16 庭の水面に珠に舞い
日照りが続いて、すっかり庭の土が乾いてた。
一度は枯れて青葉を取り戻した庭の葉も、心なししんなりと頭を垂れている。
鈴であるわたしは金物であるゆえに、かえって心地よい空気の乾きであった。
今日は早めに夕の善が並べられ、日照りの暑い日々が続いているからと、陽炎が番茶で焚いた飯に濃い目のだし汁を冷ましてかけたものをのせていた。
「あっさりして美味しいですね」
若造がどんぶりに口を付け、かき込むように食べている。
味と共に涼を味わう品だというのに、まったく風情のない奴である。
「今日は団子を作ってみましたよ。膳をお下げしたら、お酒と一緒に持ってまいりますね」
陽炎がくりりと目を回し、嬉しそうな顔で奥へと引っ込んでいく。
団子の出来が良かったのであろうか。
それにしても団子と酒の取り合わせもどうかと思う。全をそつなくこなす陽炎であったが、酒の肴に関しては時折ちぐはぐな品を取り合わせる。
まあ良いか。べつにわたしが食すわけではない。
「団子ですか、ゆっくり酒を呑みながら過ごせる夜になるといいですね」
「そうですねぇ、陽炎がせっかく作ったお団子が、堅くなっては勿体のうございます」
日が落ちて薄闇に包まれた庭を眺めながら主も微笑む。
いつもより早めに酒を運んだ陽炎は、草色と白と薄紅色に染められた小さな丸い団子を、白い鉢に盛って主と若造の間に置いた。
「草色に染まっているのは、ヨモギを練り込んだものでございます。ヨモギの保存は……内緒にございます」
悪戯っぽく口元を袖で隠し、陽炎が奥へと戻っていく。
「今宵は陽炎を酔わせて、ヨモギの保存の仕方を話させましょうかねぇ? 大層な秘伝がでてくるやもしれないでございましょう?」
まったく陽炎が自ら秘密だなどと口にするのは珍しい。
主がからかいたくなるのも解るというものだ。
「クロ助、美味しいかい?」
団子の色合いの美しさを愛でていた、わたしの風流はその一言で吹き飛んだ。
黒い毛むくじゃらが、若造の方にこくこくと何度も頷いている。
毛を掃き集めたような黒い塊の前には、指先で丸められたであろう小さな団子が、笹舟の上にちょこりと数個載せられていた。
陽炎め、余計な気遣いを。
どこが口なのかわからない、毛むくじゃらの黒い毛の隙間から吸い込むように、ひとつまたひとつと小さな団子が減っていく。
出されても食せないことなど百も承知だが、面白くない。
黒い毛むくじゃらが喜ぶなら、庭の虫一匹でも勿体ない。
ミャー
庭でシマが鳴く。
庭の葉陰から姿を現したシマは、悠然とした足取りでこっちへ来ると、主の座る樫の板張りの廊下にひょいと飛び乗った。
いつもであればひと声鳴いて姿を見せ、そのまま庭の暗がりへ姿を消すというのに、今宵に限ってどうしたというのだろう。
シマに限って、団子が目当てということもないだろうに。
「まだひとつしか食べていないというのに、お客さんのようだねぇ」
主の口から、小さく溜息が漏れる。
シマの鳴き声にはっとした表情をみせた若造だったが、団子の旨さには勝てなかったようで、次々と口に放り込んではもくりもくりと口を動かしていた。
「これはまた……」
樫の板張りの廊下に腰かけ、庭にゆらりと足をおろしていた主が、すいと目を細めゆっくりと己の足を庭から引き上げた。
「どうかしましたか?」
口の中に団子をためたまま、見えぬ若造はきょとりとした風にいった。
「同じ光景を目にしたのは、いったどれほど前のことやら。はっきりと覚えていないほど、珍しい光景でございます」
夜闇に包まれた庭の奥から、青白い灯りがぼんやりと向かってくる。
その灯りが庭の中程を薄く照らし出した頃、青白い灯りの中かからさらさらと流れ出てきたのは水であった。
檜の風呂の湯が溢れるようにさらさらと水が広がり、日照りで乾ききった庭の土を覆っていく。
「悟様、ほどなくして庭は、ちょっとした湖になりそうでございます」
木々の生えた湖であった。湖面の下では庭の草花が水に揺れている。
普通の水ではないのだろう。
水気を嫌う金物のこの身がチクリともしない、はて面妖な。
樫の板張りの廊下の上に逃げ込んだとはいえ、わたしの次ぎに水気を嫌うシマでさえ、なぜかのんびり片手を舐めて、その横に顎を落として目を閉じた。
「屋敷は大丈夫なのですか? まさか水没するなど」
団子を食う手を休めやっと焦りの表情を浮かべた若造に、主はやんわりと首を振る。
