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第一話 美月のいちばん長い日

 紅電べにでん榛名天神はるなてんじん駅前に停車中のバスに乗ったまま、アナウンスを聴いているのが、服部美月。彼女が、これから紹介する四人組の中では一番早起きなのだった。


『室山三四系統、榛名天神駅発、春名台団地、春名坂小学校経由、紅電香枚井駅行きです。料金は降車時にお支払い願います。発車までしばらくお待ち下さい。室山三四系統……』


(ん、んがっ。ふああああ……。何だ、まだこんな時間かあ。あの子たち、まだ寝てんだろうなあ、きっと……)


 背広組やスーツ組が、どんどん榛名天神駅に向かって先を急いでいる中、このバスは、まだガラガラだ。よほど春名坂の途中に用事がある人以外、始発から乗車するのは、彼女ぐらいなものだ。そもそも、各駅停車ひと駅で済むはずなのに、なぜわざわざバスに乗るのか。それには理由があった。同級生を拾って、急行停車駅の香枚井かひらい駅まで送迎するのが、彼女の役割。もっと言えば、美月はしっかり者で、みんなのタイムキーパー役でもあるのだ。みんなの保護者、とも言う。


(髪の毛、大丈夫かなあ。寝癖とかついたりしてないよねえ……)


 後部扉を見渡す四角いバックミラーに向かって、必死に髪を直している美月。それを見た運転手さんが乗ってきて……。「スタイル決まってるよ、お嬢さん」と、苦笑いしながら言いつつ、バスの運転席に陣取るのだった。ちょっと赤面する美月。濃紺のセーラー服は、スカートも長め。赤いラインと緑色のスカーフ。白いハイソックスと革靴とカバン。これが正統派の、県立敷島女子高校生のあるべきスタイルなのだ。


『発車します』


 ブザーが鳴ると同時に扉が閉まる。バスの停留所を一八〇度、南に向かって転回したバスは、一路、何キロにもわたる、なだらかな坂、春名坂を香枚井方面に向かって下って行く。乗客は、まだ彼女ひとりだった。新緑の季節、並木の緑、木漏れ日が瞳に優しい。


『室山三四系統、榛名天神駅発、春名台団地、春名坂小学校経由、紅電香枚井駅行きです。お降りの際はボタンでお知らせ下さい。料金は降車時にお支払い願います。次は、春名坂上、春名坂上です』


 沈黙が流れる。少女は窓に頬杖をついて、緑と日差しのコントラストが織りなす陰と陽のなかを激しく駆け抜けている。崖下に流れる鍵堀川かぎぼりがわ水面みなもに映る、きらきらとした太陽を眺めながら……。


『次は、春名台団地、春名台団地です。お降りの際はボタンでお知らせ下さい』


(桃花のやつ、寝坊してないだろうなあ……。なんか昨日、徹夜で勉強するって言ってたけど、寝坊したら、置いてくぞっ)


「あ、美月ちゃん、おはよう」

「おはよう、桃花。今日は遅刻しなかったんだ」

「そう、七個目の目覚まし時計でやっと起きて……」

「七個かよ! なんだよ、その数! 目覚まし時計七個って、あんたどんだけ!」

「そう、それで、お母さんに制服に着替えさせてもらって……」

「着せ替え人形かよ! マネキンか、あんたは!」

「でも、勉強したよ……」

「ほら、スカーフ曲がってるぞ! やり直し!」


『次は、春名坂小学校、春名坂小学校です。お降りの際はボタンでお知らせ下さい。電器のことなら、たちばなデンキ。たちばなデンキへは、春名坂小学校でお降りが便利です』


(このアナウンス……。本当に商売っ気のカタマリなんだから、あの親子と来たら……)


