4 壁に模られる者
己の過去を垣間見られて恥ずかしく思ったのか、仏頂面のシマが二日ほど姿を見せず、ようやっと庭をうろつき始めた夕暮れ時、主から借りた縞の浴衣を着た若造は、文机に肘を凭れて庭を歩くシマの姿を目で追っていた。
もともとぼんやりした抜け面の中、突如に目だけが大きく見開かれる。
はっとした様子で凭れた肘を離し、きょろきょろと辺りを見回した。
「どうかなさいましたか?」
主の声に、若造は首を傾げた。
「今しがた揺れたような気がしたのですよ。地震かと思いましたが、どうやら気のせいです」
主はゆるりと首を巡らせ、座敷の壁を見回した。
「気のせいではございませんよ。悟様は場の揺れを感じたのでございます。もうすぐここへ、野坊主がやってくるのでしょう」
「野坊主、とは魂のようなものでしょうか?」
おろおろと辺りを見回す若造に、主は微笑みながら首を振る。
「魂というなら、確かにその通りなのですが、この間の娘や男達とは存在が違います。今の野坊主に居所があるとしたら、それはこの辻堂でございましょう」
軽い空気の乱れを感じたのか、若造はびくりと肩を跳ね上げる。
「野坊主がまいったようでございます」
主の目は、壁の一点を見つめている。
壁の一部がめりめりと盛り上がり、やがてそれは人を模って動きを止めた。
顔の細部、風貌の詳細を見て取ることはできない。精巧な人型に盛り上がった、壁の表面がそこにあるにすぎなかった。
胡座をかいているであろうその姿は恰幅が良く、頭は丸く禿げ上がっている。
「久しぶりですね、野坊主」
――そうであったな。久しくそなたの顔を見ておらぬ。
壁に模られた唇が動く。
野太い声は、若造の耳にも届いたのだろう。小さな文机を倒さんばかりに、上体を仰け反らせている。
「悟様には見えないでしょうが、ここに野坊主が姿を現しております。野坊主、こちらは悟様。この辻堂の大屋様となられるやもしれないお方。姿は見えなくとも、野坊主の声は聞こえていますから、どうぞご挨拶なさいませ」
しばしの沈黙が流れた後、先に口を開いたのは野坊主だった。
――先代の訃報はこの耳にも入っている。真に惜しい方を亡くしてしまった。わたしの名は野坊主。この先幾度か会うこともあろう。
「悟と申します。先代の小野田創見の末息子です」
野坊主は、無言のまま顎を引いて頷いた。
「今日はどのような用向きでしょう」
――そなたの香りを微かに纏う、若い女が動いておる。見知った者か?
視線を束の間横へと流し、主の口元がうっすらと開く。
「つい先日、ここへ立ち寄った娘かと。……無理をしているのでしょうか?」
――我が身を省みず、といったところか。あの闇の中、魂が砕けても良いと思っているように、わたしには見えた。
「わたしが悪いんですよ」
主は悲しげに笑みを落とす。
「何を頼んだわけでもありゃしません。けれど感じてしまったのでしょうよ。別れ際、決意を滲ませる言葉を残していきました」
野坊主の唇は動かない。
「あの子の手を取ったとき、重ね合わせてしまったのでございます。忘れそうに遠い己の姿と」
主はここで言葉は切った。
わたしは震えそうになる身を必死に押さえた。
忘れるわけがあるまい。
忘れそうになど、なるわけがあるまい。
欠片の救いさえないこの道に主が足を踏み入れたのは、ただひとつの願いの為ではないか。その為だけに、選んだ道であろうに。
――そなたも変わらぬな。
野坊主の言葉は、主の慰めになるのだろうか。
鳴るしか能のないわたしには、言葉の機微など深くは理解できない。
この身を鳴らす代わりに、無数の言葉から主に伝えたいただひと言を、このひと言を伝えられるのなら、今宵この身が錆びて砕け散ろうと、何の悔いが残ろうか。
「あの、重ね合わせるとは、いったいどういう意味なのでしょう?」
野坊主の顔が、若造へと向けられる。
――気にするな、カナの独り言だ。
そうですか、口元だけでそう呟いて、若造は口を閉じた。
「申し訳ありませんが、野坊主と少しばかり込み入った話がございます。悟様はしばらくの間、客間でお休みになっていてくださいませ」
「わかりました。何かあったら、声をかけて下さい」
悟は見えぬはずの野坊主へと一礼し、静かに座敷を後にした。