「その心配はございません。ただ、この湖の主がいったい何者を連れてくるのか、それが気にかかっているだけにございます。知らぬ同士ではございませんが、滅多なことでここへ立ち寄ることをしない者なのでございます」
青白い灯りがぶわりと広がり、灯りの只中を抜けて姿を現した者が居た。
その者が手にする櫂で、凪いでいた湖面に波紋が走る。
船先から姿を見せたのは、船首をイノシシの牙の様に反らせた造りの猪牙船であった。
見覚えのある船頭が一人乗っていた。右に左にと必死に櫂を漕いでいるようだが、その表情は険しい。
「おやおや、妙な者を引き連れてきたようだねぇ」
主の言葉より早く、わたしは押し寄せるそれらの者に目を奪われていた。
透明な紅い玉が無数に押し寄せ、庭の湖面を埋め尽くす。
目を懲らすと紅い玉は己が意思で湖面を渦巻き、猪牙船を押し動かしているようであった。
「すまねえ。ここへ来るつもりなんざ更々なかったんだ。いつものように闇の中を猪牙船で流していたら、わらわらとこいつらが押し寄せてよ。後はいくら櫂に力を込めても舵取りのかの字もありゃしねぇ。」
お手上げだ、と男は小さな猪牙船の上にどんと座った。
胸に紐の付かない黒い半纏をざっと脱ぎ捨て、額に巻いた手ぬぐいを乱暴に抜き取り首の汗を拭う。
男が舵取りを放棄したことを見て取ったのか、渦巻いていた紅い珠がすっと船から離れていく。
「その様子だと、かなり意地を張って小舟の行き先を操ろうとしたのだろう? かまいやしないよ」
「誰か庭にいるのですか?」
若造の目に映っているのは、未だに乾いた夜闇に閉ざされた庭であろう。聞こえてくる声だけが、若造にこの庭への来客を告げている。
「浮き世とあの世の道が交わるといわれる、この辻堂に来るまでの闇にも、色々な者が己の役目を果たしております。いま目の前にいる男もその一人。名は宇木次と申します。古の時から闇の中を猪牙船で渡っては、沈んでいる魂を拾い上げてきた男でございます」
ほう、と若造が感心したように相づちを打つ。
「屋敷の庭はこの世のものではない水に満たされ、湖となっておりますが、猪牙船を押してここまで来た者達は、紅い透明な珠となって水面の漂っております。濁った朱は怨念に染まった無念を示すことがおおございますが、透明な紅い色はただひたすらの無念にございましょう。何を思い残すことがあったのやら」
ひたすらの無念と主は言うが、無数の紅い珠がわらわらと漂う様は、浮いた血の玉を思わせ快いとはいえなかった。
「こいつらに、ものを言う力なんざ残っちゃいないと思うぜ。暗い水の底から藁に縋るように一斉に湧いてきやがった。それからおれの船を押して、ここまで来たのが精一杯だろうよ。どんな死に方をしたのか知らんが、供養されることなく沈んでいた魂だ」
薄く紅を引いた唇に指を這わせ、揺れる水面を眺めていた主は振り返ると手をひとつ叩いて陽炎を呼んだ。
「陽炎、すまないがどんぶりに山盛りの炊いた米を持ってきておくれよ。それとお酒も新しいものを小樽ごと持ってきておくれ。もし残っているなら、団子もありったけ皿にもっておくれでないかい?」
はい、とひとつ頷いて、陽炎は足早に奥へと向かった。
「酒の樽は、ぼくが運びます。陽炎さんには重いでしょうから」
急いで若造が立ち上がると、それについて黒い毛むくじゃらも跳ねながら奥へと姿を消した。
「宇木次も船をこっちに寄せておくれ。この屋敷からでようとするのでなければ、この者達もは舵取りの邪魔などしないだろうさ」
ちぇ、と舌を鳴らしながらも、宇木次は大人しく主の言葉に従った。
主は居間に置かれた小さな踏み台で墨をすり、一枚の和紙を取りだし筆で文字をしたためる。
霊符の一種であろうか。わたしなどに読み解ける文字ではなかった。
書き上げた和紙を作法道通りに丁寧に折りたたみ、主は樫の板張りの廊下へと戻っていく。
「まずはお前達の話を聞かせて貰わないことにはねぇ」
その言葉の真意を探ってか、水面の紅い玉がざわめき揺れた。
「カナ様、用意がととのいました」
陽炎が山盛りの飯と、これまた山盛りの団子を手に戻ってきた。
少し遅れてへっぴり腰で小樽を抱えた若造がやってくる。
黒い毛むくじゃらは、ちゃっかりその肩に乗ってだらりと身を休ませていた。
「カナさん、これは、こ、ここに置いても?」
「はい、お願いいたします」
