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リラの医療所は、常に温かい雰囲気に満ちていた。そこに通うようになってすぐに、クジョウはリラが兵士達にまるで母親のように慕われていることに気付いた。怪我の絶えない屯所ではあるが、治療のためだけではなく、ただリラと話したいがために多くの兵士が医療所を訪れる。
また、リラは医療者としても優れていた。彼女の処方する薬を求めて、街の人々までもが医療所を訪れる
クジョウ自身、蠱使いとして森を渡る立場上、植物には詳しかった。少なからず薬草の種類や扱いも知っている。だが、リラの知識は比べ物にならぬほど深いものだった。
「どのようにしてそこまでの知識を身につけたんですか?」
穏やかに温かい日、いつものようにリラの薬剤作りを手伝いながら、クジョウは聞いた。リラは小首を傾げながらおっとりと言う。
「身につけた、ということとは少し違うわね。私は誰かに教えを乞うたことはないのよ。これはほとんど、自己流なの」
クジョウの驚きを見詰め、リラは笑窪を浮かべた。
「私は人よりほんの少し、目と耳がいいのね。植物を見ていると、その植物がどんな効能を持っているか、どうすればその力を引き出してあげられるのか、なんとなくわかるのよ。同じように、患者を見ていても、その人はどこが苦しいのか、どうすれば少し楽にしてあげられるかがわかるの」
「見るだけでわかるんですか?」
「こう言えばいいかしら。私は他の人には聞こえない小さな声を聞くことが出来るの。その命が放つ囁きのようなものを聞き分けることが出来る。私は直感と呼んでいるけれど」
世の中には五感を超えた能力を有する者が時折いる。リラは、つまりそういう力の持ち主なのだろう。クジョウは何故リラが軍隊の医療兵士をしているのか、その理由を垣間見たように思った。リラほどの能力があれば、独立して医療所を開設することも出来よう。だが、五感を超えた能力を持つ者は、時に恐れられ、忌まれる。もしかするとリラにも、人に厭われ追われた経験があるのかもしれなかった。
クジョウの思考を読んだように、リラが言った。
「直感のおかげで、私は多くのことを得たけれど、とても多くのものを失いもしたわ。時に、人は自分に見えない者を見る人を恐れるのね。でも自由兵士団は誰であろうと、志のある者ならば受け入れてくれる。とても温かい場所よ」
「でも、戦になれば、自由兵士達は人を殺し、血を流します」
思わずクジョウは言った。日々の穏やかさに忘れそうだが、軍隊とはそういう組織だ。人を癒すことを生業にしているリラが、それを受け入れていることが、クジョウは不思議だった。そうね、とリラはどこか寂しそうに呟いた。そしてぽつりと付け加える。
「あなたには受け入れ難いことかもしれないわね」
瞬間、クジョウはどきりとした。リラの真直ぐな眼差しがクジョウに注がれていた。どういう意味なのか、と問う言葉が喉でひりついた。人には見えぬものを見通すリラの瞳に、クジョウの姿はどのように映るのだろうか。と、リラがふわりと笑んだ。
「さ、薬が出来たわ。ムラセのところに持って行ってくれる?」
クジョウは薬が入った瓶を片手に、屯所の広場へと向かった。数日前、剣術の鍛練でムラセが腕に軽い怪我を負った。そのための薬である。
ムラセの姿は、思ったとおり広場にあった。広場が眺め渡せる場所で、柱に凭れて立っている。
「ムラセ、リラの薬を持ってきた」クジョウが呼びかけると、ムラセは柔らかく笑んだ。
「ああ、ありがとう。クジョウも来てごらん。今シンカゲが試合をしているんだ」
クジョウはムラセの隣りで、広場で繰り広げられている模擬試合を見やった。シンカゲの相手は、中隊を率いる三十半ばの男である。多くの兵士達が見守る中、剣戟は激しく力は互角のようだった。だが、次第に押され出したのは中隊長の方だった。身ごなしの素早さで、シンカゲに伍する者は多くはない。鋭く繰りだされた剣の一閃に、中隊長の得物が弾かれた。鋭い呼気が響き、一瞬の後広場は歓声に包まれた。
中隊長は悔し気に天を仰ぎながらも、笑顔でシンカゲに負けを認めた。
