5 子鬼が生を望む夕暮れ
この日の朝は、若造のどたばたと縺れた足音で始まった。
古い樫の板張りが抜けるのではないかと、気を揉むほどに廊下を軋ませて駆けてくる。
「カナさん、カナさん!」
女性の寝屋に、知って日の浅い男が声をかけるなど許されようか。
この不快な声に主が目を覚ますなど我慢ならぬわたしは、主の美しい瞼が開かれる前にこの身を鳴らした。
リーン チリーン
身を横たえているだけの主は眠ってなどいなかったが、これはわたしの意地である。主が庭に出る時間を知らせるのは、わたしの仕事だ。
「鈴、悟様がいらしたよ」
小声で主はそういった。
「悟様、仕度をいたしますから、少々お待ちになってくださいませ」
障子から差し込むまだ明るい夕焼けに、影となって、落ち着かぬ若造の様子が見てとれる。
男児たるもの、堂々としていなくてどうする。ましてや女性の前で狼狽えるなど、情けないにもほどがある。
「カナさん、妙な話なのですが、足音がするのですよ。あちらこちらを走り回る足音が」
「おやまあ」
長い黒髪にツゲの櫛を通しながら、のんびりと主は答えた。
「山の縁が茜に色づき始めたころから始まったのです。誰か客人でも来た音かと思いましたが、人の気配など何処にもないもので」
一生待っても、ここで人の気配がすることあるまい。
あるのは闇に紛れて訪れる、存在という名の気配だけ。
「ずいぶんと慌てておいでだこと。今そちらへまいります」
主が障子を開けると、詮無き子のように足をもじもじと摺り合わせる若造の姿があった。
「ここでは足音が聞こえる日もあるのですか? それなら安心なのですが」
「そのような日はございませんよ」
「やはりありませんか」
「でも、そのような日があっても、おかしくはございません」
「……どっちですか?」
呆けた面の若造を手で招きながら、主は廊下の先をいく。
「悟様の客間で聞こえたのでしょうか?」
「はい。ですが厠に入っている間も、廊下を無数の足音が駆け抜けていきました」
首を傾げる主は、何を思いついたのか懐から匂い袋を取りだし、口を開くと中の白い粉を手の平にのせた。
唇を寄せてそれにふっと息を吹きかけると、白く微細な粉がまって床をうっすら白く覆う。
「それは?」
「足跡の正体を、炙りだそうかと思いまして」
主の言葉に、若造が返したのははぁ、という気の抜けた返事ひとつ。
「おや、陽炎じゃないか。働いてばかりいないで、少しはお休みよ」
主の視線の先には、家中の用向きを全て終えた陽炎が立っていた。
夏の訪れと共に辻堂へ姿を現して、まだ日の経たぬ陽炎は、己が留守にした三つに渡る季節の埃を全て拭おうとするように、足を止めることなく働いている。
「楽しいのです。こうやってカナ様のお側であれこれするのは、今しかできないことですもの」
「先日はきちんとした挨拶もできずにすみません」
へこりへこりと頭を下げて、若造が主の背から顔を見せる。
「悟様ですね。陽炎にございます。ご用がありましたら、なんなりとお言いつけくださいまし」
陽炎が控えめな笑顔と共に頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
陽炎に負けじと深々と頭を下げる若造に、主は口元にふわりと笑みを浮かべた。
「陽炎は夏の間だけこの屋敷に立ち寄り、共に居てくれる者です。陽炎、すまないがお茶を淹れて座敷まで持ってきてくれるかい?」
ひとつ頷いて、陽炎は屋敷の奥へ姿を消した。
「まるで平安京のお姫様みたいな女性ですね。顔の横の髪を短く耳の下で切りそろえているところとか、豊かな黒髪を二本の紐で結わえているところとか」
陽炎の後ろ姿を見送った後、若造が感嘆の溜息を漏らす。
「人は現世の己の姿に、固執するものでございます」
「現世ですか?」
「彼女は夏の日差しが降り注ぐ季節にだけ、姿を現す陽炎と同じにございます。この場に留まることは無い存在にございます」
若造はしきりに頷きながら、尚且つ首を傾げている。
「現世とは、どういうことでしょうか?」
「生きていた頃の姿、という意味にございます」
「陽炎さんは、死人なのですか?」
