7 鈴の盗み聞き
主が目を覚ましてから更に三日が経ち、若造は飯を食いに座敷に顔を出すまでに回復した。
夕暮れ時、陽炎に付き添われて障子の向こうから顔をだした若造は、相変わらずの阿呆面でへらへら笑いながら、迷惑をかけたことを詫び頭を下げた。
「お詫びしなければならないのは、こちらの方にございます」
そういって主は三つ指をつき頭を下げたが、その理由に頭が回らないのか若造は、不思議そうに首を傾げただけだった。
正直なところわたしは驚いた。
これほど早くに若造が、自力で歩けるようになるとは思っていなかった。
わたしやシマでさえ尋常ではない不調に見舞われたというのに、生身の若造がこの程度で済むなど奇跡である。
そうえいば、遠い日に野坊主が言っていた。
――辻堂の大家は、人にして人にあらず。己の命でありながら、己の為の命を持たぬのが辻堂の大家様と呼ばれる者。外から眺めればなんと尊く、その定めに産まれた者にすれば、なんと忌まわしい血であろうか。
いまだにそれが意味する、本当のところは解らない。
先代は侠気な御仁で、己の苦悩を表には決して出さぬ方であったから、鈴ごときにそのお心を読むことはできなかった。
若造はといえば、本当に先代の息子なのか疑うほどに、臆病者のへっぴり腰ときている。
毎日へらへらしているから、何を考えているかなど解るはずもない。
野坊主が尊く忌まわしいという血が、あの阿呆面の裏で影を落としているのだろうか。
だとしたら、若造はいま辛いのだろうか。
やめよう。
役立たずの小僧のことなど、どうでも良いことだ。
長い時を生きてきたというのに、これだけがわたしの悪い癖。
薄情なシマと違い、わたしは情に厚い。
唯一、わたしの欠点といえよう。
出された夕餉に形だけ箸を付け、若造はすぐに寝所へと戻っていく。
足元がふらつく様子を心配した陽炎が、細腕を差し伸べ寝所まで付き添った。
「いくら呑気な悟様でも、今度ばかりは嫌気がさたかねぇ」
手酌の酒を舐めながら主がいう。
主の顔にあった爛れはすっかり消え、足に巻かれていた布も今はない。
主は誰かの為に負った傷がどれほど深くても、痛いといったことがない。
辛いといったことがない。
だからわたしは主の肌から傷跡が消えても、主が負った無数の傷跡を思い出すたびにこの身が痛む。
主に聞こえぬよう、痛いと鳴る。
主の代わりに、幾度でも涙の音を流す。
ミャー ミャ
庭に置かれた岩の上でシマが鳴く。
「野坊主か。どうやら、わたしに用ではなさそうだねぇ」
唇を盃に押し当て、主は小さく息を吐く。
リーン
「放っておこうよ。こんな綺麗な月を見ないなんて、もったいないじゃないか」
わたしは諦めて、大人しく鳴るのを止めた。
半分ほど欠けた月が、夜空に浮かぶ雲をうっすらと照らしだしている。
確かに美しい。
あの若造の為に見逃すには、惜しい月である。
だが先にもいった通り、わたしは情に厚い。
主の腰帯にぶら下がっていても、廊下を曲がった先にある客間は目に入る。
暑い空気を逃すためか、障子は開け放たれていた。
そして人では無いわたしの耳は、屋敷内の音であるなら聞き逃しはしない。
通りすがりの風と同じである。
本来無いはずの目と耳に、勝手に入ってきた部屋の様子と声など、わたしは気にしない。知ったことではない。
ぼんやりと天井を眺めていた、若造の肩がびくりと跳ね上がる。
突如襲った空間の揺れに驚いたものの、すぐに平静を取り戻したのは、部屋に満ちた気配に覚えがあったからであろう。
ゆっくりと首を巡らせ、若造は己の横でいつもと変わらぬ姿を晒す壁に目をやった。
若造の目に映らぬが、壁は座した男の姿を模りぬっと前に突きだしていた。
その姿を克明に写し、平面であるはずの壁が微細な凹凸をなしている。
「体の加減はどうだ」
野太い男の声が響く。
「やはり野坊主さんでしたか」
安堵したように、若造は弱く微笑んだ。
「まだ力が入りませんが、気分は良くなりました。あの時何があったのか、はっきりとはわからないのです」
「邪気に精気を吸われたのだよ」
朧な記憶を辿るように、若造の目は遠くを見る。
