13
「クジョウは何故、蠱使いになったんだ?」
シンカゲがクジョウに問うたのは昼下がり、体術の鍛練を終えて涼んでいる時だった。唐突な問いに、クジョウは瞬く。風に揺れる髪を押さえ、シンカゲを見やった。二人がいるのは屯所の屋上である。風が渡るその場所は、兵士達の憩いの場となっていた。
「一人で生きていくには、何か職がないとだめだったから。蠱使いなら子どもでも力さえあれば生きていくことが出来ると思ったんだ」
言いながらクジョウは己の蠱に呼びかけた。応えて蠱が肩の上に姿をあらわす。蠱は身震いし、床の上へと飛び降りた。ちょろちょろと動き回る姿は、森から生まれた神秘の存在とは到底思えない。
「森が恐ろしくはなかったのか?」
再度の問いかけに、クジョウはシンカゲを見やる。真剣な表情だった。ここ数日、シンカゲが時折見せるそれである。何かに思い惑っている様子であることはわかっていたが、この問いもその悩みに関係しているのだろうか。
「どうだろう。普段はそうでもないけど、恐ろしいと感じる時もある。いくら蠱使いでも、森の変動に巻き込まれたら無事ではすまないから」
例えばシンカゲに救われたあの時のように、蠱でも読み取れぬ程の急激な森の変動は、蠱使いにも危険である。だが、クジョウにとって森とは、己を守ってくれる存在だった。森の中にいれば、クジョウは人に追われる恐怖を忘れることが出来た。
人は森を恐れる。森が動く――それは魄が身の内に宿す膨大な力を解放したことを意味する。解放された力は大地を奔り、その余波で森の変動が起こるのだ。特に岐が魄に覚醒する時、その力の放出は凄まじい。一夜にして一つの街が森に呑まれたという逸話さえある。その力故に、魄は神女とも鬼女とも呼ばれるのだ。
尤も、魄が秘める力は、魄自身にとっても危険だ。あまりに大きな力は魄の命をも削る。故に、魄は己の力を大地に解放するのだ。人よりも遥かに長命な魄ではあるが、力の解放を行わなければ、やがて力に喰われ短命で死ぬという。
嘗て魄と人がともに生きていた時代には、大地ではなく魄に選ばれた人間が魄の力の器となった。分け与えられた力により魄同様長命となり、時に人智を超える力をも操ったという。それが聯と呼ばれる存在である。
人々は魄という人外の存在を恐れ、あるいは敬ったが、野望を抱く者達は魄を無限の力の源として利用せんとした。
魄を得た者は覇者となる――聯となることを望んだ者同士で、魄を巡り幾度も血生臭い争いが繰り返された。争いを厭うた魄が森の奥に姿を消しても、人はいまだ魄を求め、恐れる。森で生きることを選ばなかった数少ない魄は人に追われ、時には狩られ、今では殆ど生き残っていないという。実際、クジョウは母親以外の魄と出会ったことはない。魄は伴侶となる聯との間に生涯に一人、岐を生むが、クジョウは森の外で生きる岐が己だけではないかと密かに考えていた。
「シンカゲも蠱を持っているとムラセに聞いた。蠱使いの端くれだって」
暗い思考から意識を逸らし、クジョウはシンカゲに言った。
「あいつ、余計なことを……」シンカゲは憮然とした様子で呟く。
「蠱を持っているといっても、子どもの頃によくわかりもせずに懐かせてしまったものだ。ろくに修行もしていないせいで、使いこなせていない」
シンカゲは言いながら無造作に腕を振った。その腕の動きに空気が揺れ、小さな渦となった。次の瞬間渦の中心から一羽の鳥が羽ばたき出た。鷹のような形、胸元と頭は銀、他は漆黒である。シンカゲの肩に止まった蠱の姿に、クジョウは見惚れた。
「きれいだな。鳥の形の蠱は初めて見た」
「飛ぶことが出来る蠱は珍しいらしいな。森でこいつを見つけた時は、てっきり巣から落ちた雛だと思ったんだ。親鳥がいるだろうと思って手は出さなかったんだが、気になって毎日見に行っているうちに、何時の間にか俺についていたらしい。蠱だと気付いた時にはもう俺に宿っていた」
「普通は互いに認め合った上で蠱の宿主になるものだと思うけど……」
