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リュウドウでのクジョウの生活は、カガリの屋敷と自由兵士団の屯所の往復という、奇妙なものになっていた。シンカゲとともにいれば自由に動ける、というのは本当だったが、カガリの屋敷の囚われ人であることには変わりがない。
クジョウに与えられた部屋は、シンカゲの部屋の隣りである。豪奢な部屋に、世話をする召使いまでつけられ、クジョウはかえって身の置き所がなかった。召使いは、軟禁されていた間に食事を運んでいた女性である。名をヤヨイナという。
「クジョウ様、御用意いたしました衣服を来てくださいませ。お客人がそのような格好をされていては、召使いよりもみすぼらしくていけませんわ」
言葉を交わしてはいけないという命が解かれたらしいヤヨイナが、まず発した第一声がそれである。表向きの建前とはいえ客人とは、えらく出世したものである。
用意された衣服は素晴らしいものだ。柔らかい光沢を帯びるきめの細かい布地、最新の流行を取り入れた繊細な装飾など、まるで貴族が身に纏うようなものである。固辞するクジョウと、何としても召使いの本分を全うしようとするヤヨイナとの間で押し問答になりかけた時、問題はあっさりと解決した。
「自由兵士団に行くってのに、そんなひらひらした薄物を着ていけるか。クジョウは俺が昔着ていたものを着ればいい」
言いながらシンカゲが放って寄こしたのは、動きやすさを重視したしっかりとしたつくりのものである。派手さはないが、厚手の布地はさすがに上質な素材である。ヤヨイナはなおも不満をあらわしながらも、それならば、と漸く納得した。
はじめは仕方なしに自由兵士団の屯所に通っていたクジョウも、やがてそこがさほど居心地の悪い場所ではないと思い始めていた。
屯所には男だけでなく女の兵士も少なからずいた。スイレンは東方でも二番目の地位、副長という立場らしい、ということも知った。しかし、戦時ならば厳格な上下関係も、普段はさほど厳しいものではないらしい。スイレンとシンカゲの砕けた会話からもそれは窺えた。
屯所に通うようになって幾日か経った時、シンカゲはクジョウに剣術をすすめたが、クジョウは頑として頷かなかった。差し出された剣に蒼褪めた顔を向けたクジョウを見て、シンカゲも無理強いはしなかった。
「剣は苦手なんだ」
「怖いのか? 扱いを知れば怖くは感じないぞ」シンカゲは覗きこむようにしてクジョウに問う。クジョウは思わず身を引いた。シンカゲに自覚はないらしいが、クジョウにはどうにもシンカゲとの距離が近過ぎるような気がしてならない。
「剣というより、鉄が苦手なんだ。持つだけで、ひりつくような気がして……」
「そんなことがあるのか」
シンカゲは驚いたようだった。手に持っていた剣をクジョウから遠ざける。
「悪かったな」
シンカゲは気遣うようにクジョウを見詰めた。クジョウは逃げるように視線を逸らす。普段は呆れるほどに強引なシンカゲの、時に見せるそんな柔らかさが、クジョウを戸惑わせた。
クジョウが言ったのは真実だった。鉄はクジョウにとって毒のようなものだった。無論、鉄の全てが傷つけ殺すための道具になるわけではないが、人が作り出した研ぎ澄まされた輝きは、それだけでクジョウを怯えさせた。
「剣術は無理でも、簡単な体術ならきっと役に立つ」
そう言ったのは傍らで二人の遣り取りを聞いていたムラセだった。
結局、クジョウは身を守るための基本的な体術を教わることになった。怯むクジョウの背を押したのは、やはりシンカゲだった。
「体術は暴力じゃない。自分の身を守るために、如何に相手を傷つけずに退けるか、そのための方法の一つだ。クジョウも蠱使いとしてやっていくなら、自分の身は守れるようになった方がいいだろう? 剣が苦手なら、尚更に基本的な防衛術は必要だ」
シンカゲの言葉に頷きながら、クジョウは戸惑う。己は一体どうしてしまったのだろうか。流されている、と思う。だが、シンカゲの強引さが、クジョウには決して不快ではなかった。
