12
柔らかなまどろみからクジョウは目覚めた。心地良い温かさに、再び眠りに引き込まれそうになり、クジョウは慌てて体を起こした。リラの医療所を訪れ、いつものように薬剤調合の手伝いをしていた筈である。それが何故寝台に横になっているのか。
「ああ、そのまま寝ていてもいいのよ」
響いた声に、クジョウは視線を巡らせた。リラが優しい笑みを浮かべていた。その前で、ムラセがリラに腕を差し出している。
「もう大分良くなったわね。明日からは剣を持ってもいいわよ。でも、くれぐれも無理をしないように」
「わかったよ」
リラは慣れた手つきでムラセの腕に包帯を巻くと、改めてクジョウに向き直った。
「俺……何時の間に……」
「さっき薬草のより分けをお願いしていたでしょう? その時に眠りこんでしまったのね。シンカゲが少し寝不足気味のようだと言っていたけれど、少しどころではなかったんじゃないかしら?」
「すみません。御迷惑をおかけして……」
「ちっとも迷惑なんかじゃないわ」
言いながら、リラは温かな茶をクジョウに差し出した。受け取り、クジョウは香ばしい茶を口に含む。
「あなたを寝台まで運んでくれたのはムラセなのよ」
クジョウは居た堪れない思いでムラセに頭を下げた。ムラセは気にするなとでも言うように手を振り、穏やかな笑みを浮かべた。常に笑みを絶やさず決して声を荒げることのないムラセは、春の陽光を思わせる人柄である。時に鋭さを露わにするシンカゲとは対照的だが、ムラセとシンカゲは気が合うのか、ともに行動することが多い。
この分だとシンカゲにも伝わりそうだと思い、クジョウは小さな自己嫌悪を持て余した。気付かぬうちに眠りこむなど、普段からは考えられぬ失態である。
ムラセが部屋を後にしてから、リラは寝台の端に腰かけてクジョウの顔を覗き込んだ。
「どう? まだ辛い?」
「いえ、少し寝たら大分楽になりました」
「寝不足のことじゃないわ。他にもどこかしんどいところがあるのではないかしら?」
漆黒に近いリラの瞳が、まるで全てを見通そうとでもするように向けられている。クジョウは鼓動が跳ねるのを感じた。数日前から感じている体の不調、まるで体の中心に渦巻く熱が凝っているかのようなそれを、リラは言っているのだろうか。
「本当に大丈夫です。どこもおかしくはありません」
クジョウの答えに、リラは「そう」とだけ呟いた。懸念するようにクジョウの顔を見詰め、そして柔らかく笑んだ。
「それなら良かったわ。そのお茶を飲んだら、もう一度眠りなさいね」
慌てて首を振るクジョウに、リラは子どもを叱りつけるような表情を浮かべた。
「疲れている時は眠るのが一番、無理は禁物よ」
断固とした口調に、クジョウは反論を諦め小さく頷いた。実際、まだ体は眠りを欲している。リラの温かな雰囲気に包まれた診療所ならば、悪夢も呼び起こされないような気がした。
茶を飲み干し器を返してから、クジョウは再び掛け布に包まった。急激な眠気に瞼が落ちる。滲む視界の端でリラが案じるような表情を浮かべているのが見えた。憂いを帯びる眼差しが自分に向けられている。それを不思議に思いながら、クジョウは眠りに落ちていた。
二度目の目覚めは唐突だった。水底から浮き出た気泡が弾けるように、夢を見ぬ程の深い眠りからクジョウの意識は現に戻っていた。
クジョウは暫し天井を見詰めたまま、違和感に戸惑っていた。まるでついさっき眠りについたかのような感覚と、目に映る何かがずれている。それが辺りの薄暗さと、天井に映る大きな影のせいであることに気付き、クジョウは身を起こした。窓を見やると、景色が黒く塗り潰されていた。それが夜の暗さであることに気付くまで、暫しの時間を要した。
「目覚めたか」
かけられた声に、クジョウは弾かれたように振り向いた。戸口に近い椅子にシンカゲが腰かけ、こちらを向いていた。傍らに置かれた灯のもと、書物を読んでいたらしい。天井に映る影はシンカゲのものだったのだ。
「ごめん、俺……」クジョウの言葉を、シンカゲは遮る。