「よー、諸君、おはよう!」

「梨音ちゃん、おはよう!」

「美月も、おはようー」

「あー、はいはい」

「なに、美月。その冷たい態度」

「いや、毎日毎日、たちばなデンキの宣伝聴いてると、飽き飽きして来てさー」

「商売上手って言ってよねー、これでもお金かかってるんだからさー」

「そうね、確かに商売……って、あんた、そのスカート丈!」

「いやー、ちょっと夏用ということで、ちょっとだけミニにしました。自分でミシン使って」

「でも、それ、校則違反だから」

「いいじゃんかー、固てえこと言うなよ、ふたりともー」

「学校指定のスカート買うか、ジャージのままで帰りなさいよ、帰りは。まったくもう」

「風紀委員じゃあるまいし、ここは大目に見てよ」

「だーめ、わたしが許しても、学校じゃダメよ」

「けーち。校則反対!」


『次は、香枚井三丁目、香枚井三丁目です。お降りの際はボタンでお知らせ下さい』


「おはよう、みんな!」

「おはよう、沙織!」

「おっす、さおりん!」

「梨音……なに、そのスカート!」

「いやあ、夏用にちょっとだけ改造しただけなんだけどねえー」

「ちょっとどころじゃないでしょー」

「校則違反だよねー」

「というわけで、全員揃ったようだね。ほっとしたよ、わたしは」

「わたしは、沙織が常識人であることにほっとしたよ……おい、そこのアホ二名」

「えー、まとめてバッサリだー」

「あんまりだー」

「桃花ったら、目覚まし時計七個目でようやく起きて、お母さんに着替えさせてもらって、スカーフが曲がってたから、わたしが直して……ふう」

「美月も大変だよねえ……」

「ただ、坂のいちばん上に住んでるだけで、子守りさ、へっ。いっそ、バスやめて、電車にしようかな。アホ二名ほっといて」

「いやだ! 置いて行かないで!」

「ともだちでしょ、わたしたち!」


『次は、終点、紅電香枚井駅前、紅電香枚井駅前です。どなた様も、お忘れ物無きよう、お支度下さい』


「さあ、行くよ、みんな!」

「おー!」

「うー……ね、ねむい」

「さすがは沙織といったとこか……」


 ところで最近、梨音が小耳に挟んだ噂がある。そんな、ある噂の真相を、直接、沙織にぶつけることに決めた。


「ねえ沙織、あのー、紅電の駅員さんと、最近いい感じ?」

「べっ! 別に、何にもないわよ」

「おお、何だそのリアクション! ね、ね、本当は何があったの?」

「か、関係ないでしょ!」

「ほらー、顔、どんどん赤くなって来てるよー、熱いねー」

「ただ……」

「ただ?」

「わたしんちのお店のケーキを渡すだけなんだからっ! じゃあね! お先ッ!」


 そう言い放つと、ずかずかと駅に向かって、ひとりで歩き始めた。


「おおー」

「美月さん、これはつまり、アレですかね」

「アレだよ」

「ここで観察しましょう」

「今度の急行を逃しても、次の通勤急行でも充分間に合う……一本遅らせるか」

「放置プレイだね」

「そ、放置プレイ……って、どこで覚えたのその言葉!」

「しーっ!」

「悪い、わたしとしたことが……つい興奮が抑えられず……」


 降車用バス停の影に隠れる女子三名は、明らかに周囲の耳目を集めていた。隠れながらも、彼女たちは、高槻沙織の一挙手一投足を観察していた。バス停からは、東口改札が丸見えだった。何か、駅員と話をしているようだったが、しばらくすると、「バカっ」という声が聞こえたかと思うと、沙織は涙をぬぐいながら、鍵堀川の橋を渡って、葱北本線の香枚井駅に向かって駆けて行った。


「うん。誰だ、泣かせたの!」

「それじゃあ、乙女の敵だよー」

「あ、携帯にメールが……」


『美月へ いまから葱北本線ぎほくほんせんに乗ります 気にせず先に行っててね 沙織』


「おのれ、また、あの改札の駅員かー!」

「何があったんだろう……」

「乙女の敵はわたしの敵!とにかく、ものども、行くぞっ!」

「おーっ!」


     ◇ ◇ ◇


 紅葉野電鉄、香枚井駅、東口改札を目指して駆け込む、美月、梨音、桃花。


「済みません、霜田拓也さんはいますかー」

「駅長の河上です。おはようございます。霜田なら、券売機の裏で落ち込んでるよ」

「なに? 落ち込んでる!」

「本当だわ」

「なんか、がっくりと来てるね、こっちも」

「ええ、プレゼントを持って来られたお嬢さんがいたんですけど、会社の社内規定で、プレゼントを受け取ってはいけない決まりになっていることをお話しし、『気持ちだけは受け取っておくよ』と言ったら、どうやらお嬢さんを傷つけたらしくって……」

