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6 魂とさえ呼べぬ者

 梅雨はとうに過ぎたというのに、ここ五日ばかりじめじめとした日が続いている。

 空は焚いた炭から立ち上ったように厚い雲に覆われ、一筋の光りすら差さない。

 わたしの一番嫌いな天気だ。

 金物のせいか、わたしはしつこい湿気をこの上なく嫌う。 

 そして、嫌らしい湿気の染みついた屋敷の中では、五日にわたって怪異が続いていた。


 所構わず水が漏るのである。

 寝所に座敷、厠の果てまで天井からぽたりぽたりと水が漏る。

 初日こそ桶で受ければ済むような漏れであったが、三日目の朝には壁全体に水が染みだし、障子の溝に目に見えるほど水が溜まった。

 何より我慢ならないのは、この水が臭うことだった。腐った溝の腐臭がする。

 はじめの内は雨漏りだなどといって、呑気に器を置いてまわっていた若造も、ようやく四日目で異常にさに気付いたらしい。


「今朝起きて布団を仕舞おうと思ったのですが、開けてみると押し入れの中が水浸しなのです。心なしか畳も湿気りはじめたように思います」


 主と陽炎の寝所も、同じような状態であった。


「水の気とは、あまりいい兆しじゃないねぇ」


 誰に向けるでもなく、主がいう。


 それから二日経っても屋敷から水気が引くことはなく、とうとう五日目の朝を迎えた。

 

「悟様、この屋敷に妙な輩が紛れ込んだようでございます。始終お側にいることはできませんが、何かあればすぐに駆けつけますので、何があってもお心を乱されませんように」


 珍しく気難しい表情で語る主の言葉に、若造は微かに顎を引いて頷いた。

 無駄に躾の良いこの若造が、いつものように返事を返さぬのは、寝込んで布団から起き上がれずにいるからだ。

 昨夜にはもう青白い顔をしていたが、今朝方いつまで経っても寝所から出てこない若造の様子を伺いにいった陽炎が、たった一晩で物言えぬほどに衰弱した阿呆を見つけた。

 体調に支障をきたしたのは、若造だけではない。

 これほどの怪異を引き起こす輩が紛れ込んだのなら、いち早く鳴いて主に知らせるはずのシマが、今回に限り一度も姿を見せていなかった。

 屋敷に何者かが潜んでいるのは、異変からほどなくして主も気付いている。

 ならばシマが気づかぬ筈がない。


 心配した陽炎が庭先で、好物の魚を焼いてもシマは姿を現さなかった。

 今日の明け方、シマは庭の隅の小さな岩陰で見つけられた。

 見つけたのは主であった。

 主の腕の中でだらりと四肢を弛緩させたシマは、それでも息だけはしていたが、まるで落ちる寸での線香花火のように、心持たない息であった。


「かわいそうに。猫は水気を嫌うから仕方ないが、それにしてもここまでとは。どうやら、とんでもない者が入り込んだらしいねぇ」


 主は一番乾いた座布団の上にシマを寝かせ、その世話を陽炎に頼むとふらりと庭にでていった。

 しばらく歩いたかと思うと座敷に戻り、部屋のあちらこちらを覗いてはまた庭へと戻っていく。

 主は邪気の痕跡を追っているのだろうと、無い頭でわたしは考えた。

 若造やシマが寝込んだのも、屋敷を覆うこの邪気に中ったせいだろう。

 わたしでさえ、鈴の音の響きが悪い。

 主といえども、この状態が長引けば只ではすむまい。


「最初に狙うなら、まずは弱った者だよねぇ」


 この五日間で季節を無視しして枯れてしまった、庭の葉を摘んで主がいう。


「鈴も無理をしてはいけないよ。おまえが居なくなったら、わたしはとても困るのだから」


 冷たい主の指先が、そっとわたしの身を撫でる。

 わたしが居なくなったら、主は本当に困るだろうか?

