具どころかデッサンだってめちゃくちゃで……」
ざっくり貶めにかかる姉に苛立って首を振り、月人が声を張り上げる。
「俺じゃなくて! 流奈っていう絵の上手いやつがクラスにいんの! でも塗りが苦手で、特に水彩絵の具が苦手だって言うからさ、何とかなんないかなって話!」
勢いにまかせて少女の名まで口にしてしまい、月人が内心で焦って舌を出す。
しまった。相手が女子だって言う事、隠しとこうと思ったのに。
そんな弟の焦燥を軽くスルーして、月夜が、ふっと己の口元へ指を押しあてた。
「……その子、色鉛筆使えるの?」
「あ? ああうん、色鉛筆ならどうにかなる、みたいな事は言ってたよ」
月夜が黙ってうなずいて、机の引き出しから赤い紙箱を取り出した。
箱を開けて中から内箱を引き出すと、色とりどりの色鉛筆が現れた。色つきの蔦がくるくる巻きついたみたいな柄が可愛らしい。
「はい、これ使いな」
「……え?」
戸惑った月人が、困ったように首をかしげる。
絵の具克服法を訊いてるのに、色鉛筆? しかも色鉛筆は持ってるだろうに、あいつ……。
理解出来ずに固まる弟に、月夜が笑いながら種を明かした。
「普通の色鉛筆じゃないのよ、水彩色鉛筆! ほら、普通のは油彩でしょ?」
「水彩、色鉛筆?」
「あーまあ、やって見せた方が早いかな」
月夜は一人うなずくと、さっき流奈が使っていたのと同じ大きさのスケッチブックを取り出した。オレンジの色鉛筆を手に持って、手馴れた仕草でさらさらと紙を染めてゆく。
紙に色をつけた姉は、引き出しから今度は筆のようなものを取り出した。筆ペンの小型透明版というか、タンクからインクの透けて見えるタイプだ。しかもインクも透明だ。まるで水みたいだ。
「ほら、この色つけた所をね、この水筆で……、あ、水筆の説明もいる?」
全くの異分野に困惑しながらうなずく弟に、姉はあっさり説明した。
「ま、簡単に言や、水タンクのくっついた筆ね。このまんま使えるし、タンクを押して先端に水染ませてティッシュで拭えば、そんだけで筆先を洗えるし。いちいち水入れ使わないですむから便利なの」
言いながら月夜は、さっとオレンジ色に水筆の先を走らせた。
すう、っと魔法みたいに色が溶け、鮮やかなオレンジの線を引いて単色の虹のように広がった。月人が思わず感嘆の声を上げる。
「わあ、すっげえ! 水に溶けた!」
「ね? ぱっと見は薄い絵の具みたいでしょ? ちょっとタッチは違うけど、似たような雰囲気は作れるわ」
月夜が満足そうに微笑い、
「わざと芯折って、水に溶かしたりして絵の具みたいな使い方も出来るしさ。水彩色鉛筆から段々慣らしていって、それから本物の絵の具に挑戦するのもアリじゃない?」
と提案した。月人が嬉しそうにうなずいて、
「うん、アリアリ! そういうのもあるって、明日あいつに話してみる!」
と弾けるように返事をする。意外そうに目を見張った月夜が、気前良く笑って赤い紙箱を差し出した。
「いいわよ、あげる。使いかけで悪いけど。あ、水筆も持ってきな。こっちのは新品よ」
あっさり画材をあげようとする姉の顔を、月人がびっくりしたように眺める。
「いいの? つく姉。いつもはあんなにケチなのに……あだっ!!」
「『画材を大事にする』と言いなさい」
わりと容赦なく弟のどたまにこぶしをくれながら、月夜がきっぱり訂正する。顔をしかめて頭を抱える月人に向かい、にんまり笑って人差し指を立ててみせた。
「構あないわよ、あたし今同じ社の他のタイプのを使ってるし。その代わり……流奈ちゃん、だっけ? 今度彼女に逢わせてね!」