クジョウは呆れて言った。無自覚に蠱を宿したなど、聞いたこともない。魄が、己が選んだ人間にしか力を与えぬように、蠱も主と認め定めた人間にしか宿らないものなのだ。
「余程相性が良かったんだな」
「どうかな。その割に俺の言うことはあまり聞かない。気ままな奴だ」
「そりゃあ、蠱を使うには信頼関係がないと……」
言いかけてクジョウは黙った。シンカゲがクジョウの言葉を気にしている様子はない。それに安堵しながらも、クジョウは複雑な思いになる。蠱は魄の力を受けた大木から生まれる。いわば魄の力の落とし子だ。魄に何かしらの思いを抱くらしいシンカゲには、どこか蠱を厭う気持ちがあるのかもしれない。蠱は敏感に主の気持ちを読む。シンカゲが心のどこかで蠱を拒絶しているとするならば、当然、蠱を使いこなすことは出来ないだろう。
「シンカゲ、ここにいたか」
響いた声に、二人は振り返った。スイレンの長身が屋上の戸口にあった。背後にはムラセの姿もある。
「中隊長が捜していたよ。新兵達の鍛練計画を練るのに力を貸してほしいとさ」
「ああ、わかった」
シンカゲが立ち上がる。肩の蠱が溶けるように消えた。クジョウにひらりと手を振って、シンカゲは屋上を出て行った。何となしにその背中を見詰めていたクジョウは、スイレンの視線に気付く。凝視に近いそれに、居心地の悪さを感じた。
「何?」問えば、スイレンは肩を竦めた。
「いや、シンカゲが蠱を見せるとは珍しいと思ってね」
「そうなのか?」
「ああ、余程親しくないと見せようとはしないよ」
これはムラセの答えである。スイレンは何気ない様子でクジョウの傍らまで歩いて来た。スイレンの視線が何かを探るように向けられていることに、クジョウは気付かなかった。ムラセの言葉に気を取られていたのである。
何故、シンカゲは蠱を見せたのだろう。三日前、シンカゲとともに祈りの山を見てから、クジョウはシンカゲの態度が微妙に変化したように感じていた。それまでも何くれとなくクジョウを気にかけていたシンカゲだが、どこか一線を引くようなところがあった。しかし、あの夜以来、シンカゲの態度は柔らかくなった。
それとも、そう感じるのは己自身に原因があるのだろうか、とクジョウは考える。シンカゲを厭うことが出来ず、何時しか心惹かれながらも、クジョウは常に、シンカゲに必要以上近付かぬようにしていた。そしてシンカゲにも己の領域に踏み込ませぬよう、頑なな態度を貫いていたのだ。それが、あの夜から少しずつ崩れている。先程もそうだ。何故、蠱使いになったのかと――その問いに抵抗もなく答える己がいる。
「シンカゲは己の蠱を嫌っているんだ。だから滅多なことでは出そうとしない」
ムラセの言葉にクジョウは目を見開いた。
「何故、蠱を嫌っているんだ?」
「シンカゲは魄を憎んでいるからね。蠱は魄に繋がる存在だ」
ムラセ、と警告するようなスイレンの声――ムラセはクジョウの表情に、慌てたように続けた。
「だからと言って、蠱使いを嫌っているわけじゃない。まあ、それは言わなくてもわかっているだろうけど」
クジョウは答えず蠱を呼んだ。蠱は僅かに首を傾げ、主の呼びかけに応える。クジョウの腕を駆けのぼり肩に蹲ると、満足気に欠伸をした。
「よく懐いているな。まるで本当に生きているみたいだ」
「そりゃあ、俺は蠱使いだから」
クジョウはぼんやりと返した。クジョウにとって蠱は唯一の仲間だった。たった一人旅を続けた長い時を、蠱の存在なしに耐えることが出来たか、クジョウにはわからない。
「ところで、シンカゲの鍛練はどうだ? 辛いことはないか?」
クジョウはスイレンを振り仰いだ。
「別に、普通だけど」
「もしきつ過ぎるようなら言ってくれ。シンカゲに加減をするよう伝える」
クジョウはまじまじとスイレンを見詰めた。気遣うようなスイレンの言葉は、それまでのどこか皮肉気な彼女の態度からすれば、何とも奇妙である。スイレンはクジョウから目を逸らす。
