15
武術大会に出場するというクジョウの決断は、スイレンを驚かせたらしい。珍しく、スイレンは医療所のクジョウの元へと顔を出した。
「武術大会に出るらしいな」
戸口に凭れかかりながら言ったスイレンに、クジョウは薬剤を混ぜる手を止めぬまま答えた。
「うん。そうだけど」
「まあ、クジョウが武術大会に? どうしてなの?」
リラが横合いから口を挟む。クジョウは手を止める。クジョウが出場することはそれ程に奇妙なことなのだろうか。
「正式な自由兵士じゃないと出れないのか?」シンカゲは支障ないと言っていたが、違うのだろうか。思わず問うと、スイレンとリラは顔を見合わせた。
「別にそれは構わないんだが、怖くはないのか? まだ一度も試合をしたことがないだろう」
「うん。だからシンカゲが今日から試合形式の鍛練に切り替えてくれた。本番までにはそれなりの動きが出来るようになるって言ってたけど……」
「……そうか。シンカゲがそう言うのならいいが」
言いながらもスイレンの口調はどこか煮え切らない。だが、それ以上何も言うことなくスイレンは去って行った。怪訝な思いのままその姿を見送ったクジョウに、リラが問うた。
「クジョウ、体調の方は大丈夫なの?」
「大丈夫です」
反射的に、クジョウは偽りの言葉を返していた。
「そう? それならばいいけれど」
リラの案じる眼差しに、クジョウはちくりと胸が痛んだ。何時かのように悪夢によって眠りを奪われることはなくなっていたが、同時期にはじまった体の奥底に感じる違和感は続いていた。リラはそれに気付いているのかもしれない。だが、体の変調を認めることがクジョウには出来なかった。そうしてしまえば、必死に押しとどめている不安が一気に噴き出しそうな気がするのだ。
体の奥で不穏な熱は胎動するように燻っている。まるで内部で何かが動き出したかのように――まるで何か新たなものが生まれ出ようとしているかのように。岐という己の殻を破ってあらわれるもの――それは一つしか考えられなかった。
(そんな筈ない。ちゃんと今までも抑えられていたんだから)
クジョウは己に言い聞かせ、耳飾りに触れてその感触を確かめた。たった一つの形見――母親が魄の力の全てを注いでつくりあげたそれが、必ずクジョウを守ってくれる筈だ。とうに魄に覚醒していてもおかしくはない年月を生きてきたクジョウがいまだ岐でいられるのは、耳飾りがあればこそだ。それとも時を止めて生きる弊害が、どこかで生じているのだろうか。
「ねえ、クジョウ、無理をしてはだめよ。辛い時に頑張り過ぎたら、もっと辛くなるだけなんだから」
リラの声は柔らかく、クジョウは頷くことで己の顔を隠した。心の奥底まで見通されたような気がしていた。
武術大会に参加するのは、己の意地なのかもしれない、とクジョウは考える。きっかけはアワユキ――シンカゲを想う彼女が唇にのせた一言――約束。
シンカゲを応援すると言った彼女に、勝つと答えたシンカゲの、その約束だ。兄と妹のような、無邪気な程の遣り取りは、しかしクジョウに否応もなく己が異邦者であることを知らしめた。決して踏み込むことの出来ぬ、絆を感じさせた。それは家族の温もりであり、男女の艶を含んだ駆け引きだったかもしれない。それを得たいと願うことさえクジョウには出来なかったが、決して得ることの叶わぬものを見たくはなかった。アワユキが望む約束、それを叶えるシンカゲを、アワユキの傍らで見たくはなかったのだ。それならばむしろ、男としてシンカゲの傍らに立っていたかった。
(本当に馬鹿だ……)
押し込めても押し込めても湧きあがるシンカゲへの想いが、クジョウは苦しかった。何時の間にこんな風になってしまったのだろうか。いっそ得ることの出来ないものへの執着と割り切ってしまえば楽なのか――。それとも得ることが出来ぬとわかっているからこそ、これ程に焦がれるのだろうか。
――決して誰のことも愛さないと決めていたのに。