廊下の床板が軋む音が遠ざかるのを待って、主は野坊主の前にゆっくりと腰をおろす。
――カナよ、あの若者は答えを出したのか?」
主は小さく首を振る。
「焦らずにいてやってくださいな。成るようにしかならないのは、野坊主が一番良く知っているでしょうに」
野坊主の口元が綻む。おそらく笑ったのだろう。
――少しは焦れといいたいが、カナの心の底はいつまでも掴めぬ。素手で鰻を掴むようなものだ。
「鰻を、でございますか?」
――手は届く。確かに触れることができるというのに、触れたと思った途端、この手の中からするりと逃げる。
「女を鰻にたとえるなど、禅門とはいえ高僧に劣らぬ方と思っておりましたのに。これはとんだ生臭坊主だこと」
主が口元に着物の袖を当て、可笑しそうに笑う。
――今も昔も、徳のある高僧など、爪の垢ほどしか居らぬ。
「目の前に居ると、わたしは信じているのですがねぇ」
主の言葉に、野坊主が僅かに肩を揺らす。
可笑しければ声を出して笑えば良いのに、とわたしは思う。
わたしでさへ、面白いと思えば鳴るというのに。
違うな。
役立たずの鈴などと一緒にしてはならない。
輪廻の輪に乗って、再び生まれ変わる日でも来ない限り、大声で笑うことなどできないのだろう。
それほどに暗く重い荷物を、この生臭坊主は背負っている。
だからといって、野坊主を好きにはなれない。
ほの暗い道しか続かぬ旅路への手形を、主へと渡したのは野坊主だ。
だからわたしは、いつまで経っても野坊主が嫌いだ。
「先日、陽炎が姿を見せました。秋の音が聞こえるまでは、いつもの夏と同じようにこの屋敷に居てくれるでしょう」
――もうそんな季節か。陽炎のこしらえた白和えこんにゃくは旨かった。
「今でも美味しゅうございますよ。いつか、静かな宵にでも造ってくれと頼んでみましょうか?」
――そうだな。静かな宵があれば、頼んでみるとしようか。
他愛のない会話が続く。若造を払ったのは、余計な話を耳に入れずにおきたかったからだろう。
野坊主は嫌いだが、主が楽しそうであるから、今宵は我慢しようと思う。
この部屋に主が一人きりになるまで、錆びたように黙っていよう。
話の所々に聞き耳を立ててはいたが、主の求める話は、野坊主の口には上らなかった。
知っていたなら話すと信じておられるのか、主からも問う素振りはない。
目的はどうあれ主は、野坊主にとって己の願いを叶える道具に過ぎないとわたしは思っている。
求める答えを知ったなら、主は辻堂を離れるかもしれない。
みすみす手駒を減らすような真似を、はたして野坊主はするだろうか。
わたしが己の思考に深く陥っている間に、野坊主は姿を消していた。
チリン チリリン
「やっと鳴ったねぇ、鈴。また臍でも曲げていたのかい?」
リーーン
「気を揉むことはないよ。野坊主なら、悟様の客間へいったのだろうさ。悪いことではないだろう? 男同士の方が、話しやすいこともあるだろうからねぇ」
チリチリ
心配げに鳴ったわたしに、目を細めて主が微笑む。
悟のいる客間に茶を運ぼうと、主がふすまに手をかけると、場の空気が揺れた。
少しばかり半開きになったふすまの隙間から、中の様子が伺える。
主は腰帯からわたしを外し、廊下の端に静かにおいた。
「野坊主が現れたのなら、わたしは失礼しようかね。おまえは、心配でたまらないのだろう? ここにおまえがいることなど、とっくに野坊主は知っている。知っていて話すだろうから、ここで気が済むまで二人の会話を聞いておいで」
囁いて主は座敷へと戻っていく。
呼び止めようかとも思ったが、ふすまの中の会話が気になった。
主のためだ、決して盗み聞きなどではない。
場の空気の揺れを察した若造が、背を仰け反らせて見開いた目をきょろきょろとさせている。
「誰か居るのですか?」
若造のすぐ横の壁が、めりめりと盛り上がり座した男を模る。
野坊主であった。
――わたしの姿は見えないのであったな。
己のすぐ脇から聞こえてきた声に若造は尻から跳ね上がり、口から漏れたのは潰されかけた蛙のごとき、喩えようのない声だった。
「そこに居るのですか?」
――野坊主だ。さきほど会ったばかりであろうよ。
ほっと肩を落とした若造は、声を頼りにあたりを付け、壁に向かってきちりと座り直す。
――そう改まるな。取って喰うとでも思っているのか?
