第五章
シンカゲは溜息を堪えて窓の外を見やった。道を行く人波はせわしなく、玻璃をとおして降り注ぐ陽光は、まどろむように温かい。
シンカゲがいるのはリュウドウの街で最も大きい衣料専門店である。女性の衣服を主に扱うその店は、客が選んだ布地から仕立てを行うことで人気を集めている。店内には、展示するかのように所狭しと布がたてかけられ、さながら色の洪水である。焚き染められた甘い香の匂いは、一刻程もいれば慣れてしまうものらしいが、慣れるからといって不快感が減るわけではない。
女性の衣服を主に扱う店に男性が踏み込むのは躊躇われ、かと言って店の前に立っているのも妙に人目を引く。シンカゲは店の入り口の横に設えられた小さな部屋にいた。女性の長い買い物に付き合わされた男性の待機場所として作られただろうそこに、今はシンカゲ一人である。
「シンカゲ」背後に響いた明るい声に、シンカゲはほっとして振り返った。だが、戸口に立つアワユキの姿に、再びげんなりとした顔になる。アワユキの腕には五種類はあろうかという布地が抱えられていた。
「どれがいいかしら」
「何度も俺にはわからないと言っただろう。それに、さっきもう決めると言っていなかったか?」
「だって、他にもいいのを見つけたんだもの。私、妥協は嫌いなの」
だからと言ってこちらを巻き込まないでほしい、という思いは内心に閉じ込め、シンカゲはおざなりにアワユキの腕に溢れる色彩に目をやった。
「どれが似合うと思う?」
萌黄、薄紅、臙脂、群青、紫苑――僅かに上気したアワユキの顔を見やり、シンカゲは言った。
「これは似合わないな」示したのは群青、宵の空の底のような深い色合いである。
「何よ、似合わない色をきいているわけじゃないわ。似合う色を聞いているのに!」
「他はどれも似合うんじゃないか?」
シンカゲの口調が気に食わなかったのか、アワユキは不機嫌そうに顔を歪め、「いいわよ、もう」と一言、再び姿を消した。シンカゲはやれやれと思う。休息日にアワユキに引っ張られ買い物に付き合わされることはこれまでもよくあったが、その都度似たような言葉を交わし合い、最後にはアワユキが不機嫌になる。こうなることがわかっているのに、何故、シンカゲを買い物に誘うのか気が知れない、と思う。
――馬鹿だな、シンカゲと一緒にいたいからだろ。
シンカゲの疑問にそう言ったのはムラセだったが、同じ屋敷に住んでいて何くれとなく顔を合わせているのだからわざわざともに出かける必要はないと思える。
(やはり無理か……)
再び窓の外の雑踏を見やりながら、シンカゲはぼんやりと思った。カガリに、アワユキと結婚してくれないか、と言われたその答えを、シンカゲはまだ出していない。アワユキとともに生きるということをシンカゲなりに考え、想像もしてみたが、どうにも気持ちがついていかない。今でさえこの調子では到底恋人として、やがては妻として愛するなど出来そうになかった。
「シンカゲ、お待たせ」
程なくしてアワユキの声が響いた。先程の不機嫌など欠片も感じさせない笑顔で、シンカゲを呼ぶ。
「決めたのか?」今度こそ安堵しながらシンカゲは部屋から出た。「ええ」アワユキが指差した先には、シンカゲが似合わないと言った深い青がある。どういうことか、と思う。似合わないと言われて、わざわざ選ぶとは――
アワユキの顔を見ると、そこには大輪の花のような艶やかな笑みがあった。
「腹が立つから、あれにしたわ」
何とも答えかねて、シンカゲは小さく溜息をついた。心中に、女はわからん、と一言。ムラセあたりに言えばまた馬鹿だと返されるのだろう。仕立ての日程を確認しているアワユキを残し、シンカゲは店の外へと出た。