この場所はあまりに温かい。リュウドウに来た当初、あれ程求めていた孤独が、今はひどく恐ろしかった。それでも、はやくリュウドウを去らねばならないと、クジョウは思い始めていた。
これ以上、心を染めてはならない。
医療所を後にしたスイレンは、真直ぐにシンカゲのもとに向かった。シンカゲは剣術の鍛練が行われる道場で、仲間達と語らっていた。武術大会が近付き、兵士達は己の技を磨くのに余念がない。道場はむっとした熱気が立ちこめている。最下級の一兵卒は単に兵士と呼ばれるが、その中にも技量に応じた位があり、道場に集うのは最も腕が立つ者達である。シンカゲの実力は兵士のそれをはるかに凌駕しており、本来ならば上官が担う兵士達の鍛練を任されていた。
「ちょっと、シンカゲ」シンカゲはスイレンの呼びかけに近付いて来る。スイレンは言葉を選びかね、結局直截な物言いになった。
「クジョウのことだけど、武術大会に出場するのはやめた方がいいんじゃないかい?」
「何故だ? クジョウはやる気だ。それにここらで試合をして力を試してみるのはいいことだと思う」
「そうなんだけどね。でも試合なら別でも出来るじゃないか。武術大会は屯所ごとの対抗意識が強くて、荒っぽい試合が多くなる。クジョウには少しきついんじゃないかと思ってね」
「それはそうだが、だからこそ実戦に向けた試合が出来る。クジョウは筋がいい。それ程心配することはないと思うが」
屈託のないシンカゲの物言いである。少し前のスイレンならシンカゲと同じように考えただろう。だが、今はシンカゲが知らないことを知っている。リラに告げられた言葉――クジョウが男ではない、というそれがスイレンの心に引っかかっていた。
武術大会の試合は、階級ごと、性別ごとに行われる。クジョウはこのままでは男の組に割り振られる。初心者とはいえ、いや、むしろ初心者だからこそ、スイレンには懸念があった。まだ技量がおぼつかない兵士は往々にして我武者羅に相手を攻めることがある。それが、時に思わぬ怪我に繋がったりもするのだ。特に力任せの未熟な男兵士は性質が悪い。
クジョウの鍛練を見たことがあるスイレンは、クジョウの勘の良さに気付いてはいたが、もともとの性質なのか、クジョウには相手を凌駕し倒そうとする激しさがない。クジョウの体術は、型としては美しいが、武術大会のような試合ではそれがかえって不利になるだろう。
「クジョウが怪我をせぬよう、あんたが気をつけるならいいけど……」
「スイレンがクジョウのことを案じるとは珍しいな。敢えて距離を取っていると思っていたが」
シンカゲが首を傾げる。それにスイレンは内心恨めしい思いになった。面倒なことを押しつけられたと思う。彼女とてリラの言葉がなければ、クジョウに関わるつもりはなかったのだ。
リラにクジョウが男ではないと言われてから、スイレンは注意深くクジョウの様子を見守ってきた。言われてみれば、確かにクジョウは同年代の少年よりも線が細い。これまでさして気にとめていなかったが、どこか中性的で繊細な顔立ちは女性としても美しいものだ。だが、華奢な体つきに、女性らしさを感じることはない。稚い少女のような体型の女性ともまた違う、それは不思議に性を感じさせぬ細さだった。
シンカゲが毎日のように体術の鍛練をしていながら、クジョウが男ではないということに気付かぬのも無理はないだろう。男ではないと言われればそうかと思うが、かと言って女とも確信が持てない。クジョウは、いわば性そのものから遊離したような姿形をしているのだ。
リラが間違っているのではないか、とは思わない。彼女が特別な目を持っていることをスイレンは知っている。リラが、クジョウが男ではないと言うならば、それは間違いないのだろう。シンカゲにいっそ本当のことを言ってやろうかとも思ったが、女が男と偽り生きているのは何か余程の事情があってのことかもしれない。クジョウが秘していることを、勝手に他人に告げることは躊躇われた。
