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11 琵琶の音が呼び寄せる者


「鈴、ずいぶんと不機嫌だねぇ。わたしの話に応えてくれるはいいが、いつもの優しい音色はどうしたのだい? 古い寺の鐘を火箸で突いたような鳴り方をして。そろそろ曲げた臍を戻しちゃどうだい?」


 チン


 主の問いに短く鳴ったわたしは、黙りを決め込んだ。

 無愛想なシマだけでも十分気にくわなかったが、奴はまだ来客を主に知らせる役目がある。耳クソほどだが役に立っていなくもない。

 我慢ならないのは、あの黒い毛むくじゃらである。

 すっかり元気になった若造の周りを、ちょこらちょこらと彷徨いて、何が手伝えるわけでもないというのに離れることなく側にいる。

 目障りなことこの上ない。

 全身にぼさぼさと毛が生えた者など全て嫌いだ。

 べつにわたしが、つるりとした金物だからというわけではない。

 決してない。

 陽炎と主は黒い毛むくじゃらをクロ助などと呼び、その様子を愛らしいなどという。それがまた気に入らない。

 長い付き合いだが主も陽炎もわたしを愛らしいなど、一度もいったことがないというのに。

 焼き餅などという低俗な感情と一緒にされては困る。これは正当な抗議である。


「クロ助、川に釣りにいくからおいで」


 間延びした声に黒い毛むくじゃらが嬉しそうに跳ね、腰を屈めた若造の懐に収まった。


「クロ助は魚が嫌いかい? 魚が釣れたらシマは喜ぶよ。魚が大好きだからね」


 耳障りな若造の声が遠ざかっていく。

 シマが喜ぶなら、小魚一匹釣れなくていい。

 シマも黒い毛むくじゃらも、動いてみせられるからみんなが構うだけのこと。

 わたしのように美しい音で鳴ることはできまい。

 まったく面白くない。

 裏の川に身投げしてやろうか。身投げして、もう鳴ることができぬほどに錆び付いてやろうか。




 主の腰帯でふくれっ面のままぶらぶらとする内に、茜に染まった空はいつのまにやら、黒い墨を流したような夜空に変わっていた。

 若造が釣り上げた魚が皿に盛られた夕の膳が下げられ、陽炎に分けて貰った魚を咥えて、無愛想なシマが庭の暗がりへ戻っていく。

 腹立たしい姿が一匹視界から消えたと、ほっとしたのも束の間であった。


 ミャー


 暗がりからシマが鳴く声が響く。

 月も顔を出さぬ夜だというのに、今夜も辻堂に客がやってきたらしい。


「お客さんかい?」


 主が裸足に草履を突っかけ庭に下りると、若い女が庭の暗がりから姿をみせた。

 さほど裕福なようには見えないが、長屋暮らしをしている女とは雰囲気が違う。

 新しいとはいえない小袖を、それでもきちりと着付けている様は、女の生前の暮らしが困窮していなかった事を思わせた。


「どのようなご用でしょう」


 主の問いに、女は静かに頭を下げる。


「ここは迷う者を、導いて下さる場所と聞いてまいりました」


「確かにここは、行く先の道を照らすお手伝いをする場所。闇を抜けると、心をお決めになったので?」


 女の胸には琵琶が抱かれていた。

 大切そうに琵琶を抱き寄せ、女は頷く。


「わたしの行く場所は決まっております。その覚悟はできました。ですが、最後にひとつだけ望みがあるのです」


 主は穏やかな笑みを浮かべたまま、小首を傾げた。