「日々体から力が抜け落ちて、あの日も朦朧としていました。ただ、カナさんが飛び込んできてから、この部屋の中で感じたのです」
「何をだ?」
若造は姿の見えぬ野坊主の方へと、気配だけを頼りに顔を向ける。
「痛み、とでもいいましょうか。全身を貫く辛い感覚を、誰かが感じていたのではないかと、そう思えてならないのです」
「だとして、それが何か問題か?」
壁に模られた野坊主の眼がすっと細められ、横たわる若造を静かに見下ろす。
「あの時、誰も口にしてはいないのです。痛いといわなかったのです。苦しいと、いわなかったのです」
野坊主は微動だにせず、言葉の先を待った。
「それは体の傷の痛みより、辛いと思うのです」
客間に沈黙がおり、さわりと吹き込む風に蝋燭の灯が揺れる。
「この屋敷に来る前からそうだったのか? 人の心の苦しみや体の痛みを、感じながら生きてきたと?」
まるで当たり前の事だとでもいうように、若造は表情なく頷いた。
「近くに居るのが複数であれば、それが誰の想いなのかまでは解りません。強烈な感情でなければ、それらを感じることもありません」
「辛かったか?」
「すぐ手が届く所で、泣き出しそうに苦しんでいる人が居るのに、何もできないのは楽しいことではないですよ」
そうか、と野坊主の唇が僅かに動く。
「ただ一人、何も感じ取れない人がいました」
「誰だ?」
「父です。だからぼくには父が理解できない。もともと口数の少ない人で、自分の事を語ることはほとんどありませんでしたし」
「先代を責めるな。それは、互いの中を流れる濃い血の繋がりがそうさせたこと」
若造は布団の上でゆっくりと半身を起こした。まだ節々が痛むのか、支える腕に顔を顰める。
「同じ血が流れていても、兄弟の感情は少しだけ解るときがありました。まあ、この屋敷をぼくに押しつけられると思ったときに兄弟が、厄介払いができると喜んでいたのは、表情を見ただけでわかりましたけれどね」
若造が寂しげに微笑む。
「辻堂へ来たことを、後悔しているのか?」
「いいえ、ぼくはもう少しこの屋敷に留まるつもりです」
野坊主の首が、訝しげに傾ぐ。
「このような目にあっても、ここを立ち去らぬと?」
若造は、何も見えぬはずの壁に真っ直ぐに向き直る。
「ぼくはここに住む人達が好きです。カナさん、陽炎さんやシマも。今は枯れてしまいましたが、この庭も好きです。それに、カナさんが帯に付けている鈴の音も好きなのです」
落とすように微笑む若造の影が橙色した蝋燭の灯りに揺れる様は、日の下の陽炎を見るより儚かった。
「捨て置けないのです。この屋敷で辛い思いをしている人が居るなら、放ってはおけないのです」
野坊主の姿が、少しずつ壁に呑まれていく。
「やはりおまえは、先代の子だ」
不思議そうな表情で若造は目をしばたく。
「兄弟が何人いようと、おまえにだけ先代の血が色濃く流れているのだよ」
「あまり嬉しくありません」
能面のような顔と膝だけが壁に取り残されている、野坊主の口の片端が上がる。
「己の道と見定めて進むなら良い。だが、その優しさに身を滅ぼすなよ」
「野坊主さん?」
「考えるな、今は休め」
「あの……」
野坊主の姿が、完全に壁の向こうへと消えた。
待っても返ってこない返事に、若造は息を吐く。
「まったく、突然に現れて、何もいわずに居なくなってしまうのだから」
若造は軋む体に眉を顰め、何とか体を横たえる。
「ここに居たからといって、ぼくに何ができるだろう」
目を閉じた若造の横顔に、先代の面影が重なる。
いや、そんな筈はない。そのようなこと先代に失礼である。
――カナさんが帯に付けている鈴の音も好きなのです。
このような事をいうなど、抜け作には百年早い。
生意気だ。
チン チリン
「鈴、なにか嬉しいことでもあったのかい?」
主の声に、わたしははっとして我に返った。
わたしは今、鳴ったのであろうか。
「楽しそうだねぇ。どうしたというんだい?」
いいや、主の思い違いである。断じてわたしは鳴ってなどいない。
リーーン
ひと鳴りして、わたしは主人に抗議した。