19
小さな音が響いた。それにクジョウは目を開けた。四角く切り取られた緑が、滲むようにして見えた。窓の向こう、玻璃の青味を帯びて、それは僅かに歪んでいる。夢を見ていた、と思う。むせる程の緑に包まれて、森の奥へと踏み込んで行く夢だ。
「クジョウ様、お目覚めになられましたか?」間近に響く声に眼差しを上げれば、ヤヨイナの笑顔が見えた。先程聞こえた音は、彼女が扉を開けた音だったのだろう。
「お薬をお持ちしましたよ」
クジョウはゆっくりと身を起こす。差し出された粉薬を大人しく受け取り、傍らに置かれた水で飲み込んだ。「御気分はいかがですか?」
薬の苦みに僅かに顔を顰めながら、クジョウは答えた。
「まだ少しだるいです」
言ってから、少し違うな、と思う。だるいというよりも、まるで体から意識がずれているかのような齟齬感がある。自分の体にも関わらず、まるで借り物の身に合わない服を着ているような気分だ。
「まだお熱がおありなのかしら。本当にお医者様にお診せにならなくてよろしいのですか?」
「はい。少し風邪をひいただけですから」
心配顔のヤヨイナに小さく微笑み、クジョウは再び体を横たえた。
クジョウが発熱して、既に三日が経っていた。屯所にも行かず、毎日寝て過ごしていたが、それでも体調はなかなかもとには戻らなかった。
(長引けばまずいな……)
とろとろとまどろみながら、そう思う。ただの風邪では通せなくなるかもしれない。胸元を押さえる手に力を込める。ゆらりと、体の奥の熱が嘲笑うように揺れた。足掻いても無駄なのだと、そう言われている気がした。発熱は、おそらく体に起こりつつある異変のせいだ。何かが動き出そうとしているのを無理矢理抑えつけている、その反動なのだと、感覚的な部分でわかっていた。
幾度も否定しながらも、クジョウは魄への覚醒を押し止めていたものが、とうとう崩れ始めたのだと悟らずにはいられなかった。耳飾りの封印と、己の意思の力と、それでどこまで耐えることが出来るのか。あるいはこの状態は一過性のものに過ぎないのか、クジョウにはわからなかったが、このままリュウドウに留まっていてはいけない、と思う。
(早く……リュウドウから出ないとだめなのに……)
岐が魄に覚醒する時どのような状況になるかクジョウは母親に聞いたことがある。このような街中で万が一にも覚醒するようなことがあれば、多くの人が巻き込まれるだろう。
意識が眠りに絡め取られる。抗いようもなく、再び緑の深奥に呑み込まれながら、クジョウは遠く小さな人影を見たと思った。手を伸ばしても、もう届かない。
――シンカゲ。
呼ぶ声に、人影は振り返らなかった。
シンカゲは一人広場を眺めていた。新参の若い兵士達がそこで剣術の指南を受けている。溌剌とした掛け声が響く。いつもならばクジョウの体術の鍛練を行っている時間帯である。そのクジョウが三日前から体調を崩し、今もまだ寝込んでいる。余った時間で鍛練に参加してもよかったが、どうにも気が乗らなかった。
「クジョウの具合はどうだ?」背後から問われ、シンカゲは振り返った。ムラセが近付いて来る。鍛練着に汗が滲んでいた。鍛練が終わったところなのだろう。
「まだ良くはないみたいだな。一日中眠っている」
「風邪か?」
「本人はそう言っている。医者に診せたがらないから、実際はどうかわからん」
隣りに立ったムラセは、柔らかな癖毛をかきあげながら、汗を拭った。日中の気温は次第に高くなっている。夏が近付いているのだ。
「リラに診せたらいいんじゃないか?」
「ああ、そうなんだが、動くのさえ辛いらしい。屯所までは連れて来れない」
僅かに沈黙、次いで意味ありげにムラセは「そういうことか」と呟いた。シンカゲは訝しくムラセを見やった。
「何だよ」
「いや、何か元気がないと思っていたが、クジョウがいないとどうも調子が出ないみたいだな。そんなにクジョウが心配か?」
「ただ単に暇なだけだ」素っ気なく言ったシンカゲに、ムラセは「そうかね」と、揶揄するように返す。シンカゲは小さく溜息をついた。
「確かに、クジョウのことは心配している。クジョウは弱音を吐かないからな。口で言うよりも辛い思いをしているかもしれない」
