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魄、落つる  作者: 高原 景
20/26

20

 薬草の根を小刀で削っていたリラが、くんと鼻を鳴らした。

「今日は御馳走ね」

 クジョウは葉を細かく千切っていた手を止め、つられるように顔を上げた。瑞々しい薬草の香りに、美味そうな匂いが混ざり込んでいる。屯所の賄い部屋から漂って来るそれは、今日の昼食に出される煮込みに違いない。

 体調が落ち着いたから、とクジョウは数日ぶりに屯所に来ていた。「体術の鍛練はまだしない方がいい」というシンカゲの言葉に頷き、クジョウはリラの作業を手伝っている。

「クジョウ、これを煎じてくれる? 水から入れてちょうだいね」

 言われてクジョウは細かく切られた根を受け取った。専用の小さな鍋に根と水を入れ、火にかける。

「クジョウはきっと良い医療兵士になれるわね」その言葉に、鍋を柄杓でかき混ぜていた手が止まる。リラを見やると、穏やかな笑みがそこにはあった。

「俺が医療兵士に?」

「そうよ。ここに来てまだ三月程なのに、どんどん知識を吸収しているわ」

 クジョウは手元に眼差しを落とした。ゆらゆらと揺れる水の底で、根の欠片は小さく頑なに見えた。

「俺は、戦う人間は嫌いです」ぽつりと言う。傷つけ、奪う――戦いとはそういうものだろう、と思う。その思考を読んだように、リラが言った。

「命を奪うばかりが戦いではないわ。人は時に守るべきもののために戦うの。勿論、戦なんてなければない方がいいのだけれど、己の命を犠牲にしてでも大切な存在を守ろうとする、そんな戦いもあるのよ」

 その言葉に誘われるようにして、クジョウは暗闇に立ち尽くすシンカゲの姿を思い出していた。昨夜のことである。

 ――俺の家族ははくに殺された。

 低い声音。クジョウは何も問うことが出来ず、シンカゲもそれ以上のことは言わなかった。

「では守れなかった時、人はどうなるんだろう。未来永劫、大切な者を奪った存在を憎み続けるのかな」

「人は否応なく変わるものよ、クジョウ。同じでい続けることは出来ない。憎しみや絶望に囚われたままでいるか否かは、その人次第だと思うわ」

 幼子に言い聞かせるように優しく、そして傷ついた者を慰めるように穏やかなリラの声に、クジョウはやはり、と考えていた。やはり、リラがはクジョウがであることに気付いているのかもしれない。リラの言葉の端々に、そして時折向けられる案じるような眼差しに、もしかしたら、と思っていた。

 そうだとするならば、クジョウが岐であると知った人間から、敵意でも欲望でもなく、ただ優しさだけを向けられたのは初めてだった。

「さ、あとは蓋をしておけばいいわ」クジョウは頷き、鍋に木の蓋を被せた。くつくつと、湯が沸く陽気な音が響いている。

 開け放たれた窓の外に、淡く澄んだ空が見えた。クジョウはゆっくりと医療所を見回した。微かに揺れる木綿の仕切り布。清潔に洗われた敷布。薬草の匂いが染みついた分厚い書物。窓辺に飾られた小さな白い花はリラのお気に入りだ。窓から吹き込む心地良い風に乗って、兵士達の威勢のよい掛け声が聞こえる。

「クジョウ?」

 どうしたの、と問う優しい声音に、クジョウは振り返った。込み上げるものを押し込めて、笑顔を作った。リラがぱちぱちと目を瞬く。

「裏の畑に水を撒いてきます」

「あら、いいのよ。私が後でするから。クジョウはまだ無理をしない方がいいわ」

「大丈夫です。もう、体は何ともありませんから」

「そう? それならお願いしようかしら。でも無理はしないでちょうだいね。それから、適当なところで切り上げて、お昼を食べに行くこと。食べないと、体も治らないんだから」

 クジョウは頷き、戸口へ向かった。廊下に踏み出す時、思わず振り返りそうになる。

(振り返ったらだめだ)