「そ、……別にそーゆー仲じゃねえしっ!!」
月人が耳まで真っ赤になって、色鉛筆と水筆を抱えて部屋を出る。ばんっと音立ててドアを閉め、そっとドアを開け直してすきまから
「ありがと」
とだけ呟いてまた戸を閉めた。月夜がくつくつ笑いながら、換気のために開け放っていた窓を閉める。
この姉は、生意気なくせにやたら素直な弟が、可愛くてたまらないのだった。
パレット・三 母と靴ずみと迷彩服
翌日の放課後、流奈はまた教室で絵を描き始めた。今日は塗りの工程だ。
「これが苦手なんだよなあ……」
ため息をつきながらスケッチブックを開いた少女が、覚悟を決めて下描きへ筆を走らせる。しばらく悪戦苦闘していたが、やがて『はぁああぁ……』と情けない声をもらしてがくり、とうなだれた。
無残だ。仮にもクラスメートに『上手いな』とほめてもらったスケッチが、むら、染み、かすれだらけの悲しい代物になり果てている。
水を足して薄く塗ればひどくにじむし、白を足すと思ったような色にならない。にじみやむらをごまかそうと濃く塗れば、今度はえらく小汚い色になる。お手上げだ。
「何でこうなっちゃうかなあ……」
泣き出しそうに呟いた時、がらり、とドアの開く音がした。
「よお流奈! また居残り?」
ひょこり、と顔を出した月人に驚き、少女はとっさに両手でスケッチブックを閉じた。
しまった。乾く前に閉じたらすごい事になる。
閉じた瞬間そう思ったが、仕方ない。こんな哀れに変わり果てたパンジーの絵を、ほめてくれた当人になんて見せられない。
みじめな気持ちを押し隠し、流奈は精一杯の笑顔を見せた。
「う、うん! 月人くん、また忘れ物?」
取り乱したせいで、思わず名前で呼んでしまう。思いがけない呼び方に、月人がくすぐったそうにはにかんだ。
「ううん、違うんだ。今日はさ、これ、渡したくて」
月人がもじもじしながら赤い紙箱を差し出した。物問いたげに首をかしげる流奈に、少年が
「開けてみて」
とうながした。少女がそっと箱を開け、戸惑いながら内箱を引き出す。箱の中身は、色とりどりの綺麗な色鉛筆だった。
「昨日さ、姉ちゃんにもらったの。水彩色鉛筆、って言うんだって。あと、これも」
言いながら月人がポケットを探り、小さな筆を差し出した。受け取った流奈が、不思議そうに未開封の筆をためつすがめつする。
「それは水筆な。中のタンクに水入れて使うんだ」
言いさした月人が、ふいに難しい顔をして腕を組む。
「で、あのなー、水彩色鉛筆ってのは水に溶ける色鉛筆で、水筆使って色塗ると、すげー綺麗な色が出て……」
口で説明しきれなくて、月人が黙りこむ。
昨日姉が見せたように実演しようとして、スケッチブックに手を伸ばす。途端に流奈があわてて手を伸ばし、上からぎっちり押さえこんだ。何をそんなに見せたくないのか、どうしても手をのけようとしない。
「んー、とにかく直に使ってみろよ! どんだけ綺麗か分かるから!」
押し売りさながらの勢いでプレゼントを置き去りに、月人は逃げるような足取りで帰ってしまった。
残された少女が、こわごわとスケッチブックの例のページを押し開く。思った通り、青紫のパンジーは、正体不明のクリーチャーに変貌していた。
がっくり肩を落とした流奈が、ふと顔を上げてじんわり微笑んだ。
だって目の前には、月人くんのくれた色鉛筆と筆がある。どれだけ良い物なのかは、まだ分からない。分からないけど、あの人がくれた、それだけでもうすごく嬉しい。
流奈は気を取り直し、パンジーの鉢植えに手をかけた。