アワユキは店の外に出ると、シンカゲの姿を探した。シンカゲは店の庇の下で、ぼんやりと雑踏を見詰めている。傍らを通り過ぎる娘が、ちらちらとシンカゲに眼差しを送っている。それを腹立たしく感じながらも、アワユキは飛び切りの笑顔を浮かべた。
「シンカゲ、帰りましょう」
「ああ」シンカゲはあからさまにほっとした様子で歩き出す。隣りに並び、アワユキはシンカゲの横顔を見詰めた。何処を見詰めているのか、と問いたくなる。その顔を無理矢理に己の方に向けたくなる。その衝動を堪え、アワユキは道の先に眼差しを戻した。周囲の人々が己とシンカゲに視線を向けてくるのがわかった。二人が恋人同士だと、そういう噂が広まっているのは知っていた。意図して噂が流れるように仕向けたのはアワユキ自身なのだから――
以前ならば、街の人々が向ける視線を心地良く感じただろう。娘達がシンカゲに送る憧れの眼差しに対しては、憐れみさえ含んだ優越感を抱いていた。だが、今は違った。シンカゲの隣りにいながら、一歩もシンカゲに近付くことが出来ずに遠巻きに眺めている娘達と、自分が同じように感じる。
黙々と歩き屋敷が見えるところまで来た時には、アワユキの笑顔も半ば乾いていた。アワユキは不意に泣きたい気持ちになる。毎日、毎日、シンカゲのことだけを考えているのに、近頃のシンカゲは自分を置いてどこか遠くに行ってしまったように感じる。アワユキの気持ちを知っている筈のシンカゲが、何故温かい言葉の一つもかけてくれないのだろう。
私兵が守る門の中へと踏み込んで屋敷内に向かおうとしていた二人だったが、唐突にシンカゲが足を止めた。問う間もなく、庭園の方へと向かう。アワユキは思わず後を追った。せめて一言、言葉を交わしてから部屋に戻りたかった。
「クジョウ」
シンカゲが発した名に、アワユキの足が僅かに鈍る。シンカゲの向こうに、地面に胡坐をかいて座り込むクジョウの姿があった。その前では蠱がちょろちょろと地面を走りまわっていた。時折軽やかに飛び上がるのは、小さな羽虫を狙っているのだろうか。
クジョウは立ち上がることなくシンカゲを見上げている。その視線にあわせたのはシンカゲの方だった。地面にしゃがみ込むと、おかしそうに蠱を見やった。
「はしゃいでいるな」
「ああ。たまに外で遊ばせてやらないと不機嫌になる」
「蠱が不機嫌に?」
「昨日なんか夜中にいきなり耳元で鳴き出して、あれには参った」
「それは確かに参るな」シンカゲは小さく噴き出す。シンカゲの背後に立ったアワユキに、クジョウの眼差しが向けられた。その瞳が僅かに揺れ、そっとクジョウが顔を伏せた。一体己がどのような顔をしているのかアワユキにはわからなかった。噛みしめた唇が震える。
「私、先に戻ってるから!」
シンカゲの背中に言葉を投げつける。シンカゲが答えるのも待たず、アワユキは足音も荒く正面玄関へと向かった。ふんわりとした芝生に覆われた庭園では、アワユキの足音など響きはしないが、少しでも己の不機嫌さをシンカゲに見せつけてやりたかった。
部屋に戻り、アワユキは椅子に座り込んだ。きりきりと胸の奥が痛む。じわりと涙が浮かぶのが尚更に忌々しく、乱暴に目元を拭う。シンカゲがつれなかったわけではない。ただ普段と変わらなかっただけ――それはわかっていた。だが、シンカゲが何時かは特別な眼差しを注いでくれる筈と信じるアワユキには、何もかもがもどかしく、腹立たしく、そして哀しかった。
(どうして応えてくれないの? どうして私だけを見てくれないの?)
