トイ・ボックス
大して愛着もないファミレスに、気づけば僕は三年も在籍していた。
三年間。そう、つまりは二回もクリスマスという死線を潜り抜けていたことになる。
二年前、楽しげにカップルが去っていく中でぽつんと雑誌片手に佇むお客さんがいた。帽子を目深に被ったその人はコーヒー一杯でずっと長居していて、夕食の時間も過ぎているのに間食すら頼まない。
普段なら目をつけられるそんなお客さんも、クリスマスの宵、忙殺されたスタッフに気を回す余裕などない。ホールスタッフが僕だけならなおさらだ。外は強めの風が吹いていて、ゆらゆらと白い結晶が空を舞っている。
ため息をついて外を眺める姿が、どうしても不憫に思えてならなかった。テーブルに顔の向きを戻してもどこか悲しそうな表情をしている。
周りの目を盗んだ僕は、ケーキボックスに手を突っ込んだ。自分の休憩用にと隅に避けていたブッシュドノエルを取り出すと、こっそりお客さんへと差し出した。
「え?」
「あ、その、お会計、いらないんで」
頬を不自然なぐらい上げて、引きつり気味な作り笑顔を見せながら僕は再び店の入口へと戻った。なぜこんな衝動に駆られたかは未だにわからない。ただ、時は大学一年生。若過ぎたことがすべてだ。なお、この件は後程店長にしっかりバレて、こっぴどく叱られた。
でも構わない。来年こそはお互いに幸せなクリスマスを過ごそう。
名前も知らないその人にエールを送った翌年、僕は変わらず一人でホールを走り回った。とうとう閉店まで現れなかったあの子は、どこかで幸せの形を見つけたんだろうか。そうであれば去年の僕の黒歴史も報われる。
そして、現在。とうとう三回目のクリスマスをもこの店で迎えてしまった。
憂鬱になる時間すら与えられず、僕は愛想笑いを振りまいてひたすら動き回っていた。出迎えた客へ満面の笑みを送りながら「いらっしゃいませ」を告げて、会計後のお見送りに「メリークリスマス」まで添えてみせる。
オーダーを取りにいくことすら同僚と譲り合う僕には拷問でしかなかったけど、いよいよ感覚も麻痺したのか、閉店まで残りわずかとなった僕のスマイルはいつにも増して営業用として仕上がっていた。
理由など探すまでもない。繁忙期に人手不足、平日比から三倍増の客数に応対するスタッフはいつもの四分の一。接客業たる者クリスマスにうつつをぬかすなどとうんちくを垂れていた先輩方はこぞってシフトに休みを入れたご様子。なんてことはない。去年も一昨年もそうだった。
ホールスタッフは僕とウェイトレス一人、厨房はコック二人と店長で辛うじて回している状態で、通し勤務の長丁場なのに休憩すら取る隙間がない。息つく間もなく接客をしているうちに、日頃抱える接客への羞恥心は微塵もなくなっていた。
「ありがとうございました」
また一組、カップルが笑顔のまま表の扉を抜けていった。今日に限っていえばレジから見送る客の姿は延々とデジャヴが起こっているように感じる。
去っていく背中の違いはカップルの身長差と背景の明暗程度だ。だけどそれも間もなく終わりを告げる。二十一年目のクリスマスも僕はこのまま縁無く完遂するのだろう。高校時代は部活と受験で棒に振り、大学生になってからもバイトに明け暮れるお粗末さ。
青春の日々って何だろう。
「駅裏ってクリスマスイルミネーションやってるよね」
「よし、行くか」
他愛も無いカップルの会話がはっきりと耳に入ってしまう。クリスマスだからできること。クリスマスという魔法の時間だからこそ特別に感じること。心が隙間だらけの僕にわかることは提供する側の気持ちだけだ。
店にいた最後のカップルを見送った僕は表に立てていたウェルカムボードを片付けようと玄関扉を抜けて階段を下りていった。凍える寒さに身を震わせながらボードを抱えると、不意に見上げた夜空から白い粒が舞っているのに気がついた。階段を上り終える間にも粉結晶は僕の頭にうっすらと積もっていく。
「ぎりぎり、ホワイトクリスマスになったね」
エプロンのポケットからカイロを取り出すと、にかっと笑って麻宮さんは僕に差し向ける。彼女もまた先輩たちから割を食った被害者の一人だ。今宵、彼女というウェイトレスがいなかったら当レストランは華の欠片も無かっただろう。
「独り身には堪えるね。皮肉にしかなんないって」
「違うよお。万人共通に与えてくれた自然のプレゼントだよ。イベント楽しみなさいって言ってくれてるんだよ」
