18 古傷を背負う者の行末は
昨夜遅くに主の腰帯へと戻されたわたしは、まんじりともせず一夜を過ごした。
野坊主が自ら口を開くなど夢にも思っていなかったから、逃げることも止めることもできずに耳に勝手に入ってきた昔語りは、わたしの身を凍らせた。
とうの昔に知っている話であった。
だが若造が耳にして良い話ではなかろう。少なくとも、大屋様と呼ばれる者以外が耳にして良い話ではない。
気落ちして主の為に明るく鳴ることさえできずにいたわたしは、寝所から出てきた若造を見て、いっそう身を固くした。
「悟様、今日はお早いお目覚めですこと。ゆるりと休まれましたか?」
主の問いにぼけらとした表情のまま、若造ははい、と頷いた。
すぐにへらへらとした笑いを張り付け、顔を洗いに井戸へと向かう。
「あと二日。悟様は、とうとうお心を固めるには至らなかったようだねぇ」
ない心臓が跳ね上がる。
主の言うとおり、若造がこの屋敷に留まれるのはあと二日。
次ぎにこの屋敷を訪れるには、一年の時を要する。
大屋となろうとする者が、定められた日数を過ぎて此処に留まれば、己の世界へ戻る道を見失う。
それは大屋様とて同じこと。
この屋敷に身を寄せられる日は、短い人生の中限られた日々と定められていた。
主はそのことを、若造に告げようとしているのであろう。
その言葉を皮切りに、若造が余計なことを主に話さぬことを祈るしかない。
主にとっては昨夜の出来事と感じられるほど、生々しいものであろうから。
それを話せば、陰膳の訳も話さねばなるまい。
主のことだ。若造に請われたなら、どれほど辛かろうと穏やかな笑みで語って聞かせるだろう。
微笑みの陰に血の涙を流しても、それを他人に悟らせはしない。
わたしの慕う主とは、そういう御方だ。
「カナさん、陽炎さんが白玉をこしらえるそうですよ」
わたしの心配をよそに、若造が嬉しそうに阿呆面をさげて戻って来る。
この若造の心には、昨夜の話は欠片も残っていないのであろうか。
「それは楽しみでございます。ところで悟様、言い忘れていたことがあるのでございますが」
主がいうと若造は、纏わり付く毛むくじゃらを器用に避けながら主の横に腰をおろす。
「いったいどのようなことでしょう」
「大屋様になられる方も、大屋様もこの辻堂に一度に留まれる期限は決められております。
悟様はあと二日残っておりますが、一度この辻堂からでたなら次ぎに此処を訪れる事ができるのは、一年後でございます」
若造が目を見開く。そしてすぐにぼんやりとした笑みを浮かべた。
「ここの大屋になることを決めるのは、来年でも良いということですか?」
穏やかな笑みで主は微笑みす。
「今度お会いするときには、お心を決めていただきますが、今回はこのままお帰り下さいませ。辻堂の在り方を知っていただいただけで、十分でございます」
そうですか、と若造が頷いた。
今年決められぬ者が来年に英断を下さるものかと、わたしは心中で舌をだす。
「では今日と明日は泊まらせていただき、明後日の夕暮れまでにはここを発ちます」
話の内容を知ってか知らずか、黒い毛むくじゃらがしゅんと項垂れた。
「悟様が居なくなられると、クロ助が寂しがりますねぇ。塞いで気の病にならなければ良いのですが」
若造が指先で黒い毛むくじゃらの体を撫でると、すねたようにぷいと横を向く。
「その者のことですが、こちらで引き取りにまいりました」
地を揺らすような、野太い声であった。
知らぬ声に、主と若造が振り返る。
辻堂を包む闇が去った朝日の中だというのに、庭に見知らぬ男が立っていた。
「昼日中にこの辻堂へ入る者は、厄介だと相場が決まっているんだがねぇ。いったいどのような用向きだい?」
深く被った笠で顔を覆われた男の顔は、無精髭の生えた口元しか見えなかった。
主の言葉に動じることなく、男は話の先を続ける。
「それはわたしがある方に売った者。珍しいからと高値で買われたのに、逃げましてな。どこで拾われたかは知りませんが、こちらに返していただきたい」
黒い毛むくじゃらが、若造の懐に身を滑り込ませる。
あの男を恐れているのだろうか。
「クロ助をいったい幾らで売ったというのです? 金なら払います。相手方より高値をだしましょう」