「きつくないようなら別に構わん」ぶっきらぼうに言うと屋上から出て行った。
「何なんだ」クジョウは思わず呟く。
「さあ、何なんだろうね」
どこかおかしげなムラセの声音である。ムラセはクジョウの傍らに腰をおろす。シンカゲがついさっきまでいた場所――にこりと笑まれて、クジョウは己に嫌気がさした。少しでも、ムラセにそこに座ってほしくないと思った己に。クジョウは俯く。
「さっきの話だけど、どうしてシンカゲは魄を……?」
憎む、という言葉をクジョウは口にすることが出来なかった。
「シンカゲのことが気になるかい?」
優しく問われ、クジョウは顔を上げる。余程おかしな顔をしていたのか、ムラセが小さく苦笑した。風に乗せるようにして、ムラセはクジョウから視線を逸らした。遠く、果てしないリュウドウの街並みを見詰める。
「何故シンカゲが魄を憎むのか、私からは言えない。直接シンカゲに聞くといい。クジョウにならシンカゲも答えるかもしれない」
笑みを消して、ムラセは言った。
中隊長と部屋に籠り、新しい鍛練計画を練っていたシンカゲは、唐突に騒がしくなった外の様子に顔を上げた。昼の休憩の時分、常ならば屯所は気だるい静けさに包まれている。だが、扉の向こうから聞こえてくるのは、どこか騒然としたざわめきだ。思わず中隊長と顔を見合わせたその時、扉が開かれた。
「シンカゲ! お前に客だぞ!」普段ならばまずは名乗ってから扉を開けるのだが、それすら忘れたのか、興奮した顔つきの兵士仲間が戸口で叫んだ。
「客? 誰だ?」
「いいから、早く来いよ! 中隊長殿、ちょっとこいつを借りますよ」
「ああ、構わんが……」中隊長の答えも待たず、兵士はシンカゲの腕を引っ張り部屋から連れ出す。
「おい、一体何なんだよ。俺はやることが……」
「んなことは後にしろ! 後に!」
引きずられるようにしてシンカゲは広場へと連れて行かれた。広場は兵士達で溢れている。ざっと見ただけでも、屯所中の兵士が集まっているようだった。
「シンカゲだ!」「おい、はやく通してやれよ!」方々からかけられる声に、シンカゲは益々戸惑う。兵士達の中をわけもわからず進むと、中心にぽかりと空間が空いていた。その中央に佇む乙女の姿に、シンカゲは呆気に取られる。美しく装ったアワユキである。押し出されるような形でシンカゲはアワユキの前に立った。
「シンカゲ」
甘やかなアワユキの呼びかけに、ざわめいていた兵士達が静まる。シンカゲは居心地の悪さに身じろぎした。声を潜め――無論、周囲を固める兵士達には筒抜けだろうが――言った。
「何故ここにいるんだ。すぐに帰れ」
「ごめんなさい。でもどうしても届けたいものがあったの」
しおらしくアワユキが眼差しを伏せる。それにシンカゲは顔を引き攣らせた。普段のアワユキならば二倍、三倍の言葉を返してくるだろう。それが、今はまるで叱られた可憐な少女のような風情だ。これではシンカゲが意地悪く接しているようではないか。案の定、兵士達が口々に言った。
「おい、シンカゲ! 折角来てくれたってのにそんな言い草はないだろう」
「そうだぞ。可哀想に、泣き出しそうじゃないか」
お前達はアワユキの本当の姿を知らないんだ――とは言えぬシンカゲである。渋面でアワユキを見やった。
「届けたいものって?」ぶっきらぼうな物言いに再度周囲から非難の声があがるが、シンカゲはそれを無視する。
「シンカゲのために鍛練着を作ったの。少しでもはやく着てほしくて……」
アワユキは手に持っていた包みをシンカゲに差し出した。シンカゲの顔を見上げ、おとなしやかに目を伏せる。だが、一瞬交わった視線に、シンカゲは内心溜息をついた。アワユキの視線はこう告げていた。――四の五の言わずに受け取れ、と。
「ああ……わかった。その……ありがとう」シンカゲは不承不承包みを受け取る。一体何の茶番だ、と言いたい。だが、さすがに皆の前でアワユキを問い詰めることは出来なかった。
「皆さん、突然にお邪魔をしてごめんなさい」
