2 香りに惑い、溺れかけた女
わたしは鈴。チリンと鳴るただの鈴である。
そして、名を鈴という。
眠らずに朝を迎えた主の腰帯で、チリとも鳴かぬまま一夜を明かした。
男がその身を沈めた黒い小池も、今は朝日を受けてちらちらと水面を光らせ、その移り変わる様子を見ていたであろう主の心情は、鈴ごときのわたしに解るはずもない。
ひとつだけいえることは、今朝のわたしは不機嫌だ。
ちっ、わたしの心を乱す元凶が目を覚ましたらしい。
何があったかも知らず、主の心遣いも知らずに呆けて寝ていた若造め。
こいつが次期家主様だと? わたしは認めない。鈴の威信にかけて認めない。
「おや、お目覚めになられましたね」
壁に背を凭れ庭を眺めていた主が、ふすまを開けてのっそりと顔を出した若造を見やる。
「すみません、お酒を飲んだらすぐに寝ちゃったみたいで。少量で酔うことなど滅多にないのですが、疲れていたのかな」
主に薬を盛られたなど夢にも思っていなから、盛んに首を傾げている。
「ゆるりと休まれたのなら、それが何よりでございます。そういえば、名前をお聞きしていませんでしたね。わたしはカナと申します」
「小野田悟です。カナさんとお呼びしても?」
にこりと主は頷いた。
「悟様のお好きなように呼んで下さいまし」
「あ、いや、悟様はちょっと」
「残念ながら悟様という呼び方だけは譲れません。歴代の大屋様も、同じように呼ばせていただきましたから」
「はぁ」
こいつに様づけなど、主は甘い。寝癖で渦巻いた頭の若造に様づけするくらいなら、ドブネズミをドブ様と呼んだ方がまだましだ。
「カナさんは早起きですね。まだ日が昇ってそれほど経っていないでしょう?」
「わたしが眠るのは、もう少ししてからのことでございます。日が昇ったら眠り、日が沈む前に目覚める。そんな毎日を送っております」
「昼間は寝ているということですか? あぁ、夜に働いているとか?」
若造の頭に浮かんだことなど、開かれた文を見るより明らかだ。
夜に起きていて、美しい女性ができる商売など決まっている。まったくもって、浅ましい思考しか持ち合わせていないらしい。
「いいえ。この様に廊下に座って庭を眺めたり、閉めたふすまの奥で揺れる蝋燭の灯りを、楽しんでいることの方がおおございます。けれども、時折とはいえ、この屋敷がわたしを必要とするのも、また夜なのでございますよ」
「屋敷が必要とする?」
「はい。ここを訪れる客人は、宵闇と共にここを訪れるのが常。わたしが眠っていたのでは、お相手をする者がいなくなってしまいますから」
「なるほど。今宵は客人が訪れる予定はあるのですか?」
「どうでしょうか。でもその客人と会わなくては、悟様はここの大家様になられるかどうかを決めることはできません。しばらく、ここに居られては?」
突然の申しでに戸惑ったのか、空中で溺れた金魚のようにぱくぱくと口を動かしている。
「もちろん大屋様になられるかは、悟様次第。お忙しいのであれば、今日のところは帰られて、後日また来られてもよろしいのですよ。悟様が大屋様になることをはっきりと辞退されない限り、この場所はここに在り続けるでしょうから」
そうだ、辞退しないかぎりは辻堂はここに在り続ける。
そして大屋様としてここを認める者が居ない限り、この庭は目に見えぬほどに僅かではあるが、その範囲を狭めていく。
大屋様が不在でる時期が長ければ長いほど、主が自由に歩ける少なき場所が失われていく。
「ここにしばらく置いて下さい。父が何を思い何をしようとしていたのか、この目で確かめたいと思います。そして今回の滞在中に、結論をだします。それでよろしいでしょうか?」
穏やかに主が頷く。
「ここをどうなさるかは、悟様次第。わたしは、ただの店子にございますから」
「店子とはずいぶんと古めかしい言い方ですね。カナさんと話していると、まるで江戸の町並みが見えるような気さえします」
少年の色を残したままの笑顔で、若造は笑った。
「ところで父は、こんな古い屋敷を貸して、家賃を取っていたのですか?」