 庭の木の葉をさざめかせて、一筋の夜風が通る。


「望みなどと言ってはならぬ女だと、わかっております。けれど最後に一度だけ、一度だけこの琵琶を弾かせてはいただけないでしょうか」


 主の返答を待って、女は深く腰を折る。


「構いやしませんが、自分では何処へいくと思っておいでだい?」


「わたしの行く先など、地獄と決まっております。憎しみに負けて人様を殺めようと毒を盛り、その毒で大切な者を死なせてしまいました。畜生にも劣る女にございます」


 見れば細い女の首には、猫にでも掻かれたような傷が無数に残っている。

 今だ血を滲ませるそれは、女の心の傷そのものに思えた。

 琵琶を抱き捲れた袖から覗く腕にも、深く爪で抉られたような長細い傷が刻まれている。

 女は細く、けれどしっかりとした口調で語り出した。




 十六で小さな小料理屋に嫁いだわたしは、ほどなくして子を宿しました。

 嫁ぎ先の舅はすでに他界して、家族は主人と姑の三人でございました。

 もともと愛想の良い姑ではありませんでした。わたしの実家が嫁ぎ先より格下であることが、母の性格に拍車をかけたのでございましょう。

 主人は優しい人でした。

 ですが優しすぎて、母親にひと言さえ逆らうことができぬお人でございました。

 そして……。

 女が人生でこれ以上ない幸せを味わう日に、わたしの生き地獄は始まりました。

 

 産まれたのは、商売を営む家では特に忌み嫌われる、双子でございましたから。

 しかも跡継ぎを望めぬ女の子となれば、姑にしてみれば猫を産まれるより価値のないものだったのでございましょう。


――子を連れて出ていけ。

――出て行かぬなら、子をどこぞへ捨ててこい。


 顔を合わせる度に、このような言葉をあびせられました。

 掃除した部屋に紙くずや集めた塵を撒かれ、湯を浴びた後着物が濡らされていたこともございました。

 夕餉の汁の入った椀の底から、虫が浮いたことも一度や二度ではございません。

 それでも我慢できたのでございます。

 わたしだけであれば、辛抱の範疇でございました。

 子を捨てろというなら三人で身を投げると泣き叫んだため、物言えぬ主人も、しばらくこのまま子供達を家に置こうと姑にいってくれました。


 今思えば、あの時に子を連れて家をでるべきだったのでございます。

 走り回るようになった子供らにも、姑の怒りの矛先は容赦なく向かうようになりました。


 何をしたでもないというのに腫れるほどに尻や手を打ち、仕舞いには部屋から一歩も出るなと命じたのでございます。

 姑が家を空けるときだけわたしは子供達の側へ行き、琵琶を弾きながら色々は話を聞かせました。

 少しでも気が晴れるような楽しい話をと思いましたが、琵琶の音は楽しい話にさえ、憂いを帯びさせてしまいますでしょう?

 子供達は側に寄ってくれましたが、本当に楽しかったのか、それを知る術はございません。


 ある日の昼下がりでございました。

 生けた花の水をこぼしたと、姑が子を庭に投げつけたのでございます。

 我慢の限界でした。

 わたしは母が毎日口にする、水飴に毒を混ぜたのでございます。


 部屋に蝋燭の明かりが灯り、小さな壺に入れた水飴を姑が棒ですくい舐める様を、庭の暗がりから眺めておりました。

 畳を転がりながら苦しみ藻掻く姑の姿を障子越しに眺めていても、わたしには何の感情も湧いてはきませんでした。

 

