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10 黒いけむくじゃらの家出


 昼間から涼しい風が吹いている。

 若造が倒れてから、三日が過ぎた。

 倒れてから丸二日、若造は朦朧とした意識の中、臓腑を襲う痛みに額の汗がひくことはなかった。

 それがどうしたわけか今朝になってぱちりと目を覚まし、よろよろと半身を起こしたのである。

 寝食を忘れ側に付き添って居た主は、細い肩の力を抜き目尻を涙に光らせた。


「ぼくは、いったい……ごほ」


 目を覚ました若造は、ほんの数時間ほど寝ただけと思ったらしい。


「悟様、痛む所はございませんか?」


 主の言葉に、若造は微笑んで首を振る。


「不思議なほど痛みがひきました。咳き込むと胸は多少痛みますが、大したことはありませんよ」


 阿呆面の笑みを見て、ほっとした自分に猛烈な怒りを覚える。

 手があったなら、己の頭を打ち砕くところだ。


「クロ助が見たこともない薬草を、何処からか持ってきてくれたのです。それを煎じて悟様の口に少量ずつ流し入れたのでございますよ。その煎じ薬のおかげで、これほど早く元気になられたのですね」


 自力で飲めそうだと判断した陽炎が、煎じ薬を湯呑みにいれながらいう。

 それにしてもクロ助? いつの間にそんな名が付けられたやら。

 若造の膝の上で跳ねる黒い毛むくじゃらは、自分の手柄を誇示しているつもりだろうか。


「クロ助が薬草を持ってきたの?」

 

 目を丸くして若造が、黒い毛むくじゃらを手に乗せる。


「ありがとうな」


 黒い毛むくじゃらはくねりと身を捩らせ、ぴょんぴょんと跳ねて行灯の向こうに身を隠した。

 一丁前に照れているのか? 生意気な。


「いただきます」


 陽炎から湯呑みを受け取った若造は、黄金色の煎じ薬を一口含みこれ以上無いほどに目を見開く。


「辛い! 苦くて辛いのですね、げほ」


 涙目で噎せ返る若造の様子をみて、目を細めながら主が笑う。


 美しい主の表情に、三日ぶりの笑顔が戻った。

 ただこれだけのことで、わたしはこの身が錆びるまで涙を流せそうな思いだ。


「おや、この赤い点は?」


 若造の足を覆う布団の表布に、小さな赤い染みがあった。

 主が行灯の方へ視線を流す。


「まだ完全に傷が癒えていないのですねぇ。悟様、クロ助は煎じ薬に使う薬草を手に入れるため、少々無理をしたのでございますよ」


「クロ助が?」


 そうだった。薬草を口に咥えて屋敷に戻った黒い毛むくじゃらは、全身を覆う黒く長い毛の先から、赤い血を滴らせていた。

 毛の奥にあるはずの傷は見えなかったが、あの血の量からして浅くはない傷を負ったのであろうと思う。


「クロ助が咥えてきた薬草は、立ち枯れ草と呼ばれるものです。文字通り、立ち枯れたまま生えているのでございます。この屋敷の庭ほどの広さに群生しておりますが、その内も外も茨が守っております。毒こそありませんが、人の肌など簡単に引き裂くほど鋭利な棘にございます。その茨をくぐって取ってきたのでしょうから、全身に傷を負うのは避けられません」


「クロ助、出ておいで?」


 悪戯をした子供が頭を覗かせるように、黒い毛むくじゃらはちょっとだけ頭を出し、それから畳を這うようにもぞもぞと若造の側へとやってきた。

 若造が黒い毛むくじゃらを手に抱き、長い毛を分けてその下の体を確かめる。


「傷だらけじゃないか!」

 