若造は少しだけ目を見開いた。
「死人でありながら、死にきれないのが陽炎の定めにございます。平安の世は、人と闇が混在しておりましたから」
少しずつ歩みを進める主は、座敷に入ると隅に腰をおろすよう若造を誘った。
「平安とは、平安京の時代ですか? それはまた、途方もなく遠い時だ」
「己の運命を呪うこともできず、誰を恨む事もしなかった。陽炎の魂は澄んだ泉の水のように綺麗すぎたのでございますよ」
「綺麗なことは、いけませんか?」
「いいえ。それでも行き場を失った思いは、時に己を鎖で繋いでしまうのでございます」
主は残っていた手の平の粉を、ふっと吹いて畳に散らす。
「闇の者にもなれず、人にもなれない、それが陽炎という存在にございます」
若造はそれ以上何も聞き返すことなく口を閉じた。
「悟様、優しさは時に己への仇となります。情に溺れてはなりませぬよ」
若造がひとつ頷くと、盆に茶を載せた陽炎が座敷へと入ってきた。
畳に撒かれた白い粉に、目をしばたいている。
「座敷の端を通ってここまでくるといいよ。その粉は、小さな仕掛けだから」
にこりと頷いて、陽炎はなるべく白い粉を踏まぬ用端を歩いて茶を運び、静かに座敷を後にした。、
陽炎が去るのを待っていたかのように、廊下に騒がしい足音が響く。
「カナさん、この音です!」
立ち上がらんばかりにおろおろと辺りを見回す若造を、主は唇の前に指先をすっと立てて無言で制する。
「もうすぐ正体がわかりますよ」
一度は遠ざかった足音が、だんんだんに座敷へと近づいてくる。
「あっ」
声をもらしたのは若造だった。
畳に撒かれた白い粉に、姿の見えぬ小さな足跡がぺたりぺたりと残される。
「これはいったい」
「おや珍しい。これは子鬼達の足跡でございますよ」
「鬼ですか? 子供の鬼なのですか?」
主は小さく首を振る。
「魑魅魍魎の類で、昔から語られる鬼とは少しばかり違います」
こうして二人が話している間にも、ぱたぱたと響く足音は小さな足跡を残しながら廊下と座敷を好き勝手に行き来していた。
「あの子らは、元々は人の子。昔、口減らしのために捨てられたり売られたりして、命を落とした詮無き子達にございます」
「小さな子供が、売られていたのですか?」
「三つ四つの子供の命など、枯れ葉より軽い時代があったのでございますよ」
緊張に張っていたのであろう若造の肩が、すとんと落ちた。
小さな足跡が、若造の目の前を走り去ろうとする。
「ちょいとお待ち!」
駆け去ろうとする足跡に、主が声をかけた。
足跡の動きがぴたりと止まる。
足跡の数からして、五人ほどはいるだろうか。
「わたしが見えるだろう? わたしにはちゃんと姿が見えているよ。この屋敷で好きなだけ遊んでかまわない。でも、遊んでいいのは、お月様がお空のてっぺんをまわるまで。その後は、わたしのいうことを聞いて、いい子にするって約束できるかい?」
相談するかのように、小さな足跡が一カ所に集まった。
主が見つめる先に、わたしも意識を集中した。小さな子供らの着物はぼろぼろで、丈が足りずにみな膝小僧が丸見えになっている。
話がまとまったのか、子供らは主の方へ一斉に顔を向ける。
白い顔に目と口はなく、鼻があるはずの場所には僅かなでっぱりだけが残っている。顔の横にあるはずの、耳さえ失っていた。
わたしが思った通り、子供達は全部で五人。その全員が、のっぺらぼうの白い顔で、主に向けてこくりと頷いた。子供らしい仕草だった。
「いい子だねぇ」
主の言葉に、子鬼達の小さな足跡が忙しく跳ねる。
褒められ可愛がられた記憶などない子鬼達に、主のかけた言葉を汲み取ることは難しくとも、主の心を感じたのであろう。
小さな手を打ち鳴らして、踊るようにその場で跳ねている。
「子鬼達は何か話しているのですか? ぼくには何も聞こえませんが」
「話してはおりませんよ。あるのは小さな体から発せられる感情と想いだけ。この子らには、目鼻や口、耳までもがございませんから」
ぎょっとしたように若造が身をそらす。
「それを持たぬ事こそが、短いながら生き抜いた人生がどのようなものであったかを物語っているのでございます」