若造の表情が変わった。
口調さえ、耳にしたことのない色を含む。
残念ながら、と男は首を横に振った。
「信用が第一の商売。たとえどれだけの金子を積まれても、最初に売った方がお客様。こちらに売るわけにはまいりません」
口調こそ商売人の柔らかなそれだが、ぶれぬ芯を秘めている。
「悟様、事情がはっきりした今、クロ助を此処に置くのは無理でございます」
「カナさん!」
「クロ助を無理に留めたなら、悟様に害が及ぶでしょう。それを見過ごすわけにはまいりません。クロ助を助けたい気持ちは同じでございます。ですがこの世界、理に逆らうことはできないのでございますよ」
若造に害が及ぶという言葉に、黒い毛むくじゃらがぴくりと跳ねた。
止める若造の手の間を縫って、ぽとりと板張りの廊下にその身を落とす。
「クロ助?」
男の元へいこうとするクロ助を、主が白い指先で制す。
「理にはいつの時代も抜け道がございます。そのことを秘したまま、この屋敷から去るおつもりか?」
主の言葉に、笠の下で男の口がにやりと笑う。
「やっかいなことを知っていなさる。この辻堂へ逃げ込んだと噂で聞いたとき、嫌な予感がしたんでさぁ。姉さんのいうとおり、この取引には抜け道がある。何せ生き物を扱うわけだから、そこには少なからず意思がある」
くくく、と喉に籠もった笑いが耳をぞわりとさせた。
「クロ助を引き取れる方法があるのですか?」
若造が身を乗り出した。
「あっちの客人が用意した化け物とやり合って、勝てばそいつは自由の身だ。ただし、負けたときには情け容赦なく待っているのは死。まあ、こいつらがもともと生きているのかってぇと、それはちと疑問だが」
黒い毛むくじゃらの尊厳を無視した言葉に、眉を顰めて口を開こうとした若造を、首を振ってゆるりと主が止めに入る。
「どうするかはクロ助次第。その立ち会い、見えぬ所で行われるとはいえ、わたしが後見人となりましょう」
「あぁ、後見人としちゃあ、申し分ない。あちらさんに繋ぎをとって、さっそく始めるが良いのかな?」
主は黙って頷いた。
「カナさん、それではクロ助が……」
「悟様、わたしが後見人になったとはいえ、戦いを挑むか売られるかを決めるのはクロ助本人でございます。どちらにころんでも、クロ助の心が願うことでございます」
若造は悔しそうに唇を噛みしめた。
「クロ助、ここで待っているからね。腰を痛めて帰ってきたなら、今回は特別に最初から懐にいれてあげるよ。でもね、クロ助には痛い思いをして欲しくないな。死ぬなんて絶対に嫌だ。クロ助の好きにおしよ」
若造は泣いていた。
悲しみより、守ってやれぬ己の非力に滲む涙であろう。
さすがのわたしも、冷やかす気にはなれなかった。
黒い毛むくじゃらは嫌いだし邪魔くさいが、無残な死を望んだことなど一度もない。
このままずっと、この屋敷でうっとおしいほど陽炎の周りを跳ねて時を過ごすとばかり思っていた。
この感情はなんであろう。
胸が痛い。小針の山に座った様な痛みである。
わたしは、悔しいのだろうか。悲しいのだろうか。
「いくぞ」
笠を被った男が踵を返し、庭の向こうへ姿を消した。
「クロ助、ぼくは君を引き留めることも、守ることもできない。けれど、それでもやっぱり、クロ助を好きだと思ってしまうんだ。これは、ぼくの我が儘だ」
若造の指先が震えて、そっと黒い毛むくじゃらの背を撫でる。
身じろぎさえしなかった黒い頭をもたげ、黒い毛むくじゃらがきゅいっと体を傾げてみせる。
心配するな、まるでそう言っているようであった。
ぼん、という音と共に黒い巨体が現れた。
鋭い眼光を主と若造に向け、鋭い牙の生えそろった口を若造の耳元にそっと寄せた。
若造ははっとした表情をしたが、何かを問う間もなく黒い巨体は庭の向こうへ音を立てて姿を消した。
若造が片耳に己の手をあてる。
「悟様、どうかなさいましたか?」
「いいえ、クロ助の毛の感触を……懐かしんでいるだけです」
若造の顔に微笑みはない。
居間を仕切る障子の向こうから、すすり泣く陽炎の声だけが響いた。
夜もすっかり更けた頃、若造は風鈴を貸して欲しいと主に申し出た。
なるべく音の良い物をひとつ貸して欲しいのだと。