「ええ、傷つきますとも!」

「キテイもテイキもへったくれもないわー」

「それは余りにも可愛そう過ぎませんか」

「うーん、午後から霜田は休みだから、その時に、彼の自宅に行くといいよ。霜田タクシーって建物だから、すぐに分かると思うよ」

「しょうがないわね……じゃあ、沙織を説得します」

「ええ、勤務時間中は、建前としてプレゼントは受け取れないんだけども、ここが済んだら、別に構わないから……何だか、泣かせてしまったようで、上司としても、誠に申し訳ない」

「今度泣かせたら、学校じゅうに広めますからね!」

「学校じゅうで、紅電に乗らない運動を起こしてみせます!」

「女の子を泣かせないように、霜田さんによく言っておいてください」

「わかった。わかりました。霜田も確かに杓子定規なところがあったから、よく言っておきますよ」

「頼みますよ!」


 一通り、気が済んだ模様の敷女三名。沙織にメールを打つ美月。


『沙織へ 駅長直々に謝罪があったので 勤務を終える午後に 春名坂下 霜田タクシー本社に みんなで一緒に行こう そこで、ケーキを改めて渡そう 彼は充分反省しているじゃない? だから元気出して 美月』


「券売機の裏で落ち込んでいる写メも添付して、これでよし、送信っと」ピッ……

「沙織、元気出るといいねえ」

「機嫌、直ればいいと思うんだけどね」


『間もなく、二番線、通勤急行、海浜神崎行きが、八両で参ります。停車駅は刈羽台、咲花台、紅電室山、塩瀬、紅電岩崎、岩崎台、紅電敷島、牡鹿沢、紅電神崎、終点、海浜神崎の順に停車します』


「これ、混むんだよねー」

「皆の衆、痴漢がいたら声を出そう、声を」

「つーか、あんたが一番スカートの丈が短いんだけど」

「じゃ、じゃあ、行きますか」

「話をそらすなー」


『香枚井、香枚井です 二番線、通勤急行、海浜神崎行きです。終点までこの電車が先に到着します。次は、刈羽台、刈羽台です。間もなく発車します、お急ぎ下さい』


 ……電車が塩瀬駅を出て、鍵堀台駅を通過したあたりで、梨音は太腿に奇妙な感触を覚えた。もぞもぞと、何かをまさぐっているような、そんな感じだった。


「やっ……」

「どうした? 梨音……」

「きゃああああ痴漢ー!」

「どうしたどうした」

「何だ何だ」

「痴漢だって?」

「取り押さえろ!」

「車内電話使え、誰か!」

「美月ちゃん、こいつのアゴをアッパーカットだ!」

「了解!」

「ぶほわあああー」


 既に、その場に居合わせた背広組が、痴漢の犯人を羽交い締めにしていた。服部美月の、強烈なアッパーカットを食らった男は、その場でただちに悶絶した。


『間もなく、紅電岩崎です、お出口左側です』


「あのー、先生? 服部美月です。おはようございます。いま、立花さんが岩崎駅に向かう通勤急行の車内で痴漢に遭いまして……み、みんなで取り押さえました。通勤客の方にも手伝ってもらって……はい、遅刻というとこで……今から警察に向かうかも知れませんので……はい、わたしと、柏原さんも一緒で、三人で……はい、以後気をつけます、では」美月は、電話を切った。