シャツに付着した雪を払った僕は、指先で袖の余りを持ち上げた。
「でも、僕たちは働いてる」
「それが私たちの仕事だから」
名札を指した彼女の声はとても弾んでいた。残念だが横に並ぶには二の足どころか五の足を踏むことすら躊躇するほど麻宮さんと僕は釣り合わない。そんな彼女がクリスマスにまで勤労少女となっていることこそが今年のクリスマスにおける皮肉なのかもしれない。
「麻宮さんは彼氏と予定入れなかったの?」
「うん。ないものは予定に入れない!」
表情ひとつ曇らさずに、麻宮さんは笑顔のまま手のひらを掲げて結晶と戯れる。
「色々誘われたけど、それどころじゃないんだよ。あたし、やりたいことがあるもん」
続けざまに返ってきた「朋原君は?」の問いは僕の声を淀ませるばかりで、ため息をつきながら僕はボードを折り畳む。
「予定が無かったからシフトに入った、かな。何をやってるんだろうって思っちゃうよ。クリスマスなのに楽しい思い出がひとつもない。この仕事と出会ったのが運の尽きかな」
彼女を中へ促そうと僕は肩で扉を押し開けた。胸ポケットにカイロを忍ばせている僕ですら震える気温だ。エプロン一枚シャツに重ねただけの彼女はもっと寒いに違いない。
僕の気配りも、氷点下に迫る気温にすら目もくれず、麻宮さんは両手の腹に乗せた白い結晶をじっと眺めると、突拍子もなく天に向けて解き放った。呆気に取られる僕へ振り返ったその顔は相も変わらず無邪気な笑みで満たされている。
「明日ってオフだよね」
「クリスマス出勤組はみんなオフだよ。やっと羽を伸ばせる。ケーキもチキンも既に手遅れだけどね」
「そうそう、伸ばしましょ。うーんと広いところでさ」
あとでメールするねと言って麻宮さんはテーブル席へと戻っていった。キッチンのカウンターから清掃指示を出す店長に体育会系顔負けの元気な声で返事をすると、布巾を手にした彼女のテーブル拭きは閉店前にも関わらず二倍増しでキレがいい。
彼女の言葉にどぎまぎしていた僕に店長の怒声が飛んできた。命令も聞き取らずキッチンへひた走って店長の前に立つと「レジ閉めろっつっただろうが!」の一喝を受けて、僕の足は一目散にレジへと向けられる。
誤差ゼロを貫徹したレジスタの金銭登録を終えて、僕は中からマネーケースを取り出した。違和感を覚えたケースの側面を見ると、セロテープで貼り付けたメモ用紙の下に千円札が隠れている。
-メリークリスマス 独り身の残念な君へ贈る店長からの思いやり-
事務所にケースを運び終えた僕は「レジ誤差です」とメモ用紙に書き添えると、店長の机に貼り付けて出ていくことにした。
翌日の夜、僕はまったく馴染みのない場所を歩いていた。将来はいるかもしれない社会人の溜まり場、ビジネス街だ。
すっかり冷え切った師走の空気が助長してか、過ぎ行く人々からは会話や笑顔といった類の感情は見受けられず、駅の出口から来た道に至るまでどこか無機質な印象が僕の脳裏に根づいていく。
年季の入った建築物と街灯で占められている町並みの中、ビジネス街の中心を縦に割ったリバーサイドだけは改修間もないせいか小ぎれいで、装飾タイルも手すりも流行りのデザインで決め込んでいる。機能性に特化した街だからなおのこと異彩を放っているようにも映る。
「Where somebody waits for me Sugar's sweet, so is she Bye bye blackbird」
軽やかにリズムを刻み、楽しげにビブラートを散りばめながら、麻宮さんは胸に手を当て川の向こうに目線を据えて一人で熱唱していた。堂に入った姿勢で興じる歌声は清楚やセクシーボイスといった賞賛の類ではないけれど、聴く人間の心を躍らせるような躍動感がある。
間合いを取って歩みを止めた僕は、彼女が歌い終えるまで片足でリズムを取りながら奏でる声に聴き入っていた。サビの言葉をフェードアウトさせるように静かに囁く麻宮さんの歌声はまだまだ続いていてほしいという余韻を残すものだった。
「僕を待つ誰かの所へ、砂糖のように甘い甘い優しい人の所へ僕は行くんだ。だからバイバイ、ブラックバード」
歌った言葉に添えるように麻宮さんは対岸を見つめたまま和訳をつぐみだす。ぽかんとしている僕へと顔を向けて「ちょっと脚色しちゃった」と悪戯に顔を崩す姿を見て、この温かさが麻宮さんの作り出したものだと改めて実感する。