黒い毛むくじゃらが姿を消した静寂を、少しでも紛らわせたいのだと若造はいった。
「風鈴はいくつかございますが、これの涼やかな音がわたしは好きでございます」
そう言って主は、鈍色の風鈴を若造に渡した。
若造は小さく頭を下げて受け取ると、己の寝所の前、樫の板張りの廊下に備えられた引っかけに風鈴を釣るす。
りーーん
若造の指に弾かれて、深みのある音が庭の闇に余韻を残してひとつ響いた。
すぐに眠るつもりなのか、若造は寝所に入ると障子をぴたりと閉じた。
今宵は居間に陽炎の姿さえない。
一人残された主は、居間の壁に背を凭れ、半分開け放った障子の隙間から庭を眺めている。
「久しぶりだねぇ。夜の庭をもの悲しいと思うなど」
目を閉じた主の腰帯で、わたしは黙り込む。
あと二日も経ったなら、この様な夜が続くのだ。
黒い毛むくじゃらが居なくなり、若造も姿を消す。
何ということはない。
この屋敷本来の静けさを取り戻すだけのこと。それだけのこと。
りーーん
風に揺られて風鈴が鳴った。
わたしの意識がぐらりと揺らぐ。
主は目を閉じたまま動かない。
そうか、まさか若造がこの様な手を使うとは思いもしなかった。
この様な浅知恵、いったい誰に吹き込まれたというのか。
主の腰帯でぶら下がるわたしの意識は、風鈴の音に呼び寄せられ若造の寝所を覗いていた。障子に穴を開け、覗くように視界が開けていく。
若造の策から逃れられずに、寝所の壁には野坊主が姿を現していた。
「すみません。こうでもしないと、あなたとは会えないでしょう? もうぼくには日が残されていないから」
若造は見えぬ野坊主に頭を下げる。
「風鈴でわたしを呼び出すなど、誰に教えられた?」
呆れたように野坊主がいう。
「クロ助が、ぼくの耳に息を吹きかけたとき、風鈴の音とあなたの声が聞こえました。あなたと会う方法を、クロ助が知らせようとしているのだと思いました。クロ助が教えたということは、ぼくはあなたに会う必要があるはずだ」
若造の顔に、いつものへらりとした笑顔はない。
「何を聞きたいのだ?」
「似非坊主には語れぬといった真実を。上手くいえませんが、ぼくはそれを知らなくてはならないと思うのです。心の奥からふつふつと、知るべきだという思いが湧いてくる」
壁に模られた野坊主の眉が怪訝そうに寄った。
そして口の端が僅かに持ち上げられる。
「なるほどな、風鈴を使ってわたしを呼び出せるのは、カナだけだと思うていた。妙だとは思ったが、妙な者に全てを託すも悪くはないか」
しばしの沈黙のあと、野坊主が語り始めた。
語る野坊主のすぐ横に、厠に現れた女がすいと姿を現し、黙って若造に頭を下げる。
言葉を噛みしめるような、ゆっくりとした重い語りであった。
「目の前で、惚れた男が死んだのだよ」
言葉を解さぬ虫の音が、涼やかに庭に響く。
「大店の娘だったカナが惚れたのは、寺子屋で筆指南を手伝う男だった。浪人者なのは見た目にも明らかで、だが物腰の柔らかい男だった。時折習い事の帰りにすれ違い、ひと言二言、言葉を交わしたのが出会いだった。その日暮らしに子供に読み書きを教える男に、娘をくれてやる大棚の主人などあるものではない。だがカナは、添い遂げようなどとは思っていなかった。時折言葉を交わすだけで良かったのだ。己の恋心を押し通せば、相手に迷惑がかかるのは百も承知。だから、そっと見ているつもりであった。あったのに……」
野坊主の眉根がぐいと寄る。
「父である大店の主人にことが知れてしまった。ろくな職に就かぬ浪人が、娘に色目を使っているという噂が事のはじまりだった。大切な一人娘を守ろうとしたのだろうが、やりすぎたのだよ。一線を越えてしまった。浪人の男とて、己の身分はわきまえている。どれ程胸が騒いでも、大店の娘と添えるわけがない。浪人の男も、時折交わす会話でよかったのだ。すれ違う寸の間にだけ見せてくれる、笑顔ひとつで十分だった」
「お父様が、動いてしまったのですね」
女の言葉に、野坊主が頷く。
「裏の者を雇って、男を川に沈めようとした。だが、間が悪かった。習い事で遅くなったカナが、その場を通りかかった」
顔を覆っていた女の指の間から、嗚咽が漏れる。