陽炎が先に置いた団子の横に、若造は太ももを震わせながらゆっくりと小樽を置く。
威勢良く手伝いを申し出たわりに、とんだ軟弱者である。
膝を正し主が庭へと向き直る。
「この霊符が、おまえさん達の慰めになると良いのだが」
書き上げたばかりの霊府を指の根に挟み、主は音を立てて両手の平を打ち合わせた。
一拍、二拍、水面を吹き抜ける風が、失望に淀んだ空気を押し流す。
水面に揺れる紅い玉が泡の様に弾けてひとつ、またひとつと消えていく。
奥行きが完全に現実と解離したものとなった庭に、大勢の姿が浮かんで揺れる。
まるで夢をみているような、何とも言えぬ曖昧な風景であった。
徐々に人の姿が色づくと、それは無残な姿の者ばかり。
男はみな一様にぼろの野良着に身を包み、女達も色も華もない煤けた様子であった。
骨のようにやせ細った者ばかりだ。
子供の姿も見てとれる。子供もみな。やせて肋が浮いている。
「今宵は少ないながら、こちらを供えさせていただこうかと。召し上がりなされ」
主は山盛りの飯と酒と団子を指先で示し、息を吹きかけ霊符を湖面にはらりと落とす。
湖面に立つ人々の表情が変わった。
目を見開く者、涙を流す者、最初こそそれぞれの反応であったが、しばしの時を経て全員が瞼を閉じ、ゆっくりと息を吸い込み始めた。
「カナさん、いったい何をされたのですか?」
穏やかな表情で振り向いた主は、若造をみてにこりと笑う。
「この者達はおそらく、飢えて死んだ者がほとんどでございましょう。村が全滅したなら、逝った者が供養されることもありますまい。飢えたまま、その辛さを抱えたまま黄泉の水底で蹲っていた魂ゆえ、食べ物の気を吸い込んだなら、話す気力も湧くはずでございます」
「そういうものですか」
見えているわけもなく実感の湧かない若造は、不思議そうに小首を傾げる。
庭の光景が目に見えて変わっていった。
肉のそげ落ちた頬に色味が戻り、飛び出たほお骨を隠すほどに肉付きがよくなる。
己の重さに耐えかねて、震えるほど細っていた足にも力が戻った。
脱力して立ち尽くすだけだった人々の表情に、ぽつりぽつりと笑顔が浮かぶ。
「霊符が供物をこの者達に、きちりと届けたようでございます」
主の美しい顔で、形の良い唇が花のように綻んだ。
宇木次もほぉ、と感嘆の息を漏らしている。
「話せる者は前へでておくれよ」
主の声に、一人の老人がおずおずと前へでた。
「これほど大勢の者が一度に訪れるなど珍しいが、いったい何があったんだい?」
接ぎだらけの野良着を着込んだ老人は、主に深々と頭を下げた。
「わしらは山深くに里を切り開き、それでも目立たぬように幾つかの村に別れて暮らしておった。御上の目が届かぬ辺境に里を築いたのはわしらの先祖だったが、あの頃にはもう、隠れ里の意味はなく、ただ山奥に隣り合わせて点在する村じゃった」
「ほう、隠れ里とは。それで納得がいく。野山と共に過ごすだけの者にしては、雰囲気がちと違う気がしていたのだよ。山に潜んでも、途絶えることなく町人以上の知恵と知識を受け継いでこられたのであろう?」
少し驚いたように、老人は頷いた。
「豊かな土地で男は畑を、女は畑と同時に布を織り染めるのを得意としておった。鮮やかに布を染め抜く技術と知恵は、村の女達だけものであったから、染めの技術の見事さから、町の者に目を付けられることのないよう、ありふれた染め物だけを遠い町に時折売って、それで生きるのに最低必要な金子を稼いでおった」
「そのように豊かな村に住んでいたのに、なぜこの様な惨状に?」
昔を思い出したのか、老人が眉間に深く皺を刻む。
「日照り続きでな。作物は枯れ、枯れずに残ったものも日照りが引き起こす病気で秋を待つことなく畑全体が死んでいった。いくら豊かな土地とはいえ、三年そのような年が続けば食料も尽きる。あと一年と立ち上がろうにも食い物もない中、腹下しと熱でみな命を落とした。その年の正月を越せなんだ」
死んだ状況がそれなら、みな骨と皮だったことに納得がいく。
これだけの村を一度に壊滅させた飢饉なら、この者達が知らぬ外の世界の村では、一揆が起きていてもおかしくはない。
己の食い扶持を政に取り上げられることなく密かに暮らしていた者達にとって、豊かであることも貧困に落ちるも己の責任であるから、責める先さえなかったであろう。
「少なからず満たされて、先へ進めそうな気持ちになられましたか?」