「シンカゲ、やったな!」シンカゲに、兵士達が駆け寄った。ムラセもシンカゲのもとへと向かう。「とうとう中隊長を破ったか!」もみくちゃにされながら、シンカゲは仲間達から手荒い祝福を受ける。シンカゲの笑顔を、クジョウは見詰めた。
「前から、実力では既に中隊長を上回っていたんだよ」
突然響いた声に、クジョウはびくりとした。何時の間にか、スイレンが隣りにいた。スイレンはクジョウを見やり、鼻を鳴らした。
「そんなに怯えるんじゃないよ。あんたを傷つけやしないよ。そんなことをしようものなら、シンカゲが許さないさ」
なおも続く広場の騒ぎに目を移し、スイレンは続けた。
「あたしとしては、シンカゲにもっときちんとした役職に就いてほしいんだけどね。奴はずっと断り続けている。何故だろうね」
「俺にわかるわけがない」
「そうかい? あれだけ一緒にいればわかるんじゃないかと思ったんだけどね」
クジョウはスイレンを睨みつけた。
「別に好きで一緒にいるわけじゃない」
「ああ、あんたはそうだろうね。だがシンカゲは自ら選らんであんたとともにいるんだ」
素気ない物言いだったが、スイレンの眼差しは真剣だった。それに、クジョウは出かけた言葉を呑み込む。スイレンは皮肉を言いにクジョウに近付いたわけではないのだろう。リュウドウに連れて来られてから、既に一月程が経とうとしている。その間、シンカゲは常にクジョウを連れて歩いていた。クジョウの存在を疎ましく感じることもあるのではないか、とクジョウ自身が思わずにはいられなかったが、シンカゲの態度は常に変わらない。
「何故、シンカゲはあそこまでしてくれるんだろう。俺のことなんか何も知らないだろうに」
ぽつりとクジョウは問うていた。
「ハザカイでクジョウを雇ったのはシンカゲが己の蠱を使いこなせなかったからだ。シンカゲは責任を感じているんだろうね。それに、もしかするとシンカゲはあんたのことを弟のように思っているのかもしれない」
「弟?」
クジョウはスイレンを見上げた。
「ああ、そうだ。シンカゲの家族は全員死んだが、弟がいたらしい。生きていればクジョウくらいの年齢だと、この前こぼしていた」
クジョウは思わず広場のシンカゲを見やった。折しも、シンカゲがクジョウとスイレンの姿に気付いたらしい。大きな笑みを浮かべた。クジョウはそれに胸が痛くなる。
「シンカゲはあんたを本気で守ろうとしている。だからこそ、あんたにはシンカゲを裏切ってほしくはない」
クジョウは押し黙った。言われずともわかっている。シンカゲは本気でクジョウを守ろうとしている。巻き込んでしまったから。自由を奪ってしまったから。あるいは、誰かの面影に重ねて――だが、己に守られる程の価値があるだろうか。
と、その時、広場に面した廊下を歩んでくる数人の男の姿が目に入った。広場の騒ぎが静まる。男達が纏う衣服、それは街の警邏が身につけるものだった。中央に立つ男は、厳しい面持ちである。スイレンが素早く歩み出すと、男達へと一礼した。男が低い声で何事かを言う。緊迫した雰囲気だった。
クジョウは近付いて来るシンカゲを見上げた。先程まで眩しいほどの笑顔を浮かべていたシンカゲも、今は張り詰めた表情である。
「どうやら厄介事が起こったようだな」
「厄介事?」
「ああ。警邏が俺達の力を借りにきたんだろう。すぐに出ることになるかもしれん。クジョウはリラの元に戻っていてくれ。遅くなるかもしれんが、俺が戻るまでそこにいるんだ」
「大丈夫なのか?」
シンカゲは驚いたようにクジョウを見下ろした。
「俺はそうそうやられはしない」
クジョウは下を向いた。シンカゲが言う通りだ。馬鹿なことを言ってしまったと思う。
「案じてくれているのか? 俺は大丈夫だ」
優しく、シンカゲが言った。ぽんぽん、と幼子にするようにシンカゲがクジョウの頭を撫でる。クジョウは顔を歪めた。胸の奥がちくり、と痛む。そうか、と思っていた。何故、シンカゲがクジョウにこれほどまでしてくれるのか。
――シンカゲはあんたのことを弟のように思っているのかもしれない――
おそらくはその通りなのだろう。シンカゲにとって、クジョウはクジョウであって、クジョウではない。おそらくはシンカゲの追憶の中に在る存在、その依代だ。
クジョウの物思いを破り、鋭く指示を出すスイレンの声が響いた。
間もなくして、シンカゲを含む東方の兵士達が屯所を走り出て行った。それを、クジョウは見詰めていた。
