15 付喪渡しの夜行船
薄い雲に覆われ、今日は夏の日差しもやさしい朝である。
西からそよそよとそよぐ風に、身も洗われる思いであったというのに、それを遮るむさ苦しい顔がぬっと現れた。
「お目覚めですか、悟様」
「おはようございます」
渦巻く寝癖も直さずに女性の前に顔をだすとは、無粋にもほどがある。
「あのですね、寝所の前の廊下にこの様な物が落ちていたのですが、カナさんの物でしょうか?」
若造が手にしていたのは、梅の細工の施された簪と、火打ち道具であった。
「火打ち道具も簪も持ってはいますが、それはわたしの物ではございません」
「火打ち道具ですか?」
「火打ち石と火打ち金、そして飛んだ火花を移す火口のことでございます」
若造が暮らす時代と、ここ辻堂では時代が違う。
存在する空間自体が違うのだから、若造が知らないことも有り得るが、火打ち道具を使わずにどうやって火を起こすのであろう。
「今日はこれらのように、見慣れぬ物がそこらに落ちているやもしれません。もし見つけましたら、拾ってここにお入れくださいませ」
主が指差した先にある竹細工の籠には、すでに二つの品が入れられていた。
「これは煙管に鬼の根付けですね。カナさんが見つけたのですか?」
「これは陽炎が拾ってまいりました。悟様、今宵は良いものが見れますよ」
薄く紅を引いた唇を綻ばせ、主が嬉しそうに目を細める。
「良いものですか? 何か楽しいことでもあるのでしょうか」
「今宵は十年に一度、付喪渡しの夜行船が裏の川を通るのでございます。船には綺麗に提灯が灯され、それは美しいものでございます」
それで陽炎は朝も早くから、酒の肴を下ごしらえしているのか。
主は良く覚えているものだ。わたしなど、陽炎が拾ってきた物を見ても、紛れ込んだ者がいる程度にしか思っていなかった。
「それはまた、どのような船なのでしょう。お祭りのような物でしょうか」
「祭りといえば祭りでございます。付喪神達の、最後の祭りにございます」
忙しそうに働いていた陽炎が、戸口から顔をだした。
「悟様、わたしも楽しみでなりません。船に乗る付喪神にとっては最後の夜となりましょうが、悲しい物ではないのです。以前はカナ様とわたしだけでしたが、今宵は悟様にクロ助もいます。楽しくなりそうですね」
陽炎め二人だと? わたしの事を忘れている。
あろうことか、今宵の面子にまでわたしの名が入っていないとは。
浮かれすぎであろう。
磊落な気質のわたしといえど、仲間の人数から弾かれるのは面白くない。
「付喪神にとって最後の夜になるのですか? 何だか寂しげな感じがしますが、本当に楽しいのでしょうか」
若造のくせに、主の言葉に意見する気か。
「最後ではありますが、それは付喪神が望んだことにございます。悟様が拾われた簪にも、火打ち道具にも付喪神が宿っております。それらは望んで今日この場にきたのでございますよ。渡し船に乗りたくても乗れずに終わる者が多い中、色々な吉事が重なってここに辿り着いたのでございます」
「今宵で自分の存在が最後となる事を知って、渡し船に乗るということですか?」
理解しがたいという表情で、腕を組んだ若造が呻る。
「人として生まれた悟様には、理解しがたい概念でしょうか。短い人の人生とは違い、付喪神は長い時の中を、孤独に過ごすことが多いのでございます。本来なら宿る物が壊れたとき、付喪神の魂は消えて失せます」
「消え失せるとは、それはまた寂しい話です」
他人事だというのに、若造は眉尻を下げる。
まったく人がいいだけの阿呆など、ただの阿呆より扱いにくい。
「寂しいと思うのも、また人の概念でございましょう。もともと騒ぐことが好きな付喪神にございますのに、楽しく過ごしていた仲間と一人また一人と離れ、最後には使われもせずに棚に飾られるか、蔵の中で埃を被って生涯を終える者のなんと多いことか」