 悪い予感は的中した。早速、メールを打つ美月。


『沙織へ 案の定、梨音が痴漢に遭った もうすぐ紅電岩崎駅 先生には遅刻の電話入れた 心配しないで 犯人はノックアウトしたから』メールは送信された。


 美月は、助けてくれた会社員の面々に頭を下げた。


「皆さん、どうもありがとうございました」

「いやいや、当然のことをしたまでだよ」

「そうそう、俺らのことは気にしないで」

「さ、警察に連れて行くぞ! しゃきっと歩けコラ!」

「わたしたちも行くよ」

「み、美月……うええええええ」

「どうした、梨音らしくないぞ! しっかりしろ!」


『紅電岩崎、岩崎です。一番線の電車は、通勤急行、海浜神崎行きです。停車駅は、岩崎台、紅電敷島、牡鹿沢、紅電神崎、終点、海浜神崎の順に停車します』


 そこに、ホームに駅員と警察官が現れた。


「痴漢はこのドアで間違いないですか」

「ああ、こいつだ」

「被害に遭った子は……」

「この子です」

「ちょっと署まで来てもらおうか。あ、君たちはこの子の友達かい? 君たちも一緒に来てもらおうかな」

「わたしたちもですか?」

「こりゃ長引きそうだね、美月ちゃん」

「そうだな、桃花……」


     ◇ ◇ ◇


 室山県警、岩崎署。犯人とは別室で、婦人警官の前で、梨音たちはお説教を食らっていた。お説教と言っても、半ば呆れられたような感じだった。主に、梨音のスカートの丈について……。


「敷女って、わたしも憧れたお嬢様学校よ。それなのに、なに、その丈の短いスカート。なあに、改造したの? 自分で?」

「はい、しゅみません……その通りです……」

「泣くな、梨音」

「ここでジャージに着替えればいいじゃない」

「そうね。女子更衣室があるから、後でそこ使いなさい。あと、お父さんももうじきクルマで来るから」

「お、親父が来るんですか!」

「当たり前じゃない」

「怒られても、仕方がないよね」

「自業自得だよー」


 やがて、ダダダダダダと、階段を上がってくる音が聞こえたかと思うと、扉が開いた。


「こちらです」

「り、梨音は無事かああ!」

「お、親父……」

「このバカ、心配させやがって! どうもすみません。梨音の父です」

「いいえ、私どもは別に……可愛そうなのはこの子です」

「だから、スカートの丈は詰めるなとあれほど!」

「ご、ごめんなさああああー」

「美月ちゃんと、桃花ちゃん。巻き添えにしてごめん。授業、遅れるだろ。ここは僕にまかせて、先に学校に行きなさい。単位落とすとまずいからな。梨音! これ終わったらスカート買いに行くぞ! 丈詰め禁止だ! いいなっ! 今日は欠席だ」

「い、いいんですか、おじさん」

「話なら、僕が聞いてもいいそうだから、ふたりとも、学校に急ぎなさい」

「はーい」


 室山県警岩崎署を出るふたり。服部美月と、柏原桃花。


「こ、ここからどうやって駅に戻るんだっけ」

「パトカーで来たから、よくわかんない。あ、バス停があるよ、こっちこっち」

「岩崎一六系統、岩崎東中学校経由、紅電岩崎駅行きだって」

「じゃあ、学校の三時限目に間に合うかも!」

「なら、わたし、ちょっと学校に電話する」


 おそるおそる、携帯電話をかける美月……。


「もしもし、相川先生はおられますか……はい。あ、先生ですか? 二年三組の服部美月です。おはようございます。岩崎警察署は、梨音……じゃなかった、立花さんとお父さんが何とかするそうです。え、原因? そ、そうですねえ……立花さんがスカートの丈を自分で詰めすぎたとか、いろいろです」

