第十話 黄昏を追い抜いて
(10-1)黄昏を追い抜いて
――午後、校門前で、服部美月は、携帯のメールを確認していた。ふと、こんなメッセージに、視線が止まった。
『はっとりへ 昨日、お父さんとお母さんに怒られました かばってもらった人が命の恩人の看病をするのは当然だ! ってね 昨日は感情的になってごめんなさい 今日からもう病院へは行かないから、美月、拓也さんのこと、よろしくね 沙織』
(さ、沙織……)
室山県立敷島女子高等学校の校門前に、一台の青い、ビッグバイクに乗った霜田 翔が現れた。彼は、落ち着かない様子で、校内の内側に目を遣っている。誰かを探しているようだった。やがて、美月が現れると、フルフェイスのヘルメットを取り、微笑みながら声をかけた。
「よっ、美月ちゃん、元気になったか?」
「翔さん……どうして……」
「午前の勤務が終わったからな。ここまで来た! 兄貴が入院してる病院に行くんだろ? 乗ってけ、乗ってけ。兄貴が会いたがってる」
「でも、わたし、恥ずかしい……みんな見てるし……」
「ああ、もう、うじうじ思わない! 高速道路飛ばすから、しっかりつかまれよ! 振り落とされて死んでも知らねえからな!」
「う、うん……」
「じゃあ、カバンは後ろにネットをかぶせて固定して、美月ちゃんはヘルメットをかぶって……スカートひざで挟んで、しっかりつかまれよ!」
美月は、肩まである長髪を後ろへ流し、ゴム紐で束ね、ヘルメットをロックした。カバンを後部座席付近のネットにしっかり結い付けると、ぎこちない仕草で、後部座席に座り、翔の身体にしがみついた。スカートをひざで挟むと、翔に言った。
「こ、こんなので、いいかな……」
「上等上等! じゃあ、行くぞ!」
「あのー、その前に、途中で岩崎サービスエリアに寄って欲しい」
「何だ、そんなことか。いいよ、お茶でもトイレでもゆっくりして」
「と、トイレって……」
エグゾーストの音がしたかと思うと、一五〇〇CCのビッグバイクは、葱州縦貫道の敷島インターチェンジを目指していたのだった。
◇ ◇ ◇
――放課後
「沙織は気分が優れずに早退。美月は、あの翔さんがバイクで病院まで直接連れて行った……とさ」
「なんでも、美月は、バイクにタンデムしてたとか、他の子が騒いでたー」
「なんか、先輩お二人がいないと、調子狂っちゃいますよねー」
「そうだなー、なんというか、和菓子星人バーサス、洋菓子星人という図式がね」
「だよね、なんか部活も盛り上がらないよねー」
梨音は、うーんと空を見上げてしばらく歩きながら考えていたが、何かを思いついた様子で、ポンっと手を叩いた。
「じゃあ、あたしん家来るかー! 業務用ジューサーミキサーも見せられるぞ!」
「またー、梨音ったら商売っ気出して……どう思う、啓子ちゃん?」
「うーん、スペースがあるので、店の前にジューススタンドが出来ていても不思議ではないと思いますが、お父さんが何て言うか……今から、お父さん同伴でいいですか?」
「おお、わたしは一向に構わぬ、構わぬ、ぬわっはっはっは」
「これはまた、美月ちゃんが露骨に嫌がるわけだわ、商売っ気のカタマリだもの……」
「今からー、とりあえず、シエスタ香枚井の啓子ちゃんのお店に行こう!」
「わかりました。ちょっと、お店に電話します……」
「わたしもー、親父いるかなー」
立花梨音、水谷啓子が、ジューススタンドの件で、それぞれの家に電話した。どうやら親の了解を取り付けたようだった。
「二人とも、商売っ気たっぷりね……」
「お父さんの車で春名坂まで行ってくれるみたいです、是非試したいとのことで……」
「そんなら、行くぞ! ももっちも付き合えー!」
「そう来ると思った……はいはい、付き合いますとも……」
『香枚井、香枚井です。三番線の電車は、急行楠葉行きです……』
◇ ◇ ◇
――その頃、葱州縦貫道、岩崎サービスエリアに、翔と美月のバイクが到着した。ここには、カフェも食堂も売店もあったが、翔は自動販売機のコーラ、美月は烏龍茶で充分そうだった。二人はベンチに腰掛けた。美月は、ストレートの長い髪を、手櫛で整えていた。サービスエリアに、夕闇が迫ってくる。
「寒くなかったか?」
「ううん、全然大丈夫……」
「『おっぱい星人』も、たまには役に立つだろう?」
「うん」
「意外と、素直なんだな、ほんとうは……」
