25
「クジョウ、あなたの体について話をさせてちょうだい」
リラからそう切り出された時、クジョウは冷静にその言葉を受け止めた。目覚めた日の夜のことである。屯所に住み込む形で常駐しているリラの居室で、クジョウはリラとスイレンに向き合って座っていた。目の前の卓には淹れたばかりの茶が、柔らかに湯気をくゆらせている。クジョウに配慮してか、シンカゲとムラセは同席していない。
「まず聞きたいのだけれど、この前怪我が消えたことについて、あなたは本当に何も覚えていないのね?」
それにクジョウは頷いた。だが、何故怪我が消えたのか、その推測はついている。リラの表情から、彼女も同じ考えでいることがわかった。
「おそらく、怪我を治したのはあなたの中にある魄の力なのでしょうね」
答えず、クジョウはリラを見やる。懸念するようなリラの瞳の色。リラの隣りで、スイレンが茶器を手で弄びながら、感情の読めぬ眼差しをクジョウに注いでいた。
「クジョウ、魄の力はいつから?」
「……多分、武術大会の少し前からだと思います。体の奥に熱の塊のようなものが生まれたのは。魄の力だと、はじめは思いませんでしたけど……」
「この前、リュウドウを出て行こうとしたのはそのせい?」
「それもあります」
「他にはどんな理由があるんだ」
スイレンの声音は鋭い。言い逃れを許さぬ強い眼差しを、クジョウは見返した。
「俺はあまり人と深く関わりたくはないんです。同じ地に留まり続ければ、いずれ岐であることが周囲にばれる危険が高まりますから」
「そうであってもせめてシンカゲには去ることを告げるべきだったな。そうすれば、北方の連中につけこまれるようなことにもならなかっただろうね」
返す言葉もなくクジョウは黙る。シンカゲに告げることなど出来なかった。シンカゲならば引き留めなかっただろう。協力すらしたかもしれない。そして、リュウドウを去ればもう二度と会うことはあるまい。その別れを、躊躇いもなく受け入れるだろうシンカゲを見たくはなかった。
――愚かしい。
クジョウは心の奥底で己を嘲笑う。
「ねえ、クジョウ。私が聞いた話では岐は覚醒するまで、何の力も有さないということだったけれど、このようなことはあるのかしら。つまり、岐のまま魄の力があらわれる、ということが」
クジョウは僅かに俯く。恐れていたこと――魄に覚醒する、というそれが、生々しく身に迫る。リラがいくら優れた医療者であっても、あくまでも人を癒す立場である。彼女に出来ることは何もない。そう思いながらも、クジョウは口を開いていた。
「岐のうちに魄の力があらわれることはありません。今の俺のように、魄の力が生まれること自体、普通ならばあり得ないことだと思っています。ただ……俺は魄が実際どのような存在か、あまりわかってはいないんです。岐のことでさえ……今まで、他の岐とは会ったことがないので……」
「一度もないのか?」クジョウはスイレンを見やり、頷く。
「魄にしても俺が知っているのは母親だけです。母が死んでからは一人で蠱使いとして旅をしてきましたが、森の外で生きる魄や岐に会ったことはありません」
スイレンは「そうか」と呟くように言うと、茶をすすった。それはまるで苦々しく歪んだ口元を隠そうとするかのような動作だった。
「例え他の魄や岐のことは知らなくても、あなたは覚醒の危険のことは十分に知っているでしょう? でもあなたは森に入ることはなく、ずっと旅を続けていた。それは何故かしら? この前、魄には覚醒しないと、そう言っていたけれど、何故そう言い切ることが出来るの?」
そっとリラが問う。やはりリラはクジョウが思う以上にクジョウのことをわかっているのだ。その思いを新たにしながら、クジョウは夜の底に沈む玻璃の向こうを見詰めた。
幾夜も、闇の中で蠱とともに眠りについた。人の灯す明かりが、時に泣きたい程に懐かしく感じたこともある。そして時に目にするだけで恐ろしいと感じたことも。今、小さな部屋で温かな灯が作り出す光に包まれて、クジョウはほんの僅か、哀しかった。一時でも感じてしまった温かさが、胸の内に凍る全てを溶かそうとしている。だが、その温かさとて、何時かは失うことになる。
――人と魄は決してともに生きてはいけないから。
遠く、小さな囁きが聞こえた。
「母親が死んだのは今から八年前のことです」
ぽつりとクジョウは言った。左手で髪をかき上げる。耳朶を穿つ黒く小さな耳飾りを光のもとに晒し、クジョウは続けた。
「この耳飾りは母が死ぬ前に、体の内に残った魄の力の全てを込めて俺のために作りました。岐のまま体の成長を止め、何時か生まれる魄の力を抑えて覚醒をしないための封印です」
リラの顔が驚きに染まる。クジョウは手をおろした。零れ落ちた髪が、視界の半ばを覆う。