『★§@*#%◎◆△▽※~~~!』

「ええ、はい、わたしも止めとけ、校則違反だから、って言ったんですけど、ついに詰めちゃって……。で、案の定痴漢に遭ったと、そういう理由です」

『~~~~~~!』

「と、とにかく、大至急学校に戻ります。どうもお騒がせしました。ではっ」


 美月は電話を切った。そして、桃花に向かって振り向いた。


「美月ちゃん、相川先生、怒ってた~?」

「それはもう、梨音に対してはね」

「停学かなあ」

「それは大丈夫。スカートが元通りに出来上がるまで自宅謹慎の予定」

「なるほど」


 『岩崎一九系統 木庭団地 県立岩崎高校 岩崎東中学校経由 紅電岩崎駅行きです 整理券をお取り下さい 発車します』


「あ、このバスじゃなかった。これじゃあ遠回りになる」

「先に言えよ、桃花~!」


     ◇ ◇ ◇


 服部美月、柏原桃花の遅刻組二名が、おずおずと教室に入る……。抜き足、差し足、忍び足……。まだ授業の間の、休み時間のようだった。


「よっ、はっとり!」


 ポンと肩を叩かれる美月。


「う、うわあああ!お、脅かすなよ、何だ沙織かぁ!」

「ごめんごめん……で、なあに? 立花梨音が逮捕されたって?」

「違う違う。彼女は痴漢の被害者です……って、沙織、もう立ち直ったの?」

「うん、そうねえ。落ち込んでる拓也さんの写真見てたら、何だか可笑しくて」

「あのフォトが効きましたね、隊長」

「だから、ワタシは隊長じゃなーい!」

「ぶっ、くっ、あっはっはっはっは~」

「もうっ、さっきからこの調子で、隊長、隊長って、いい加減に……」

「じゃあ、いい加減にします、隊長!」

「も、もうダメ、可笑しすぎる~」


 あー、やれやれ、泣いたカラスがもう笑った、と言わんばかりの表情。なんでえ、心配して損した、と言わんばかりの表情。


「あ、やばい、遅刻届出さなきゃ」

「いいところに気づきましたね、隊長」

「その隊長ネタ、いつまで引っ張る気だ、さ、行った行った」

「いざ、職員室へ!」


 職員室は階下の一階にある。そこに、HR担任の相川杏子先生を訪ねることにした。


「失礼しまーす」

「相川先生、いらっしゃいますかー」

「あたしはここ! んもう、探したわよ!」

「うわぁ! 後ろに!」

「脅かさないで下さい!」

「もう四時限目が始まるけど、事情を聞かせて。一体、何がどうなって……ああ……」

「先生!」

「先生が倒れちゃう……」

「……もう倒れる寸前よ……心労で、朝から気が気じゃなくって……がくっ」

「杏子先生!」

「椅子……に戻られた方が……いいと……」

「はいはい、そうさせてもらうわ。あたし、マジで倒れそうで……」

「わたし、お水汲んで来ます!」

「あ……アタマも痛いわ……」

「保健室から、頭痛薬をもらってきます!」

「いいの、あたしのおくすりがあるから……」


 ごきゅごきゅと頭痛薬を飲み干す先生を見て、二人がつぶやいた。


「何だか、心配かけちゃったねー」

「先生に心配をかけたことが、何だか心配で……」

「ぷっはー! これ、医療用の頭痛薬よ。気付け薬みたいなものかしら」

「そ、そういうものなのですか?」

「そう、大人になると、いろいろとね。人間関係、上下関係エトセトラ……」

「で、ですね、これ、遅刻届なんですが、あのー、理由は何て書きましょう」

「え? 理由は……『私事につき、遅刻致しました』で、今回は勘弁してあげるわよ」

「す、済みません……」

「そのへんの、空いている椅子に座りなさい、立っていられると、何だか落ち着かないから」

「はあい」


 相川杏子先生は、失いかけた理性をようやく取り戻した様子で、服部美月、柏原桃花の方へ向き直った。


「それで、立花さんと一緒に通学してるんでしょ、いつも」

「はい、私が先導して、香枚井までバスで通学しています」

「だったら、何で友達だったら、スカートの丈を詰めるの、止めさせないの?」

「は、はい、も、申し訳ありません」

「警察沙汰よー。なんだ、敷女ってそんな程度か、ってみんなに思われちゃうの!」

「は、はあ……」

