17
武術大会の当日は、汗ばむほどの陽気だった。風が吹けばそこに初夏の涼が混じるが、雲一つない碧空のもと、陽射しは夏を思わせる強さである。
武術大会が行われる演習場には、早朝から街の人々が詰めかけていた。楕円形の演習場は六区画に仕切られ、同時進行で剣術と体術の試合が行われる。はじめに下位の兵士から、次第に位を上げ、夕刻に全ての試合が終了する段取りである。
クジョウは試合を勝ち進んでいた。出場したのはまだ入隊したばかりの若い者達だが、いずれもクジョウよりも一回りも体が大きい。その中でクジョウの姿は目を引いていた。
「なかなかやるな」クジョウの姿を広場の端で見守っていたシンカゲは、傍らに立ったスイレンを見やった。スイレンは感心したように、今しも一人の兵士に勝ちをおさめたクジョウに目をやっている。
「純粋に力の強さだけならクジョウに勝ち目はないが、要は頭の良さの問題だな」
答えながら、シンカゲ自身もクジョウの勝利に驚いていた。クジョウの力をもってすればそれなりの結果が出るとは思っていたが、それは本番でも常と同じ力が発揮出来るかにかかっている。クジョウの戦い方は、はじめて試合に参加したとは思えぬ程落ち着いたものだった。
クジョウは大振りになりがちな相手の動きを巧みに利用して間合いに踏み込み、急所を狙って技を出す。直接的な打撃を相手には与えず、常に寸止めではあったが、如何に未熟であっても相手には己の負けがはっきりとわかる。
「だが、次の相手が心配だ」
「ああ、北方か」スイレンの声が苦々しくなった。シンカゲも眼差しを鋭くして、クジョウが戦っていた区画の隣りで、勝利をおさめた男を見やった。北方の若手ではあるが、二人はその男が初心者に割り振られる程未熟ではないことを知っている。
「汚い遣り方だ。部門よりも実力が上の者を割り振るとは」
「今年はクマガヤが北方に発破をかけたらしいね。東方にだけは負けるな、とな。だからあいつらも必死なのさ。今では北方はクマガヤの私兵のようなものさ」
「詳しいな」驚きを込めてシンカゲはスイレンを見やる。
「お前、私が仮にも副長であることを忘れていないか?」呆れたように言ったスイレンだったが、真剣な眼差しになる。
「今、屯所と商人の繋がりが上層部では問題になっているのさ。有力商人が屯所に資金面で援助をするのは以前からあったことだが、常に対等な関係を築いてきた。それが今では崩れつつある。商人の顔色を窺い、媚び諂う奴らが出て来たせいでね」
自由兵士団は他国の軍隊とは趣を異にしている。権力機構から独立し、屯所ごとに独自の文化とでも言うべき特色がある。自由闊達な気風が強い東方などは、軍隊というよりもむしろ傭兵組織に近い。常に国主や国の権力中枢の思惑に支配される他国の軍とは違い、リュウドウ自由兵士団の強さは疾風迅雷とも評される、動きの速さと自由さにある。
スイレンの懸念を読み取り、シンカゲ思わず考え込む。自由兵士団の強さを保つ基盤――誰にも支配されぬ、というそれが揺らげばどうなるか。深刻な問題だった。
と、不意にスイレンが口調を切り替えて言った。
「ところで、その後どうだ。クジョウとは」
「どう、とは?」
「心境に何か変化があったか?」
シンカゲはスイレンの言葉の意味を掴めず、顔を顰めた。
「別に特に変わりはない。言ったろう。男として生きるのなら、俺も男として扱うだけだ」
スイレンはまじまじとシンカゲを見やり、どこか諦めたように呟く。
「あたしもクジョウを男だと思っていたから、気付かなかったけど、あんたも相当……いやいや、仮にもあたしは女を三十年以上やっているからねえ」
「一体何の話だ」
「いやねえ……以前、少しクジョウにすまないことを言っちまってね。シンカゲがクジョウのことを弟のように思っている、と」
シンカゲは目を見開き、次いで苦笑した。柔らかい笑みである。