「上手く描けなくて、ごめんね」
花に小声で詫びて、鉢植えをそっと元の位置に戻す。少女は机の上の品々をかばんにしまうと、柔らかな頬を桜の色に上気させ、小走りに家へ帰ってきた。
家には誰もいなかった。
予想していた事だが、やっぱりいまだに少し淋しい。
「母さん、また仕事かあ……」
ぽつり呟いて、少女がキッチンのテーブルに画材を置き、椅子に腰を落ち着ける。さあやってみよう、と構えたところで、がちゃりと玄関の鍵の開く音がした。
「うぉおい! 流奈、帰ってるぅ?」
「あ、母さん? お帰り!」
少女がぱっと声を弾ませ、勢いこんで立ち上がる。帰ってきた母の姿を目にして、思わずその場に固まった。
迷彩服だ。自衛隊か! と突っこみたくなるような、完璧なまでの迷彩服。母は自分の姿を疑問にも思っていないのか、自然な仕草で申し訳なさそうに、娘に向かって手を合わせた。
「ごめん、まだちょっと仕事立てこんでてさ。忘れ物取りに来ただけなんだ。靴ずみ、どこだっけ?」
「……え? あ、ああうん、靴箱に古いの入ってなかったっけ?」
流奈が口ごもりながら答えると、母は靴箱をあさって黒い靴ずみを取り出した。
「ああ、あったあった! しかしこれめちゃくちゃ古いよねえ、父さんが生きてた頃のだもんなあ。まあ、いっか。これでも使えるでしょ。じゃあね!」
怒涛のようにやって来て、怒涛のように去ってゆく。そんな母の後ろ姿を玄関先で見送りながら、流奈は気を呑まれた体で吐息をついた。
「……母さん、何の仕事してるんだっけ?」
そう言やまともに訊いた事がない。流奈が五歳の時に、父が病気で死んでから、母はいつもあんな調子だ。忙しそうな母に訊ねる時間も隙もない。
「……まあ、良いか。こうして育ててもらってるんだし」
早く成長して、いっぱいご恩返ししなきゃなあ。
少女は胸の内で呟くと、きゅっとこぶしを握りしめた。まあそれはそれとして、と気分を切り替え、改めて椅子に座り直す。色鉛筆の薄ピンクを手にとって、スケッチブックの片隅を軽いタッチで染めてみた。
「えーと、これで? この『水筆』に水入れて、上からなぞっていくんだよね……?」
水筆のパッケージの説明書を読みながら、ぎこちない手つきでタンク部分を取り外し、水を注ぐ。水の入ったタンクを筆のパーツに繋ぎ直し、ちょっとタンクを指で押さえて、筆先に水を染ませて気を入れた。
そ、っと筆で薄ピンクの部分の真ん中に線を引く。すう、っと色は伸び、素晴らしい発色を見せて広がった。
「……すごい……」
少女が呟き、魅せられたように自分の描いた色を見つめた。その美しい色の変化は、固くしまっていたつぼみが、鮮やかに花開く様を思わせた。
流奈はしばらくそうして単色の花を咲かせて遊んでいたが、やがて思い立ち、居間のパソコンを立ち上げた。ネットで市立図書館のページを開き、蔵された本を検索する。
「『水彩色鉛筆』っと……」
絵の描き方の本探すのなんて、久しぶりだなあ。こういうのって初心者には難易度高いの多いから、前挑戦した時もすぐくじけちゃったしなあ。
「……いきなり細かい風景の描き方とか言い出すんだもん。優しくて分かりやすいの、あると良いなあ……」
思わず知らずぼやきながら、少女が検索をかける。結果は三件。どれも閉架書庫にある、との事だった。
「うわ。書庫かあ……」
流奈が怯んだような声を上げる。書庫は通常一般客立ち入り禁止だ。中に入るには図書館員に許可をもらうか、頼んで借りたい本を持ってきてもらうしかない。どちらにしても、館員とのエンカウントは必須だ。
