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魄、落つる  作者: 高原 景
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第六章

 鍛練の終了を知らせる鐘の音が鳴った。兵士達の掛け声が途切れ、途端に空虚な夕暮れの気配が押し迫る。紅が大気に溶けて、沈みゆく太陽の匂いが風に紛れこんでいた。

「シンカゲ、飲みなさい」

 ことりと傍らの卓に置かれた茶器に、シンカゲは目をやった。揺らめく湯気に、淡い香りが絡みつく。リラが穏やかな眼差しで彼を見詰めていた。

「ありがとう」シンカゲは呟き、茶器に手を伸ばした。自覚していなかったが喉が渇いていたらしい。程良く温かい茶を一気に飲み干す。考えてみれば、昼食の後一度も水を口に含んでいなかった。

 シンカゲは茶器をリラに返し、再び視線を寝台に横たわるクジョウに向けた。膝に肘をつき、顔の前で両手を握り合せる。リラがクジョウの診察を終えてから、シンカゲはずっとクジョウの傍らに座っていた。リラが着がえさせたのだろう、清潔な衣を身に纏うクジョウは、昏々と眠り続けている。

「傷はどこにもないわ」クジョウを診察した後、リラはシンカゲに言った。掌の傷は勿論、北方きたかたの男に受けただろう暴力の後は、どこにもなかった。そんな筈がないことをシンカゲは知っている。

 空家の地下に残して来た男達は、シンカゲの報告を受けた東方ひがしかたの兵士がすぐに拘束した。既に厳しい取り調べが行われている。男達が語った内容はシンカゲにも知らされていた。北方の男は抵抗出来ないクジョウを一方的に痛めつけたと言う。

 シンカゲは歯を食い縛った。烈しい怒りが胸中に燃え盛る。シンカゲ自身が取り調べに同席しなかったのは、その場にいれば、己が男達に対して何をするかわからなかったからだ。

 その時、戸口に影が差した。振り返り、シンカゲは立ち上がった。スイレンとムラセが医療所に入ってくる。その表情にシンカゲは落胆を覚える。疲れと、苛立ち。二人の顔を彩るそれに、全ての事の発端と思われる男を捕えることが出来なかったのだとわかった。シンカゲも男を追うのに加わりたかったが、今回の事件の当事者でもあるシンカゲにそれは許されなかった。

「あいつは捕えられたのか?」答えを半ば予期しながらも問うたシンカゲに、スイレンは苦々しく口を曲げて頭を振った。

「だめだった。北方の屯所に逃げ込んだと思ったんだけどね。どうやらクマガヤのところに泣きついたらしい。北方も知らぬ存ぜぬを貫いている。こちらで捕えている四人は既に北方の兵士ではないと言って、まともに取り合おうとしない」

 確かに、四人の内の三人は既に北方の兵士ではない。三人は以前、酒屋で暴れていたところをシンカゲがのした相手だった。その後北方を追放された三人がシンカゲを怨んで復讐を唱えている、と何時だったかスイレンに警告を受けた覚えがある。だが、あとの一人は、武術大会での武器の不正使用により何がしかの罰を受けたかもしれないが、北方を追放されたとは聞いていない。察するに、北方はあの若い兵士を厄介事もろとも切り捨てたのだろう。

「北方の兵士ではないから何の関わりもない、挙句の果てには北方を貶めんとする東方の陰謀ではないか、とまで言ってきた」

 ムラセが硬い口調で言った。普段決して浮かべることのない険しい表情である。

「スイレン、クマガヤはどうなんだ」

「こちらはもっとだめだ。門前払いで話を聞こうともしない。だが、無理に踏み込もうものなら、あたし達の方が罪に問われかねん」

「白を切りとおすつもりか」シンカゲは苦々しく言った。

 捕えた男達の言葉から、彼らがクジョウを楯にシンカゲを呼び出そうとしていたことは明らかだ。男達は数日前から東方の屯所を見張り、シンカゲとクジョウの動きに目を光らせていたらしい。はじめからクジョウを攫うことを目論んでいたらしく、クジョウが一人で屯所を出たのはまさに格好の機会だったろう。クジョウを楯にシンカゲを呼び出すのは夜、北方の鍛練を終えた兵士達を更に集めて、十人以上でシンカゲを襲うつもりだったと言う。

 スイレンは寝台のクジョウに近付き、その顔を覗き込んだ。素早く顔の前に手を翳す。スイレンの気持ちがシンカゲにはよくわかった。クジョウの顔に苦しみはない。だが、息をしているのを確かめずにはいられない程、その寝顔は静かで生気がなかった。

「傷は?」張り詰めた問い。

「体のどこにも残ってはいなかったそうだ」

 予想していたのかもしれない。スイレンの表情はさほど変化しなかったが、リラに向けられた視線は深い懸念を宿していた。

「リラ、話してくれ」シンカゲはリラに言う。クジョウの傷が消えたのだと、そう知ってもリラはさほど驚かずクジョウを案じる様子だけを見せた。何か知っているのか、と問うたシンカゲに、リラはスイレンとムラセが戻ってから話す、とだけ答えたのだ。