「まあ、あなたたちに怒ってもしょうがない事で、むしろ、あなたたちは、被害者ですものね」

「今も、立花さんのお父さんが、代わりに婦警さんの話を聞いているみたいです」

「それで、君たちは学校へ急げ、話は僕が代わりに聞くから、って……」

「優しいお父様ね。感謝なさい」

「立花さんは、明日登校する予定だと、彼女のお父様が……」

「なんでも、今日にでもスカートを作り直して、出直せ!っておっしゃってました」

「正論ね。これ以上迷惑かけられちゃ、あたしも立つ瀬がなくて……」

「は、はあ……」

「これでもねえ、かなり、みんなをかばって来てるのよ。あなたたち、知らないでしょ」

「はい……」

「でも、どうしようかなー。これ以上、敷島女子に泥塗られちゃ、かばおうにも、かばいきれなくて」

「先生! 梨音の退学だけはご勘弁を~!」

「先生! そこを何とか!」

「じょ、冗談よ。本気にしないでー。まったく、冗談も言えやしないわー」

「ふー」

「はー」

「さて、と。立花さんの反省文、何枚にしようかなー。原稿用紙で五〇〇枚ぐらいかな」

「に……ご……じゅ、じゅうまん文字い~!」

「そんな殺生な~!」

「いいえ、例え、五〇〇万枚書かせても、まだ足りないぐらいよ!」

「まあ、五〇〇枚で、退学が許せちゃうなら、これぐらいで、いいかも知れませんね」

「そうそう、物は考えようです」


 ダァン!……と、机を叩いて、先生はこう続けるのでした。


「ふー。なになに、あたしのクラスの生徒が、勝手にスカート丈を詰めて、超ミニにした上で、電車で痴漢に遭いました……って、どのツラ下げて、上司に報告すんのよー!」

「先生、落ち着いて!」

「お水、お代わり持って来ました!さあ、どうぞ!」

「ふぃー、あんがと。また理性のたがが外れるところで、危ない危ない……」


 すると、また杏子先生は、ハンドバッグから頭痛薬を取り出すのでした。


「先生、そんなに呑んじゃ身体に毒です」

「無理、しないでくださいね……」

「そうねー。本人いないんじゃ、これ以上怒る気にもなれないし……前向きに考えることにするわね。あなたたち、本当におつかれさま……暴漢に、アッパーカット食らわせた、服部美月さん?」

「は、はいー!」

「女子高生が、公衆の面前で、制服姿で、野郎を殴るなんざ、大きな間違いです!」

「ご、ごめんなさい……」

「……ふっ、いいのよ、もう。済んだことだし。うっかり忘れたことにしておくわ。じゃあ、大至急クラスに戻って頂戴、いいこと?」

「わ、わかりましたー!」

「で、では、失礼しましたー!」


……二人とも、脈拍ドキドキ、心臓バクバクだった。決して、ときめいたとか、そんなレベルの話ではなく、大人の恫喝ってーのは、とても怖いなあ、といった心境だった。


「女子高って、ある意味怖いねー」

「特に、あの柔和な先生がキレた時は、もう胃がおかしくなっちゃいそうで……」

「言えてるー」

「さあ、静かに戻りましょう、美月ちゃん……」


     ◇ ◇ ◇


 六限目も過ぎて、放課後。県立敷島女子高等学校、略称「敷女」(しきじょ)には「家庭科部」というものが存在する。これは、主に和洋のスイーツと、お裁縫、茶道も含めた家庭科一般を指してまとめて「家庭科部」としたものなのだった。お題は一週間毎に決められ、たとえば「今日は洋風スイーツの日」などと、顧問の柴島祥恵くにじまさちえ先生がお題を出すのだった。


 場所は家庭科室。ここがメインの部室になる。三階東側の、大きなベランダがある部屋。よくある流し台のある部屋。家庭科準備室、裁縫室も部室に入る。裁縫室は飲食禁止。家庭科室と、家庭科準備室の東半分が飲食可能。冷蔵庫も完備。


「はーい、皆さん、今日は、レアチーズケーキの仕上げですー。あとは、ブルーベリージャムを載せて完成でーす。うふふー♪」


 服部美月はダラダラ汗をかきながら、一人でぶつぶつつぶやいていた。


(チーズ! チーズケーキ。しかも濃厚なレアチーズケーキ! どうする美月! わたしって、作ってはみたものの、チーズが大嫌い……というより、アレルギー起こすんだよな。どうか神様、食わずに帰られる方法を教えて。食わずに、持って帰りたいです……)