「どうしようかなあ……」
少女が呟いて口元へこぶしを押しあてる。
内気な少女は、図書館で本を借りる際は自動貸出機を、返却の時はブックポストを使っている。館員と話す、そのこと自体が流奈の繊細なハートには結構なダメージを与えるのだ。 まあ、要は重度の人見知りというだけなのだが。
「学校の図書室に同じの、ないかなあ……」
思いついて再び検索してみたが、小さな中学の図書室には水彩色鉛筆の本などなかった。
「やだなあ……学校のなら平気で借りられるのに」
内気な少女がパソコンの前で脱力する。中学の図書室には自動貸出機もブックポストもないから、体当たりで借りているうちに慣れてしまった。
けれど市立の図書館はそうはいかない。顔を合わすのは同じ学校の生徒でも先生でもない、見知らぬ大人たちなのだ。
しばらく考えこんでいた少女が、思いきったように検索結果をプリントアウトする。印刷した用紙と、図書館利用カードと手提げバックを手にして、急きこんで家を出ていった。
図書館についた流奈は、しばらくうろうろ迷っていた。館員に声をかけようにも、声のかけどきが分からない。
やがて少女に気づいた若い男の館員が、
「何かお探しですか?」
と優しく訊ねかけてきた。流奈はびくりと肩を跳ね上げて、やっとの思いで相手に向かい用紙を差し出す。
「あ……、あのっ、これ、お借りしたいんですが……」
「ああ、閉架書庫のですね? お持ちしますので、少々お待ちください」
青年は何でもなさそうににこやかに応え、足早に去っていった。少女がそわそわしながら待っていると、ほどなく薄めの本を三冊抱えて戻ってきた。
「こちらでよろしいですか? ご確認ください」
「あ……は、はいっ、これです!」
ろくに見もしないで返事をする流奈に、館員は『可愛いなあ』と言いたげにくす、っと微笑った。お兄ちゃんが、歳の離れた妹に見せるような顔だった。
「じゃあ、貸し出し手続きいたしますね」
館員は少女から本とカードを受け取ると、流れるような手つきで貸出機にかける。青年の左胸のあたりに『柴田』と名札がついているのに、流奈は今さら気がついた。
(そういえば、クラスメートにも柴田くん、っていう男の子がいるなあ……)
そんな事を思いながら待っていると、柴田は本を流奈に差し出し、
「二週間後までOKです」
と言いながら、右の手の人差し指と親指で○を作ってみせた。流奈はわずかに微笑んで、ぺこり、と頭を下げて小走りで帰路に着いた。
「……意外と何とかなるもんだなあ……」
思わず一人呟きながら、バックの中をのぞきこむ。
『超初心者用』と銘打たれた三冊の水彩色鉛筆の指南書が、もっと前向きな方向へと背中を押してくれる気がした。
流奈は花の綻ぶように微笑んで、スキップしそうな足取りで家へと向かって走っていった。
パレット・四 部員と部長とパレット部
翌日の放課後、月人は帰りの会からずっと寝たふりをかましていた。
(こうでもしないと、流奈話しかけてこねーような気がするし……)
そう思いながらずっと机にうつぶせている少年の耳に、皆の帰るがやがやした物音や声が聞こえてくる。段々少なくなる喧騒に耳をかたむけながら、月人は
(待てよ?)
と考え始めた。
(おとなしい流奈が声かけやすいように、って寝たふりしてたけど、実はこれ猿知恵? だって起きてる人間に声かけれないような女の子が、眠ってる人間に話しかけるかあ? 『寝てるのに起こしちゃかわいそう』っつって、気ぃ使って帰っちゃわないか?)