アワユキがシンカゲに求めるのは、家族としての優しさや親愛の情ではない。女として愛されたいのだ。シンカゲに抱き締められたいのだ。息もつけぬ程に――そこまで思い、アワユキはどきりとした。一つの光景を思い出していた。
十日程前、武術大会が開催された時のことである。クジョウが対戦相手の不正で傷つけられた時、シンカゲは迷わずクジョウを助け、動くことがままならないクジョウに肩を貸し、寄り添って医療所へと連れて行った。ありふれた光景――兵士仲間同士ではよくあることだ。だが、寄り添い歩く二人の影が一つに溶け合うのを、アワユキは妙にざわめく心地で見詰めていた。
そしてシンカゲが剣術の試合で優勝した時、彼は一点に目をやり、高々と拳を突き上げた。何気なしにその先を目で追ったアワユキは、そこにクジョウがいたことを知っている。必ず勝ってと、いつもの我儘のように言ったアワユキに、笑って応えたシンカゲ。勝利の約束は、アワユキとシンカゲのものだった筈だ。それを、まるでクジョウに勝利を誓っていたかのように――
「あんな子大嫌いだわ。いなくなってしまえばいいのに……」
呟く。縮まらぬシンカゲとの距離も、アワユキの気持ちなど歯牙にもかけぬシンカゲの様子も、全てがクジョウという存在があらわれたことが原因のように思えた。
(シンカゲが私を愛さなかったら……)
思うだけで胸が潰れそうになる。そして嘗てならば決して考えなかっただろう、そのことを考えずにはいられない自分自身に愕然とする。時間を戻せたら――クジョウがあらわれる前に戻したかった。あの頃、アワユキは心の底から信じていたのだ。シンカゲにはアワユキしかいない、と。
苛立ちと怒りと、闇雲な感情はクジョウへと向けられる。やがてアワユキの心の底に、小さく、しかしはっきりとクジョウへの憎しみが生まれていた。
「アワユキを追わなくていいのか?」
気遣うようなクジョウの声に、シンカゲは顔を上げた。蠱を見詰めていたのだが、内心では別のことを考えていたのが読まれていたらしい。腹立たしげに投げつけられたアワユキの言葉――何時もの不機嫌、というだけではない気がした。その原因も大方察しがついている。だから尚更にアワユキを追えなかった。
「街の人が噂している。アワユキとシンカゲは恋人同士だって」
「実際は違うのを知ってるだろう」
「うん、そうだけど。でも、アワユキはシンカゲのことが好きだろ?」
放っておいていいのか、とクジョウが問う。クジョウがシンカゲ個人のことに踏み込んだ問いを発することは珍しい。それが少し意外な気がしてシンカゲはクジョウを見やった。
「カガリは俺とアワユキが結婚することを望んでいる。アワユキを妻にし、このリュウドウでカガリの力になってほしい、と。俺には買い被られているようにしか思えないが」
何時の間にか、さらさらと水が流れるように、シンカゲは言っていた。クジョウが驚いたように目を見開いている。それもそうだろう。アワユキとの結婚話は誰にも明かしていないのだから。
「……それで……どうするつもりなんだ?」
「それをずっと考えている。俺はリュウドウを何時か出ようと思っていた。アワユキと結婚すれば俺はリュウドウで生きることになるが……俺にとってアワユキは妹みたいなものだ。仮に、カガリの力になるためにリュウドウに残るとしても、アワユキと結婚するかどうか……」
クジョウは黙り込んだ。せわしなく動き回る蠱へと視線を注いでいる。シンカゲが言った言葉を受け止めかねているようにも、吟味しているようにも見えた。あるいは何も感じていないようにも――。クジョウの横顔を見詰めながら、シンカゲはふと思った。
――あの群青はクジョウならば似合うだろう。
夜と宵の色彩を集めて、漆黒の髪と澄んだ灰色の瞳が、深い青に映えるだろう。
シンカゲの休息日はクジョウも屯所には行かないが、そんな時でもクジョウが身に纏うのは、くすんだ色合いの鍛練着と大差ないものだ。それしか持っていないのだから仕方がないことではあるが、鮮やかな色彩を身に纏いたいと思うことはないのだろうか。
吹き抜けた風にクジョウの前髪が揺れる。半ば伏せられた顔は表情が読みづらい。シンカゲは手を伸ばしクジョウの顔を隠す黒髪をそっとかきあげた。クジョウがびくりと身を竦ませてシンカゲの方を見やる。大きく見開かれた瞳に、シンカゲは我に返った。