「はっとり、何青ざめてるの? 汗びっしょりよ」

「う、うわー、びっくりした、なんだ、沙織かあ……」

「なんで、おどおどしてるの? はっとりのも美味しそう♪」

「あ……あの……」

「はい?」

「お、お願いがあるんだけども……こ、これ、いらないから、持って帰って……わわわ、わたし、チーズって大の苦手で……」

「何言ってるのー、ブルーベリージャムとのコンビネーションが合うんじゃない♪」

「い、いや、わたし、それ食べたら、た、たぶん間違いなく病気になる……」

「じゃあ、わたしのあげる。あーん♪」

「ご、ごめん、ど、どうしても食えん! たぶんジンマシンになる!」

「はい♪」


 ぱく。ごきゅ。ごっくん。


「ね、美味しいでしょう、何ともないんだから」

「あ、食べちゃった。食べちゃったということは、わたし……か、かゆい!身体がかゆいっ!」

「ええーっ、もう?」

「あー、腕がかいかいかいかい……かゆいっ! わたし、チーズを含めた、乳製品アレルギーなんだからっ、もう!」

「ごめんごめん……」

「沙織は、何アレルギーだっけ……」

「わたし? えー、あずきかなあ」

「ふっ、覚えておきなさい、今度、滅茶苦茶濃厚な、羊羹を食べさせてあげるから」

「そ、それだけはご勘弁をー!」

「それとも、あずきがぎっしりの、きんつばか、ぜんざいはいかが?」

「そ、それだけは勘弁!」


 放課後も終了間近、みんなで自分が作ったチーズケーキを試食する時間だった。


「うあ、和菓子屋のお嬢様にしてはなかなかね!」

「見栄えはね……」

「味見はして……ないか」

「じゃあ、わたしの作ったチーズケーキ、まるっと沙織にあげよう。味には自信がある」

「ごっつあんです」

「本当は、チーズ見ただけで卒倒しそうになったけど、あの生臭いプロセスチーズよりかはマシだからね」

「しかし、美月のチーズ嫌いは、筋金入りだなあ……」

「さて、どうしたのかなー、沙織ちゃん、わたしのケーキ、プレゼント包装なんかして」

「本当だ、どうしたの、さおりん?」

「べっ、別に、何もないわよ。霜田さんにあげるだなんて一言も……」

「バレてるバレてる」

「あ、携帯のメールだ……梨音からだ……」


『沙織へ スカート新調した わたしは真人間になるつもりです。なので、今から親父と学校へ行きます 帰りは一緒に帰ろう 立花梨音』


「どれどれ~?」

「ぷっ、真人間だって♪」

「更正したな、梨音ちゃんも」

「ということは、学校に来ると」

「来るとすれば、職員室だよね」

「帰りがてら、寄るとしましょうか」


 放課後の職員室前。相川杏子先生が、立花親子に、目くじらを立てて怒っている。


「いいですか? わかりましたね!」

「はい……」


 とぼとぼと職員室から出てきた親子ふたり。立花梨音の父、功武さんは、水色の作業服姿だった。いかにも「電気工事してます!」というような出で立ちだった。そんなお父さんが、拳を振りかざして娘に向かって怒鳴っている。


「いいか、大体、お前が無茶かますから! 反省文は手伝わないからなっ!」

「はあい……」

「あ、君たちは!」

「こんばんは~」

「梨音ちゃんは、反省文何枚になったんでしょうか、おじさん」

「ああ、先生は、もう読むのも面倒くさいから、十枚にまけておくってさ」

「助かったな、梨音!」


 梨音は、涙声で絞り出すように謝った。


「はい、しゅびばせん……」

「じゃあ、僕は先に仕事に戻るから、梨音のこと、頼むよ!」

「わかりました!」

「集団下校します!」


 敷女指定の、丈の長いスカートを新調した梨音は、朝のセクハラといい、その後、身に降りかかって来た、あらゆる種類のパワハラを受け、まるで別人のように、おしとやかになっていた。