寝たふりのままの体勢でそういう結論に達したが、今さら起きたふりをするのも何だか具合が悪い。寝たふりよりも、起きたふりの方が難易度が高い気もするし。
そう考えてぐるぐる迷っているうちに、騒ぎはすっかり止んでしまった。
(おいおい、誰もいなくなったんじゃねーの? 俺、馬鹿みてえ)
いい加減身を起こそうとした矢先に、小さく声をかけられた。
「月人くん」
「はいっ!!」
待ち望んでいたその声に、思わず跳ね上がるように起き上がる。びっくりしたように自分を見ている流奈に気づき、月人はあわててわざとらしくあくびをしてみせた。
「ふぁああぁ……何? 流奈」
少年の小芝居に気づいているのかいないのか、少女は嬉しげにはにかんで、手にしたスケッチブックを開いてみせた。
図鑑でも見ながら描いたのか、春夏秋冬全ての季節の花々が、色とりどりに描かれていた。
「お、おぉおお! すげえじゃん!」
素直な感嘆に、流奈がくすぐったそうに微笑い、可愛らしく小首をかしげる。
「昨日月人くんにもらった、水彩色鉛筆で描いたの。私にしてはすごく綺麗に描けたんだ。本当にありがとう」
流奈は続けて何か言いかけたが、言いにくそうに肩を揺らし、結局言葉にするのをあきらめた。『じゃあね』とだけ言い残して立ち去ろうとする少女の腕を、月人が軽く掴んで引き止めた。
「待って、流奈! ……あのさ! 俺に絵、教えてくんない?」
思ってもみなかった言の葉に、流奈がゆっくりと目を見開いた。少年が少女の腕を掴んだまま、急きこんで言いつのる。
「俺、いっつも姉ちゃんに絵ぇ馬鹿にされっから、もっと上手くなりたくてさ! 姉ちゃんに習う手もあるけどさ、見返したいやつ本人に習うのも、何かしゃくだろう? だからさ……」
「……でも、私人に教えられるほど上手くないし……」
「あ、じゃあさ、図書館とかで本借りてきて、二人で絵の勉強するのは? 二人っきりで、部活みたいな事しようぜ!」
困ったように微笑んだ少女が、
「そっか。月人くんも帰宅部だったっけ」
と口元に手をあてて微笑んだ。やっと少女の腕を離した少年が勢いこんでうなずくと、
「サッカーとか上手いのに」
と流奈が本心から呟いた。月人は頭の後ろに右手をやって苦笑う。
「いや、そういうの嫌なんだよ。体育の授業とかさ、放課後遊びでやんなら良いけど、部活って半分義務みたいだろ? 『目指せ全国大会!』とか言って」
大げさにこぶしを打ち上げる少年に、少女が眉をひそめてくすくす笑う。こぶしをおろした月人が、
「俺、根が不真面目だからさ、そういうの合わなくて」
と呟くように打ち明けた。お願いするように両の手を組み、笑って提案する。
「だからさ、美術部とか堅苦しいんじゃなくて、二人で気なりに絵の勉強しようぜ? つっても、流奈の方が断然俺より上手いから、俺教えられっぱなしになると思うけど」
お願いします、先生。
そう言われてぺこりと頭を下げられて、人の良い少女は断りきれなくなってしまう。かぶりを振るようにうなずいた流奈に、月人が弾けるような笑顔を見せた。
「じゃあさ、名前考えようぜ! 部活名!」
いきなり言われて考えこんだ少女が、頭の中でお絵描きがらみの言葉をこね回す。
イーゼル……絵の具……キャンバス……スケッチ……
「……パレット! 放課後パレット、っていうのは?」
「『放課後パレット』?」
呟いた月人が、可愛いじゃん、とくすぐったそうにはにかんだ。
「よーし、じゃあそれに決まり! よろしく、パレット部部長。あ、じゃなくて先生か?」
「……まだ部長の方が良い……」
頬を染めてお願いする少女の手を、月人が、ぎゅっと挨拶の意をこめて握った。
手が冷たい、と流奈は思った。自分と異なる手の感覚が、何だかやけに嬉しかった。
翌日から、二人だけの部活が始まった。
まずは線描きの段階からだが、ここでもう月人は見事につっかえた。筆圧が強すぎるのだ。おとといから流奈が描いていたパンジーの鉢植えがモチーフなのだが、どうしても花の柔らかさが出ない。