「麻宮さん……もしかして、歌ってる人?」
「歌うたいだよ。歌うだけで食べていけないから、セミプロかな」
照れくさそうに、彼女は頬を上げて言葉を返す。
「二年前、歌い手になったばかりの私が上がれるステージなんて全然なかった。イヴの日も暇してて、街角のレストランでバイト雑誌片手に明日の生活ばかり考えてたの。空しかった。目の前のスタッフを見てこんな日に仕事に勤しむ彼もきっとそうだって高をくくってた」
「悲しいぐらい核心を突く話だね」
首を横に振って、麻宮さんは苦笑する。
「見てからに不器用だったけどさ、彼のお客さんへの振る舞いと笑顔がね、いつまで経っても消えないの。夕飯時からずうっと見てたらさ、もう、その日暮らしでバイト探すのはやめようって思った。コーヒー一杯で長居する迷惑な客にこっそりブッシュドノエルを渡してくれたやさしい人。彼の心遣いは今も私の誇りを支えてくれている」
言葉を失う僕の体を麻宮さんが川辺へと向ける。
「そのまま、五歩前進して」
「麻宮さん?」
「いいからいいから」
彼女に言われるがまま、恐る恐る僕は前に進んでいった。ストップの合図で止まると「向きはそのままで目は瞑ってね」と彼女が釘を刺してくる。
「私はね、こう思うんだ」
後ろからかちかちと音が聞こえると、閉じた目にまばゆさが染み込んでくる。すぐに元凶となるものを遮るように僕の両目に冷たい感触が伝わってくる。
「開けていいよ」
「麻宮さんの手で視界がばっちり塞がれてるよ」
「じゃあ、離すね」
すっと彼女の両手が離れた瞬間、対岸のビルと水面が僕の視線を奪っていく。
-Still in X'smas night-
二行に隔てた照明が、英文をかたどってビルに映っていた。一階から最上階にいたるまで、すべて消え去っていたはずのビルの電灯はマスゲームとなって見る者を迎えてくれている。
「ビルをジャックしちゃいました」
「ジャックって、どうやって」
唖然とする僕の背中にもたれかかった麻宮さんは、うなじから腕をからませると、顔を寄せたまま高々と人差し指をビルに突き立てて光の文字を一文字ずつなぞっていく。
「大事なのはさ、日付じゃなくってどんな思い出を作ったかよ」
「このために、ビルの照明で文字を作って……ない?」
感動の最中に、窓をはみ出た光がコンクリートをも覆っているのが目に入った。ビルジャックという幻想に疑念を持つや否や、光は突然文字化けを起こして、背後から崩れ落ちる物音が聞こえてくる。
「麻宮さん、あの」
「ともはらくん、いちげきKO、きおくけす」
「怖いこと笑顔でしたためるなよ……それにさ、もう十分受け取ってる」
眉尻を下げた麻宮さんは、草むらに隠れていたダンボールを持ち上げてかちかちと音を立てた。同時にビルに映っていた光が消えて、屈折して艶やかに映えていた水面も夜の影に消えていく。
「ビル、貸し切りたかったけど、全然お金が足りなくて……おもちゃ箱しか私には用意できなくて」
バツの悪そうな顔で麻宮さんが伏し目になる。一瞬の夢を与えてくれた装置を開けた僕はあるべき位置に懐中電灯を戻すと、装置のふたを閉めて再びスイッチをオンにする。
「こんなに幸せな魔法の箱、見たことがない」
ダンボールの前面に開けた穴から再び光の文字が投影される。礼儀として文字が窓の位置になるように微調整すると、完全体となった擬似イリュージョンをもって、二十六日目のクリスマスに僕たちは貸切ジャックを敢行する。
「あのビル、貸し切るのにいくらかかるの?」
「二十四万円。待ってて、月二万貯めて来年こそは本物見せたげる」
祝祭の日、幸せの架け橋になればこそ僕たちはここにいる。二十六日目だからこそ二人だけの時間が生まれている。
「十二万で事足りるよ」
金も権力もない人間が本物のビルジャックを果たせば、きっと面白いに違いない。そんな滑稽な世界を見て大切なことに気づく人が現れたとしたら、僕たちの届ける光は思いをひとつなぎにして、どこまでもどこにでも伸び続けるだろう。
麻宮さんが僕に伝えてくれたように。
僕たちを祝う日は僕たちが決めればいい。だから、祝祭の時間は笑顔を届ける存在に徹しよう。懲りずにもう一度うなじから腕を回してきた彼女の腕をつかみながら、しばしの間、来年につなぐ光を僕は見つめることにした。