体術以外は受け付けないクジョウを、シンカゲは屯所の中にある医療所へと連れて行った。医療所には三十半ばに見える優しげな女性がいた。シンカゲはクジョウを女性に引き合わせると言った。
「彼女は東方の医療兵士、リラだ」
「まあ、あなたが噂のクジョウね」
リラは笑窪を頬に刻んで言った。シンカゲが蠱使いのクジョウを常に連れ歩く姿は、確かに一つの噂の種になっていた。
「リラ、体術の鍛練の時以外は、クジョウにここで何か手伝いをさせてやってくれないか?」
「いいわよ。ねえ、シンカゲ、あなたがこの子の体術の鍛練をするという噂を聞いたけれど、本当?」
「ああ、そうだが? この後に早速はじめるつもりだ」
リラはクジョウとシンカゲを見比べ、小さく溜息をついた。クジョウに困ったような笑顔を向ける。
「鍛練が終わったら、すぐに行くわね」
その言葉の意味を、クジョウはすぐに知ることとなった。
クジョウは横たわって荒い息をついていた。体の節々が痛い。シンカゲは厳しい師範だった。体術の基礎を体に教え込む。そのために、クジョウの体が自然に動くまで基本的な動作を繰り返させた。次は基本的な動作から派生する技の習得である。そのため、シンカゲはまずクジョウに技を受けさせた。技を受けることにより、その技の本質を掴ませるという。それは理にかなった方法かもしれないが、容易いものではない。
「大丈夫かい?」
クジョウは何とか頷き、声の主を見上げた。ムラセがどこか気の毒そうな眼差しをクジョウに向けていた。身を起こし、クジョウは周囲を見回した。建物の一角にある道場は閑散としている。今や東方のちょっとした有名人となっているクジョウの鍛練を覗き見ようとする物見高い連中を、シンカゲは問答無用で追い出し、鍛練の間は扉を閉ざしていた。クジョウにはありがたいことである。
「シンカゲももう少し手加減をすればいいのにね」
「それでは身につかないだろう。クジョウは勘がいい。防御のための体術はあっているみたいだな。反射神経がいいせいだろう」
言いながら、シンカゲが近付いて来る。その背後に、リラの姿があった。
「シンカゲの鍛練を初めて受けた人は、大概すぐには歩けないのよ」
リラは言うと、クジョウの傍らに膝をついた。
「別に傷つけるようなことはしていない」どこか憮然としたシンカゲの声に、クジョウは思わず苦笑した。厳しくはあるが、シンカゲは無体なことをするわけではない。
「俺は大丈夫ですよ」
「でも痣が痛む筈よ。痣に塗る薬を渡しておくわね。明日朝起きてから塗るといいわ」
「ありがとうございます」差し出された小さな瓶をクジョウは受け取った。
「明日からは、医療所にも来てちょうだいね。あなたに頼みたい仕事がたくさんあるのよ」
おっとりとリラは言った。
その日の夕刻、シンカゲはクジョウを連れて数人の兵士達とともに屯所を後にした。シンカゲは屋敷と屯所の行き帰りの間にも、機会があるごとにクジョウにリュウドウの街の案内をしていたが、これ程の人数で歩くことははじめてである。道を歩けば、シンカゲ達の姿は否応もなく人目を引いた。四方の屯所の中でも東方は気さくな者が多く、街の人々にも人気が高い。
「ねえ、今度あたしの店に寄っておくれよ!」
「何時かは世話になったな! これからもよろしく頼むよ!」
そんな言葉が方々からかかる。一団の中に紛れながら、クジョウは傍らのシンカゲに問いかけた。
「どこに行くんだ?」
進むのはカガリの屋敷とは異なる方向である。
「すぐにわかる」
今すぐに教えてほしいのだが、とクジョウは思う。だが、ムラセが何やらシンカゲに問いかけたらしく、それ以上シンカゲに声をかけることは出来なかった。やがて前方に凝った造りの建物が見えて来た。その屋根にある変わった形の煙突に見覚えがあった。屋敷の一室に閉じ込められていた時に、窓から眺めていたものだ。朱に染まり出した空に、煙突から煙がたちのぼっている。
少なからずの人々が建物の入り口を出入りしている。シンカゲを追いながら、クジョウは見当もつかぬまま建物の中へと入った。むっと籠った匂いがする。シンカゲ達が向かった扉の先に何気なく続いたクジョウは、その場で凍りついた。煙のたちこめる部屋に、男達がひしめいている。それも裸で。