「ううん、そう描くんじゃなくて、ふあっふあって、軽く……羽根みたいなタッチで。ほら、力いっぱい線を引くと、線が重たくなるでしょう?」
「うー、むっずかしいなあ……」
ぼやきながらも何とか下描きを終え、色塗りの段階に入る。流奈が月夜にもらった水彩色鉛筆を使い、図書館で借りた本と首っぴきで、二人でそれぞれの絵に色を塗る。
流奈が花を青で塗る時は、月人は茎と葉を緑で。月人が植木鉢の茶色を塗る時は、流奈は茎と葉を。そうして何とか塗り終えたのだが、ここで問題が生まれた。
「さすがに水筆が足りないね……」
「うーん、じゃあ片っ方が先に塗って、乾くの待ちながらもう一方が次塗るか?」
「そうだね、そうするしかないみたい」
そうして出来上がったパンジーの絵には、見事に個性と技術の差が現れていた。
「……負けた」
「勝負だったの?」
おかしそうに微笑う流奈の手を、月人がしみじみと見つめる。
「不思議だよな。同じ人間の手なのに、こんなに違うものが出来るなんて」
「きっと描いてた時間の違いだよ。私、年季だけはあるから」
なぐさめるように首をかしげて微笑む少女に、少年は素直な声音で呟いた。
「いや、そういうんじゃなくてさ。流奈の絵は柔くて、優しくて、綺麗だから」
きょとんとした流奈の頬に、じわじわと朱が昇ってゆく。じっと少女の手を見つめている月人は、その事に気づかない。
「やっぱ人柄が出んのかなあ……」
本心からそう呟いて、月人がふっと顔を上げる。流奈はあわてて少年から顔を逸らした。
少女の手が微かにかすれ、青紫のパンジーが笑っているようにふるる、と揺れた。
パレット・五 月夜と水筆とプチセット
初めての『放課後パレット』を終えた後、流奈は町の画材屋に立ち寄った。月人の分の水筆を買うためだ。
どきどきしながら店のドアをくぐる。入ってみたいとは前々から思っていたけど、本当に入店するのは初めてだ。今まではスーパーなんかの文具コーナーで事足りていたから、行く必要もなかったのだ。
(何かこの頃、初めての事が多いなあ……)
くすぐったいような気分で心の中で呟きつつ、少女は控えめな態度で店内を巡る。水彩絵の具のコーナーで、ふと足が止まった。
(この子らを使いこなせるのは、いつの事になるのかなあ……)
そう思いながら何となしに絵の具箱を手にとると、ふいにある事に気がついた。
初めに手にとった箱には、『透明』と表記されている。別の絵の具箱には『不透明』と書かれている。どうやら水彩絵の具には、いくつか種類があるらしい。
(どういう事?)
箱の裏の説明を見ても、いまいち分からない。首をひねって考えていると、後ろから声をかけられた。
「『透明』と『不透明』? 違いが分からないの?」
びっくりして振り返ると、高校生くらいの綺麗なお姉さんが立っていた。
グラマラスな体型に、色っぽいつり目。画材屋に不似合いなほどセクシーな女性は、美術の先生のようにさらさらと言葉を奔らせた。
「小中学校で使うのは、一般に不透明水彩。透明水彩はね、水を使って描いてくの」
首をかしげる少女に笑いかけ、お姉さんは人差し指を立てながら説明した。
「つまりね……簡単に言うと、白い絵の具を使って色を作るのが不透明水彩。透明の方は、水で色を薄めて使うのが主流なの」
ふんふん、とうなずく少女に『可愛いなあ』と言いたげに微笑して、お姉さんは言葉を重ねた。
「あとね、透明は乾いてからの重ね塗りが綺麗に出来るの。不透明はあんまり色を重ねると汚くなっちゃうの」
あ、それはすごく良く分かる。
大きくうなずく流奈を見て、女性は棚から白い箱の『プチセット』を取り出した。
「透明水彩はね、初心者はこの固形水彩のセットが一番良いかも。この小っちゃい箱の中に、パレットもイーゼルもちゃんと入ってるし。ただ水筆がね……あ、水筆って知ってる?」