「そんなことを思っていたのか」
「ああ。あんたがいつだか、弟が生きていればクジョウくらいの年だと言っていただろう? だからてっきりね」
「確かに言ったが、別にクジョウを弟と重ねてはいない。だいたい弟が死んだのはまだ四つかそこらだ。重ねようにも、弟がどんな風に育っていたか、俺にはわからん」
「そうか」
ふとシンカゲは首を傾げた。
「で、弟のように思っていると伝えたという、それのどこがクジョウにすまないことなんだ?」
スイレンはわざとらしく溜息をついた。益々わからん、と顔を顰めるシンカゲににやりと笑う。
「いいや、わからなければいいんだ。あたしはクジョウに関わる気はないからね」
「何なんだ、一体。口でそのようなことを言っても、スイレンはクジョウのことを気に入っているだろうが」
今度はスイレンが目を丸くする番だった。
「無自覚とは副長殿にも呆れたものだな」
言って、シンカゲはお返しとばかりに口角を上げた。
クジョウは己の勝利に驚いていた。勝とうという気負いもなく試合に出場し、二回戦に進めればよく出来た方だろうと考えていたのである。だが、気付けば残る兵士は六人ばかり、クジョウはそのうちの一人である。
「クジョウ」呼ばれて振り返るとシンカゲの姿があった。笑みを浮かべて近付いて来る。鍛練着に身を包んだ長身は、一際人目を引いていた。
「すごいじゃないか」
「シンカゲの鍛練のおかげだ」言いながらクジョウは小さく笑んだ。
他の兵士に力で劣り、技量もまだおぼつかないクジョウが勝てたのは、偏にシンカゲの鍛練の賜物である。毎日シンカゲと対し、その動きを見ていたクジョウにとって、他の兵士の動きはあまりに隙が多く読みやすかった。それに加え、攻撃術が苦手なクジョウにシンカゲが教えたのは、相手をなるべく傷つけることなく圧倒する方法である。クジョウは忠実にそれを実行しているに過ぎない。
「スイレンも感心していた。あの様子では、正式に自由兵士団に入らないかと勧誘するかもしれないな」
「それは困る」クジョウは思わず頭を振った。初心者の部門ならばクジョウの技も通用するが、軍隊の武術は本来命を奪うことを目的としている。クジョウには考えるだけでも恐ろしいことだった。
「ああ、わかっている。クジョウは蠱使いだものな」
クジョウの拒絶を別の意味に解釈したらしいシンカゲの言葉である。ふと、シンカゲの顔に鋭さが宿った。僅かに懸念するように、クジョウに言った。
「次の対戦相手だが、気をつけた方がいい。今までの相手よりも数段強いうえに、技の出し方に容赦がない」
「あの北方の兵士のことか?」
シンカゲは頷いた。目線をあわせるようにしてクジョウの顔を覗き込み言った。
「なるべく相手に踏み込ませず、隙をついて一発で決めるようにするんだ」
色素の薄い瞳に影が差している。深く澄んだ空を思わせる色彩に、束の間クジョウは魅入る。小さく頷いた時、次の試合を告げる声が背後で響いた。
シンカゲが言ったとおり、対戦相手は強かった。それまでの兵士とは明らかに動きが違う。クジョウにも、相手が初心者などではないことがわかった。繰りだされる攻撃をかわし、クジョウは必要以上に相手を近付けぬよう間合いを保つ。勝つことに執着はなかったが、皆が見ている前で不様に負けることはしたくなかった。
隙をついて一発で決める――それは簡単なようで難しい。相手に隙が生じなければ、延々と逃げ続ける破目になる。だが、幸いなことに、技では数段上の相手も、精神的な部分では些か未熟だった。勝って当然と思っている相手に巧みに逃げられ、次第に兵士は苛立ちを募らせていった。その動きに粗が出始めたことに、クジョウは気付いた。これならば隙が出るかもしれない、クジョウがそう思った時、兵士が拳を繰り出した。何とか避けると、兵士の攻撃に生じた風が頬を撫でた。それに、クジョウの背が粟立った。
(――鉄!?)
