3 ちっさな命と 忘れられぬ温もりと
雨上がりの澄んだ夕暮れであった。
夕暮れとはいってもすでに日は落ち、遠くの山を縁取る空が僅かに茜に染まっているだけだある。
私は鈴。
目覚めたばかりの主の腰帯で、ゆらりぶらりと夜が明けるまで揺れるだけの存在だ。
若造はといえば、すっかり空気が夏と入れ替わり、やっと姿を現した陽炎に見とれて眺め疲れたのか、少し前から寝所に籠もっている。
主が目覚める前に、夕の膳の支度を終えた陽炎は、漆黒の長い黒髪を束ね、その途中を紐で二箇所ばかり結わえている。
横の髪は耳の下で切りそろえられた、小柄な若い女であった。
その陽炎が庭に下りようと草履につま先を押し込み、白地に藍色で染め抜かれた牡丹の柄がひらりと揺れた。
「カナ様!」
陽炎があっ、と小さく声を上げ、慌てて主を呼ぶ。
寝所からでてきた主が、陽炎の姿をみて懐かしそうに微笑んだ。
「陽炎、久しぶりだねぇ」
主に頭を深くさげた陽炎は、遠慮がちに庭を指さす。
「おやシマ、お客さんかい?」
庭にはいつものような鳴き声を上げることなく、佇むシマがいた。その横には四十絡みの男が立っている。
無愛想な猫だが、客人が訪れて鳴かなかったことなど一度もない。
鳴いて主に知らせるのが、仏頂面したシマの仕事であるというのに。
主の姿を認めると、シマは音もなく草陰へと姿を消した。
「シマとは、誰のことだい?」
男が口をきく。
「シマはこの屋敷に居着いている猫ですよ。ちょいと前までその辺りにいたというのに、どこかへいってしまいました」
男は納得のいかない様子で首を傾げた。
「ここへ来るまでの間、誰かが手を引くように寄り添ってくれたんだ。そいつが道案内をしてくれた。辺りは暗くて何も見えやしなかったが、行く道の先だけほわっとあったかくてよ。猫じゃないよな。猫の道先案内なんて、聞いたこともねぇ」
男は飛脚の恰好をしていた。
左足が、膝の下まで赤黒く腫れ上がっている。
傷口から土の毒でも回ったのだろうか。
「おれは何処に来ちまったんだい? 仏さんの世界にしちゃあ、姉さんの声が色っぽいな」
訝しげにいう男は、自分の死を理解しているらしい。
「ここは辻堂と呼ばれる旅籠。あなたが進むべき道を、照らし示す場所にございますよ」
へえ、と男は頷いた。
「ずいぶんと彷徨われたのですか?」
「いやいや、俺は死んで間もないのさ。死んだのははっきりと覚えているが、その後がよくわからなくってよ。たぶん、昨日とか三日前とか、その辺りに死んだと思うんだが」
主はすいと目を細めた。
「お客さんですか?」
庭の話し声を聞きつけて、阿呆面の若造が顔をだす。
「はい。飛脚姿の男にございます」
主は視線で、男が立つ辺りを指し示す。
「ところで、あなた様は目が見えないのでは?」
「そうなんだ。足の先にちびっと付いた傷が悪かった。仲間は土の毒だっていっていたが、本当のところはわかりゃしねえよ。医者にかかる金もないから、長屋のかみさん連中が分けてくれる目刺しとか、漬け物とかを食って最後は命を繋いでいたのさ」
まだ傷む気がするのか、男は盛んに左の腿を手で撫でる。
「毒が回るのは早かった。仲間は走ってでるのが仕事だから、いつまでも俺を構っている暇はねぇ。死ぬのがわかっていて、一人で居るのは思うより寂しいもんだ」
「お一人で亡くなられたのですか?」
男の姿は見えなくとも、声だけは聞こえている若造が、己の事のように声を詰まらせきいた。
「ひとりじゃなかったぜ」
男がにっと笑う。
「どなたが看取ってくださったのです?」