 若造は眉を寄せる。逃げようとばたつく黒い毛むくじゃらを押さえ、無い頭を巡らせた。


「陽炎さん、これほど効く煎じ薬なら、薬湯がわりにクロ助を浸けてみたらどうでしょう。傷が早く治るかも」


 真顔で言う若造を、陽炎が慌てて止める。


「それはいけません。辛いということは、傷に滲みるということでございます。薬湯にするのは、まずいのでは?」


 そうか、と若造は残念そうに眉尻を落とす。もちろん黒い毛むくじゃらを、しっかり手に捕まえたまま。


「それではこの煎じ薬を、クロ助にも飲ませてみましょう。これほどの効き目なら、飲んでも傷に効果があるかもしれない! クロ助、おまえの口はいったいどこにあるのさ?」


 煎じ薬を飲ませるという言葉に、黒い毛むくじゃらは必死に身を捩る。

 お構いなしに若造は、黒い毛むくじゃらの口を探していた。


「あったぞ!」


「悟様、それは……」


 主の声が届く間もなく、こじ開けられた小さな口に煎じ薬の雫を垂らした若造の指が突っ込まれた。

 黒い毛むくじゃらの体が張った弓のようにのけぞり、軽く二、三度痙攣した。


「クロ助?」


 己の手の中でぐったりと、ナマコのように伸びきった毛むくじゃらを見て、若造が口をあんぐりと開けた。


「心配入りません。味のすさまじさに気を失っただけでございましょう」


 主が着物の袖で口元を隠し、可笑しそうに肩を揺らす。


「それにクロ助の傷に、その煎じ薬は効きませぬよ。その煎じ薬は、打ち込まれた邪気を払い癒すもの。クロ助は飲み損でございます」


「それはまた……」


 しまったというように若造は黒い毛むくじゃらに顔を近づけたが、気絶した者がそうそう目を覚ますはずもない。


「クロ助、ごめんな?」


 いい気味だ。今回だけは阿呆の愚行に賛辞を送ろう。これに懲りて、目覚めたらとっととこの屋敷からでていくがいい。


「ところでカナさん、ぼくはいったい何にやられたのでしょう」


 主の顔から笑みが消える。


「あの女が手にしていた短刀に刺されました。ですがあの短刀、わたしの魂を砕くことはできても、生身の体には傷ひとつつけることは叶いません。その筈なのですが、悟様は血を吐かれた。体に傷はなくとも、お体の内に見えぬ傷を負われたのでございます」


「そうですか」


「ひとつだけお願いがございます」


 主はきちりと膝を合わせ、若造を見る。


「今度あのようなことがあっても、決してわたしを助けようなどとはなさらないでくださいませ」


 若造は眉を寄せて首を振る。


「放っておくことなど、できるわけがないでしょう?」


「いいえ、放っておいて良いのですよ。守る価値など、このわたしにはございませんから」


 言葉とは裏腹に、涼やかな笑みを浮かべて主がいう。

 俯きかけた若造に、頷くつもりかとわたしは無い唾を吐く。

 俯いたままの阿呆の表情は見えなかった。

 膝の上で握られた拳が、手の甲を白くしていく。


「わかりました」


 はっきりと言い放った声を、わたしは何度も心の中で反芻した。


「ありがとうございます。悟様のお命が、何より大事にございます」


「わかりましたが、なにしろ軽い脳みそしか持ち合わせていません。ぼくは人に言われたことを、すぐに忘れてしまいます。約束してもいざとなったらすっかり忘れて、後先考えずに飛び込むかもしれません。その時は、約束を破ったことをお詫びします」


「悟様?」


 へらへらと笑う若造を見て、主は諦めたように息を吐く。


「まったく、しょうもない御方だこと」


 主は微笑んだが、それは少しだけ辛そうな笑みにわたしには見えた。


「それにしてもクロ助は、あの小さな口で薬草を咥えてきたのですか? あの小ささでは、楊子二本ほど咥えるのが精一杯だろうに」


 若造の手の平で伸びている黒い毛むくじゃらを、陽炎がそっと己の手に受け取った。


「いつの日かきっと、悟様もその秘密を知る日がきます。ね、クロ助?」


 訳がわからず考え込む若造は、小さな毛むくじゃらが己よりでかいなど、夢にも思ってはいないだろう。

 若造が真相を知る日など来はしない。

 黒い毛むくじゃらとて馬鹿ではないだろう。効きもしない苦い煎じ薬を飲まされた恨みを胸に、明日の朝には姿を消す決まっている。

 たかが魚に食われかけた所を助けられたくらいで、茨をわけて薬草を取ってくるなどという、無駄な良心をさらすからこんな目に合うのだ。

 情けをかける相手も恩を感じる相手も、見極めねば痛い目に合う。


 ミャー


 庭でシマが鳴いた。


「おや、お客さんだねぇ」


 若造を布団に潜らせて、主は庭へと降りていった。

 平穏な夜というわけには、いかないようである。





 次の朝寝所で休むことなく、若造の様子を見ている主の腰帯で、わたしは小躍りしていた。

 黒い毛むくじゃらが、屋敷の何処にも見当たらない。

 こりごりと言わんばかりに出ていったのだろう。


「クロ助はどこにいったのかな。怪我が治っていないというのに」


 まだ歩けぬ若造は首を伸ばして庭を隅々まで眺めていたが、探す者は見つからない。見つかるわけがない。

 

 煎じ薬の効き目は素晴らしく、空が夕焼けに染まる前に若造は一人で歩けるようになっていた。

 さすがに陽炎の手伝いをするのは無理だが、樫の木の廊下に腰掛けて庭を眺めるほどに回復した。

 裏の河原を散歩する主の腰元で機嫌良く揺られていたわたしは屋敷に戻った途端、不穏な空気を嗅ぎ取った。

 わたしにとってこの上なく不穏な気配。


「綺麗だね。茜色の雲に乗れたらと、子供の頃は思ったよ」


 庭を眺めながら、若造が話している。

 誰と話しているのだろう。


「二度と煎じ薬を飲ませたりしないから、家出は今回だけにしておくれ?」


 目にした光景に、わたしは思わず身震いした。


「おや、ちょっと家出したと思ったら、すぐに戻ってきたねぇ」


 楽しそうな主の声だというのに、わたしは身を鳴らして相づちを打つことさえ忘れた。


 のんびりと腰をおろす若造の横で、黒い毛むくじゃらが右に左に身を揺らしている。

 若造が厠へ行くと、ちょこまかとその後を付いていった。


「なんだかこの屋敷も、賑やかになったものだねぇ」


 わたしは主と二人、静かにこの庭と共に時を過ごしていたかった。

 いつの日か黒い毛むくじゃらを、必ずや小池に落としてやると、わたしは心の中で堅く誓った。



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