花のように笑むアワユキに、兵士達が一様に首を振る。それをシンカゲは呆れて見やった。アワユキは再度シンカゲに眼差しを投げると、ふわりと踵を返した。屯所の外へと向かうアワユキを兵士達は一様に無言で見送った。その姿が見えなくなると、途端にシンカゲは質問攻めにあった。
「お前、あの娘とどういう関係だ!」
「どうって、ただの従妹だよ」と、シンカゲ。
「従妹ということはあの娘がアワユキか。噂通りの……噂以上の美女だな」
「ただの従妹が何故わざわざ鍛練着を作り持って来るんだ!」
「それは俺が聞きたい」
「白状しろ! あの娘とお前、さてはただならぬ関係だな!」
シンカゲはその言葉に呆気に取られ、そして遅ればせながらアワユキの意図を悟っていた。確かにアワユキの様子を見れば、恋人に贈り物を持ってきたいじらしい姿に見える。
「馬鹿を言うな。俺とアワユキは何もない!」
「むきになるところが益々怪しいな。この色男が。街一番の美女の心を射止めやがって」
「くそう! 何でお前ばかりがもてるんだ!」
埒が明かない。口々に勝手なことを言う兵士達の中をかき分けるようにして、シンカゲは建物へと向かった。とりつくしまがないその態度に追って来る者はいなかったが、背後では一人歩きした憶測が飛び交っている。この分では街に噂が広まるのも時間の問題だろう。あのカガリの妹、アワユキの恋人が従兄のシンカゲだと。考えるだけでシンカゲはうんざりした。
ようようの体で広場の騒動から抜け出したシンカゲは、廊下で大きく溜息をついた。
「もてる男は辛いな」
かけられた声に、シンカゲは険悪な眼差しを向ける。廊下から今の騒動を見ていたらしいムラセとクジョウの姿があった。ムラセが人の悪い笑みを浮かべる。
「なかなか似合いの恋人ぶりだったぞ」
「それは嫌味か?」
シンカゲと親しいムラセは、アワユキが実際にはどのような娘か知っている。当然、アワユキとシンカゲの間に何もないことも知っていた。
「いいや、結構本気だけどね。アワユキの想いを知りながらはっきりした態度を取らなかったシンカゲが悪い。アワユキもしびれを切らしたというところかな」
「御注釈ありがとう」
皮肉に返しながら、シンカゲは手の中の包みを見詰めた。確かにムラセの言葉は一理ある。アワユキが己に向ける気持ちを知りながら、シンカゲはいまだ答えを出していない。
「これで噂が広まれば、群がる娘も少しは減るかもしれんし、良かったじゃないか」
睨みつけると、面白がっているとしか思えぬ笑みを浮かべてムラセは言った。
「じゃあ、私達は医療所に行くから」クジョウを促してムラセが歩き出す。
遠ざかる二人の姿に、シンカゲは声をかけようとして戸惑う。何を言おうとしたのか、言葉にならない惑いが胸の奥に燻っていた。
今まで誰にも恋をしたことがない、と言えば嘘になる。恋人のような関係になった女性も幾人かはいた。それでもシンカゲには人を愛するという感覚がいまいちわからなかった。相手の女性と長く続かなかったのも、シンカゲの気持ちが相手の気持ちに比して冷めていたからだろう。
――そもそも、己は人を愛せぬ人間なのかもしれぬ。
シンカゲはそう思う。愛してもいつか喪う。愛すれば、愛するほど、喪う時の痛みは深い。ならば、はじめから愛さなければいいのだ。それは幼い頃から漠然と抱いていた思いだった。
シンカゲは立ち尽くし、天へと続く祈りの光を思い出していた。夜の底から朝へと向かって、ただ一つの祈りのために人々は山を登る。祈ることすら忘れた己には、その光があまりに遠く、美しく見えた。
ふと思う。クジョウはあの光をどのように感じたのだろうか。言葉の端々から、クジョウが今までただ一人で生きてきたのだとわかる。内心を悟らせぬ硬質な表情の下で、何を思ったのだろうか。問うたところで、クジョウが己に明かすことはないだろうが。
シンカゲは廊下に落ちる複雑な影の形を見詰める。
心も、未来も、混沌の内にある。シンカゲには何も見通すことが出来なかった。