後ずさり目を見開く。感覚でわかる。人を傷つけることを目的に作られた武器の気配が、相手にあった。体術の試合は武器の使用を禁じられている。それが何故、と思う。
僅かに動きが鈍ったクジョウに、更に兵士が迫った。クジョウが次の攻撃を避けられたのは、恐怖に体が反射的に動いたせいだった。体を低めて男の攻撃を避け、クジョウは必死でその背後に回り込む。勝利を確信していたのか、攻撃を放った男に僅かな隙が生じていた。クジョウは背後から兵士の足を払う。重い音をたてて仰向けに倒れた兵士の喉元に拳を放つ。寸止め――肩で大きく息をつきながら、クジョウは突き出した己の拳を見詰めていた。自分がどのような動きをしたのかもさほどわかっていなかった。
と、やおら兵士が身を起こし、クジョウの脇腹を蹴りつけた。不十分な体勢からの攻撃は中途半端なものだったが、クジョウの体は勢いよく地面に打ち付けられる。焼けつくような脇腹の痛みに、一瞬クジョウの目がくらんだ。それでも必死に顔を上げ、信じられない思いで兵士を見やった。鍛練着に隠されて見えないが、相手は武器を帯びている。肉弾ではあり得ない衝撃は、兵士が身につけているだろう鉄の武具によるものだ。
体を起こしかけたクジョウに兵士が迫る。避けることが出来なかった。殴られて倒される。腕を振りかざす男の姿は、光を背負い影に沈む。クジョウの動きが凍りついた。
世界が振動するような感覚――恐怖が耳の奥で鳴った。体の奥底で熱が膨れ上がり、記憶が弾ける。
――私に逆らえばどうなるかよく見ておけ!
見上げるほどに巨大な男。押さえつけられた床の冷たさ。鉄の臭い。赤く焼けて迫る精緻な紋章――母親の叫び。網膜を白い光が焼く。全てを焼き尽くす光――
不意に目の前の兵士の姿が消える。目の奥に差し込む陽光に、溢れる記憶の連鎖が途絶えた。眩しさに瞬きながら、響いた物音にクジョウは顔を巡らせた。肉を打つ音――鋭く容赦のない動きで兵士を打ちすえるシンカゲの姿があった。
シンカゲは兵士を地面に押さえつけ、腕をひねり上げた。痛みのためか、兵士が怒声混じりの悲鳴をあげた。シンカゲの険しい顔には一片の躊躇いもない。と、その表情が僅かに動いた。捕えた兵士の鍛練着を肘まで捲る。兵士の肘には禁じられている筈の防具が巻き付けられていた。伸縮性のある丈夫な武具には、相手に強烈な打撃を与えるための鉄具がつけられている。クジョウは無意識のうちに脇腹を触っていた。おそらく、膝にも同じような武具をつけているのだろう。
「呆れたことだな。そこまでして勝ちに拘るか」
シンカゲの声が響く。何時の間にか演習場はしんと静まりかえっていた。突然乱入したシンカゲの姿に、観戦席に座る市民達の視線が注がれている。
「お前の負けだ」
冷然と言い放つとシンカゲは兵士から身を引いた。茫然とことの成り行きを見ていたらしい審判が慌てたように「クジョウの勝利!」と叫ぶ。どこか空々しい余韻を残したそれに被って、そこここでざわめきが起こった。兵士が蹲って地面に拳を打ちつける。不正が露見したことへの羞恥か、負けたことへの悔しさか――どちらにせよ兵士に向けられる人々の眼差しは冷たかった。
地面に座り込んだままのクジョウにシンカゲが手を差し出した。
「立てるか?」
頷き立ち上がろうとして、クジョウは小さく呻いた。体の節々が痛む。特に男に蹴られた左の脇腹は、少し体を動かすだけで鋭い痛みが奔った。シンカゲはクジョウの右腕を取ると、それを自らの肩にかけクジョウの体を引き上げた。驚いて瞬くクジョウには構わず、抱き寄せるようにして体を支える。
「いい。一人で歩ける」
「無理はするな。あの野郎は、どうせ膝にも同じ武具をつけていたんだろう。あの武具の威力は強烈だからな。このような場でなかったら、もう少し痛い目にあわせてやるんだが」
最後は呟くように、冗談とは思えぬ口調だった。二人はゆっくりと演習場の端に設けられた幕舎に向かう。今日のために設置されたそれは医療所である。