     ◇ ◇ ◇


『香枚井、香枚井でございます。三番線の電車は、急行、楠葉くすのは行きです。停車駅は、吾野本陣、紅葉野、吾野以降の各駅に停まります……』


「ふあー、着いたー」

「お疲れさま、梨音ちゃん」

「つ、疲れたあああ」

「帰りは、何事もなかったな、沙織」

「そうだね美月……わたしも疲れた」

「午前中の授業、ノート借りて来た」

「さすがは美月さん!」

「おっと、露出狂には見せないからな、お前、自力でやれ」

「えー、ちょっとぐらいいいじゃん、ぶーぶー」

「じゃあ、桃花には後で貸してあげよう、露出狂は放って置いて」

「……ろ、露出狂キャラが定着してしまった」

「あなたには反省文があるでしょ、だからそれから」

「……あ、ケーキ!」

「そうだ! 霜田さんに渡すんだったっけ、沙織?」

「電話してみなよー」


 数字をそそくさとプッシュする沙織……。


「あ、もしもし……はい、高槻沙織です。はい、みんな一緒です……うわ、いいんですか? 本当に? じゃあ、今から伺います」

「で、何だってさおりん?」

「霜田さんは帰ってるんだけど、う、うちのお爺さんも来てるって……」

「あの、元祖パティシエの?」

「まあ、安全といえば安全でしょう」

「ほら、霜田さんだけじゃ心配なんじゃない? 万が一、危ない展開にならないとも限らないし!」

「まあ、ムードぶち壊しだけどねー」


 香枚井三丁目、紅電無線グループ、霜田タクシー前。いそいそと、乗務員たちが、車内清掃を行ったり、休憩を取ったりしている。駐車場の二階の軽量鉄骨の部屋が、事務所兼家屋になっている。


「や、やあ、君たち……」

「おお、沙織、来たか!」

「お爺さん!」

「ど、どうも……」

「お邪魔しまーす」

「失礼しまーす」


 高槻沙織の祖父、高槻康久と、霜田浩二郎社長、霜田家の長男、拓也が、食卓に陣取っていて、かに鍋がぐつぐつ煮えていて、今やビールで酒盛りが始まろうとしていた。


「うわあ、かにだー!」

「ちょっと梨音、はしゃぎすぎ!」

「じゃあ、プレゼント贈呈と行きますか、沙織」

「う、うん……あのー、朝に渡し忘れたプレゼントです」

「ありがとう。中身は……チーズケーキかぁ!」

「は、はいっ!」

「勤務中は本当に申し訳なかった。今朝はごめんね。美味しくいただくから」

「ありがとうございます!」


 高槻の爺さんが、口を挟んだ。


「みんなの家には、ワシが連絡を入れといたから、ゆっくりしたまえ」

「ありがとうございます。でも、制服にお酒の匂いがついちゃうし……」

「心配いらん、ビールぢゃから! それに……」

「はい?」

「沙織のボデーガードをせねばならんからな。変な虫がつかんように」

「お、お爺さん……ムードぶち壊し……」


 霜田のお父さんが、口を挟んだ。


「さあ、冷凍とはいえ、季節外れのかにだよ。ちょっと食べて行きなさい」

「いえ、遠慮します……」

「ええ、さっそくいただきま……ぐはっ!」


 美月の肘鉄が、梨音の脇腹にヒットした。


「梨音はちょっとは自重しろ!」

「だ、だってえ……」

「では、私達はこれで……」

「かに、食べて行かないのか?」

「ボデーガードもおるぞ!」

「この後、勉強もありますし……」

「それに、制服がお酒臭くなったら、明日学校で何言われるか……」

「んじゃあ、楽しんでくださいね!」

「霜田さん、飲みすぎないでね!」

「あ、お疲れさまでした~!」

「失礼しました~」

「お、おい、かにが煮えてるのに……折角買ったのに……」

「いやいや浩二郎くん、あれが青春ぢゃよ」

「年頃の娘さんって、そういうもんですかね」

「うむ!恥じらいこそが、伝統ある敷島女子の生徒ぢゃ!」


 いそいそと、霜田タクシーを後にする四人。


「うわー、助かったー」

「あのまま酒盛りにつきあう訳にはいかないよねー」

「お酒臭くなったら、着替える制服もないし……」

「とりあえず、バスに乗りましょう!」

「沙織、良かったな!プレゼント渡せて」

「じゃあ、沙織、私たちはバスに乗って帰るよ」

「おやすみー」

「じゃあまた明日~!」

「いい夢見ろよー」


 香枚井三丁目バス停に陣取る、美月、梨音、桃花。


「ちぇー、かに食べたかったのにー」

「お前は反省文があるだろう?」

「そうね、ちょっとあのミニスカートは……ね……」

「さて、反省文かあ……何書こうかな……」

「梨音。お前、自分の胸に手を当ててよーっく考えろ」

「え、Aカップだけど……」

「ちっがあああう! 校則違反のスカートと、遅れた授業のノートのことだ」

「え、そうだったっけ?」

「もう、お前には絶対ノート見せない。自力でやれ」

「美月のけちー」


 そこへ到着する紅電バス。


『室山三四系統、春名坂小学校、春名台団地方面、紅電榛名天神駅行きです 発車します』


 こうして、美月のいちばん長い日は終わろうとしていた。

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