若造はぶるぶると頭を振り、野坊主の戯れ言を否定する。
――カナは美しい娘であろう?
「はい。とても綺麗な女性です」
――カナに惚れたか?
「とんでもない。そんな大それたことなど、考えるわけがありません。それにカナさんには、髪の先、袖の先ひとつにも触れてくれるなといわれています」
野坊主の肩が笑いに揺れる。
――おまえが考えているのとは、ちと意味合いが違う気がするがな。
「カナさんの言葉に、どんな意味合いがあるというのです?」
――気にするな、独り言だ。
はぁ、と若造は返事とも溜息ともつかない息を漏らす。
――おまえは見極めたいといったそうだな。それゆえ臆病者のくせに、ここに居座ることを決めた。
返す言葉がないのか、若造は恥ずかしそうに俯いた。
――おまえはここで、己の本質に気付くであろうよ。臆病者と、骨のある無しは関係ない。
野坊主の真意が見えぬらしく、若造は困ったように唇を窄める。
あの頭の中には、日常生活で使う言葉しか詰まっていないのだろう。
棒で叩けば、ぽっくりぽっくりと中身が空の音がするに決まっている。
――おまえは先代が嫌いか?
「実の父ですが、ああいう人間にはなりたくありません。経済力はありましたが、家庭を顧みない人でした。父と一緒に出かけたのは、三歳の時が最初で最後です」
――覚えているのか?
「いいえ、数年前に普段は物言わぬ父がこういいました。昔おまえを連れて行った場所に、いつかまた連れて行くと。言葉は多くありませんでしたから、ぼくが三歳であったことと、二人で出かけたことしかわかりません」
若造は少し寂しげ視線を落とす。
――親の顔を覚えているなら、それもひとつの思い出であろうよ。ぽろりと産み落とされ、土を舐めて生き、ひとり朽ちていくしかない者達がこの世には大勢いる。
若造は顔を上げ、声の聞こえる壁の方をじいっと見入っている。
「まるでご自分のことを語られているように聞こえます」
――かも知れぬな。
野坊主がこれ以上余計なことを語らぬかと、わたしは身も凍る思いで聞き耳を立てた。先代とさえそれほど口をきかなかった野坊主が、よくもこれほどしゃべったものだ。
すっかり暗くなった部屋の中、若造が燭台に灯をいれる。
――大家になるか、まだ決めておらぬのだろう?
頷いた若造の顔を、灯されたばかりの蝋燭の明かりが撫でた。
「自分でもわからないのです。ぼくがここの大家になり、ここが在り続けることを望む人がいるのだから、承諾すればそれですむ話だというのに。何に躊躇しているのか、自分でもはっきりとしたことは……。自分の心だというのに、ここへ来てからまったく扱いづらい」
壁に模られた野坊主の姿が、すいと壁の内へ吸い込まれ、古い木目の板が平らに戻っていく。
――わたしはもう行くが、焦ることはない。
「焦らなくとも良いのでしょうか?」
――生きているから、人は惑うのだよ。
「野坊主さん?」
その問に答える者はもういない。
野坊主の言葉は意外だった。
先代のときには淡々と事を進めていたし、焦るなとはいわなかった。
人とは惑うものだなどと……。
若造は足を崩し、文机に肘をついて何か考え込んでいる。
ミャー
庭でシマが鳴いている。
今宵もまた、騒がしくなりそうだ。