シンカゲ達は夜になっても戻らなかった。リラの医療所で、クジョウはまんじりともせず時を過ごしていた。
自由兵士団の役割の一つ、街の治安維持――その多くは警邏への協力という形で行われる。罪人を捕え罰するのは警邏の仕事だったが、捕縛が困難である場合は、自由兵士団が力を貸すこととなる。
今回は、悪質な人身売買が密かにリュウドウの内部で行われるという情報を警邏が掴み、その犯人達を捕えるために東方の兵士達に助力を乞うたということだった。怪我のため屯所に残ったムラセから、クジョウはそのことを聞いた。
夜半になり、漸く兵士達が屯所に戻って来た。慌ただしいざわめきにクジョウが立ち上がった時、医療所の扉が大きく開かれてシンカゲとスイレンが飛び込んできた。二人の衣服にこびりつく血に、クジョウは息を呑む。シンカゲは腕に力の抜けた小さな体を抱えていた。
「リラ、この子を看てやってくれ!」
言うや、シンカゲは寝台に腕に抱えていた人物をおろす。まだ十三、四の少女だった。その胸がべっとりと赤く濡れている。リラが無言で少女の上に屈みこんだ。クジョウは凍りついたようにその光景を見詰めていた。
「リラ、どうだ?」
スイレンが問う。クジョウから見ても少女の傷は深く、状況の厳しさがわかった。
「ああ……だめ」リラが呟いた。
少女の顔が苦し気に歪む。その口から細く叫ぶような声が迸った。そして一つ大きく息を吸うと、少女は息絶えた。
「逝ってしまったわ」
リラが囁くように言った。しん、と診療所が静まる。
「スイレン、一体何があったの? この子は何故……?」
「悪質な人身売買組織が最近暗躍しているのを知っているだろう? その組織がリュウドウの商人に裏から魄を売ろうとしていたんだ」
魄――クジョウは硬直する。
「警邏がその情報を掴み、東方に助力を求めて来たんだが、相手の組織が雇った傭兵に手間取ってね」
「傭兵は捕えたが、黒幕は逃した。だが、逃げる際に、奴らこの子の口を封じるために殺そうとしたらしい。見つけた時には既に虫の息だった」
シンカゲの声音が低い。
「じゃあ、この子がもしかして……」
「ああ、そうだ。魄として売られていたのはこの子だ。この子は本当に魄なのか?」
クジョウは物言わぬ骸となった少女を見やる。柔らかな体の曲線といい、整った顔立ちといい、匂やかな美しさがある。
「いいえ、この子は魄ではないわ。魄が覚醒するのはもう少し成長してからよ」
「では、岐か?」
「岐でもないわね。魄に覚醒するまで、岐は女性というよりも無性に近いの。この子は普通の少女よ」
「やはりな……。何もかも偽りだったというわけか。騙される方も騙される方だが」
スイレンが苦く呟いた。そもそも真実少女が魄であるならば、組織の連中が置き去りにする筈がない。
「この子、最後に何て叫んだのかしら。異国の言葉のように聞こえたけれど」
「お母さん」
ぽつりとクジョウは呟いていた。三人が驚いたようにクジョウを振り返る。
「この子が最後に叫んだ言葉……母親を呼ぶ言葉だ」
クジョウは痛ましく少女を見詰めた。おそらくその美しさ故に売られたか、あるいは攫われてきたのだろう。
お母さん――最後に残した叫びが、胸に迫った。
魄が森の奥へと姿を消して久しい。だが、いまだに魄を求める者達がいる。己の欲望のため――少女はその犠牲になったのだ。
「魄……」
呟いたのは、シンカゲだった。シンカゲの瞳の奥に揺らめくもの、それにクジョウは息を呑んだ。炎のような、それは憎しみであり怒りだった。あらわれたのは一瞬、だが、その一瞬にクジョウは悟っていた。
――シンカゲは魄を憎んでいる。
冷たく、重く、クジョウの心が塞がれる。何故魄を憎むのか、クジョウは知らぬ。知ろうはずもない。手を伸ばせば届く程の距離、だが、クジョウにはシンカゲの姿が途方もなく遠く思えた。
――近付いてはいけない。
これ以上、シンカゲに近付いてはいけない。己に言い聞かせる。魄を求める者にも魄を憎む者にも、己が岐であることを知られてはならない。それこそが魄の掟――そこまで考え、クジョウは俯いた。違う。掟など、どうでもよかった。単に知られたくないのだ。己が岐であることを。シンカゲの優しさが、微笑みが崩れ、憎しみにとってかわる、それを見たくはないのだ。
夜の底に、クジョウは一人立ち尽くしていた。