「聞き覚えのある声に、カナは川べりに走りよった。依頼主の大切な娘を死なすわけにはいかないと、溺れかけた男に手を伸ばすカナを、男二人が羽交い絞めにした。カナの目の前で、男は川の流れに沈んでいった」
「カナさんのせいではないのに、なぜそこまでその男の死に拘るのでしょう」
「溺れる男は死を間近にした者の形相で、カナに言葉を吐いたのだそうだ」
――死んで鬼となっても、決して忘れるものか。
父親が手を下したことに感づいて、男は自分を恨みながら死んでいった、とカナはいう。
鬼となって彷徨うているなら、闇から救いたいと。
「その男のために、カナさんはあなたの手によって斬られる道を選んだと」
若造の視線をまっすぐに受けて野坊主が頷く。
「カナさんのなかに残るのは、その男への侘びの想いだけでしょうか。それともまだ、その男のことを好いているのでしょうか」
呟くような若造の声に答えたのは女であった。
「カナ様が贖罪の思いだけで、今に至るとは思えません。そうでなければ、カナ様が選ばれた道には何の救いもございません」
女の目じりから、涙が落ちる。
「それはカナさんの行先に、望みがないということですか?」
言葉と共に、若造の口から深いため息が漏れる。
「この辻堂で彷徨う者を一人助けるたび、カナ様が自由に歩いてゆける場所は狭まっているのです。いつの日かこの辻堂から庭へ出ることも叶わなくなり、やがては空間がカナ様を押しつぶすでしょう」
聞いていた若造の目が、裂けんばかりに見開かれる。
「それがこの辻堂の主に及ぶ理なのだ。カナは知っていてわたしに斬られた」
じっと耳を傾けていたわたしは、聞いているのさえ辛くなってきた。
たとえ承知のことであっても、言葉で語られるとその事実が重く圧し掛かる。
だがわたしは聞き届けなければならない。
主の代わりに、聞き届けなければならない。
「父はそのことを知っていたのでしょうか」
「先代をはじめ、歴代の大家は全員承知のこと。先代は家族をないがしろにしたわけではない。一人で過ごすカナを不憫に思うて、ここへ足を運んでいたのだよ」
そうでしたか、若造がいう。
「ここへ戻るとカナ様に大見得を切りましたが、わたしの得られる情報など所詮知れたもの。どうしたならカナ様を救えるのか、手立ては見つかりませんでした。恥ずかしくて、カナ様の前に姿を見せることさえできません」
女がいう。
「カナは、そのようなこと気にする女ではない。おまえは、よくやった」
女のすすり泣く声だけが、畳に染みていく。
「カナさんを救うには、どうしたら良いのでしょう」
「どうにもできぬ。探す男を闇から見つけ出し、救う意外に道は無い」
淡々とした野坊主の声に、若造は僅かに俯いた。
「もし見つかったなら、カナさんはどうなりますか?」
「この旅籠を去る日を己で定め、魂を休めることができよう」
若造はしばし考え込むように顎を撫でる。
「男が見つかったとして、その男の魂と共に成仏できるということですか?」
「浮世の言葉で言うなら、そうであろうな」
睫を伏せて眉根を寄せていた聡が、鋭く宙を睨む。
「その男、闇を彷徨っていなければどうなりましょうか」
野坊主が訝しげに首を傾げる。
若造の間抜け面の中、寸の間眼光が鋭く光る。
庭の虫の音が、煩く響く。
涙に濡れた頬を袖でふき、女が顔を上げた。
「仮にそのようなことがあったなら、わたしにもできることがございます」
死人の眼に光が宿る。
壁に模られた、門禅の僧の口の端が僅かに上がった。
人と呼ばれるべきただ一人の男は、宙を睨んだまま動かない。
その三人の全てを視界に入れるわたしの身は芯から痺れ、己が鈴であることを寸の間忘れるほどだった。
最後に口を開いたのは野坊主だった。
「カナが写真のことを口にしないのは、その記憶を己で封じ込めたからだ。なぜだと問うても、カナは笑って本当のことは口にしなかった。ただ一言、気まぐれですよ、そういっていた」
若造に対する野坊主の態度が先代へのものと違っていたのは、このためか?
若造と先代では同じ大家でも、負うべき物の重さが違うと?
話の先に耳を済ましていたわたしが、その先を知ることはなかった。
誰一人口を利かぬまま、野坊主が姿を消し、女も霧のように消えた。
残された阿呆は石になったかと思うほど、微動だにしなかった。