「それ程体調が悪いと気付かなくて、すまなかったな。出掛けにもっと注意をしておくんだった」
自分のことで頭が一杯だった、とこれは呟くように言うと、シンカゲは自嘲するような笑みを浮かべた。
「今まで待っていたのか?」
「ああ、よく眠っていたからな。もう大丈夫なのか?」
シンカゲは書物を置くと近付いて来た。クジョウは頷くと寝台からおりる。夢を見ない眠りは暫くぶりだった。頭の芯が痺れるような寝不足の感覚が消えていた。
「リラとムラセに小言をくらった。お前が気をつけずにどうする、とな」
シンカゲの背後から、「その通りよ」とリラの声が響いた。部屋に入って来たリラはクジョウの顔を見詰め、一つ頷いた。
「大分、顔色が良くなったわね。シンカゲ、今度こんなことがあったらだめよ」
「シンカゲは悪くないです。俺が自分の体調に気づかなかっただけだから……」
リラはおどけたように片目を瞑ってみせた。
「こんな機会でもなければ、シンカゲにお説教なんて出来ないんだから。とにかくね、シンカゲは何でも強引なの。誰もがシンカゲのように体力があるわけじゃないんだから」
「勘弁してくれ。反省した。これからはもっと気をつける」
小柄なリラに叱られ、神妙に言うシンカゲの姿は何とも微笑ましい。クジョウも思わず苦笑を洩らしていた。それに、シンカゲがにっと笑った。シンカゲの笑顔に一瞬目を奪われ、クジョウは慌てて顔を伏せる。
「帰ろうか」
シンカゲが言った。
リュウドウの街はすっかり夜の闇に沈んでいた。夕食の時刻を少し過ぎたあたりか。眠りについたのがまだ昼前だったことを考えると、クジョウは半日近く眠り続けていたことになる。
真直ぐにカガリの屋敷に戻るものと思っていたクジョウだったが、シンカゲは少し寄り道をしよう、と言う。
「そんなに離れた場所ではないから、さほど疲れはしないと思うが、辛かったら言ってくれ」
「俺は別に病人じゃないよ。そんなに気を使わなくてもいい」憮然としてクジョウは言った。
「クジョウにまた何かあったら、今度はリラの説教くらいでは済まなそうだからな。次に怪我をした時、泣く程痛い薬を使われるのはごめんだ」
「……リラはそんなことをするのか?」
「ああ。一度彼女にひどい暴言を吐いた男がいてな。その後小さな怪我をしたんだが……あの時医療所から響いた男の悲鳴は今でも語り草だ」
シンカゲは遠い目をする。あながち冗談でもなさそうな声音がおかしく、クジョウは小さく笑った。殊更に感情を殺してシンカゲに対していた筈が、今は奇妙にふわふわとした心地だった。
シンカゲは緩やかな登り坂を進んでいく。クジョウは歩くほどに、空へとのぼっていくような感覚に捕われる。
坂の上でシンカゲは歩みを止めた。そこが目的の場所なのか、クジョウを手招く。クジョウはシンカゲの傍らに立ち、息を呑んだ。眼下にリュウドウの街が広がっていた。家々に灯る明かりが夜の底を埋め尽くし、まるで星空が落ちて来たようだ。
「一度クジョウに見せたかった」
言いながらシンカゲは虚空を指差した。リュウドウの街よりも僅かに上、その先をクジョウは見やった。天空と地上、光が溢れるその狭間に、闇が集っていた。それがリュウドウの南西にある山であることに、クジョウは気付いた。山の輪郭は夜を切り取り、なお暗い影となって蹲っている。
「光が見えるか?」シンカゲの言葉にクジョウは目を凝らした。鋭く天へと伸びる山の影の中に、ぽつりぽつりと灯る光があった。全部で九つ、山の裾野から山頂へと間隔をあけて連なっている。
「あの山は祈りの山と呼ばれている。夜の間に山頂まで登り、朝に願いを唱えると、天に坐す神がその言葉を聞いてくれると信じられているんだ。あの灯は、祈りを捧げる人々が、登攀の途中に立ち寄る休憩所のものだ」
シンカゲの言葉を聞きながら、クジョウは滲むような小さな光を見詰めていた。それは街の灯とも空の星月とも違う。儚いようでありながら、闇の底で瞬く強さがある。クジョウはふと古い御伽噺を思い出した。物語では、闇に落ちた竜が天空を目指す。その竜のように、光は天へと伸びていた。