 死ぬのだな。


 思ったのはそれだけでございます。

 主人は寄り合いにでておりましたから、姑を助ける者などおりません。

 喜びも悲しみもないまま、わたしは動かなくなった姑の体を引き摺り、井戸へと投げ込んだのでございます。

 夜中でも虫の音を聞きに庭に出ていた人ですから、年寄りが暗がりで井戸に落ちたことにしよう。そう思っておりました。


 闇に染まった井戸の底を覗くわたしの耳に、囁き合う子供らの声が聞こえました。

 姑の気配がなければ、自由に家の中を歩き回るのはいつものこと。

 それにしても、この時間ならとうに寝ているはずなのに。

 己が今しがた取った鬼畜の行いを忘れて、ぼんやりとわたしはそのようなことを考え、何気なく部屋の方を振り返りました。


 走りながら、わたしは叫んでいたと思います。

 子供らが姑の壺から指で水飴をすくい取り、口へと運んでおりました。

 足が空回り、どれほど走っても子供らの元へ辿り着けない気がいたしました。

 この手に二人を抱いたときには、すでに小さな口から白い泡を吹いておりました。

 苦しかったのでしょう。

 しがみつく手はわたしの肌を掻きむしり、名を呼んでもそれに応えてくれる事はないまま、息絶えたのでございます。

 母が我が子の命を、奪ったのでございます。





 女の首の傷口からから、筋となって赤い血が幾重にも垂れる。

 腕の傷は膿んだように口を広げ、琵琶を抱く肘からぽたりぽたりと血が落ちた。


「子供達の鎮魂に、琵琶の音を?」


「憎き母の弾く琵琶の音など、子供らが望むはずもございません。わたしの我が儘でございます。琵琶を奏でて、纏わり付いて笑っていた子供らの温もりを、今一度だけ思い返したいのでございます」


「おや、お客さんですね?」


 陽炎の後片付けを手伝っていた若造が、黒い毛むくじゃらを懐に入れて顔を見せた。


「はい。悟様もここへお座りになって下さいな。今から、琵琶の音を聞くことができますよ」


 この言葉を承諾と受け取って、女は微かに笑みを浮かべ頭を垂れる。

 見えぬ若造は、主に言われるままに樫の板張りの廊下に腰をおろした。


「ありがとうございます」


 庭の草の上に女は腰をおろし、流れる血をそのまま琵琶を抱く。

 流れ続ける血は、子に詫びる女の涙そのものであろう。

 血の涙、まさしくそうといえる。

 わたしははっとして、思わずこの身を鳴らしそうになった。

 あろうことか黒い毛むくじゃらが若造の懐から飛び出し、女の元へ近寄ったかと思うと、座する膝の上にひょっこりと登り琵琶にその身を近づけた。

 琵琶の弦を……舐めたのだと思う。

 口など見えはしないが、わたしにはそう思えた。

 何事もなかったように若造の懐に戻った黒い毛むくじゃらを、不思議なものを眺めるように視線だけ送っていた女は、ふと我に返ったように琵琶の弦をつま弾いた。


 流れる琵琶の音に、庭の草木が闇の中で擦れざわつく。

 闇夜を湿らせる音色が優しいものへと変わり、庭の空気を満たしていく。

 突如ざざりと音を立て、地を割って這い出てきたのは二本の腕であった。

 枯れ枝にも似たそれが、女の体を絡め取る。

 腕が首元までまわっても、女は表情ひとつ変えずに琵琶を弾き続けた。

 女の体が庭の地面に引き込まれていく。

 動こうとしない主の考えが読めずに、わたしは一人おろおろと身を揺らす。

 

 非道を犯したとはいえ、地の底の闇に落とされるほど腐った魂とは思えなかった。


「そのまま引き摺り込まれるおつもりか? 姑の怨念に引き込まれるも良いがわたしはもう一方から、伸ばされた手が見えるのだよ。その手を、掴んでおやりよ」


 わたしは一人息を漏らす。

 腰まで引き摺り込まれた女の腕を、必死に引き上げる者が居た。

 姿は見えぬ。

 見えるのは、女の頭上から伸ばされ腕に絡まる幼き小さな手であった。


「お前達、まさか」


 驚愕に女の眼が見開いた。


「辛かったろうよ。苦しかったろうよ。でも子供達は大好きだった母を、恨んではいないようだねぇ。愛しい琵琶の音に惹かれてきたのだろう。母を取り返そうとする、小さな想いを無駄にするかい? 二度も大切な者を、手放すことはないだろうよ」


 女の腕から琵琶が落ちた。

 震える手が、両側から腕を取る小さな手を包み込む。


「許しておくれ。ごめんねぇ……」


 女の体が地面から引き上げられていく。

 女を離すまいとする枯れ枝のような腕が、空しく宙を掻いた。

 醜く藻掻く腕から赤い血の泡が湧き、地の底へと押し戻す。

 最後の泡が弾けた跡には、いつもと変わらぬ様子で庭の草が揺れていた。


「お世話になりました」


 女の体が、霞となって消えていく。

 ころころと笑う幼い声だけを残して、この庭から完全に姿を消した。

 幼い笑い声だけが木霊となって、木々の葉をさらさらと揺らしている。

 


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