「べっ、別に!」
「おやおや、こりゃまた失礼……」
翔は目をそらして、空を眺めていた。美月は、先程のメールを思い出して、携帯をポケットから取り出した。
「ところで翔さん……沙織からこんなメールが届いたんだけど……」
「ふーん。何か可哀想な気もする。沙織ちゃん、兄貴にぞっこんだったからね」
「わたしは、明日、どんな顔して沙織に会えばいいのか、わかんない」
「……大丈夫だって、心配ねえって!」
「……だと、いいんだけどね」
「メール打つよ。あ、美月ちゃんはカメラマンになって。オレだけ撮って」
「はいはい、行くよー、笑ってー、さわやかムース」
シャッターの切れる音がした。
「……何だよそのかけ声……ってまあいいか。それで、オレが沙織ちゃんにメールする」
「えー! あんた、今度は沙織を取って食おうとしてるんじゃ……」
「あのなあ、オレには彼女がいるの! そうじゃなくて、励ましのメッセージだよ。君からは何だから、オレから、君と沙織ちゃんで一緒に看病してはどうか、って提案をするのだ。どうだ、いいプランだろう」
「ありがと。意外と、優しいとこあんのね……」
『沙織ちゃんへ 久しぶりです、おっぱい星人です。兄貴のことを心配してくれてありがとう。まず感謝します。それから、美月ちゃんのことだけど、沙織ちゃんのことを、随分気にしていて、明日会わす顔がないと嘆いています。交代で看病することも考えたんだけど、今度から、二人で一緒に看病してはどうだろう。一晩ぐっすり眠って、よく考えてくれよな。じゃあ今日のところは、おやすみ。 翔』
「よし、送信っと! どう?」
「いい感じじゃない?」
「それで行こう!」
「明日からは、沙織と一緒で。いいアイデアね」
「さあ、日が暮れる。室山北インターまであと半分だ! しっかりつかまれよ!」
「ちょ、ちょっと待って!」
「何?」
「ちょ、ちょっとだけ、お手洗いへ」
「早ええよ。もうかよ! さっき飲んだばっかなのに……」
「お土産に、香枚井餅も買ってくるー」
「おう! 待ってるからな!」
◇ ◇ ◇
翔のバイクはやがて「室山北インター 出口 香枚井 椎瀬」と書かれた標識を確認すると、左ウインカーを灯して、インターチェンジを降り、一般道を県立室山病院へと向かうと、国道六〇号線を少し南下し、咲花台の病院へ到着した。
「さすがに寒いだろう」
「コート着てても寒いっ……」
「はいはい」
「メール……梨音と、沙織から届いてる……」
『美月へ 元気かい? イエーイ! ついに、水谷啓子ちゃんのお店に、ジューススタンドが出来ました! もちろんジューサーは、たちばなデンキの業務用でーす メロンジュースうめええ! あ、桃花も一緒だよ また明日学校で会おうなー』
「相変わらずだね……」
そう言って、美月は翔に携帯を差し出して、メールを見せる。
「本当だ、お嬢様たちの商売上手には、参ったね」
「あ、次は沙織のぶん」
「どれどれ?」
『美月へ 先程は喧嘩腰になってしまって、本当にごめんなさい 翔さんに言われちゃった 一緒に看病すればいいじゃんって 明日からは、普段通りに、一緒に看病しましょう もう、泣いたり取り乱したりしないから 沙織』
「うーん、オレのメールが効いたかな」
「ありがとうございます。さてと、返事は……」
『沙織へ 明日からはノーサイドで 一緒に拓也さんの看病しようよ! 一緒にがんばろう 今日はゆっくり寝なよ 美月』
「こんなところかなあ……」
『追伸 今日は、おっぱい星人が学校までバイクで来て、わたしをかっさらって病院まで乗せていってくれた 他意はないよ あくまで事務的に 美月』
二人は、夜間入口と書かれた自動ドアをくぐり、やがて来たエレベーターに乗って、五階西病棟まで行き、ナースステーションで、面会者の名前を記入した。彼らに気付いた看護師が、二人を呼び止めた。
「霜田さんの弟さんと、確か……服部さんですよね。ご案内します、どうぞ」
「おいおい、兄貴個室かよー。面会謝絶だってさ」
「関係者以外は立ち入り禁止だそうです」
開け放された扉。カーテンを開けると、そこには、美月の命の恩人、霜田拓也が横になっていた。突然の弟の訪問にいささか、驚きを隠せない様子。
「だ、誰……?」
「……起きちゃ駄目!」
「よう、兄貴、久しぶり。服部さん、バイクで一緒に乗せて来たんだ」