「……あ、はい! それ買いに来たんです……」
初めて声を発した少女に、お姉さんが満足そうに笑いかける。
「そっか。あのね、このセットについてる水筆はやたら水が染み出て使いにくいから、もし買うんなら普通の水筆と取り替えといた方が良いわよ。以上! 通りすがりのお姉さんからのアドバイスでしたー」
さくっと説明を終えた女性は、ひらひらと手を振りながら爽やかに店内を去っていった。
残された流奈が、きつねにつままれたような気分で『透明固形水彩・プチセット』の箱を手にとる。しばらく迷っていたが、やがて抱きしめるように胸に抱えて歩き出した。
今度は水筆のコーナーの前でしばし考えこみ、月人用の一本と、二人の透明水彩用にもう二本取り出して手に握る。
お会計を終えた少女は、ふわふわと浮き立つような気分で店を出た。中学生には結構痛い出費だったが、明日からのパレット部の活動を思うと胸が弾んだ。
(……そういやあのお姉さん、月人くんに似てたなあ……)
流奈はふとそう考えて、
「もしかして、あの人が月人くんのお姉さんかな? もしそうだったら、二重にお礼言いそこねちゃったなあ……」
と残念そうに呟いた。
翌日の夕方、家に帰ってきた月人を姉の月夜が待ち構えていた。
「どうだった? 『放課後パレット』、進展あった?」
「……つく姉に言うんじゃなかった。根掘り葉掘り訊くんだから」
くちびるを尖らしてぼやいた月人が、それでも素直に呟いた。
「流奈がね、透明水彩っての持ってきたよ。画材屋で、綺麗なお姉さんにすすめられたんだって」
「ほう」
綺麗な、の言葉に反応した月夜が、にやにやと笑って続きをうながす。けげんそうに首をかしげた弟が、部活の内容を報告した。
「で、やってみたんだけど『絵の具はまだ難易度高いな』って話になって。水彩色鉛筆使いながら、ちょっとずつ絵の具にも挑戦してこう、って事にまとまった」
「ほうほう」
じゃあやっぱり、あの子が流奈ちゃんだった訳だ。
昨日の画材屋で水彩絵の具を手に固まっていた少女を思い出し、月夜がにまにまと笑う。
「何笑ってんの? 変なつく姉!」
何も知らない月人がいぶかしんで姉の顔をのぞきこみ、またくちびるを尖らした。
パレット・六 モデルと似た絵と好きな人
夏が来た。
放課後パレット部の活動は、変わらずに続いている。針金を思わせた月人の筆致も少し柔らかくなり、流奈の色塗りも上達した。
ある日の放課後、その日一枚目のスケッチを乾かす間のおしゃべりに、月人が何となしにこう訊いた。
「流奈はさあ、将来の夢って、ある?」
「……どうして?」
顔を上げて問い返す少女に、少年は少し真面目な顔をして呟くように説明した。
「いや、俺の姉ちゃんは、イラストレーターになるっつって美大目指してっからさ。流奈にはそういう夢ないのかな、って」
黙りこんだ少女の描いた絵を眺め、月人は、
「こんな綺麗な絵描けるのに、普通に大学出て普通に就職とか、もったいないな、って思ってさ」
と本心を素直に口にした。流奈は複雑そうな表情で少し微笑み、いつもの単行本サイズより大きめのスケッチブックをかばんから取り出した。
少女にスケッチブックを渡されて、月人が戸惑ったように描き手を見つめる。
「見て、いいの?」
静かにうなずく少女の前で、少年が厚い表紙を開いた。
それは、流奈の描いた絵本だった。小さなピンクの箱に幸せの種を育てている、白いうさぎの話だった。
うさぎは箱の中いっぱいに幸せを育てては、その度に綿毛のような幸せを世界中にまいている。世界中全部のうさぎの胸の中に種が根づいて、みんなが幸せになるまで。ずっとずっと、何百年も、何千年も。
『そうして君は、幸せなの?』
旅先で出逢った足のないうさぎと別れる直前、箱庭うさぎはこう訊かれた。うさぎは笑って答えてみせた。
『そりゃあ、もちろん! 幸せでないうさぎには、幸せは育てられないからね』
