9 その身を 想いを守る者
遠くの山脈にかかった雲が茜に染まり、その手前を綿を丸めたような雲がふんわりと漂う庭で、主は変わりゆく空の色を眺めていた。
「ねえ鈴、あの雲の下には何があるのだろうねぇ。季節の花が、小さく咲いていたりしたら素敵だろうに」
チリン
ひと鳴りして答えたわたしは、主の心を思って無い歯を食いしばる。
主は時折、空を流れる雲を指差しては、その下に広がっているであろう景色を楽しそうに想像する。
どれほど時が流れようと、決して叶うことのない主の願い。
あの雲の下にある景色を見る、ただそれだけのことが主には叶わぬ夢である。
この辻堂で過ごすと決めた日から、主はこの屋敷に捕らわれている。
この屋敷の表をはしる土埃のたつ道と裏を流れる川以外、主が行ける場所などどこにもない。
鳴ることしかできぬ己の身を、幾度呪っても飽きたらぬ。
「カナ様、夕の善の用意が整いました。少し早いですが、夕焼けを眺めながらお食べになってはいかがでしょう」
陽炎が主の少し後ろで膝をつき、愛らしい笑顔でいう。
座敷では陽炎を手伝って膳を運ぶ若造が、せっせと走り回っていた。
そんな若造の周りを、毛むくじゃらの黒い物体が飛び跳ね纏わり付いている。
主も陽炎も気にしてはいないから、邪気のある者ではないのだろうが、女の細腕ほどの太さがあるそいつは、まるで太った短い蛇に黒い毛を生やしたようにしか見えなかった。
目鼻があるのかさえ、ぼさぼさと生えた毛のせいで見えたものではない。
「そうしようかねぇ」
紅を薄くひいた唇で微笑み、主は座敷へと上がっていく。
「おや今夜は魚の煮付けだね。美味しそうだこと」
「悟様が裏の川で釣ってくださったのですよ。お陰様で献立に迷わずにすみました」
「まあ、悟様が? 何という魚だい?」
ぶつ切りにされた魚の、もはや形など解らぬ皿の中を覗きながら主がいう。
「それが、何という魚なのかさっぱり」
恥ずかしそうに若造が頭を掻く。
得体の知れない魚を主に食させるなど、気は確かか?
リーーン
我慢できずに、わたしは盛大に鳴ってやった。
「大丈夫だよ鈴。この辺りの川に、毒を持った魚などいやしない」
くすくすと笑う主の横顔に、ひとり溜息を吐く。
「それにね、あの黒い毛の子は、川で魚に喰われかけていたのを、悟様に助けられたらしいよ。魚の口に咥えられていた時には、小指ほどの大きさしかなかったらしいが、あれがあの子本来の大きさなのかねぇ」
主は若造のすることに寛容すぎる。
「見てごらんよ。まるで親鳥のあと追いかける、ひよこみたいだよ?」
訳のわからぬ輩まで勝手に連れ込むなど、決して許してはならぬ。
尻の青い若造など、きつく躾けるのが一番であるというのに。
だが楽しそうに笑う主を見てしまうと、それ以上何もいえなくなる。
若造が来てから、主は良く笑うようになった。
だから、生意気な若造の失態は見逃そうかと思う。
主が一時でも笑ってくれるなら、それでいいと思えてしまった。
なんとも愚かな鈴である。
ミャー
庭の隅でシマが鳴く。
夕の善が下げられようとしている頃合いであった。
「シマ、お客さんかい?」
庭はすっかり闇に閉ざされている。主は燭台を手に、素足に草履を引っかけて庭へと降りた。
蝋燭の灯りをかざしても、なかなか姿の見えぬことに首を傾げながら、主が座敷に戻ろうとしたときであった。
「ここが辻堂で?」
嗄れた女の声は庭の闇から湧く霧のように、わたしには薄気味悪いものだった。
「そうだよ、ここが辻堂。自力で辿り着いたのかい?」
主は庭の闇へと向き直る。