若造は跳ねる足跡にちらりと目をやり、そらした背を元に戻して黙って主の言葉に耳を傾ける。
「己を人として扱わぬ世を見なくて済むように目を塞ぎ、罵声と怒号しか届かぬ耳を塞ぎ、どれほど叫ぼうと聞き届けられぬ言葉しかでない口を塞ぐ。そして生きることさえ望まれないなら、息を吸う必要さえなかろうと、鼻までをも塞いだのがこの子らの姿が現す意味にございます」
そうですか、呟いた若造の視線は、まだ跳ね続けている小さな足跡に注がれる。
「カナさん、この子鬼達が行く先には、痛みも苦しみもないのでしょう?」
消え入りそうに声が震えている。
「詮無き子に苦を与える仏など、あの世にはおりません」
「あの世の仏様が慈悲を持っておられるなら、この世の仏様は何をしておられるのか!」
若造の言葉が、僅かに怒気を含む。
「仏様はあの世のもの。浮き世には、仏など最初からおりませぬよ」
「ならばこの世に居るのは、いったいなんだと?」
「この世に居るのは、人の皮を被った夜叉にございます。その夜叉に喰われるのが人であり、死んでなおその手から逃れられないのが、魑魅魍魎の類でございましょう」
若造は背を丸めて畳へと視線を落とす。
「仏は、居ないのですか」
言葉尻が細く暗く落ちていく。
「救ってくれる仏が居ないからこそ、人は他人を想い、癒そうとするのではないでしょうか」
語る主の目は優しい。
残酷に成り下がるだけなら誰でもできる。芯から優しくなれるのは、いつの世も地獄を見てきた者ばかり。
「よし! 好きなだけ遊びなよ! いっぱい遊ぶんだ!」
何を思ったのか、若造が両手を広げて笑顔で叫んだ。
子鬼達の笑い声が、寸の間座敷に響く。
「おや、話せるようになったのかい?」
飛び跳ねる子鬼らの白い顔に、小さく赤い唇が現れた。
くすくすと押さえたような笑いが響く。
「子鬼達の笑い声が聞こえた!」
若造の表情がぱっと晴れた。
「子鬼達に、ものいう口が戻りました」
「戻るものなのですか?」
「頑なに決めつけていた己の存在意義が変わったのなら、自ずと姿形も変わります。見てみたいと思えるものができたなら小さな目も開き、また生きようといういう気になったなら、鼻の気道も通じましょう」
嬉しそうに微笑む主を見て、わたしの心はチクリと痛む。
己の幸せを感じて主が最後に微笑んだ日から、気が遠くなるほど時が過ぎた。
主はいつも誰かを思って微笑んでいる。それがわたしには辛くてならない。
「一番歳が近いからでしょうか、子鬼達は悟様に興味を持ったようでございますよ?」
驚いた様子で口をぽかりと開けた若造の側へと、小さな足跡がそろりそろりと寄っていく。
「あ、足跡がこっちへ……きました。このために粉を?」
「いいえ、まさか子鬼達が悟様と遊びたがるとは思ってもおりませんでしたもの」
着物の袖で口元を隠して主が笑う。
「遊びたがっているのですか? ですが何をしたら良いのかさっぱりです」
主がぱんぱんと、二度手を打ち鳴らす。
「お呼びでしょうか」
ほどなく姿を現したのは陽炎だった。
「面白いものが見られそうだから、酒を持ってきておくれ。酒の肴はいいから、早くおいでよ。陽炎も一緒に呑もうじゃないか」
花のような微笑みで、陽炎は頷いた。
「わたしは見世物ですか?」
「とんでもない。わたし達はただ、事の成り行きを見守る役にございます」
口元を隠す着物の袖が、肩の震えに合わせてひらひらと揺れる。
一息吐いて諦めたのか若造は立ち上がると、己の周りをくるくると走り回る足跡を目で追った。
「子供達は何人いるのですか?」
「男の子ばかり、五人でございます」
盆に酒を載せた陽炎が、開け放たれたふすまから座敷へと入ってきた。
腰に手を当てて考え込んでいた若造が、ぽんと手を打つ。
「あまり太くない縄を、一本用意してもらえますか?」
少し思案した様子の陽炎は、思い当たる物があったのか、はい、とひとつ返事をして急ぎ足で廊下を遠ざかっていく。
「みんな、これからする遊びを教えるから、走るのを止めて集まってよ!」
小さな足跡がぴたりと止まり、戸惑い気味に若造の足元へと集まってきた。