何を思うのか黙していたシンカゲが、ぽつりと呟いた。
「あの光が刻むのは、祈りの道だ」
祈りの光――人々が刻む祈りの道。胸中に反芻し、クジョウは唇を噛み締めた。何故か、泣きたい気がした。心が溢れる。堰き止め撓めてきたものが、熱い塊となってせりあがってくる。シンカゲに触れたかった。触れて問いたかった。何故、この光景を見せてくれたのか――何故、そこまで優しくしてくれるのか。
――何故、魄を憎むのか。その心に秘めている翳りは何か……
だが、問うことは出来なかった。何かに胸を塞がれて、息をするのが苦しい。祈りの光は果てしなく遠く、傍らに感じるシンカゲの温もりが切なかった。
闇を辿る祈りの道を、真直ぐに光を見詰めるシンカゲの端正な横顔を、この先どれ程の時が流れようとも決して忘れないだろう。心の底に刻みつけるように、クジョウはそう思った。
スイレンは屯所の廊下を大股に歩いていた。手には街で仕入れたばかりの酒瓶をぶら下げ、向かう先は医療所である。暗闇に沈む廊下の先で、案の定、医療所からは光が漏れていた。戸口から覗き、スイレンは目的の姿を見つける。
「リラ、極上の果実酒を持って来た。一緒に飲まないか?」
作業台で薬剤を混ぜていたらしいリラは、振り返り呆れたように笑った。
「スイレンったら、もう夜中よ」
「そういうリラも、夜中だと言うのにまだ仕事か」
「明日どうしても必要な薬剤なの。でももうほぼ出来上がったわ。入ってちょうだい。折角だし、いただきましょう」
「それでこそ我らが医療兵士殿だ」
スイレンはがたごとと椅子を引きずり、リラの傍らに腰かけた。棚から薬を飲むための器を二つ取り、なみなみと酒を注ぐ。心地良い香りにリラの顔が綻んだ。見た目を裏切り彼女が屯所でも一、二を争う酒豪であることは、誰もが知っている。
「あら、美味しい」
「だろう? 今評判の酒だ。リラならば気に入ると思っていた」スイレンは言うと、早くも一杯目を空けたリラの器を満たした。
「最近の兵士達はどうなの? 入隊者が増えたようだけど」
「ああ、リュウドウの人口が増えているからな。まとめるのはなかなかに骨だ。皆が皆兵士に向いているわけじゃあない。中には問題を起こすためだけに入って来たんじゃないかと思いたくなる者もいる」
「貴女でも苦労するのね」
「当然だ。こういう時には優秀な人材が欲しいと心底思うな」
「あら、東方の上位兵士はなかなかの粒揃いだと思っていたけれど」
「まあ、な。確かに戦時ならば優秀な者ばかりだ。だが平時に皆の気持ちを纏め、繋がりを深めることが出来る者はそうそういない。こればかりは人となりが大きく作用するからな」
スイレンは酒を干すと、小さく溜息をついた。それにリラは目を瞬く。
「シンカゲにはだからこそもっと上に行ってもらいたいんだがな」
「シンカゲを役職に就けることをまだ諦めていなかったのね」
「無論だ。あいつを一兵卒にしておくのは惜しい。何故、ああまでも固辞するのか」
「シンカゲにも何か思うことがあるのよ」
言うと、リラは物思いに耽るように黙り込んだ。その表情にスイレンは問う。
「何か案じることでもあるのか?」
「ええ、少しね」僅かに迷う素振りを見せ、リラは続けた。
「クジョウのことが心配なの。シンカゲは少し強引なところがあるし、あまり無理をさせないといいけれど」
「クジョウ?」
「ええ。本当はシンカゲに伝えたいんだけど。あの子にも色々あるようだし……」
スイレンは訝しくリラを見やる。あの子、とはシンカゲのことだろうか。それともクジョウのことだろうか。年齢的に言えば当然クジョウのことに思えたが、時に兵士達を母親のような視線で見守るリラのこと、しかとはわからなかった。
「どうしたんだ?」
「貴女なら色々と配慮してくれるだろうし伝えておくわね。秘するには秘するだけの理由があると思うから、ここだけの話にしておいてほしいんだけど」
意を決したようにリラがスイレンを見詰める。
「クジョウは男の子ではないわ」
呆気に取られたスイレンの手から器が滑り落ちた。