「辛い……か。そうだろうな」
単に体調のことだけを言っているのではないように感じ、シンカゲはムラセを見やった。思いに沈むような横顔に、どこか苦し気な表情が浮かんでいる。
「どうした?」
「いや、何でもない」ふと言葉を切って続ける。「シンカゲは幸せな奴だと思っていただけだよ」
「俺が? どういうことだ」
「気にするな。大したことじゃない」
それより、とムラセはシンカゲの意識を逸らすように言った。
「アワユキはどうするつもりだ? 今日も迎えに来るんだろう?」
シンカゲは思わず顔を顰めた。ここ数日、毎日ようのようにアワユキはシンカゲが帰る刻限になると迎えに来る。門の外に立つ彼女の姿は屯所の中でも評判になっていた。
「いじらしいじゃないか。アワユキのことは大切に思っているんだろう? 応える気はないのか?」
「応えることは出来ない。アワユキを妹以上の存在に思うことはどうしても出来ない。はっきり伝えるつもりだ」
迷いのないシンカゲの声音にムラセは、そうか、と呟いた。強い日差しに地面が白く光っている。それを見ながら、シンカゲは答えを出さなければならないと、心に決めていた。
屯所を出たシンカゲは道の端に立つアワユキの姿を見やった。周囲の兵士達から冷やかしの声があがる。それには構わず、アワユキの元へと向かう。常ならば呆れたような、あるいは困ったような表情を浮かべるシンカゲが真直ぐに視線を向けるのに、アワユキは目を見開いた。
並んで歩きながら、二人は黙りがちだった。大通りを抜け木々が生い茂る人気のない遊歩道に入る。街の中に作られた園庭はアワユキが気に入っている場所である。人気のないそこで、シンカゲは重い口を開いた。
「アワユキ、話があるんだ」
アワユキはシンカゲの言葉を封じるように、不意に明るい声を出した。
「シンカゲ、この前選んだ布があったでしょう? 今日は仮縫いをするっていうから見に行ったの。そうしたらとても素敵になってたわよ。シンカゲは私に似合わないって言ったけれど」
「アワユキ」さほど強くはない、むしろ優しい響きを宿した声音に、アワユキが息を呑んで黙り込んだ。
「俺はアワユキの想いに応えることは出来ない。アワユキのことは大切だけど、恋人として見ることはできない」
アワユキは唇を噛み締めた。
「大切って……妹みたいに?」
「ああ、そうだ」
「どうして? どうして妹としか思ってくれないの? 私はずっとシンカゲを見てきたのに。小さい頃からシンカゲだけを想ってきたのに……。大切なら女性として見てよ。女性として愛してよ」
「アワユキ、それは出来ないんだ」
何時の間にか二人は立ち止っていた。地面に長く影が伸びる。それを、アワユキは睨みつけるようにして見ていた。堪えようもなく、涙が溢れる。絡まった思いが、嗚咽となって胸を震わせた。シンカゲは黙ってアワユキを見詰めている。深く静かな優しさで――だが、決してアワユキに手を差し伸べようとはしない。
「……他に好きな人がいるの?」
「いや、そういうわけじゃない」
「嘘よ……」
決して交わらない、二人の影。胸の奥に秘めていたざわめきが、不意に言葉となって零れ落ちた。
「嘘よ。クジョウでしょう。シンカゲが好きなのはクジョウなんだわ!」
「何を言っている。そんなわけがないだろう」
「いいえ、私はわかっている。ずっとわかっていたのよ。あの子が来てからシンカゲはおかしくなった。前の……私が知っているシンカゲではなくなったの!」
とめどなく涙が零れ落ちる。シンカゲを睨みつけながらアワユキは後ずさった。踏み出そうとしたシンカゲにアワユキは叫んだ。
「来ないで! 汚らしい!」
叫ぶや、アワユキは身を翻して走り出した。シンカゲを振り返らずに園庭を出る。振り返りたくはなかった。シンカゲの表情を見てしまえば、何もかもが終わるような気がしていた。
(馬鹿ね。もう終わっているのに)
冷めた心の一部が囁く。とうにわかっていただろう、と。シンカゲの気持ちが決してアワユキに向かないことを――
(嘘よ! そんな筈ない! シンカゲが私を愛さないなんて……!)