 いや、そのようなことは決してあるはずもない。

 それでも主の言葉が嬉しくて、主の腰帯にぶら下がっていられることを、居るかも解らぬ神仏に感謝した。

 わたしは己を奮い立たせた。

 本当は生意気なシマのことなどどうでも良いし、若造にいたっては心配のシの字も浮かびはしない。

 それでも奴らが助かる道を主が望むのなら、わたしは全力でそれを助けるのみ。

 わたしは鈴。

 主の為なら己の意思など、吹けば飛ぶ塵同然である。


 ヂリヂリン


 濁った音で、わたしは精一杯身を鳴らした。

 無理矢理にこの身を鳴らすと、不覚にも意識が飛びそうになる。


「おやまあ、なんて心強いこと。頼りにしているよ、鈴」


 ヂーーン


 虚勢を張ってひと鳴りしてみせ、ふらつく身をぎしりと引き締めた。主の前で情けなく与太った姿など、絶対に見せてはならない。

 それが鈴たるわたしの信条だ。


「カナ様、この屋敷でひとり夏を過ごすことになるなど、嫌でございますよ」


 シマの背を撫でながら陽炎がいう。


「何とかしなけりゃならないねぇ」


 答えた主が、乾いた音をたてて咳き込んだ。

 陽炎はある意味で我らとは、違う時の中に存在している。生き物としての形に違いは無くとも、その質をまったく異にする。

 だからこそ、この屋敷で何が起ころうと、陽炎だけはひとり此処に残るだろう。

 終わらない時の中にひとり残されることは、この世で陽炎が唯一恐れること。


「悟様も、あのままでは辛かろう」


 枯れた庭を眺めながら思案に暮れる主の横で、ぽたりぽたりと水が落ちる。


「仕掛けるとしようか」


 乾いた着物の用意を陽炎に頼み、主は屋敷の裏を流れる川へと足を向けた。

 河原を歩きながら、主はわたしを腰帯からするりと抜いた。

 草履をぬぎ、解かれた帯がはらりと落ちる。

 無造作に着物を脱ぎ捨て、その下の襦袢が肩からするりと滑り落ちると、主の白い肌が露わになった。


「鈴、川の水に浸かるが、許して遅れよ」


 わたしを手の中に握り、主はゆっくりと流れる川の中に足を浸す。

 この川の中腹は、見た目よりずっと深くなっている。

 水はすでに主の腰まで届いていた。川の中程で冷たい水に頭まで入った主の口元が何かを唱え、唇から漏れ出たそれは空気のアワとなって川を流れては消えていく。

 主の手の中で川の水に晒されるわたしは、あのじめじめとした臭い水の気が流されるような気がして、身が軽くなる思いだった。

 水嫌いのわたしが川の水に癒されるほど、この身にはじっとりと淀むものが染みついていた。

 水に潜っていた主が川から上がると、岸には陽炎によって着物が用意され、脱ぎ捨てたものは綺麗に片づけられている。

 己の身より先に手ぬぐいでわたしの水気を拭い取った主は、きちりと着物を着付けると、いつも通りにわたしを腰帯に据えた。


 チリン ヂリリン


 まだ少し濁りの残る音だが、わたしは強くこの身を鳴らし主の背を押した。



 屋敷に戻ると、主は敷地の要所に塩を盛った小皿を置いてまわった。

 盛られた塩の間を繋ぐように、古木から削りだされた細い棒で、主にしか解らぬ言葉を書き記す。

 墨で書くわけではないから、棒でなぞったあとには何も残ってはいない。 

 それでも確かにそこに書き記された、この世のものならぬ気を、わたしは確かに感じとった。

 仮眠さえ取らずに棒を動かし続けた主が、ようやっと座敷に腰を落ち着かせた頃には、もうとっぷりと日が暮れていた。

 灯された明かりに照らされる主の顔色は、あまり良いものには見えない。


「わたしが悟様のすぐ側にいたのでは、かえって害が及んでしまう。かといって、離れていれば、付け入られるだろうねぇ。まったく厄介な」