「母は死ぬその時まで俺のことを案じていました。森の外に一人残されて万が一魄に覚醒した時どのようなことになるか……恐れたのだと思います。この耳飾りをしていれば、魄に覚醒することはありません」
クジョウは眼差しを落とした。
「母が死んでから八年経ちましたが、耳飾りをつけたその頃から体はずっと変化していません」
クジョウはリラの顔を見ることが出来ない。己がどれ程に歪な存在か、クジョウはよくわかっていた。
「お母様はどうしてお亡くなりになったの?」
クジョウは膝の上で拳を握り締める。忘れ得ない痛みが胸の奥を焦がした。
「母は……聯である俺の父が死んでから六年間、一度も力の解放を行いませんでした」
それだけを言う。そしてリラにとってその言葉だけで十分だったことが、表情から読み取れた。力の解放を行わなければ、魄はやがて己の力により死に至る。
「森の奥には魄達が生きる里があると聞いているわ。そこに行こうとは思わなかったの? 森の中ならば、力の解放を行うことが出来るでしょう」
「母は森の外で伴侶とともに生きることを選びました。父が死んだ後も、森の中に戻ることは考えていませんでした。力の解放を行わなかったのは……」
クジョウは瞳を閉ざす。闇の奥に、焔のように熱が灯る。だが、涙は生まれない。とうの昔に流し尽くしてしまったのかもしれない。
「……おそらく、母は父の後を追いたかったのでしょう。魄として生きることに母は絶望していました。この世に在ることが……辛かったのだと思います」
囁きとなって言葉が零れ出る。その思いを口に出すのは初めてのことだった。深く封じ込め、目を逸らし続けた思いである。自らの力に命を削られながら、母親は最期の時までクジョウのことを案じ続けた。しかし、娘を一人残して死んでいくことに迷いはなかったのだ。
「お父様のことを聞いてもいいかしら。どうして先にお亡くなりになったの? 聯となった人は魄同様、長命の筈でしょう?」
「父は、母が魄だと知った人間に殺されました」
己の耳にも乾いた声音だった。クジョウは眼差しを上げる。卓を隔てて向かい合うリラとスイレンの姿が、薄暗がりの中で凝然と影を纏っている。
「母は何とかその人間から逃れましたが、魄が見つかったという噂は既に広まっていました。人の目を欺くために、母は俺に少年の振りをさせました。母の体が力に蝕まれて動かなくなるまで、二人で各地を流れましたが、母は父が殺された時点で既に生きる気力を失っていました。一度ならず、俺だけでも森の奥に住む魄の里へと向かうよう言われましたが、せめて最期まで母の傍にいたいと……」
母親が死んだ地は、リュウドウから遥かに遠い。撓められた時を隔てて、儚い面影が蘇る。母の死を看取ったことに悔いはなかった。あの時、母の言葉通りすぐにでも森の奥を目指していれば、蠱使いとして長く流離うこともなかったかもしれない。だが、例えそれを知っていても、同じ選択をしただろう。
「体の中で何故魄の力が生まれたのかはわかりませんが、耳飾りをしていれば、そう簡単には覚醒しない筈です」
「耳飾りの封印を解くことはできないのか?」
腕を組んだスイレンの眼差しは思案するように深い。
「解くことは出来ます。母は、己の未来は己で決めるように、と……。ですが、俺は封印を解く気はありません」
「解かないままではどうなるんだ」
「自然と命が尽きるまで、岐の体のまま生きていくのだと思います。体の成長は止まっても、命が刻む時は止まったわけではありませんから」
「それでいいの? クジョウ」
柔らかなリラの問いだった。責めるでもなく、同情するでもない、ただ案じる響きがあった。クジョウは小さく頷いた。
「最近ずっと体が不調なのも、突然生まれた魄の力のせいなのでしょう? 現にこうしてあなたの体の中で魄の力が目覚めてしまったのだから、今までのように抑えていくことは難しいんじゃないかしら。封印を解いて覚醒しなければ、あなたの体が魄の力に耐えられなくなる可能性もあるわ」
「魄は望むと望まざるとに関わらず、存在するだけで争いと混乱を引き起こします。俺は魄として覚醒するつもりはありません」
「魄でなくとも、あなたが岐であることを知れば、人はあなたを求めるわ。人の中で生きる限り、あなたには危険が付き纏う。森の奥ならば魄の力が害を及ぼすことはないでしょう? このまま覚醒しなければ、あなたの体にどのような影響が出るかわからないのに、何故、魄の力を封印してまで人の世に留まるの?」
クジョウは耳飾りに触れる。冷やかに硬い。真摯なリラの声音に、出かかっていた偽りの言葉が解ける。胸中に諦めにも似た思いが広がり、クジョウは口元を歪めた。見る者にはさぞや歪な笑みと映るだろう。
「魄には魄の掟があります。母が森の外で生きていたのは、嘗てその掟を破り、森を追放されたせいです。母の子である俺にも、森の奥への道は開かれてはいません」
ほとりと、一つ真実をこぼし、クジョウは口を閉ざした。