 己に言い聞かせ、医療所を出る。人気のない廊下に出て角まで歩いてから、クジョウは振り返った。医療所の扉は壁に阻まれて見えない。

「ありがとうございました」

 小さく呟き、クジョウは再び歩き出した。屯所の片隅に作られたリラの薬草畑には向かわず、広場からは見えぬ廊下を選んで門へと向かう。途中幾人かの兵士とすれ違ったが、クジョウを気にする者はいなかった。

 大きく開かれた門の前で、クジョウは束の間屯所を振り返った。そして思いを振り切るように門を潜り抜ける。

 道へと踏み出し足を速めかけたクジョウはぎくりと立ち止った。前方に見慣れた姿があった。ムラセである。ムラセもクジョウに気付き、目を丸めた。

「クジョウ、どうしたんだ? シンカゲは?」

 ムラセがそう問うたのも無理はなかった。クジョウが一人で屯所の外に出ることはない。常に隣りにはシンカゲがいた。

「リラに、薬草煎じに使う道具の買い出しを頼まれたんだ」

 咄嗟に嘘を吐く。

「そうか。気をつけてな」クジョウはその言葉に思わず苦笑していた。時に、ムラセはクジョウに対して子どもを気遣うような言葉をかけることがある。クジョウはムラセに背を向け、再び歩き出した。

 雑踏に紛れ込み、ムラセから十分に離れてから、クジョウは足を速める。ムラセが不審に思ったような様子はなかったが、クジョウが屯所を出たことが、ムラセからシンカゲに伝わる可能性がある。急ぐ必要があった。

 リュウドウの街の構造を詳しくは知らなかったが、どの方向に進めば街から早く出ることが出来るかはわかっていた。半ば駆けるようにして進むクジョウの肩で、髪の房が柔らかく揺れた。姿を現さぬまま、が微かに鳴き声をあげる。

「わかっている。でも、行かなきゃ。ここにいたらだめだ」

 半分は己に言い聞かせるために、クジョウは呟いた。

 リュウドウを去る。そう決めたのは昨夜、シンカゲと話した後だった。クジョウは自由を返されてはいない。まだ万全ではない体調を押して屯所まで行ったのは、密かにリュウドウを去るためだった。

 屋敷に居たのでは常に人の目がある。ここ数日寝込んでいたクジョウの元には、足繁くヤヨイナが顔を出していた。居なくなれば、すぐにカガリへと知らされるだろう。例え夜であっても、私兵が守る屋敷を密かに出るのは難しい。だが、屯所ならばクジョウが居なくなっても誰も不審に思わない。シンカゲとスイレン以外は誰もクジョウがリュウドウに留まる理由を知りはしないのだから。そして誰にも気付かれぬようリュウドウを出るには、昼間、街に人が溢れている時分が最もよいように思えた。

 問題はシンカゲとスイレンである。二人はクジョウを信頼しているのか、屯所の中では一人で行動するのを許していた。だが、クジョウが一人で屯所を出たと知れば、クジョウが逃げたということを即座に悟るだろう。それはただちにカガリへと伝えられ、追手がかかるに違いない。今のうちになるべく遠くへ行く必要がある。

 歩きながら、クジョウは帯の中に潜ませた貨幣の厚みを確かめた。蠱使いとして稼いだ金はリュウドウに来てから手付かずになっていたが、当分旅をするのに困らないだけはある。荷物の一つも持たずに街を出るのはさすがに心許なかったが、そもそもクジョウが持っていた荷物などたかが知れている。街を出てから街道筋の店で旅装を整えるつもりだった。

 ここ数日の不調が、今日は幾分ましなのがありがたかった。決して振り返らず、クジョウは歩を進めた。振り返れば、決心がぐらつくような気がしていた。この後に及んで、まだ未練を感じる己にクジョウは嫌悪すら抱く。迷いは切り捨てた筈だ。

 シンカゲは怒るだろうか。クジョウを守ろうとしたシンカゲを裏切り、何も告げずに去ることをどう思うだろう。あるいは、クジョウのことなどすぐに忘れてしまうかもしれない。

 俯きがちに歩いていたクジョウは、周囲に人気がないことに気付いた。とりとめのない思考に捕われ、気付かぬままに大通りから外れていたらしい。道は幾分幅が狭く、建ち並ぶ家々も粗末なものが目についた。道の端に、長い間放っておかれたのか、異臭を放つごみが散乱しているのを見やり、クジョウは足を止めた。街の外へ最短の距離で出るのに、方角自体は間違っていない筈だ。だが、このまま進めば入り組んだ細い路地に入り込んでしまう可能性がある。