「いいえ、先代は一度も金子をお取りにはなりませんでした」
驚いたのか感心したのかわからない表情で、若造が目を見開く。
「あの強突張りが珍しいことを。どうしてでしょう」
主が口を付けると、湯呑みの中で茶の深い緑が揺れる。
「その答えを、悟様はここでお知りになります」
「失礼ですが、父とはその……」
ふふふ、と主は忍び笑う。
「先代の色であったかのか、とお尋ねですか? 答えは否。それは無理というものでございます」
「そうですよね。あんな爺さんじゃ。でもそれならどうして?」
「器が大きいとは、先代のような御仁のことをいうのでしょう。同じ時代に生まれていたなら、きっと惚れていました」
「はははっ、まぁ、歳のいった爺さんじゃね」
チリン チリリン
わたしの音に気付いて、主が庭へと目を向ける。
「おや、シマじゃないか。魚の匂いに惹かれてきたのかい?」
男のいる場所を避けるようにぐるりと回り、シマは主の膝の上に収まった。
「飼っているのですか?」
「いいえ、人に飼われるような猫ではありませんから。この子が勝手に、ここに居着いているでございますよ」
魚の尾をもらって大人しく主の膝の上で蹲るシマは、それでも視線を若造から離そうとはしない。
青みがかった灰色の毛を纏うシマは、いつ見ても愛想の無い猫だ。
リンとミャーでは会話にもならないが、不思議と胸の内は手に取るようにわかる。
生意気なこの猫は、今まさに若造の値踏みをしている。
「昨夜のお約束、この子も例外ではありません」
「猫にも触れてはいけませんか?」
「この子はわたし以外の者に触れられることを、極端に嫌います。わたしの他にもこの子を抱ける者が、二人ほどはおりますが。この子が自ら寄ってこない限り、触れないでやってくださいませ」
「なるほど」
合点がいったように、若造は頷いた。
シマが主の膝から庭へと飛び降り、草陰のむこうへ姿を消した。
「シマがいってしまったねぇ。さてわたしも休むとしようか」
主は若造に丁寧に頭を下げ、寝屋へと歩みを進める。
今宵には何かが動くだろうか。
もろく崩れるのは若造の神経か、それを目にするであろう主の心か。
わたしは鈴。
眠りにつかれる主の傍ら、日が落ちるまで見守ろう。
何にせよ、闇が満ちるまでは何も起こりはしないのだから。
夕の膳が並べられた頃、木陰の闇からシマが姿を現した。
「今夜の膳にお魚はないよ?」
からかう主を一瞥して、シマは庭の隅へと姿を消した。みなが食べ終わろうかという頃に再び姿を現し、尾を立てると主の横にぴんと立つ。
その様子を見ていた主は、毛を逆立てそうに背を張った、シマの首筋を優しく撫でる。
「ご苦労だったね、シマ」
僅かに唇が動いただけの囁きだった。
「どうかしましたか?」
のんびり問う若造に、主は穏やかに首を振る。
「たいしたことはございません。ですが、客人があるやも」
「そうですか」
膳が下げられると、銚子一本分ほど酒を呑んでいた若造は、うつらうつらと船を漕ぎだした。
育ち盛りの小僧でもあるまいし、よくもこう眠れる。
一寸先も見えないとはよくいったものだ。
厚い雲に月の光を奪われた庭は、樫の板張りの廊下を一歩離れたなら、目前の葉の一枚さえ見えない闇に包まれている。
客間で眠っていた若造がもぞもぞと布団を抜け出し、廊下にでた気配がした。
灯りひとつ無い居間に腰をおろし、主もそれを感じている。
樫の板張りの廊下を、ぺたりぺたりと歩く音が小さく響く。
「驚いた、シマかい?」
燭台を手に歩いていた若造は、厠の戸口の前で尾を立てるシマの姿に驚いていた。
「そこに用があるから、ちょっとだけ避けてくれないかな?」
シマの三角に立った耳の片方がひくりと動いて、面倒臭さそうにその場を退いた。
「わるいな」
躾のいい猫を褒めるように、若造は腰を屈めてそういった。
シマが動いたのは、この若造の声に反応したからではないというのに。
厠の戸口に形ばかりに付けられた、長四角な出っ張りを引いて戸を開けかけた。
「そのまま動かれますな」
柔らかな、けれども有無を言わせぬ主の言葉に、若造の動きが止まる。