 リラは頷き医療所の扉を閉じると、三人を振り返り「座ってちょうだい」と椅子をすすめた。自身も椅子に座り、束の間クジョウの横顔を見やると、ゆっくりと言った。

「少し前、クジョウは男の子ではない、と言ったわね」

 それに三人が頷く。

「私は嘘をついたわけではないけれど、本当のことを告げたわけでもないの。みんなは私の言葉できっとクジョウは女の子なのだと……女性なのに男性の振りをしているのだと、そう思ったでしょうね」

 皆の顔をゆっくりと見回し、リラは言った。

「クジョウは、正確には女性とも言い切れないの」

 シンカゲの中でどくりと鼓動が鳴った。じわじわと背筋を這い上るように、暗い予感が広がる。聞きたくない、と咄嗟に思う。だが、リラの言葉は容赦なく響いた。

「クジョウはよ。岐は無性に近い存在――クジョウは言ってみれば、女性として花開く前の蕾なの」

 ゆっくりと、砂が零れ落ちるように時が流れた。リラの言葉がシンカゲの中ではっきりと捉えられるまで、実際には左程長い時間ではなかっただろう。

 ――クジョウが、岐。

 反射的にシンカゲは立ち上がっていた。騒々しい音をたてて椅子が倒れる。そのまま医療所を出て行こうとした彼に、リラが厳しい声を放った。

「シンカゲ! 逃げちゃだめよ!」

 凍りついたように立ち尽くしたシンカゲに、リラが諭すように続ける。

「お願いよ、シンカゲ。あなたも向き合ってちょうだい」

 己の過去に――そう言われた気がした。

 はくへの憎しみが、胸の奥でのたうつ。シンカゲは足元を見詰める。クジョウが流した一筋の涙、それをシンカゲは思い出していた。シンカゲは唇を引き結ぶと、倒した椅子を直し、再び座った。

「すまん。続けてくれ」低く言う。リラがシンカゲを真直ぐに見詰め、頷いた。


 

 魄の逸話は数多い。

 ある魄は、己の力を病や怪我に苦しむ人々を救うために使った。生涯伴侶となるれんを持たず、長い時を人とともに生き、後に神女と呼ばれた。また、ある魄は一人の男を聯に選び、その男が望むままに強大なる力を与えた。男はその力で人々を支配し、長く覇王として君臨したという。男の暴虐に怒った人々との壮絶な戦いの末討たれるまで、男の治世は続いた。無慈悲な男に力を与えた魄を、人々は鬼女と呼び、恐れ憎んだ。

「でも実際に魄がどのような存在か、正しいことを知っている人はさほど多くはないと、私は思っているわ」

 リラは言った。

「クジョウのためにも、みんなには魄が、そして岐がどのような存在なのか、知っておいてほしいの」

 その言葉に否やは出なかった。

 魄とは人でありながら、人ではない。身の内に膨大な力を宿しながら、その姿はこの世の至宝とまで言われる、天女のように清らかで美しい女性の形をしている。数百年という長い命を生き、その間に何人の伴侶を得ようとも、魄が生涯に産む子どもはたった一人、娘と決まっている。それが岐だ。

「魄となる前の姿が岐、ただそういう風に言われているけれど、魄として覚醒する前の岐は、とても無力で弱い存在よ。魄としての力はまだ生まれていなくて、女性としても成熟していない無垢な性を有する存在。クジョウを見ればわかると思うけれど、そうでなければ、いくら中性的な姿形をしていても少年として生きることは出来なかった筈よ。岐は覚醒して魄としての力に目覚めるとともに、姿形も一気に女性へと成長するの」

 それはまるでさなぎが蝶へと羽化するように――覚醒の前後で二形ふたなりを有する存在が魄なのだ。

「岐が魄へと覚醒するのは、人で言えば十六から十七の頃だと言われているわ。詳しくはわかっていないけれど、岐は覚醒の時百日の眠りにつくと言われている。姿形が女性へと変わり、身の内に魄としての強大な力が生まれるの。生まれたばかりの魄の力は、身の内から溢れ出して、凄まじい放出が起こる。だからこそ覚醒を迎える頃になると、岐は決して人間に近付こうとはしない。周囲を巻き込まないように森の奥深くに姿を隠して、そこで覚醒に向けて眠りにつくのよ」

 そして、とリラは続けた。岐の覚醒に伴う力の暴発はとてつもなく危険なものだが、覚醒を終えたばかりの魄はひどく無防備な存在でもある。岐が森の奥を覚醒の場に選ぶのは、魄を得んとする人間から身を守るためでもあるのだ、と。

「だが、魄として覚醒したら、人の力など到底及ばないんじゃないのか?」

 スイレンが問う。尤もな疑問だった。リラは緩やかに頭を振った。

「あまり知られてはいないことだけど、魄はそもそも、他者を傷つけることをひどく嫌うの。歴史の中で、幾度も人は魄を迫害したわ。その時も、魄は力で抵抗をしようとはしなかった。狩られるがままに、全ての魄が滅んだ国もあったのよ」