「来たんだって……お前……」
「こんばんは、霜田さん! 翔くんったら、案外気配り上手でねー、わたし、明日は沙織と一緒に、また仲良く霜田さんの看病をすることになりました」
「そっか……一時期は、何かあったのかと思って、気が気じゃなかったよ」
「ご、ごめんなさい……」
「でも、こうして、みんなに看病してもらってるのも、うれしいんだ」
「霜田さんは、わたしの命の恩人です、助けて下さって、ありがとうございました!」
「うん、うん」
配膳台には、すでに夕方の病院食が並べられていた。
「じゃあ、美月ちゃん、兄貴に晩飯食わせてやれよ、俺がやると絵面的に変だからさ」
「じゃあ、霜田さん、どうぞー」
「うん、おいしい、おいしい」
「良かったー」
霜田 翔が、忘れていたエピソードを思い出した。
「あ、そうだ。美月ちゃん、例の携帯メール、兄貴に見せてみろよ」
「あ、ああ、そうね。はい、霜田さん」
「何々? 沙織ちゃんが親に叱られた?」
「そうです」
「で、翔、お前が演出して、仲直りさせたと……」
「そういうこと」
「じゃあ、これからは二人とも仲良くやってくれるんだ!」
「はいっ!」
「はー、良かった、助かった……オレ、ちょっと責任感じててさー」
「ごめんなさい」
「いいって! いいって! もう、無事に解決しそうじゃないか!」
「そうですねー」
美月が、忘れていたお土産を渡すことにした。
「あの、これ、つまらないものですが、どうぞ」
「おー、ありがとう。香枚井餅かあ。後で美味しくいただくよ」
「ありがとうございます!」
「じゃあ、俺らはこれで」
「お邪魔しましたー」
「ああ、ありがとう!」
翔は美月の方へ向き直って、彼女に尋ねた。
「美月ちゃん、確か、榛名天神駅前の和菓子屋さんだったよな」
「ええ」
「なら、そこまで送るよ」
「いや、遠慮します。一人で帰れます。だって電車がありますし……」
「オレに遠慮なんかすんな。俺のバイクに、乗ってけ乗ってけ!」
兄が、心配そうに声をかける。
「おい、翔、あんまり無理矢理乗っけようとするなよー」
「分かってるって、じゃなー兄貴」
「お邪魔しましたー」
◇ ◇ ◇
翔のビッグバイクは、咲花台から、香枚井を経て、そこから北へ、春名坂を駆け上がった。ここは、春名坂のいちばんてっぺん、榛名天神駅前だ。
「翔さん、今日は本当にありがとうございました」
「らしくないぞ。だって、素直にお礼なんか言うから……」
「……べ、別に、送ってもらって、嬉しいだなんて、思わないんだからね!」
「よし、その調子! じゃあ、明日も頑張れー! じゃなー」
「さよなら!」
エグゾースト音を響かせつつ、霜田 翔のバイクは、紅電の跨線橋を渡り、国道六〇号線へと南へ去って行った。
(10-2)お見舞いふたたび
ある日曜日。美月と沙織は、病棟の給湯室で、お茶を汲み、コップを洗ったりしていた。
「なあ、沙織、やっぱり拓也さんは、沙織のことが好きみたい……だぞ?」
「……私の口からは、何とも」
「本当だってば! 何かっちゅうと、沙織ちゃん、沙織ちゃん言ってるし……」
「……気のせいじゃない? 助けてもらったの、はっとりだし」
「あれは、たぶん駅員としての義務感だと思うな」
「そうかな……」
「あ、夕食の配膳台車が来た……沙織、行って来い!」
「ええっ? はっとりはいいの?」
「お前に譲るって……さあさあ、拓也さんに食べさせて来なさいってば、ほら!」
「ありがと……ね、はっとり……で、でも……」
「うじうじしない! 女は笑顔と度胸! さあ、行った行った!」
「もう、強引ね……」
晩の食事は沙織が持ち、お茶の入った小さな急須は美月が持つことにした。
「霜田さん、ご飯ですよー」
「はーい、マグカップでーす」
霜田拓也は、ギブスのはまった左肩が邪魔そうだ。少し痛みに顔をしかめながらも、何とか、彼女たちの方へ振り向いてみせる。
「おおー、サンキュー、ご飯かあ。ちょうど、お腹が空いていたところだったんだ。ありがとう」
「無理しないで! 霜田さん!」
「お願いです、安静にしていてください」
◇ ◇ ◇
高槻沙織は、窓際に花瓶の花を生けていた。服部美月は、お茶やお茶菓子を用意したり、し尿便の中身を捨てに行ったりしていた。甲斐甲斐しく、きびきびと、拓也の看病をしていた。