クジョウは痛みといまだに残る恐怖の狭間で、シンカゲの体温を感じていた。森で守られた時に感じた鼓動が、今もまた近い。不穏に揺れていた体の奥の熱が、僅かに弱まった。
「それにしても、クジョウがここまでやるとはな」
「まぐれだよ」
「だが、さっきの兵士に勝っただろう」
確かに、兵士の急所に寸止めの拳を放った時点でクジョウの勝利だったが、あれは鉄の気配に動揺し恐慌に駆られての動きだった。同じことがまた出来るとは思わない。
幕舎の中には各屯所から派遣された医療兵士達が集っていた。十程ある寝台のいくつかは既に埋まっている。
「クジョウ! どうしたの?」リラはクジョウとシンカゲの姿を見るなり駆け寄ってきた。
「対戦相手が武具を身に帯びていて、それで脇腹をやられた。大事はないと思うが」
寝台の一つに座ったクジョウの顔を、リラが覗き込む。前髪を優しくかき分けられて、顎を持ちあげられた。殴られた時に切れたのか、唇の端に血が滲んでいた。
「ひどいわ」リラの言葉に怒りが籠る。
「武具の使用は禁じられている筈じゃない」
「北方の連中はどうにかして勝とうと必死なんだろう」
「クジョウ、脇腹を見たいから、少し鍛練着をあげてくれる?」
言われてクジョウは躊躇う。リラの眼差しに促され、僅かに鍛練着を捲り上げた。思わずシンカゲを見やると、シンカゲは幕舎の隙間から外の試合の様子を見ているのか、顔を背けていた。
「ひどい打撲ね。数日は激しい動きはだめよ。今日はここで寝ておくこと。シンカゲ、クジョウがこれ以上試合に出ることは認められないわ」
「ああ、わかっている。試合が終わるまでクジョウを頼む」
シンカゲは言うと、まるでクジョウが衣服を整えるのを待っていたかのように、絶妙の間合いで振り返った。クジョウの頭を撫でようとしたのか手を出しかけ、途中で止める。淡い苦笑を浮かべてその手を握り込み、シンカゲは言った。
「次は俺の番だな。応援していてくれ」
数日前、カガリの屋敷の前で言われたのと同じ言葉。あの時は鬱屈した思いに駆られたその言葉に、クジョウは頷いていた。
幕舎の布を跳ね上げて外へと踏み出していくシンカゲを見送り、クジョウは俯いた。
「シンカゲがクジョウの分まで戦ってくれるわ」
リラの言葉には答えず、クジョウは寝台に横になった。ざらついた敷布に頬を擦り寄せる。外から聞こえる歓声が、体の奥底に蠢く熱のうねりに重なった。クジョウは歯を食い縛って熱を抑え込んだ。まだ、体にシンカゲの温もりが残っていた。
武術大会は東方の優勝という結果で幕を閉じた。
クジョウの対戦相手だけにとどまらず、北方の兵士にはその後も違反が続出した。それは公正な態度で試合に臨もうとした北方の兵士達の士気をも落とす結果になった。北方は精彩を欠き、最終的には善戦した西方と東方の争いとなった。
シンカゲは驚いたことに中隊長の剣術部門で堂々と優勝を飾ってみせた。優勝が確定した瞬間のシンカゲの笑顔を、クジョウは医療所の傍近くで見ていた。仲間達に手荒い祝福を受けるシンカゲが、ふとクジョウがいる方を見やり、拳を天に突き上げた。
クジョウはその姿をただ見詰める。シンカゲの姿が滲んでいた。遠く離れていながら、耳の奥でシンカゲの鼓動が聞こえる。何かが終わり、何かが動き出したように、クジョウは感じていた。
――愛しい。
その思いは鋭い痛みを伴いながらも、クジョウの胸の内を満たしていった。
――シンカゲが愛しい。
シンカゲの傍らに立てるなら、男のままでもいい。全てを捻じ曲げて、歪な存在のままで――傍にいられるならそれでもよかった。
だが、それがかなわぬ願いであることを、既にクジョウは悟っていた。息を詰めるようにして胸元を抑える。体の奥底で、熱の焔が揺れる。恐怖が引き金なのか――まるで一瞬の記憶の奔流に促されるように、熱が力を増していた。
限界が近付いている。リュウドウを去らねばならない。クジョウは唇を噛みしめ俯いた。
武術大会の、長い一日が終わった。