(何をやっているんだ、俺は)
シンカゲは慌てる。
「すまん」言いながら手を引く。なおも己を見詰めるクジョウに、思考が空回りした。
「痣がまだ残っていないか、と……だな。すまん」
我ながら不甲斐ない言い様である。武術大会の後、クジョウの頬に出来ていた痣はとうに消えている。
クジョウは何も言わず、蠱へと低く舌を鳴らした。それに蠱が応え、クジョウの肩へと駆けのぼる。蹲った蠱の背を撫で、クジョウは立ち上がった。
「俺に悩みを言ったって何にもならないよ。俺はいつかここを出ていく人間なんだから。答えはシンカゲ自身が出さないと」
クジョウはそう言うとシンカゲに背を向けた。一つに括られた長い髪が惑うように揺れる。その背に、シンカゲは衝動的に声をかけていた。
「クジョウ」
喉元で何かが絡まっているかのように、言葉が続かなかった。クジョウは束の間足を止めて、振り返らないまま屋敷の内へ姿を消した。
シンカゲは地面に座り込み、頭を抱え込んだ。一体自分は何をしているのか、と思う。指先に仄かに残るクジョウの髪の感触に、益々自己嫌悪に陥る。
(女扱いはせぬと……男として対するとあれほど豪語していたものを、何てざまだ)
クジョウは不愉快に感じただろう。突き放すような最後の言葉がそれを物語っていた、と思う。
手を伸ばしたのは無意識だった。その黒髪を手でどけて蠱に向けられている眼差しを己の方に向けたいと――
クジョウをきれいと評したリラの言葉を、今ではシンカゲも理解していた。きっかけは武術大会の医療所でのことである。リラが診察のためにクジョウの前髪をかきあげて仰のかせたあの時、あらわになったクジョウの顔をシンカゲは美しいと思った。クジョウに対してそのように感じたのは初めてだった。
毎日アワユキと接し、容姿自慢の女性に言い寄らることも多いシンカゲは、良くも悪くも美しい女性を見慣れている。だが、クジョウに感じた美しさはそのどれとも違っていた。作られ飾られたものではなく、意図して見せようとしている美しさでもない。ただあるだけで美しい――朝露に濡れる花を無条件で人が美しいと感じるように――気付かなければ見過ごしてしまう、しかし一度気付けば目が離せない、クジョウの美しさはそういうものだ。
ムラセなどはとうに気付いていたらしい。クジョウがやはり女性だったと告げた時、何故女性だと気付いたのか、と問うたシンカゲにムラセは一言「美しかったからさ」と答えた。その時は、何とも気恥かしいことを臆面もなく言う奴だと呆れただけだったが、今となってはムラセのことを笑えない。
「本当にどうかしているぞ、俺は……」
シンカゲは苦く呟いた。自分の将来を見定めて、カガリとアワユキに対してはやく答えを出さなければならない。クジョウにも早く自由を返さねばならない。
――俺は何時かここを出ていく人間なんだから……
クジョウの言葉を思い返す。クジョウはいずれリュウドウを去る。それは以前からわかっていたことだ。そうなれば、ただクジョウが来る前の状況に戻るだけなのだとシンカゲは思い、顔を顰めた。
本当にそうだろうか?
風が、シンカゲの惑いを散らすように吹き抜けて行った。
たまにシンカゲとクジョウの名前を間違えます。えらいことです。大急ぎで直しますが、直しきれないまま掲載していたら、本当に申し訳ない。
書き手的に、アワユキは悪役でも何でもないので、少しかわいそうだなあ、と思います。自分があの立場なら辛いだろうな、と。因みに、あからさまな悪役はそうそう登場しません。それらしいのは「最果てに天深く」の聡達あたりだけで。彼も単にそういう人間ってだけで、書き手の中では悪役ではないですが。ついでに、モットーは「簡単に絶望するな」なので、辛い目にあっている人でも、簡単にはひんまがりません。登場人物達には強くたくましく、頑張ってほしいものです。(今の時代、「頑張れ」は禁句らしいですが……)
ではでは、今後ともよろしくお願いいたします!
※追記
やはり、一部クジョウとシンカゲを間違えていました。申し訳ない!即座に修正しましたが、いやはや……どじな書き手です。