 そんな主の心を嘲笑うかのように、天井から壁を伝って水が一筋流れ落ちる。

 壁を伝い落ちた水の筋は畳へと流れ、水が染みた跡が腐ったようにどす黒く色を変えていく。


「どうやら剣呑な雲行きになってきたようだ」


 陽炎がシマを懐に抱き寄せ、弱音を吐かぬようにか唇をくっと噛みしめた。


 ミャ


 陽炎に抱かれたシマが、震える首をもたげ短く鳴く。

 主の目が、かっと見開かれた。


「間に合うか」


 座敷を飛び出す主の腰帯で激しく揺れながら、闇に溶け込むおぞましい気にわたしはふるりと身悶えた。


 主が障子を開けると、蝋燭の灯りに照らし出された若造の寝所の中、少し開け放たれた押し入れの中だけがやけに闇を帯びていた。

 何も無いというのに、押し入れの襖がぎしぎしと音を立てて更に開く。

 その奇異な音に、眠っていた若造がうっすらと目を開けた。

 襖の奥から、闇がだらりと垂れ下がる。

 

 ずるり

 ぬるり


 闇を染み込ませた筆でなぞるように、じわりじわりと影が這いでる。

 見ることは叶わずとも、怖気は感じたのであろう。若造が声のないまま僅かに唇を開いた。

 苦しそうに目を見開き、音のする方をひしと見ている。

 闇の模る影は徐々に人の形をなしていく。

 長い髪をばさりと垂れた女であった。

 まるでぬらぬらとした大蜥蜴が這うに似た様は、もはや人とはいえず、ただおぞましい。


 女は襖の縁を伝って、頭から畳へと降りた。

 濡れそぼった女の髪からは、喩えようの無い臭気が立ち上っている。

 若造もその臭気を感じたのか、苦しそうに眉を顰める。


「それ以上、一歩たりとも動くことは許さぬ!」


 若造の額を舐めんばかりに近寄っていた、女が顔を上げた。

 女の肌は黒ずみ、だらりと舌の垂れ下がる口元はだらしなく緩んでいる。

 白目のない目玉は黒く、怨ずるような視線で主を見遣った。


 ジジズジィィイィ


 舌が蠢き、漏れてきたのは声にもならぬ雑音だった。


「女であるどころか、もはや人でさえないか」


 憐憫の情を欠片も含まぬ主の声が、怨嗟の籠もる客間の空気を斬る。

 胸の前に手刀をかざした主の手首に、天井から垂れた黒い水が一滴落ちた。


 シュウゥゥ


 嫌な音を立て、主の白い手首の皮が爛れる。

 一寸眉を顰めただけで、臆することなく主は女の方へと一歩踏み出す。

 長い髪を引き摺って、女がずるりと後退る

 主の手刀が切られる度に、低い呻き声が上がった。


「か……な……さん」


 掠れた声は、若造のものであった。

 若造の声が聞こえても、主は手刀を切り続ける。


「悟様、辻堂はあらゆる者が身を寄せる、辻が上の屋敷にございます。どのような者であろうと欠片でも望みがあるなら、手を貸すのがわたしの務め。ですが、この者はなりませぬ。こうなってしまっては、もう救いようがないのでございます」


 何か言いたげに震える若造の唇から、紡ぎだされる言葉はない。


「この姿を見て、この者が何の成れの果てかはっきりいたしました。この者の内に蠢くのは修羅にございます。片恨みしたうえの恨み死に。悋気に狂った女は、死してなお己の魂を焼くのでございますよ」


 魂を失った者は、どれほど彷徨っても光りの差す方へと抜ける道はない。

 放っておけば死してなお、他者を巻き込み傷つける。


「己が人であったことすら、もはや覚えてはおりますまい」


 主の頬に黒い水が垂れた、絹のような肌に一筋のただれを刻む。


「この辻堂で起きた数日間の怪異には、全て水が絡んでおりました。溝のように臭う水。この女、悋気に狂うて古井戸にでも落ちたのでございましょう。だとしても、生前に横恋慕を疑う娘を片端から殺しでもしなければ、この様な姿にはなりますまい」