 一度大きな通りに戻った方がいいか――そう思い、クジョウは踵を返した。

 元来た道を辿りかけたその時だった。クジョウは突然横合いから伸びて来た腕に体を羽交い締めにされた。咄嗟に声をあげようとして、その口を乱暴に塞がれる。暴れようとしても、クジョウを捕えた腕はびくともしない。抗うことも出来ずに、家と家の間にのびる路地に引きずり込まれる。陽光の射さぬ暗い路地には、数人の男の姿があった。その中の一人に見覚えがあった。武術大会でクジョウと対戦し、シンカゲに武具の不正使用を暴かれた兵士である。

 目を見開いたクジョウに、男達が笑みを浮かべた。獲物を捕えた獣の笑みだ。

 片手でクジョウの口を塞ぎ、片腕だけでその体の動きを封じるのも男に違いない。絡みつくようなその体温が厭わしかった。耳元で男が囁いた。

「安心しな。お前を傷つけはしない。大事な人質だからな」

 聞いたことのある声。武術大会の前日、演習場でシンカゲに険悪な言葉を投げつけていた北方きたかたの兵士だ。恐怖よりも先にクジョウが感じたのは焦燥だった。男が言った言葉――クジョウは誰に対しての人質なのか。答えは明らかだ。

 クジョウは必死で肘を背後に突き出した。男の拘束が僅かに緩む。抜け出そうとしたクジョウに、男が鋭い舌打ちを漏らす。容赦のない力で、男がクジョウを殴りつけた。地面に倒れ込んだクジョウを男が見下ろす。「面倒臭えな」ぼそりと呟くや、男はクジョウの腹を蹴りつけた。鳩尾に衝撃が弾ける。

「おとなしくしてりゃあいいものを」

 男が言うのを遠く聞き、クジョウは意識を失った。



 食堂は騒々しい程のざわめきに包まれていた。長い木の机と椅子が所狭しと置かれ、兵士達が犇めき合っている。

 シンカゲは食事を乗せた木の盆を持ちながら、ごった返す食堂を器用に通り抜けて行った。空いた席がなかなか見つからない。漸く見つけた空席に滑り込み、早速食事をかき込む。兵士にとっては体が資本である。食事は常に大盛り、それでも足りない者はおかわりをすることも出来るが、それも早い者勝ちである。

 食べながらシンカゲは食堂の中を見回した。クジョウがいないかと思ったのである。だが大柄な兵士達の中に、クジョウの姿を見つけることは出来なかった。もう体調は大丈夫だと言っていたが、完全に治っているようには見えなかった。もとより小食のクジョウは、もしかすると昼食を食べには来ていないのかもしれない。

 少し医療所に顔を出すか――そう思い、シンカゲは再び食事に集中した。

 名を呼ばれたのは、丁度食べ終わった時だった。顔を上げると、ムラセの姿があった。何時の間にか空いていたらしい正面の席に、ムラセは座る。

「今まで鍛練だったのか?」

「ああ。今日は午前中に野暮用があって鍛練に遅れた。そのせいで小隊長に絞られた」

 ムラセが属する小隊の長は、厳しいことで有名である。例え用事があろうとも、規律を乱す者には容赦がない。

「それは気の毒に」

「心が籠っていないなあ」ぼやきながら、ムラセは食べ始める。何となく付き合うような形で、シンカゲは頬杖をついた。食べ終わった兵士達は残り少ない休息時間を気に入りの場所で過ごすため、三々五々食堂を後にしている。空き始めた部屋を、再びシンカゲは見渡した。やはりクジョウの姿はなかった。