屋敷に辿り着き、漸くアワユキは立ち止った。膝に手をついて荒い息をつく。驚いたように見詰める私兵の姿に自嘲の笑みが漏れた。街の人々も、泣きながら走る彼女の姿を見ていた。
(そんなこと構うもんか。好き勝手に噂すればいいのよ)
乱暴に涙を拭うと、アワユキは屋敷の内へと入った。胸の内のざわめきは、今や嵐のように吹き荒れている。悲しみさえも圧して、怒りと、ねばつくような憎悪が渦巻く。目指す部屋まで行くと、アワユキは前置きもなく扉を開けた。部屋は薄暗かった。幾つかある窓からは夕刻の淡い光が射している。アワユキは寝台に近付いた。
クジョウは眠っていた。常には一つに括られている黒髪が、横方に眠るクジョウの背後に、まるで流れる水のように広がっている。アワユキは肩で息をつきながら、クジョウの姿を見詰める。
浅い眠りだったのか、クジョウがゆっくりと瞼を開いた。アワユキに気付き、驚いたように身を起こす。澄んだ音をたてそうに、黒髪がクジョウの肩から背へと零れ落ちた。
「……あなたなんかいなくなればいいのよ……」
囁くように言う。何もかもが憎らしかった。煙るように淡い瞳の色彩も、星の光を集めたような黒髪も、シンカゲが当たり前のように支えた細い体も――
「どうしてあなたがここにいるの!? 私とシンカゲの場所に、どうしてあなたがいるのよ! あなたさえ来なければ、おかしなことにはならなかったのよ! あなたさえいなければ! シンカゲの傍には何時でも私がいたのに……シンカゲが苦しい時に、一番傍にいたのは私なのに!」
クジョウの顔に浮かんでいた驚きが、次第に消える。僅かに伏せたクジョウの瞳に、影が集う。悲しみか、憐れみか――苦しみ、の筈がない。苦しいのはアワユキであってクジョウではない。アワユキの苛立ちは益々募った。
「何とか言いなさいよ! あなたなんか……!」
「俺はもうすぐここを出て行く」
囁くようにクジョウが言った。それが全ての答えであるかのように。
アワユキは瞬間、頭の芯が痺れるような感覚に陥った。唐突に悟っていた。クジョウは男ではない。どうして今までわからなかったのだろう。目の前を覆っていた紗が突然剥がれ落ちたように――淡く、儚く、どこまでも静謐に、そして闇のように艶やかな――目の前にいるのは紛れもなく、一人の女性だ。アワユキは茫然とクジョウを見詰めていた。
そして確信する。
――クジョウはシンカゲを愛している。
暗い何かが胸の中に湧き起る。
「今すぐに消えて。私とシンカゲの前から」
冷たい己の声を遠く聞いて、アワユキは逃げるように部屋を後にした。
夕刻の光が宵に呑まれ、部屋が闇に沈んでもクジョウは動かずにいた。
――あなたさえいなければ。
幾度も幾度も、アワユキの声が耳の奥で木霊する。何故アワユキがあれ程まで取り乱していたのか、クジョウは僅かながらも察していた。シンカゲとの間に、何かあったのだろう。
「どうしてここにいるの……か」
ぽつりと呟く。シンカゲがクジョウを守るために何かを犠牲にしているとしたら、アワユキの怒りも頷ける。クジョウの存在は、ここでは異物でしかない。アワユキやシンカゲの穏やかな生活を乱す邪魔者と謗られても仕方はないだろう。知らぬ間に、アワユキを傷つけていたに違いない。おそらくはシンカゲをも――。
シンカゲに守られる心地良さに甘えて、一時与えられた温もりに溺れて、己がどういう存在かを忘れていた。決して一つ所に留まってはいけないという、その掟を忘れていた。
その時軽く扉が叩かれた。答えると、扉が開かれる。光を背に立つシンカゲの姿があった。
「入ってもいいか?」常と変わらぬ声音。クジョウは小さく頷いた。
シンカゲは扉を閉ざすと、窓の傍近くに立つ。闇に沈んだ部屋では、互いの姿は輪郭でしかわからない。シンカゲが明かりを灯す気がないらしいことに、クジョウは僅かに安堵した。一体自分がどのような顔をしているのか、自分でもわからなかった。
「具合はどうだ?」
「もう大丈夫だ。今日も一日寝ていたから」
「そうか。良かった」
かそけく揺れる木の葉の音が聞こえる。静寂に、クジョウは身じろぎした。言葉がつかえたように出て来ない。不意に数日前のことを思い出す。クジョウの前髪を掬いあげたシンカゲの手――逃げるように部屋に戻ってからも、真直ぐに向けられた瞳の強さが忘れられなかった。その日の夜から熱を出し、シンカゲとまともに話していなかったが、あの時シンカゲは何を思っていたのだろう。
「アワユキと、何かあったのか?」
問いに答えは返らなかった。クジョウは言葉を押し出す。何か話していなければ、心が呑まれそうになる。
「さっき、アワユキが来た。泣いていた」
「……そうか」
「シンカゲが苦しんでいる時に、誰よりも近くにいたのにって……」
「ああ、そうだな」
断片的なクジョウの言葉に、シンカゲは低く言った。シンカゲが柔らかく笑んでいるように、クジョウには思えた。シンカゲが秘める記憶、過去――クジョウはシンカゲのことを何も知らない。
「アワユキとカガリは、俺がここに来たばかりの頃、何時でも傍にいてくれた。散々に暴れて拒絶したのに、嫌な顔一つせずに。笑うことを思い出せたのは二人のおかげだ」
「何があったんだ?」
常ならば決して問わぬだろうことを、クジョウは言葉に乗せていた。シンカゲの沈黙に心が挫けかける。それでも、クジョウは再度問うていた。
「昔何があったんだ?」
聞けば、戻れなくなる。この温かい生活を続けることは出来なくなる。クジョウは唇を歪めた。苦い笑い。リュウドウを去ると心に決めながら、まだそれを受け入れない己がいる。卑小で、卑怯な心だ。
シンカゲの言葉は、闇の底に冷たく落ちた。
「俺の家族は魄に殺された」