主の言葉は穏やかで、相手の想いを汲み取るに留まる。
老人は静かに首を振る。
「確かに無念ではあったが、わしらが飢餓の苦しみを抱いたまま水底に沈んでいたのは、決して満たされなかった腹の為ではないのだ。正月を越せなかった、それが死ぬ以上に心残りだった者達が、ここに集うている」
「正月、でございますか?」
「閉ざされた山間で生きてきたわしらは、田舞も独特のものを作り上げていたらしい。外との繋ぎをとる者がいっておった。この辺りの村の田舞は見事だと。色とりどりの布を身につけ、隣り合う村だというのに、衣装も唄も囃子も違うと。その田舞を一番の楽しみとしていたわしらが、最後にもう一度田舞を舞い踊れなかったのは、ひたすらの無念だった」
「まさか田舞をやりたくて、おれの猪牙船を無理矢理押して此処まできたのか?」
呆れたように宇木次がいう。
「申し訳ない。だが水底で流れる噂では、辻堂への道を知っているのは時折通る猪牙船だけだと聞いていた。暗い水底では女達の染め抜いた布も見えんし、囃子の音も響かん」
「浮き世の明かりが差すこの庭で、最後の田舞を行いたかったのですねぇ」
老人が深々と頭を下げると、後ろに控える村人達も一斉に頭を垂れた。
「陽炎や、わたし達のお酒も少し多めに足しておくれ。二度とは見られぬ最後の祭りなら、祭りらしく楽しませてもらおうよ」
老人の目に涙が浮いた。
にこりと頷き、陽炎が仕度をしに奥へと戻る。
「カナさん、田舞とは田植え祭りのようなものですか?」
「そうでございます。悟様は馴染みがないでしょうが、昔は正月に豊年を祈願して里独自の祭りが行われておりました。田植え作業の動きを模して踊った田植え踊り、田舞はそれに似てはおりますが、もう少し洗練されております。里の独自性も強く、後に田楽に進化していったといわれておりますよ」
へぇ、無知な若造はひたすら感心したように頷いた。
酒の用意がととのうと、どこからともなくバチで叩いた太鼓の音が響いた。
わたしは目を見張った。
庭の水面の立つ人々の姿が揺らいだかと思うと、ぼろの野良着を纏っていた村人達は色鮮やかな祭りを身に纏っていた。
村ごとに衣装も違うのであろう。
紅と瑠璃色の長い布を頭に巻いた男衆が、腹に太鼓を横に結わえ両手にバチを持っている。頭に笠を被る者、腰から色とりどりの布を下げる者。
田舞と知らなければ、田舎臭さを感じさせるものは何一つない。
「女性の衣装の美しいこと。まるで異国の者が宮中に舞を奉納する雅やかさだねぇ」
同じ衣装を身に纏った者達が前へと集まる。
老婆の唄と笛の音に合わせ、輪になって踊る村人が腰に結わえた太鼓を両手のバチでタンと叩く。
美しい衣装に素朴な舞が不思議な風情を醸し出す。
「こりゃ、なかなかいいもんを拝めたな」
船の上で揺られながら、宇木次が酒を呑んでいる。
主さえ見とれる舞を目にすることのできない若造は、聞こえてく唄と囃子だけを酒の肴に、楽しげに身を揺らしていた。
目を盗んでは若造の酒を舐めている黒い毛むくじゃらも、すっかり楽しそうに右に左にと跳ねている。
「いい踊りだねぇ。祭りだもの、あの世への土産は楽しんであげることだろうよ」
主は呟き盃を口へと運ぶ。
踊りの輪はかけ声を最後に姿を消した。
まるで手妻を見ている様であった。
控えていた次の村が舞い始める。
幼き者達が田植えのまねごとを踊って見せ、それを道化役の者が戯けた調子で励ましている。
その中に女性が混ざり、一気に場が色づいていく。
最後となった村の踊りが終盤に差し掛かると、宇木次は櫂を手に廊下の端をとんと付いて水面へ船を滑らせた。
「お先に」
そういうと器用に櫂を操り、庭の木々の間を抜け奥の闇へと姿を消した。
一斉に打ち鳴らされた太鼓の音。
バチを高く頭上に掲げた村人の表情には、豊かな笑みが浮かんでいる。
村人の姿が消えていく。
潮が引くように、庭を満たしていた水が奥の闇へと吸い込まれていく。
「いい夜だったねぇ」
天を仰いで主は目を閉じた。
揺れる水面は姿を消し、後には乾いた庭の土だけが残っていた。
欠伸をひとつ残して、シマが庭の隅へと姿を消した。
すっかり酔いつぶれた黒い毛むくじゃらが、若造の膝の上で寝息を立てていた。
夜の静寂が耳に痛い。
そう感じるほどに、賑やかな囃子の音がいまだこの耳に残っていた。
読みに来てくださった方々、ありがとうございます。