「使われてこそ、物の価値があるということでしょうか」
主はにこりと頷いた。
「だからこそ最後くらいは、楽しく騒ぎたいと願うのでございます。長すぎる時の中で、己の宿る器が壊れる寸での者しか乗れない渡し船。この世に未練の無い者しか乗れない渡し船でございます。ここへ集まった付喪神は、運良く辻堂に吹き込む異風に乗った者達でございましょう」
「そうだったのですか。それなら見逃しがあっては大変です。わたしは屋敷の中を見回ってきましょう」
「はい、お願いいたします。そして楽しく見送ってやるのが、わたくし達の勤めでございましょう」
立ち上がった若造の下に、ころころと転がって黒い毛むくじゃらがやってきた。
「クロ助、おまえも一緒にいくかい? どれどれ、いま懐に入れてやるから」
手を伸ばして黒い毛むくじゃらを抱き上げようとした若造に、黒い塊がぴょんと跳ねて顔面に張り付いた。
「うわ!」
目をしばしばさせながら、黒い毛むくじゃらを顔面から引き剥がした若造は、鼻に皺を寄せ目を三角にして見せた。
「こいつめ、腰は治っていたんだな? びっくりさせようって魂胆だろう!」
小突こうとした手を逃れ、黒い毛むくじゃらがふざけた調子で、ぴょんぴょんと跳ねて先を行く。
「こら待て! 待てってば!」
若造が後を追いかけて、樫の板張りの廊下を軋ませながら走っていく。
「賑やかだねぇ。毎日あんなに走り回られたら、廊下の板を張り替える日も、そう遠くはなさそうだねぇ」
楽しげにくすくすと主が笑う。
笑いごとではないであろう。主は優しすぎる。あの一人と一匹など、す巻きにして渡し船より先に流してしまえば良いものを。
その後若造は、日が暮れるまでに紅い漆塗りの合わせ鏡を拾ってきた。
もうすぐ日が暮れる。
陽炎の作る肴の、良い香りが漂ってきた。
日が暮れて月も昇り、昼間の暑さをすっかり夜風がさらってくれた頃、準備が整ったと、陽炎がみなを呼びに来た。
「シマ、悪いが留守番を頼むよ。いつも通りなら、お客は来ないと思うがねぇ」
いわれてみれば付喪渡しの夜行船が通る夜に、客人が訪れたことはない。
ミャー
ひと鳴きして主に応えると、シマは庭の闇へと姿を消した。
薄情で世の中にも他人にも無関心なシマは、付喪渡しの夜行船に興味を示したことがない。だからいつも留守番役である。
「悟様、今宵を見逃すと次は十年後にございます。集めた付喪神達を、忘れずに連れて行かなくては」
主が手にした風呂敷を、慌てて若造が引き取った。
「では、まいりましょうか」
川の水気は好まぬが、今宵は少しばかり胸が躍る。
目の前の川をゆく、ほんの一時の大見せだが華があるとわたしは思う。
すっかり体調の良くなったらしい黒い毛むくじゃらも、若造の後をついて跳ね回っている。
元気になった途端に動きが喧しくて、まったく目障りだ。
「さあ、みなさんこちらへどうぞ」
河原に陽炎がゴザを広げ、その中央にはお重に詰められた料理が並べられる。
物を食さぬわたしだが、陽炎の楽しげな思いが料理の匂いに乗って漂うのは感じられた。
「まあ美味しそうだこと」
主の言葉に、陽炎ははにかんだように肩を竦める。
「では宴会を始めましょうか」
主が若造に酒を注ぎ、若造も主と陽炎に酒を注ぐ。
「祭りはいつ頃始まるのですか?」
「さあ、そればかりは風まかせでございますよ。始まりを告げるのは、川に架かる橋でございます。クロ助が見えるように、悟様にも橋が見えるはずでございますよ」
「それは嬉しい。では、渡し船も見えることができますか?」
「もちろんです。どちらも恨みを背負った存在ではございませんから、この辻堂に来たときと同じように、自然と目に入ってくるでございましょう」
若造は嬉しそうに酒を口に運んでいる。
ゴザの上に置いた盃から時折目を盗んで、黒い毛むくじゃらが酒を舐めているのに気づいているのだろうか。
というより、酒を呑むのだな。
酔うのだろうか?