「はあ~っ、終わったー」
「終わったな、やっと」
「あらあら、二人ともお疲れ様!」
二人「看護師さん!」
「ありがとうございます」
「二人とも、今ではすっかり仲直り。りんごジュース買ってきたわよ」
二人「いただきます!」
拓也「あ、どうも済みません、じゃあ、ついでに、頂戴します」
拓也、沙織、美月が、同じりんごの缶ジュースを開ける。
「くーっ、冷たくて美味しい」
「健康に良さそうだな」
「あー、疲れた身体にしみわたるよ……冷蔵庫に生ビールねえかなー」
「霜田さん、怪我人はアルコール禁止です!」
「ああ、済まない、ごめんごめん、いつもの癖で……」
「霜田さんにとっては、冷蔵庫イコール、生ビールなんだよねー」
「身体のためですよ、謹んでください!」
「は、はい、わかりました」
ふたりは申し合わせたように、霜田拓也の介添えに当たる。
「霜田さんは、右腕大丈夫ですか? 食事もばっちり自分で出来ますか?」
「いや、ちょっとまだ無理っぽい……」
「じゃあ、スプーンで行きまーす。ホワイトシチューですよ、はい、あーん」
「あーん」
「ご飯も食べましょう……あ、今晩のデザートは、りんごですよー」
といった感じに、仲睦まじく「はい、霜田さん」「あーん」を繰り返すのだった。傍目で見ていて、やれやれー、と思ったのは、勿論、服部美月。全部食べさせるのに、かれこれ三十分は経過しただろうか。霜田の食器はすっかりカラになった。
「おおー、霜田さん、全部食べ終わりましたー!」
「済んだね、沙織、良かったじゃんか」
「じゃあ、わたしたち、地下の食堂に行って来まーす」
「行ってらっしゃい」
「じゃ、霜田さん、後ほどー」
◇ ◇ ◇
沙織と美月は、地下の食堂付近を歩いていた。
「やだ、あっちに霊安室がある……」
「もう、美月ったら縁起でもない、こっちに購買あるよ、雑誌でも買おうよ」
「霜田さん好みの雑誌って、こんなのかな」
「いやー、こっちのファッション誌でしょう」
「競馬新聞もあるぞ」
「やだー、拓也さんは、確かギャンブルやらないはず」
「じゃあ、後で何か買ってくか!」
やがて、沙織と美月は、食事を共にするのだった……。
「それがね、婦長さんから聞いたんだけど、霜田さん、次第に良くなっているみたい」
「ほー、そいつは良かった」
「お待たせしました」と、店員から差し出された、沙織の親子丼と、美月のカツ丼。美月は、沙織に気を遣って、カツの一切れを、親子丼の上に乗っけた。
「み、美月はいいの? 私にくれるの?」
「鶏ばっか食ってんじゃない! もっと元気出せ、元気!」
「う、うん、ありがとう……」
◇ ◇ ◇
五階東病棟に戻った、沙織と美月。沙織の手には、新聞と週刊誌。美月の手には、みかんと市販のお菓子。
「霜田さーん」
「戻って来ました!」
「はい、新聞と週刊誌です」
「元気になるように、はい、みかんとおやつです」
「おおー、ありがとう! お金出そうか?」
「ちょーっ! 霜田さん、怪我、怪我!」
「お金は結構ですから、起き上がると身体に毒です!」
「ああ、ありがとう……ごめんね」
「まあまあ、そう気を遣わずに」
「そうそう、元気になることが、今の霜田さんのお仕事ですよ」
「お仕事かあ……」
「じゃあ、私たち、これで失礼しますー」
「頑張って治してくださいね」
「おお、じゃあねー、また今度!」
紅電咲花台駅に到着し、下りの急行電車を待つ二人。
「ところで沙織、何か忘れてないか?」
「えー、何が?」
「期末テストだと言っているー!」
「期末……そういえば、もうそんな時期かも……」
「はああ、プリントもらっといて、もう忘れてるし……」
「どうすんの、はっとり?」
「特訓じゃあー! わたしん家で勉強の大特訓だー!」
「ええっ! 土日が……わたしの土日がつぶされてゆくー」
「沙織んちに寄るから、身支度をして、着替え持って、霜田タクシーで一気に坂の頂上へ行く! タクシーチケットあるんだろ?」
「ある、あるある……わ、わかったから、どうか落ち着いて……」
「看病にかまけて、成績落としてちゃ、駄目だろ?」
「家に電話かける……」
相も変わらず、テストの度に、美月の家へ呼び出されては、みっちり勉強させられる羽目になる沙織だった。
「はああ……勉強かあ……」
沙織は、深い深い溜息をつくのだった……。