主は大人しく動きを固めたままの若造の顔に、己が顔をすいと近づけ、あと少しで唇が触れそうな距離から、ふう、と瞼と耳に息を吹きかけた。
何事かと瞬きをくり返すばかりの若造から、ほんの少し距離を取って主が立つ。
「悟様、済みましたからご自由にどうぞ」
若造ははぁ、と返事か溜息かわからぬ声を漏らす。
「これはいったい、どのような趣向なのですか?」
若造が困り顔で厠へ向き直るのと、時を同じくして主が声をかける。
「そのような趣向にございます」
厠の戸口に手をかけようとした若造の動きが寸の間止まり、次の瞬間ぎゃっと悲鳴を上げて飛び退いた。
蠢く白い腕が突き出ているのは、厠の戸口のその内側からであった。
「お止めよ、この方はおまえが求める者ではないのだから」
主の声にも、厠から伸びる細く白い指先は、空を搔いてそこにない何かを求めているようだった。
「好いた男の香りまで忘れたわけではあるまいに。似た年頃の男というだけ。この方の香りに惑ってはいけないよ」
筋が浮きでるほど伸ばし開かれた指先が震え、力なくだらりと下がった。
「いい子だねぇ」
腰を抜かしたまま震える腕を伸ばし、がくがくとわななく顎を止めることもできずに厠を指さしたのは、情けない若造。
「そ、それは何ですか!」
「若いおなごの腕にございます」
若造から見えぬ側へと顔をそむけた主の表情は、長い睫を伏せて泣き出しそうな幼子に似ていた。
「おなごとは、いつの時も損な道しか選ばぬな」
ぴくりと跳ねた細い指先を、主は己の手の平でそっと包む。
「悟様、この者は死人にございます。死人の魂とでも申しましょうか」
主の手に包まれてなお、厠からの覗く腕は肘から少し上を見せたまま、だらりと垂れ下がっている。
「魂とは、見えるものなのですか? ゆ、幽霊というやつですか?」
裏返った声で必死に話す若造に、主は言葉なく頷く。
――どこにおられるのか。
厠の中から、やっと聞き取れるほどにか細い声が響く。
「ひぃぃっ! しゃべったのですか? 心がまだ残っていると?」
「悟様、心を持つが故のなれの果てにございます。心を失えたなら、死してこれほどまで己を追い詰める者などおりますまい。ですから悟様。この者達を幽霊とは呼んでやらずにいてくださいまし。魂なのでございます。苦しんで道を見失った、寂しい心なのでございます」
わかってかわからずか、若造はかくかくと首を縦に振る。
「シマも心配おしでないよ。この子なら、大丈夫だから」
毛を逆立て主の側から離れなかったシマは、その言葉を聞くと静かに廊下の隅へ身を引き、ぴんと立てた耳から力を抜いて蹲る。
「誰を捜しておいでだね」
主が女に問う。
――共に手を取って死ねたなら、このようなことには。
「心中かい?」
――追っ手がわたしたちを川から引き上げた。
「二人とも息があったのだね? 心中し損なえば晒し者だろうに」
――三日間晒された。
「辛かったろう」
――その後、顔も知らぬ者達に襲われた。
「そうかい」
――惨かった。
白い腕の上の方から、たらりと一筋の血が流れ落ちる。
絶えることなくぽたりぽたりと落ちるどす黒い血は、樫の木板の廊下に付く前に、蝋燭の淡い光のなか、溶けるように消えていく。
「わたしが手を貸そう。闇の中から出ておいでな」
一滴、また一滴とこぼれ落ちる血の玉。
「惨めな思いをした女を数え上げたら、人生など幾つあっても足りぬもの。思いが伝わらないのは歯痒い。けれどね、忘れぬことと過ぎたことに溺れるのとでは訳が違うのだよ」
白い腕に線をなして流れる血の跡が、指先から霧となって消えていく。
「おまえはいい子だもの。その優しさを、今度は自分に向けておあげ。今のままではいけないよ」
指先が主の手の中から引き抜かれ、白い腕が闇へと戻っていく。
「行ってしまうのかい?」
白い指の先が、厠の闇に呑まれて消えた。
――戻ってまいります。必ずや、あなた様のもとに。
心なしか声が正気を帯びている。
落とすように微笑んだ主の表情は、何を思うものなのか。
「他人に心をかけほど、楽になったわけでもあるまいに」