 思わず顔を顰めたシンカゲに、リラは続ける。

「よく考えてみて。魄の力は一夜にして一国を滅ぼすことが出来る程に強大なのに、魄が歴史の中で覇者になったことは一度もない。そうでしょう?」

「魄を得た者は覇者となる……」ムラセが呟いた。

「そう。魄を得た者が、覇者になるの。その言葉が全てをあらわしている。魄はその魂において、人を傷つけたり支配することを厭う。覇者となるのは魄に力を与えられた聯、つまりはあくまでも私達人間よ。争いを厭う魄が森の奥に姿を消したのも、新たな聯を生み出さないため、聯による暴虐をなくすためだったのかもしれないわね」

「だが、魄の力により殺された人もいる」シンカゲの静かな声音だった。

「ええ、魄がその力で誰かを傷つけることはあるわ。でも、そうする時には、何か必ず理由があるのよ」

 シンカゲはリラから顔を背け、拳を握り締めた。心中に吹き荒れる思いを捩じ伏せる。言葉を呑み込み、話を聞くことだけに集中した。今は己の過去に捕われている時ではない。

「だからクジョウは武器を持つことも出来なかったのか」

 ムラセの言葉にシンカゲははっとする。確かに、クジョウは剣を持つことさえ出来なかった。体術でも防衛術は器用にこなしても、いざ攻撃術となると途端に体が動かなくなる。性格によるものだと考えていたが、それだけではない深い理由があったのだ。

「私はこう考えているの。魄とは、天上に咲くべき花の種が誤って地上にこぼれ落ち、人という肉体の器に宿った存在だと。人の身に天の力は強過ぎる。尽きることなく生まれ出でる力は、そのままではやがて魄の人としての体を壊してしまう。だから魄は力を解放することで、己の体と命を守っているの。力の受け手が人であろうと、大地であろうと、魄は力を解放しなければ長くは生きられない。他者を傷つけることを厭うのも、もともとの魂が天上に在るべき花であれば、頷けること」

 沈黙が落ちる。窓からは次第に宵の気配が忍び寄る。

「じゃあ、クジョウの傷が癒えたのは、魄としての力のせいなんだな?」

 スイレンの問いに、リラはすぐには答えなかった。思案するように目を伏せ、言った。

「魄の力としか思えないのだけれど、それが奇妙なのよ。本来、岐の姿のままで魄の力があらわれることはないの。覚醒もしないまま、あのように傷を癒すようなことは本来出来ない筈なのよ。さっきも言ったけれど、岐には何の力もないのだから。それに、クジョウにはもう一つ奇妙なことがあるわ」

 リラはクジョウを見やった。つられて、他の三人も寝台に目をやる。どこまでも澄んだ水を思わせる秀麗なクジョウの横顔は、どこか浮世離れして見えた。

「クジョウはたった一人で旅をして生きてきたと言っていたわね。クジョウは丁度人としての姿が十六くらいだから、いつ魄に覚醒してもおかしくはない年齢に達していると思うの。それなのに、どうして今まで人の中で生きて来たのかしら。そのような時期に、岐が人の中にいることはまずない筈なのに」

「いつ、覚醒するかわからないから?」

「ええ。森の外で生きることを選んだ岐も、覚醒の時期が近付くと森の奥へと向かうと聞いているわ。覚醒による力の暴発に周囲を巻き込まないためと、魄の覚醒を知った人間から身を守るために……」

「もしかして今日クジョウがリュウドウを出て行こうとしたのは、覚醒の時期を迎えたと気付いたからか?」

 シンカゲの問いに、リラは確信の持てぬ様子で、言葉を紡いだ。

「わからないわ。ただ岐の姿のままで魄の力が出たということは、明らかに異常なことよ。最近クジョウの体が不安定だったのも、おそらくそれと関係があると思うの。私の感覚では全てを感じ取ることは出来ないのだけど、クジョウの中で何か大きな力が動いているような気がするの。クジョウ自身も気付いていたでしょうし、少なからず不安も感じていたんじゃないかしら」

 シンカゲは眼差しを落とした。昨夜、魄に家族を殺された、ということをクジョウに告げた。その言葉がクジョウを追い詰めた可能性に思い至ったのだ。魄という存在を憎むシンカゲを、クジョウは恐れたに違いない。もしかするとリュウドウを去ろうと心に決める程に――。何故あのようなことを言ってしまったのか、とシンカゲは今更ながらに悔いる。

「クジョウはどうなるんだ?」

 シンカゲは呟いた。

「岐が魄に覚醒するのは、体が力の器として成熟した証よ。でも体は岐のまま、魄としての力のみが発現しているのだとしたら、未熟な体ではきっと力に耐えられない。このままでは、遠からずクジョウは命を落とすことになるかもしれない」

 リラが静かに告げた。

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