酔って川に落ちた話など、腐るほど耳にする。
黒い毛むくじゃらが酔って川にぽとりと落ちる様を想像して、わたしはひとりほくそ笑む。
川のせせらぎを三味線代わりに、酔った若造が踊っている。
日本舞踊など呼べる崇高なものではない。
陽炎と黒い毛むくじゃらは喜んでいるが、わたしにいわせれば白い上下で狐踊りをする、狐の飴売りより酷い踊りだ。
主が笑っているのは、情けである。
本気で楽しんでいるわけがない。
「おや、はじまりましたよ」
主の声に、みな一斉に川上に目をやった。
月明かりにぼんやりと照らされていた川に、蝋燭の灯りで作られたような半円の橋が架かっていく。
川の両端から淡い橙の灯りが幻の様に伸びていき、やがて一つの橋を模った。
「なんと美しい」
呆けた顔の若造は、すっかり橋に見とれている。
わたしでさえ、何度目にしても見惚れる光景であった。
「陽炎、準備をしておくれ」
ひとつ頷いて、陽炎が風呂敷の口を開ける。
中からは、集められた付喪神の宿った品が顔をだす。
チンチン ドンドン チントンシャン
何も見えない橋の向こうから、鐘と銅鑼を鳴らす音が響く。
「これは、なんと!」
初めて目にする若造が、驚くのも無理はない。
灯りが造りだした橋の下から、突如として船先が現れた。
屋形船の屋根には所狭しと提灯が下がり、船を明るく照らている。
チンチン ドンドン チントンシャン
右に左におっとっと~!
打ち鳴らされるチンドンに、調子っぱずれな唄声が重なる。
渡し船にはすでに、大勢の付喪神が集まっていた。
船先で竿を操る渡しと、船尻で櫓を操る渡しが一人ずつ、合いの手を入れながら川面を行く船を器用に操っている。
あ~らよ! ちょ~いよ!
渡しのだみ声は、付喪神の唄の中でも良く響く。
こちらの姿を見つけた船先の渡しが、笑顔で竿を伸ばして寄越した。
竿の先には、いつの間にやら大きめの竹籠がぶら下げられていた。
心得ている陽炎が、その竹籠に集めた物をそっと入れる。
チンチン ドンドン チントンシャン
そこから先は、まるで手妻を見ているようだった。
渡しによって引き上げられた竹籠が船の上に差し掛かると、そこから湧き上がるように、それぞれの形をなした付喪神達が船の上に降りたっていく。
そして迷うことなく、踊りの輪に入っていった。
人の形でありながら、頭部は赤鬼である者。
桃の花を頭に飾っているのは、若造が拾った簪であろう。
歌舞いた着物姿の男は、煙管の付喪神であろうが、正直へんちくりんである。
カンカンと手にした石を打ち鳴らすのは、火打ち道具の三人組か。
深紅の着物を纏う女は、艶のある笑みを浮かべ踊っている。
揃ったところで、いよいよ大見せである。
チンチン ドンドン チントンシャン
右に左におっとっと~!
渡しに腕無しおっとっと~!
調子っぱずれな唄に合わせて、乗り合わせた全員が、船の片端へと片足で跳ねていく。
唄で馬鹿にされた二人の渡しが、べーっと舌を出しわざとに船を大きく揺らす。
揺れるはぁ~浮き世かぁ この足かぁ~!
あ~らよ! ちょ~いよ!
反対側へとんとんと片足で寄る様は、まるで下手くそな歌舞伎に似ている。
若造は妙な合いの手を入れながら手を叩き、ほろ酔いの黒い毛むくじゃらは、船の唄に合わせて器用に右に左にと跳ねていた。
「まるでこの世の楽しみを、今宵あの船に集めたようです」
若造はいった。
「何事も、終わりがあるからこそ花咲くのでございますよ。付喪渡しの夜行船、どこ行くやら夢夜行、と語る者もおります」
主が酒の入った盃を口へと運ぶ。
その横顔は穏やかで、宵闇を照らす灯りのようだとわたしは思った。
遠ざかる渡し船の上で、付喪神が思い思いに踊っている。
手を上げ足を上げ、くるくると周りながら互いに笑いあってた。
やっとこの世を去れるのだと、喜びの宴を乗せて船が行く。
提灯の灯りに照らし出された渡し船が、船先からその姿を闇に溶かして消えていき、銅鑼の音と唄が小さく遠ざかる。
船尻が闇に呑まれようとした寸でに、火消し道具の三人組が振り向いた。
小さな身の丈をいっぱいに伸ばして、幾度も手を振っている。
手を振り返す若造の目は、流れずに溜まったもので月明かりを反射していた。
チリリリリーン
送辞代わりに、わたしも身を鳴らした。
川面を月明かりがちらちらと揺らす以外、何もかもが姿を消した。
一夜限りの夢夜行。
嘘のような静寂に、主は静かに盃を傾けた。