――人とは醜怪なものにございますが、今宵は蕾も開く思いにございました。
後に残されたのは、蝋燭に照らされ揺れる主の影。差し出したままだった手を、主はするりと己の胸元へ引き寄せる。
若造はといえば、抜けた腰を廊下に張り付かせたまま、口を半開きに己の不甲斐なさを晒していた。
蹲っていたシマが、役目を終えたといわんばかりに欠伸をひとつすると、庭の暗がりへと紛れて消える。
チリチリン
どこか遠くへ思いを馳せたままの主の心を呼び戻すように、わたしは小さくひと鳴りした。
はっと瞬きした主の口から、浅い息が漏れる。
「おまえはやさしいねぇ」
冷たい指の先が、そっとわたしの身を撫でた。
優しさなど、いったい何の役に立とうか。
役立たずのこの身を恥じて、わたしはぎちりと身を固くした。
「悟様、厠へ用がおありだったのでは?」
「い、いや、しかし」
主は身をかがめ若造の顔を覗き込み、顔を寄せると瞼に息を吹きかける。
「これでもう、先ほどのような者が見えることはございません。勝手ながら、聞く力だけは残させていただきます。ご自分の耳でお聞きになり、その全てを留めて決めていただきとうございます」
「もう、今のような者は見えないと?」
「はい、さすがにそれは辛かろうと思いまして。ただ今宵だけ、一度だけ目にしていただく必要があったのでございます。口で言われても理解できぬ者が、この世には存在しているのだと」
竦んだまま、若造の視線がうろうろと宙を彷徨う。
「それとも、今宵限りでここを後にされますか?」
それは決して、主が口にしたくない言葉であろうに。
主はいつでも己の存在より、他人の気持ちを思う。
他人の気持ちを汲み取りすぎるあまりに、主にはいつまで経っても平安が訪れない。
「恐ろしいです。震えが止まりません」
横で膝を折る主が、睫を伏せる。
「それでも知りたいのです」
一度は伏せられた睫の隙間から、漆黒の瞳が覗く。
「あの強突張りの父が、ここで何を知り何をしようとしていたのか。カナさんに器が大きいとまでいわせる父の本性を、ぼくは知りたい」
若造はまだ震えの残る膝を折り、主に向かって居住まいを正す。
「人には各々に宿命があるというのが、父の口癖でした。ぼくにもそのようなものがあるかはわかりません。それでも、背負って生まれたモノがここにあるなら、それを見極めたい」
「ありがとうございます」
主は震える唇をきつく結んで、深々と頭を垂れる。
「ところでカナさん。お願いがあるのですが」
「なんでございましょう」
少し落ち着いたのか若造は、ぽりぽりと頭を掻いて恥ずかしそうに視線をそらす。
「使いたいのですが、今だけここで待っていていただけませんか?」
若造が指さしたのは、件の厠だった。
主は可笑しそうに肩を揺らし、唇を綻ばせる。
「おやすいご用にございます」
「いや、本当に情けないかぎりです」
情けない? そのような言葉で済ますのか? わたしであればこのような慙愧の至り、己を許せるものではない。悔いを千載に残すであろう。
そんなわたしの思いも知らずに、若造はへらへらと頭を下げながら、おぼつかない足取りで厠へと入っていった。
リ――ン
低く鳴るわたしを見て主が笑う。
「不満そうだねぇ。でもね、さすが先代が見込んだ男だと、わたしは思うのだよ」
いくら主の言葉でも同意しかねる。先代はまっこと侠気のある御方だった。それに比べて、あの若造は糞である。
鈍助、頓痴気、抜け作! 罵倒する言葉なら、一晩中でも続けられそうだ。
「いやいや、すみません」
阿呆面を晒して、若造が厠からでてきた。
「あとはゆっくりお休み下さいな。聞きたいことは山ほどおありでしょうが、今宵はどうかお休み下さい」
「はい、承知しました」
若造が寝屋へと戻っていく。
主は樫の板張りの廊下に腰をおろし、一人庭を眺める。
夜が白むまで、こうしておられるつもりだろうか。
いつの間にやら雲が晴れ、月の光が差している。
「おや、せっかく顔をだした月だというのに、霞がかかっているねぇ」
それならそれでいい。
わたしは鈴。主が居る傍ら、いつまでも寄り添うだけだ。