 黒い髪が、ずるずると引いていく。


「此処から逃れたとて、いったい何処へいく」


 黒い髪が退いた跡で、畳が泡立ち腐っていく。


「魂の朽ちたおまえに、逃れる場所などない。この方は、おまえの想った者ではないぞ」


 主が唇に指先を軽く添えた。

 声なきまま、主の唇が言葉を宿す。

 異臭を放つ女の頭が、もぎれそうにぶるぶると震える。


「お迎えだよ」


 声なき言葉を飛ばすように、主は添えていた指先を女に向け息を吹きかける。

 黒ずんだ女の指先が、激しく畳を掻きむしる。

 若造は姿の見えぬ奇怪な音に、怯えたように目を瞑った。


 ほの暗い押し入れの奥から、墨を垂らしたような闇が湧き上がり、のたうつ女の足を捕らえた。

 仰け反る女の喉元が筋張って、ごぼごぼと音を鳴らす。

 女を捕らえた闇は黒い霧となり、這って逃れようとする女に絡みつき、あっというまにその身を呑み込んだ。

 若造を掴もうと伸ばされた黒ずんだ手を、主の白い足袋が踏む。


「おまえのような畜生が触れられる方ではない。お行き!」


 女の体を巻き込んで、黒い霧がざっと引いた。

 その様はまるで、打ち寄せた大波が引いていくようであった。

 主の白い足袋が、ぼろぼろと朽ちていく。

 朽ちた足袋に隠された小さな足の痛みを思って、わたしは己の身が竦んだ。

 全てが去り、押し入れの中を淡い蝋燭の灯りが照らす。

 一歩、二歩とよろめいた主が、崩れるようにその場に座り込んだ。


「畳を替えなくてはならにねぇ。その前に、少しだけ休むとしようか」


 主の半身がふわりと傾いで、まだ湿り気を残す畳の上に倒れ込む。


 リリ ヂヂーーン


 悲鳴にも似た音でわたしは鳴った。

 聞きつけた陽炎が、客間である若造の寝所に飛び込んできた。

 身が軋んで、これ以上はチンとも鳴れる気がしない。

 若造は無事だし、愛想の無い馬鹿猫もすぐに体力を戻すだろう。

 少しは主の助けになっただろうか。

 わたしの意識は、ぱたりと闇に閉ざされた。



 この日もわたしは庭を眺める主の腰帯に、いつものようにぶら下がっている。

 陽炎の話では、主もわたしも三日三晩意識が戻らなかったという。


「悟様が元気になられる前に、この傷を何とかしなけりゃいけないねぇ」


 主の顔と手首には、あの夜の傷が爛れとなって、いまだ残ったままである。

 足には白い布が巻かれているから、そちらもまだ癒えてはいないのだろう。


 チリリン


「心配はいらないよ。こういう傷は跡形もなく治るから。鈴が綺麗な音で鳴るのを聞いて、陽炎がこしらえる肴で盃を傾けていたなら、あっというまに治るさ」


 チリチリン


 主を励ますため、わたしは明るく鳴ってみせる。


「そうやって元気に鳴っていておくれ」


 痛々しい傷を隠すことなく、主は優しいまなざしで微笑んだ。

 枯れ果てたまま、すっかり夏の色合いを無くしてしまった庭をながめていた主は、ふいに腰を上げた。


「見てごらんよ」


 白い指の先には、色褪せた葉に混ざって芽吹いた、青々とした新芽がつままれている。


「こうやって繋がっていくのだから、命とは逞しいものだねぇ」


 庭石に腰をおろした主が、屋敷の奥にいる陽炎に声をかける。


「お酒と肴を用意しておくれよ。陽炎も一緒に呑もうじゃないか」


 屋敷の奥から、陽炎の明るい返事が聞こえる。

 しばらくして、魚を煮付けるいい匂いが漂ってきた。

 庭の隅から小さな影がでてきたのを、わたしは見逃さない。


 ミャー


 魚の匂いに釣られて、のこのこと姿を現したのはシマである。

 恩の欠片もない視線を向けたかと思うと、ぷいと顔をそむけたくそったれなシマをみて、もういっぺん寝込めばいいと、わたしは心の中で本気で願った。



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