第一章
シンカゲがハザカイに着いたのは、空の端の闇が潤んだ頃合いだった。やがて、そこに仄かな朱が混じる。黒々とした森の影が、地平に昇っているだろう太陽の姿を隠しているが、熱度の低い光の束が遠く滲み、一日のはじまりを告げていた。
大陸の北部をあまねく覆う森は、その南端をハザカイの東まで伸ばしている。地図で見れば、黒々とした森の中程から、一部のみ南へと突出し、森全体がまるで一本の木を象っているかのような形をしている。
ラザンへの使者が森の中を敢えて通ったのは、森を避ければ、森の南端と接しリュウドウとは険悪な関係にあるセクトールを通らねばならないからだ。しっかりと準備をしていれば森に呑まれることは滅多にない。使者についていった蠱使いが優秀な使い手であることをシンカゲは知っていた。それにも関わらず、森に呑まれたということは、常になく大きな変動が起こっているということだろう。
シンカゲは森と、森の周囲に広がる草原を見渡した。人々は森の近くには住まない。森が外に向かって動くことはあまりないが、それでも傍近くに住めば、いつ森に呑み込まれるかわからないからである。ハザカイにも小さな街はあったが、森からは一里程離れている。そこに向かうべきか――シンカゲは迷っていた。カガリはシンカゲの蠱を使えと言ったが、シンカゲは蠱使いとしては未熟だ。
シンカゲは馬の速度を落とし、傍らを進むスイレンに無言で視線を投げた。スイレンはシンカゲの問うような眼差しに、肩を竦め言い放った。
「行くしかないさ。あんたの蠱が頼りだからね」
頭の高い位置で一つに括ったスイレンの赤い髪が、彼女の動きにあわせて揺れる。それを見るともなしに見ながら、シンカゲは苦く息をついた。ひゅっと鋭く息を吐く。それに応えてシンカゲの肩に蠱が姿をあらわした。
シンカゲの蠱は鷹のような姿をしている。空を飛ぶ能力を有する蠱は珍しいと言われるが、シンカゲ自身はどうにも気ままな己の気質を蠱が体現しているような気がしてならない。蠱使いに、本格的に修行をしないかとしきりに誘われたこともあるが、シンカゲは頑なに拒否していた。
「とりあえず、人の気配を探って来い」
命じれば、蠱は悠々と翼を広げ、前方に蹲る森へと飛んで行った。
蠱使いが送って来た言葉だけでは、到底彼らがどこにいるかはわからなかった。無論、わかるような伝言が出来ていれば、そもそも森に呑まれなどしていないだろう。
「なかなか様になってるじゃないか」
スイレンの言葉に、シンカゲは唇を曲げただけで何も言わなかった。リュウドウの自由兵士の中でも凄腕のスイレンは、シンカゲが子どもの頃、彼の剣の師匠だった。そのせいもあり、どうにも頭が上がらない相手である。
蠱は半刻程でシンカゲの元へ戻って来た。腕に乗せ蠱の額に己の額をつける。そうすればより蠱の波動を受けやすくなる――シンカゲが幼い頃に発見した方法だった。だが、蠱が送る像はどれも曖昧で掴みどころがなかった。うねるような森の陰影に、シンカゲは船酔いしたような気分になり、額をはなす。
「どうだい?」
「さっぱりだめだ。まだ森全体がざわめいていて、俺の力ではとてもじゃないが人を探せそうにない」
「困ったね」さほど困ってもいないようなスイレンの声だった。無論、シンカゲもこうなってはとる手段は一つしかないとわかっていた。
「仕方がない。森際の街で蠱使いを雇おう」
シンカゲは言うと馬首を巡らせた。蠱は一度身震いすると、シンカゲの肩にとまり姿を消した。
最も森に近い街は、小さいながらもよく整えられていた。リュウドウとセクトール、そしてラザンの真中にあり、人と物の通行が盛んなのだろう。宿屋や飲食店が目につく。
シンカゲは目指す建物をすぐに見つけた。街の入り口に程近い位置に、大きな看板がある。森に程近い街には必ずあるそれは、蠱使いに仕事の斡旋を行う口入屋だ。早朝にも関わらず、口入屋の扉は既に開いていた。表に馬を繋ぎ、シンカゲとスイレンは建物の中へと踏み込んだ。
口入屋の主人は老年に差し掛かった小柄な男だった。背を屈めて何やら記帳している。シンカゲとスイレンの足音に顔を上げると、どこか猫を思わせる仕草で手を組んだ。