 豪快な食べっぷりでムラセが全ての皿を空にした時、遠く鐘の音が響いた。あと四半刻で午後の鍛練が始まる、その合図である。シンカゲは立ち上がった。

「どうした? もう行くのか?」

「医療所に寄ろうかと思ってな」

 答えたシンカゲに、ムラセは納得したように頷き、そう言えば、と続けた。

「クジョウだが、屯所に来た時に門のところで会った。屯所の外ではいつもシンカゲと一緒なのに、珍しいこともある……」

 シンカゲの表情にムラセは言葉を切った。

「どうした?」

「屯所の外、だと?」

 その声音にムラセは瞬き、頷いた。

「ああ、そうだ。リラに道具だか何だかの買い出しを頼まれた、と……」

 シンカゲはムラセの言葉を最後まで聞かずに走り出していた。ムラセの声が背後に響いたが、振り返らずに食堂を飛び出す。

 クジョウが一人で屯所を出たということが、シンカゲには咄嗟に信じられなかった。何も言わずとも、クジョウは己の立場をよく心得ている。例えリラに頼まれたとしても、屯所を出るような用事は断るのではないだろうか。それに加え、リラが体調のすぐれないクジョウに買い出しを頼むとも思えなかった。

 医療所に走り込んだシンカゲに、リラは驚いた顔で振り返った。煎じ薬を作っていたのか、部屋にはむっとした臭いがたちこめている。

「いやだ、びっくりするじゃないの、シンカゲ」

「クジョウは?」性急に問うたシンカゲに、リラは首を傾げた。

「クジョウなら、畑に水を撒きに行ったわよ。今は食堂にいるかもしれないわね」

 その答えに、シンカゲは束の間立ち尽くす。混乱の底から、やはり、という思いがわき起こり、苦く胸を浸した。

「リラは、クジョウに買い出しを頼んではいないんだな?」

「ええ、頼んでいないわよ。……何かあったの?」

 その問いには答えずシンカゲは目まぐるしく思考を巡らせた。クジョウは何故一人で屯所を出たのか。ムラセに嘘を言ってまで――決まっている。クジョウはリュウドウを去るつもりなのだ。誰にも告げず、密かに。

「シンカゲ!」呼ばれて思考が途切れた。追って来たらしい、ムラセの姿が戸口にあった。

「どうしたんだ、いきなり。クジョウがどうかしたのか?」

 どうしたものか、とシンカゲはムラセを、次いでリラを見やった。クジョウをすぐにでも捜すべきか。今から追えば、クジョウが街を出る前につかまえることが出来るかもしれない。

 ――だが、それをすれば再びクジョウの自由を奪うことになる。

 今連れ戻さなければ、いずれクジョウがいなくなったことは明らかになる。だが、クジョウが逃げたということをシンカゲの胸の内だけに秘めておけば、カガリの耳に入るまで時間をかせぐことが出来る。クジョウが逃げたと知れば、カガリは何としてもクジョウを見つけ捕えようとするだろう。そして一度逃げたクジョウをカガリは決して信用しない。最悪、命を奪おうとするかもしれない。そうなれば、シンカゲの言葉にも耳を貸さないだろう。

(クジョウ……何故、何も言わずに……)

 冷静に思考を巡らせながらも、シンカゲはわき起こる思いを抑えることが出来なかった。何故、一言告げてくれなかったのか。いつか必ず自由を返すと、そう言ったシンカゲを、そこまで信じることが出来なかったのだろうか。クジョウがこのまま去れば、もう二度と会うことはないだろう。クジョウにとってシンカゲは別れを惜しむ程の価値もない存在だったのか――

 そう思われても仕方がないだろう。シンカゲは自嘲の笑みを浮かべていた。シンカゲは、カガリが決して真の意味での自由をクジョウに返さないことを知っていた。シンカゲが自由を返すと心に決めていようと、結局出来ることなどたかが知れている。今でさえ、シンカゲに出来るのは、口を閉ざしクジョウが逃げるための時間をかせぐことぐらいだ。

 きり、と胸の奥が痛む。クジョウに信頼されていなかったと知ったが故か、それとも唐突に訪れた別れに対するものか――あるいは二度と会えぬということへの痛みなのか、シンカゲにはわからなかった。

 せめて、クジョウが自由になれるよう、口を閉ざしていよう。シンカゲは心を決める。しかし、不意に響いた声に、はやくもその決心を阻む困難の到来を知った。

「一体何の騒ぎだ」

 医療所の戸口に、スイレンが立っていた。

 今回、かなり誤字・脱字があるかもしれません。出来るだけ直したつもりですが、直し切れていなかったらすみません。気付き次第修正したいと思っています。

 ではでは今後ともよろしくお願いいたします!

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