戸口で立ち止ったクジョウの目の前で、シンカゲが上着を脱ぎ捨てた。なめらかな筋肉がついた背中が晒される。他の兵士達も、躊躇いもなく衣服を脱ぎ捨てていく。
「クジョウ、どうした? 来いよ」
振り返ってシンカゲが言う。茫然として半ば凍りついていたクジョウは、シンカゲの声で漸く我に帰る。ぶんぶんと頭を振るクジョウに、シンカゲは首を傾げた。
「お前も汗を流さなければ気持ち悪いだろう」
「いや、いい。俺はいい」
クジョウはあたふたと言う。すぐにでも外に出たかった。シンカゲが近付いて来る。籠る熱気に、滲む汗が見えた。
「公衆浴場は初めてか? 別に恥ずかしがる必要はない。男同士なんだから」
「本当にいいんだ! 屋敷に帰って体をふくから」
「別に取って食いやしないぞ?」
もう一人がシンカゲの背後から顔を覗かせて言う。その姿からクジョウは慌てて目を逸らした。
「嫌なら仕方ないな。俺が出てくるまでここで待っていてくれ」
「俺、先に屋敷に戻るよ」
何かを言いかけたシンカゲの言葉をクジョウは遮る。
「逃げたりしない。ちゃんと屋敷に戻るから。シンカゲは安心してゆっくりしたらいい」
言うと、シンカゲが止めるのも聞かずに、建物の外へと走り出た。振り返り、シンカゲの姿がないことを確かめると、足早に来た道を戻った。尤も、痛む体ではさほどの速さではなかったが。
公衆浴場なるものをクジョウは聞いたことも見たこともなかった。名を聞けば、どのような場所であるかはすぐにわかる。他人に裸を晒して体を清めるなど、到底クジョウには出来ぬことである。羞恥心――だけではない。
クジョウは真直ぐにカガリの屋敷へと戻った。自ら檻に帰る虜囚とは奇妙なものである。監視役のシンカゲが追って来ないだろうことはわかっていた。クジョウを追えば、それはシンカゲがクジョウを信頼していない、ということを示している。シンカゲにはそのようなことは出来ないだろう。
丁度夕食の準備の時間帯らしく、クジョウの部屋がある一角は静かだった。部屋に入り、シンカゲは中から鍵をかけた。のろのろと部屋を横切り、奥の小部屋へと入る。その扉の鍵をも閉める。窓もない部屋には、鏡が一つ。そして水を張った大きな桶が置かれている。ヤヨイナが毎朝きれいな水を満たしているそれは、顔や体を清めるためのものだ。
クジョウはゆっくりと衣服を脱いだ。傍らの戸棚に重ねるようにして置く。一糸纏わぬ姿になって、木造の小さな椅子に腰かけた。手桶で水を汲み頭からかぶる。その冷たさに、頭の奥が明瞭になった。ぽたぽたと床に落ちる水音、随分長い間切っていない髪が、視界を覆う。
クジョウは髪をかきあげた。ゆっくりと眼差しを上げる。今まで、決して見ようとしなかった鏡へと目をやっていた。
手を伸ばし、鏡の表面に触れる。鏡の中で、男でも女でもない生き物が、途方にくれたような目つきで己を見詰めていた。性を偽り男として生きている。だが、時を止めた体には、女性的な膨らみなど欠片もない。
「何者かになれるなどと、思っていたの?」
ひそりと問いかける。鏡の中の己が、反駁するように目を細める。
「お前は所詮、岐だ。時を止めた岐が、何を望む」
言うや、クジョウは鏡を拳で叩いていた。不様だと思う。男の振りをしたところで、真実男になれる筈がない。だが、それ以外にどうして生きていけばよいというのだ。
生きるままに、あるがままに――シンカゲは美しかった。全てを捻じ曲げて生きる己の姿を、シンカゲには見せたくなかった。
「お前は醜い……」
呟き、クジョウは己から目を逸らした。
「恋愛もの」って難しい!! 「魄、落つる」を書いていて、心底そう思います。はじめは「恋愛」をメインで考えていたところ、それ以外の要素が膨らんでしまって、今の時点で既に「恋愛」オンリーではなくなっています。でも、少しずつ、書き手なりに恋愛色を出していきたいと思います。
ではでは、今後ともよろしくお願いいたします!