「いぃえ、闇を彷徨う声に導かれてまいりました」
暗がりから浮かび上がったのは、薄くなった白髪を結い上げた初老の女であった。化粧気のない顔には年相応の皺が刻まれ、目の横には濃い染みが浮いている。
肉が落ちて頬の痩けた顔で、女はにたりと笑う。
「どのようなご用でしょう?」
穏やかな笑みのまま、主の草履は一歩後退る。
「あたしは吉原の置屋の主人でございました。どっぷり頭のてっぺんまで吉原の水に浸かったあたしが言うのも何ですが、吉原とはおなごの血で明かりが灯る場所でございます。おなごの涙を油代わりに血が吉原の街道を照らし、一夜限りの夢をつくりあげるのでございます」
「恨まれたことも、一度や二度ではありますまい?」
主の問いに初老の女は、けけけっ、と喉を詰まらせた嫌な笑い声を上げた。
「それはもう。買った恨みを晴らさせてやろうと短刀でも持たせたなら、この身を幾つぼろ雑巾にされたって足りやしませでしょうよ」
だから、と初老の女は嗄れた声で言葉を続けた。
「彷徨うばかりで、何も無い闇から抜け出せずにおりました。あたしを恨みながら穴に放り込まれて死んでいった女達の魂が、あたしを惑わせているんでござんしょうかね」
主の草履が、また一歩後退る。
いつの間にやら姿をみせたシマが、主の傍らで珍しく灰色の毛を逆立てていた。
客の姿が見えぬ若造でさえ声から何かを感じ取ったのか、眉根を寄せて主の近くに身を寄せた。
得体の知れない黒い毛むくじゃらも、若造の足元にぴたりと寄り添う。
「それで、わたしにどうしろと?」
長く主と共に過ごしてきたわたしには解る。この女は闇を彷徨う定めで、この先何処へ行くことも叶わない。浮き世で背負った女の業は、それほどまでに重い。
「いえね、ひとりぼっちで彷徨う闇の中、囁く声がしたんですよ。辻堂の主の望みを叶えてやれと。探し人がおいでだろう?」
なんと卑怯な。主が死ぬほど知りたい御方の行方と、何を引き替えにするつもりなのか。
主は女の言葉に眉を動かしたが、それはわたしにしか解らぬほど些細なものだった。
女が張りのない頬を歪めて、にやりと笑う。
「あたしはね、ただあの闇から抜ける道が知りたいだけですよ。先も後もない闇など、この身が闇に溶けて朽ちたように思えて我慢ならない」
だからさぁ
「教えておくれでないかい? 畜生道を生きた女が、闇から抜け出す道をさぁ」
樫の板張りの廊下に足を押しつけるほどに、主はその身を引いていた。
それでも背を張って姿勢を正した主は、真っ直ぐに女を見据える。
「この辻堂の主になると決めた日から、わたしは抜けられぬ理に縛られて生きていてねぇ。この身と引き替えに得たい答えであっても、手を出すわけにはいかないのさ。救いようがないほど腐りきった魂が差し伸べる手を取るほどまでに落ちたら、辻堂の主人は務まらないんでねぇ」
けっ、と女が唾を吐く。
「おまえを取りまく闇は、生きた道を振り返らせる為の闇。その意味を解らずに迷うだけの者に、先へ進む道など最初からありはしない」
主の言葉に迷いはない。
女の言葉に、手の届くところにぶら下がる答えに、主の心は散り散りであろうに。破れた心のことなど、欠片も滲ませずに主は凜と立つ。
「なら仕方ない。一緒に逝ってもらおうか!」
きぃええぇぇ
声に鳴らない音を喉から絞り、女が主へと襲いかかった。
手には短刀が握られている。
何処から手に入れたというのだ、主の魂さえ葬り去るあの短刀を。
「カナ様!」
駆け寄ろうとした陽炎だが、間に合うはずもない。
身をよじらせた主の腰帯で、わたしの身は激しく揺れた。
ドス