主が問う。
「どなたかっていうほどの者じゃねぇよ。猫だよ。ふらりとやってきた野良猫が、どういうわけか、熱をだして呻っている俺の側に居着いちまった。まだうっすらと見えたこの目に映ったのは、暖炉裏の灰みたいな毛色の猫だったよ。まあ、本当のところは、おれに懐いたんじゃなくて、近所の婆が持ってきてくれる、魚の切れ端が目当てだったんだろうよ」
見えない目で遠くを見るように、男は空を仰ぐ。
「うれしかったぁ。あんなちっさい命でも、側に居てくれて嬉しかったのさ」
「少ししかない食料を、その猫に与えたのですか?」
驚いたように若造が声を上げる。
「どうせ死ぬのはわかってんだ。ちっさい目刺し一匹でも必ずわけた。おれが魚の頭の方半分で、あのチビがしっぽを食う。しっぽを食ったら、ミャーって鳴くんだ」
愛しい子供の顔でも思い浮かべたかのように、男の表情が優しく緩む。
「死ぬ何日か前、とうとう目が見えなくなった。それでもあいつは、おれの横でミャーって鳴くんだよ。あの鳴き声だけが、おれにとっちゃ今生の温もりだった」
男の話に、主は睫を伏せて優しく微笑む。
「その猫も、あなた様のことをきっと覚えているでしょうよ」
主の言葉に、男はへへへ、と笑う。
「どうかな、猫なんて気ままだしよぉ。なにせチビだったからな。あいつもやせ細っていたから、餌が食えなくなっていなけりゃいいが」
「ここへ来ていないのなら、まだ生きているのかも」
主がいうと、男は嬉しそうに何度も頷いた。
主は時折やさしい嘘を吐く。
知らなくても良いことが、この世にはあるのだと主はいう。
「そろそろ行くかな。どうせここには居られないんだろう?」
男は庭の隅に足を向ける。
「足に触れる、道しるべにそってお行きなさい」
「ありがとよ」
男は見えない目の代わりに、足先で行く道を確かめながらゆっくりと進む。
不意に男が振り返った。
「あいつやせっぽっちだったから、いつ死んじまうかわかんねぇ。もし見かけたら、力になってやってくれよ。灰と同じ毛色の、ちっさい猫だからよ」
そういい残して、男は暗がりへと姿を消した。
「あの男、本当に死んで間もないと信じていたようだねぇ」
主が首を傾げる。
「でもやさしい人でした」
のんべんだらりんとした若造の声に、この身が危うく震えるところだ。
「いくら優しいからといって、己が死んだ時を、百年以上違えるなど」
そこまでいって、主はシマが姿を消した草陰に目を向ける。
「妙なこともあったもんだねぇ。ねぇシマ? 聞いているのかい?」
「シマがどうかしましたか?」
「いいえ、どうもいたしませんよ」
そういって微笑むと、主は座敷に入っていった。
陽炎がこしらえた夕の善は、すっかり冷めてしまっている。
奥からでてきた陽炎が、庭先で七輪に目刺しをのせる。
目刺しをひっくり返す頃には、旨そうな匂いが庭全体に広がっていた。
「さあできた。シマ、好物のお魚よ。ここに置くから、冷めたらお食べね」
陽炎は目刺しを一匹皿にのせ、樫の板張りの廊下の端に置いた。
みなが冷えた膳を食べ終わるころ、ようやくシマが庭の隅から姿を現した。
小皿の目刺しをぺろりとひと舐めして、旨そうに齧り付いている。
部屋にいる者は、そんなシマを見て見ぬ振りをしていた。
今宵ばかりは武士の情けである。
まあ、武士ではないのだが。
悠然と尾を振りながら、シマが庭の闇へと帰っていった。
小皿の目刺しはきれに半分だけ尾の方が食われ、頭付きの半分が残されている。
ミャアー
庭の暗がりから、いつもとは違って甘いシマの鳴き声がひとつ響いた。