「これでよろしいでしょうか?」
細めの縄を手にした陽炎が戻ったきた。
「丁度いいです。ありがとう」
若造は縄の片端を、部屋の柱の括り付ける。
「いいかい? ぼくがこの縄を揺らすから、一列に並んで順番に縄を跳ぶんだよ?」
小さな子でも跳べるように、ゆっくりと縄が揺らされる。
「ほら、跳んでごらん!」
どうしたらよいのか解らないのだろう。子鬼らの小さな足は、その場でもじもじと動くだけだ。
いっこうに跳ばない子鬼達にどうしたものかと、額に指を押し当てて思案していたらしい若造は、あぁ、と声を上げて陽炎を見た。
「陽炎さん、子鬼達に跳んで見せようと思うので、この縄を揺らしてもらえませんか?」
主に酒を注いでいた陽炎は、にこりと頷き立ち上がる。
そして細い縄を手に、小さく揺らし始めた。
「よく見ててごらん。この遊びは、こうやってするものさ!」
陽炎の揺らす縄を、若造はひょいと跳んで見せた。子鬼らの足跡が跳ね上がる。
「少しずつ波を大きくしてください!」
陽炎が揺らす縄を、若造は器用に跳んで見せた。
だが思わぬ誤算に足元をすくわれる。
陽炎の揺らす縄は、際限なく大揺れになっていったのである。
大きく波打って戻ってきた縄が、若造の足首をひっかけた。
「痛って~!」
尻から畳に叩き付けられた上、勢い余って後ろへとでんぐり返った。
「大丈夫ですか?」
半分笑いながら声をかける陽炎の隣で、子鬼らの歓声があがった。
ざまあみろ! どうせなら阿呆な頭から落ちれば良かったものを。
おやおや、子鬼達の顔に小さな目が現れた。
この阿呆の失態は、子鬼達の目を開かせるほどに面白かったのだろうか。
「悟様、子鬼達が喜んでおりますよ。この遊びを見て知りたいという思いが勝ったのでしょう。目が開いたようでございます」
引っ繰り返って顔を顰めていた若造の表情が、満面の笑みへと変わる。
「よし! やり方はわかっただろう? 順番にひとりづつだよ」
小さな足跡が一斉に動いた。どこにでもいる子供のように、我先にともつれ合ったあと、ようやく順番が決まったらしい。
その様子を眺めながら、主は手酌で酒を呑んでいる。穏やかな表情に浮かぶ笑みは、まるで幸せな女そのものに見えた。
若造に縄を渡した陽炎も、主の隣の腰をおろし呑みかけの盃を口へと運ぶ。
「それ、いいぞ!」
若造が声をかけると、小さな足跡がひとつ駆けだした。
小さな揺れの縄を懸命に飛び越える足跡を見て、若造は嬉しそうに声をかける。
「上手だよ、がんばれ!」
少しだけ縄の揺れを大きくすると、足を取られた子鬼はひっくり返り、ごろりと一回転した。
何が起きたのかを主に聞かされた若造は、ほっとしたように息を吐く。
「ようし、次ぎもがんばって!」
ところがどの子鬼も、縄の揺れを少しだけ大きくすると、ころりとひっくり返って一回転してしまう。
その度に、子鬼達から大きな歓声と拍手が湧く。
「まさかお前達……ぼくが失敗して転んだのを、そのまま真似しているな?」
笑いと奇声の入り交じった声を上げて、小さな足跡が散り散りに逃げ出した。
「こら、待て!」
逃げる足跡を追って、若造が座敷を飛び出していく。
あれでは遊んでやっているのではなく、遊んでもらっているも同然だ。
「さすがだねぇ。見ただろう? 子鬼達の顔」
主の言葉に、陽炎も嬉しそうに頷いた。
わたしも確かに見た。
座敷から駆けていく子鬼らの白い顔には、人の子と同じ鼻があった。
白い歯を覗かせて笑い、悪戯小僧そのものといったまん丸い目は、生き生きとした人の子そのものにわたしは見えた。
「生まれて初めて、他人との関わりに優しさを見いだし、面白さを感じたのだろうよ。こんなに楽しいことがあるならもう一度だけ生きてみよと、思ってくれたのかもしれないねぇ」
盃の酒を一気に空けて、主は嬉しそうに息を吐く。
「縄遊びでそれほどまでに?」
陽炎の問いに、主は静かに頷いた。
「たかが縄遊びにさえ、かけがえの無いものを見いだせるほど、無味な人生を送った子供しか、子鬼にはならないということさ」
不憫だねぇ、主の最後の呟きは、注ぎ足された酒に溶けそうなほど、さわさわと小さなものだった。