重く嫌な音が、闇に包まれた庭に響く。
この身を鳴らすことさえできずに、わたしは震えていた。
主の魂が霧となって霧散するのを見るなど、耐えられるものではなかった。
「カナさん……だいじょうぶ?」
わたしは我が目を疑った。
主と女の間に身を滑らせ、廊下に仰向けに倒れた主に覆い被さるように、震える腕で己の体を支えているのは、若造であった。
「おのれ!」
女が短刀を引き抜くと、若造はげほりと血の塊を吐いた。
主のすぐ脇に吐き出された血が、板の目を伝って庭の土へと流れ落ちる。
「悟様!」
主の悲鳴にも似た叫びが、わたしの身を震わせる。
「逝けぇ~!!」
狂気の叫びと共に短刀を振りかざした女の動きが止まる。
振りかざした腕をそのままに、黒い塊にやせ細った身を巻かれていた。
「何だ! 離せ! 離さぬか!」
髪を振り乱す女を絡め取るそれは、太く長い体に黒く長い毛を纏い、短い手足が胴体の中途に申し訳程度についていた。
その長い胴の上にあるのは、まるで精悍な眼を持つ黒い狐であった。
「悟様! 何をなさっているのですか? 早くお体を横に!」
主に覆い被さる形で耐える、若造の腕ががくがくと震える。
女が短刀を刺したはずの場所には、浴衣の生地に裂けた跡さえなかった。
一滴の血さえ滲んではいない。
だというのに、若造の口の端からはいまだ血がぽたりぽたりと流れ、顎を伝って主の着物を染めていた。
「カナさんが……言ったのではありませんか」
「わたしが何をいったのです?」
「たとえ……着物の袖、髪の……先であっても……決して触れてはくれるなと」
はっとした表情で己の口元を両の手で押さえた主は、するりと若造の下から身を滑らせ抜けて出た。
若造の表情が、安堵の色に緩む。
震える腕から力が抜け落ち、丸太を落とすように若造の体が、樫の板張りの上に崩れて落ちた。
主が鋭い眼光を女に向ける。
「わたしの怒りを買わぬうちに、ここから立ち去るがいい」
押さえた主の声が闇に流れる。
女の最後の叫び声の意味を、聞き取ることはできなかった。
黒い生き物が、女を巻き込み闇の向こうへザッと音をたてて姿を消した。
「悟様! 悟様!」
庭土に崩れて顔を覆う主の腰帯で、わたしは無力に揺れていた。
女手ひとつでどうしたものかと慌てる陽炎を、優しい力で押さえる者が居た。
女を闇へ引き込んだあの黒い生き物が庭へと戻り、若造を見下ろしている。
「悟様を好いているのだね? お願いしてもいいだろうか。寝所まで、悟様を運んでおくれ」
主の声は消え入りそうに細かった。
物言わぬ黒い生き物は鋭い牙の生えそろう口を開けると、脱力した若造を咥え寝所へと飛んで行く。
お湯と薬草を揃えに陽炎が屋敷を走る。
若造を刺した短刀は、主の魂を霧散させるが人の体を刻むことは叶わない。
だが若造は血の塊を吐いていた。
刺さるはずのない短刀に、体が反応していた。
――辻堂の大家は、人にあって人にあらず。
野坊主の言葉が頭を過ぎる。
主が寝所にお湯を張ったたらいを持って行くと黒い巨体は姿を消し、昼間から若造のあとをついて回っていた、黒い毛むくじゃらが枕の横でそわそわと身を揺らしていた。
チリ チリン
心配して音を鳴らすなど、この阿呆に勿体ないが今宵は良いだろう。
若造が元気にならねば主が悲しむ。
それだけは嫌だった。
だから今宵だけ、わたしは若造を励まし続けようと思う。
命まで持って行かれることはないだろう。
額に汗の玉を浮かばせる若造が、またへらへらと笑える日がくるだろうか。
チン チリン
阿呆の為ではない。
あくまで主の為に、わたしはこの身を鳴らし続けた。