「いらっしゃいまし。何か御希望ですか」
「蠱使いを紹介してほしい」
へ、と男は大げさに目を見開いてみせた。
「今は森がかなり動いておりまして、出来ますれば日をずらした方がよろしいかと……」
「ラザンへ向かっていた商人の一行が森に呑まれたとの情報があってね、蠱使いが蠱を飛ばして来た。放っておいたら森の中で命を落としかねない」
「それはまた難儀で……。確かに最近森の動きが激しくて、皆不安がっておりますよ」
男はスイレンの話に疑問を抱いた様子はなかった。ぱらぱらと帳面を繰って何やらぶつぶつと呟いていたが、はたと顔を上げた。
「ああ、丁度良い者がおりますよ。毎朝ここに来るので、もうすぐ来ると思います。その者に頼みましょう」
「優秀か?」
「ええ、それは勿論。まだ若いが、なかなか大したもので。名前は……ええと……」
再び忙しなく帳面を繰る姿に、シンカゲは目を細めた。
「親父、適当なことを言ってもらっては困るな。その蠱使いについてさほど知らないんじゃないのか? 俺達は確実に森を渡れる蠱使いが必要なんだ」
「へ……それは勿論、誰しもそうでございます。ああ、そうだそうだ、クジョウです、クジョウ」
ずい、と近付いたシンカゲに、男はびくりと体を竦ませた。
「いやはや、クジョウはまだこの地に来たばかりでね。でも優秀なのは保証いたしますよ」
今度はスイレンが脅すように腰の剣に手を置いた。男は益々身を縮める。
その時背後から声が響いた。
「そこまでにしなよ。嘘は言っていない。俺はそこらの蠱使いよりよほど優秀だよ」
シンカゲとスイレンは戸口を振り返った。そこに一人の少年が立っていた。無造作に伸びた前髪のせいで顔立ちが些か掴みづらいが、どう見ても十代半ばだ。背はシンカゲよりも頭一つ下といったところ。前髪と同様に伸ばしっぱなしといった風情の後ろ髪を一つに括り、衣服は蠱使い特有の厚手の布をふんだんに重ねたものだった。背嚢を一つ背負い、頑丈な靴を履いている姿は、いつでも森に入れそうだ。
「俺がクジョウだ。表で聞いてたけど、あんた達、森の中に探し人がいるんだって?」
凝視する二人には構わず、クジョウが近付いて来る。褐色の肌はもともとの色か、それともよく陽に焼けているせいか、シンカゲにはわからなかった。瞳は黒と灰の半ば、漆黒の髪と相まって全体に影を纏うかのような印象があった。
「今は森が不安定だからね、本当は入らない方がいい。でも、急ぎなんだろう?」
「ああ、そうだ。蠱使いが蠱を送ってきたが、蠱そのものが消えてしまって、商人連中がどこにいるかが全くわからん」
「蠱が消えた?」
ふとクジョウの顔が曇った。「可哀想に……」あるかなしかの声でぽつりと呟き、次いで低く口笛のような音を出した。するとクジョウの肩にくるりと小さな蠱が姿をあらわした。姿は栗鼠に似ているが、その毛並みは茶色ではなく柔らかな金だった。
「これが俺の蠱だ」
言うと、クジョウは腰に手をあてて二人を見上げた。
「突っ立ってないで、俺に依頼するかどうか早く決めてくれないか?」
シンカゲはスイレンと素早く眼差しを交わし合う。
「わかった。お前に頼もう。俺達はすぐにでも森に入りたい。出来るか?」
「ああ、大丈夫だよ」
クジョウは言うと、口入屋に顔を振り向けた。「おじさん、俺この人達と行って来るから。後払いでいいよね?」男はこくこくと頷く。どうやら二人の客が立ち去ることが余程嬉しいらしい。シンカゲとスイレンはクジョウに続いて建物の外に出た。
眩しい光の中で、シンカゲは目の前の背中を見やった。クジョウはくるりと振り返り、シンカゲに向き直る。背の半ばまである黒髪が、躍動的に流れた。
「そうだ、あんた達の名前、教えてほしいんだけど」
一瞬口ごもり、シンカゲは答えた。
「俺はムラセだ」
スイレンがちらりとシンカゲを見やる。ムラセは鍛練仲間の自由兵士の名だ。
「あたしはスイレンだよ。よろしく、クジョウ」
クジョウはにこりと笑った。
「ムラセとスイレンね。じゃあ、森に行こうか」