スイレンはもう一つの用件を思い出す。
「そうだ。シンカゲ、今年は中隊長の枠で出てもらうからな。一つよろしく」
シンカゲが顔を顰めた。何か言いかけるのを、スイレンは遮る。
「反論は受け付けないぞ。師団長自らが下した決定だからな。もう届け出も済ましてある。三位以下になろうものならただでは済まさん、との長のお言葉だ。心してやれよ」
それだけ告げると、憮然としたシンカゲを残しスイレンは道場を後にした。
リュウドウの位を持たぬ兵士の中で、おそらくシンカゲに敵う者はいない。だが、階級を飛び越えて一兵卒を上位兵士の試合に臨ませるなど、東方の長も思い切ったことをするものだ。何も今にはじまったことではないが――そう思いスイレンは苦笑を浮かべていた。去年も、シンカゲは兵士の枠ではなく小隊長の試合で二位になった。それからの彼の成長の具合を見れば、中隊長の中でも十分に伍していけるだろう。
クジョウのことは案じられるが、シンカゲがついていれば大丈夫か、とも思う。スイレンはひとまず懸念を忘れることにした。
だが、スイレンの与り知らぬところで、シンカゲはクジョウの性別の秘密を知ることとなる。
武術大会まで二日を残すまでになった日、シンカゲはムラセから屋上に呼び出された。一人で来てほしい、という。改まって何の話があるのかと訝しく思いながら行くと、ムラセは慎重な口調で切り出した。
「今度の武術大会だが、シンカゲはクジョウを本当に出場させるつもりなのか?」
これにシンカゲは驚いた。まさかクジョウの名前が出るとは思っていなかったせいもあるが、同じようなことを数日前にスイレンに言われたからだ。
「スイレンにも似たようなことを言われたが、出場を決めたのはクジョウだ。別に問題があるとは思えないが」
「そうか……スイレンが……。やはり思い違いではなかったかな」
呟くようにムラセが言う。それにシンカゲは益々わけがわからなくなる。
「何なんだ? 言いたいことがあるならはっきり言ってくれ。クジョウが出場することに何か問題でもあるのか?」
「私も確信を持てずにいたが、やはり推測は当たっていたかもしれないな」
ムラセは声を潜めるようにして言った。
「シンカゲは、クジョウが男ではないかもしれないと思ったことはないか?」
「は?」シンカゲは些か間の抜けた声をあげた。まじまじとムラセを見やる。常に穏やかな笑みを絶やさぬムラセは、ひどく真剣な表情になっていた。
「何を言っている。クジョウは男だろう。いくらなんでも女なら体術の鍛練で組み合っている時にわかる」
「確かにそうだが、少し前からどうもクジョウが男ではないような気がしてならないんだ」
「そもそも女には見えんだろう」
「間近にクジョウの顔を見たことはあるか?」
「そりゃあ、毎日見ている」
「そうではなくてだな……そう、例えば寝顔、とか」
ムラセは言いづらそうに続ける。シンカゲは何とも奇妙な心地で、目の前の男を見詰めていた。シンカゲよりも一つ年上のムラセは、沈着冷静という言葉が服を着て歩いているような男だ。戯れにも軽はずみなことは口にしない……筈だ。
「寝顔は……あるにはあるが、間近で見たわけじゃない。なんだ? 寝顔がどうかしたのか」
「いや、寝顔のことは忘れてくれ。とにかく、私はもしかするとクジョウは男ではないのではないかと思っている。もしそれが正しければ、武術大会には出させない方がいい。特に男兵士の初心者部門は怪我が絶えないからな」
どうやらムラセの中でクジョウが男ではない、ということは決定されているらしい。シンカゲは信じられぬ思いだった。もしムラセの言う通りならば、毎日クジョウと接している自分が気付かないことがあるだろうか。シンカゲの思いを読んだように、ムラセは言った。
「スイレンもクジョウが試合に出ることを気にかけていたなら、私と同じことを思っているのかもしれない。彼女に聞いてみるといい」
「……ああ、そうしてみる」
半ば茫然としながら、シンカゲは頷いていた。