そういう、他愛のない話だった。けれども読み終えた月人は、少しだけ鼻を鳴らした。
幼い絵と、幼い話。それでも優しい絵と語り口には、少年の心を惹きつける何かがあった。
「……私ね。絵本作家になりたいの」
ぽつりと打ち明ける流奈をまっすぐ見つめて、月人は大きくうなずいた。うなずいた瞬間、少年はある事に気がついた。
(ああ、そっか。流奈とつく姉の描く絵って、似てるんだ)
ほわほわした流奈の絵と、跳ね馬のような月夜の絵。まるで似ていないようで、根っこを流れる優しさと柔らかさとが、ひどく似ている。
今さら気づいた少年が、ふと思いついたように言葉を発した。
「ねえ、俺さ、人の顔描いてみたいんだ。良いかな?」
「人の顔? ……うん、じゃあ部活が終わったら、市の図書館に行ってみる。明日から挑戦してみよう」
思いがけない申し出に、流奈が少し不思議そうに小首をかしげて微笑んだ。月人はどこか思いつめたような顔をして、二三枚絵を描き上げた後、小さく笑って帰っていった。
翌日の放課後が訪れた。
図書館で人の描き方の本を借りてきた流奈は、戸惑いながら少年の顔を盗み見た。
月人が、おかしい。
いつもは楽しみながら描いているのに、今日はいやに鬼気迫る表情で鉛筆を握っている。少し柔らかくなったはずの描線も、がちがちに硬い。
「……ねえ、月人くん……」
言いかけた流奈の顔を正面からまっすぐ見つめ、少年が汗の浮いたひたいを拭って、口を開いた。
「あのさ、流奈! 俺、好きな人にその人の顔描いて渡したいんだ」
流奈の瞳が、ゆっくり大きく見開かれてゆく。鳶色の瞳から、ふうっと力が抜けて、今度は眠ったように細くなる。
ああ。ああ、そうか。
私と絵の勉強したいって言ったのも、全部ぜんぶ、そのために。
何もかもあきらめたように微笑ってうなずく少女の手を、汗ばんだ少年の手が握る。
熱い。いつか繋いだあの冷ややかな手は、今は恐いくらいにこもった熱を満たしている。驚いて顔を上げた流奈の目を、月人はじっと見つめて告げた。
「モデルになって、くれるかな……?」
好きな人。好きな人の顔。モデル。
切れぎれの言葉が頭の中で繋がって、流奈の瞳がまたゆっくりと見開かれる。見開いたままの瞳が潤み、くしゃりと崩れて露をこぼした。
「流奈、」
困ったように微笑った月人が、小さな肩を抱きしめる。
綺麗な目と目が合って、互いの息がかかるくらいまで近づいて、くちびるが触れるほどの距離になる。静かに閉じた流奈の瞳から、ぽろり、と大粒の涙が落ちた。
まさにその瞬間。がらり、と教室のドアが開いて、同じ教室の男子生徒が顔を出した。
柴田だ。流奈と同じタイプの、本好きな大人しい少年だ。
少年は二人に見つめられ、二人を見つめ、あわあわと無意味に両手を振り回した。
「あ、あの僕、忘れ物して……ご、っごめんなさいっっ!!」
男子生徒がドアも閉めずに、脱兎のごとく逃げ出した。物問いたげに自分を見上げる少女に向かい、月人が眉をひそめて笑いかける。
「大丈夫だよ、あいつなら言いふらしたりしないだろ。……まあ、言いふらされても構あないけど」
流奈は、どう?
肩を抱かれて訊ねられ、少女が潤んだ目に少年を映す。少年の指はかたかた微かに震えていた。抱かれた肩越しに、月人の感情が伝わってゆく。
少女は赤く染まった目じりで笑いかけ、プロポーズの言葉を受けるようにささやいた。
「モデルに、なります」
その言葉を耳にした月人は汗だくの顔ではにかんで、くちびるへキスしようとする。少し迷って頬っぺたに口づけようとして、それもまだ早いかな、と言いたげに、おしまいにおでこについばむようなキスをした。
ミントのキャンディーみたいに、甘くて切なくて爽やかで。
日々鮮やかに色づいてゆく絵と想い。
二人っきりの、放課後パレット。
(了)
お絵描きと初恋、好きなテーマ(?)を絡めて書きました。ほのぼのした雰囲気が、自分では気に入ってますw




