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魄、落つる  作者: 高原 景
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 アワユキは一人屋敷の庭園を歩いていた。美しく整えられた庭園は、アワユキの気に入りの場所である。季節は今まさに春の盛り、花々は淡い薫りを放ち、色彩は柔らかに重なり合って見る程に誘い込まれる心地になる。

 歩きながら、アワユキは二階にある兄の執務室の窓を見上げた。光を弾く玻璃が眩しい。中を見ることはかなわないが、そこで兄がシンカゲに告げているだろうことを考え、アワユキは知らず笑みを浮かべていた。シンカゲと結ばれたいと、その望みを兄に告げたのは少し前のこと――反対するどころか、それならば自分からシンカゲに伝えようと兄が約したのは、アワユキにとって願いどおりのことだった。朝食の後シンカゲを呼びとめた兄の様子から、シンカゲにアワユキの思いを伝えることは間違いないだろう。

 シンカゲとともに生きる――その願いがかなうことを、アワユキは信じて疑わない。幼い頃からシンカゲだけを見詰めていたアワユキには、他の選択など想像すら出来なかった。

 アワユキは自身の美しさをよく知っていた。カガリの妹という立場もあり、言い寄ってくる男は数知れない。だが、どの男もつまらなく、時には醜くさえ感じた。己に相応しいのはシンカゲしかいない、と思う。そしてシンカゲにも、相応しいのは己しかいない。だが、アワユキの気持ちに気付いているだろうシンカゲは、いつまでたってもアワユキのことを妹のようにしか見ない。それが、アワユキには焦れったかった。

 庭園の中に設えられた緩く弧を描く小道を進んでいたアワユキは、前方の光景に足を止めた。シンカゲのことを考えていた、その思考が途切れる。苛立ちを感じ、アワユキは足を速めた。彼女の気に入りの場所に誰かが入り込んでいる。蔓性の花が咲き乱れる一角に、人の姿があった。

 近付くと、それは一月以上前から屋敷に逗留している使いの少年だった。庭園の景観の一部として配置された岩に座り、傍らの木の幹に体を寄り掛からせている。辺りを覆う蔓には小さな青い花が満天の星空のように散りばめられ、少年の姿を半ば隠していた。

「何をしているの?」

 言いながらアワユキは花の帳を些か乱暴に払った。返事はない。よく見ると少年は目を閉ざしていた。眠っているのだ。

 アワユキは唇を曲げた。彼女はこの少年を快くは思っていない。どのような事情があるかは知らされていないが、シンカゲとカガリの間で少年の扱いを巡り諍いがあったことは知っていた。シンカゲが必死に少年を庇っているらしいこと、そして毎日のように少年とともに行動していること、どれをとってもアワユキには面白くなかった。

「ちょっと、起きなさいよ」言いながら少年の肩を揺すろうとして、アワユキは手を止めた。気紛れな風が吹いて、花々が揺れる。少年の黒髪がさらりと流れて、その下の顔が露わになった。

 アワユキが間近で少年の顔を見るのは初めてだった。少年に与えられた部屋はアワユキの部屋からは遠く――無論、少年の部屋がシンカゲの隣りだということも腹立たしく感じる要因の一つである――客人として遇してはいても食事をともにすることはない。結果として、顔を合わせるのは廊下ですれ違う時くらいである。アワユキ自身、少年に対してどこかぼやけた印象しか持っていなかったのだが――

 アワユキの手の中で青い花が潰れ、甘い芳香が広がった。動けぬまま、アワユキは少年を見詰めていた。

 少年は美しかった。眉が柔らかな弧を描き、長い睫が滑らかな頬に影を落としている。形の良い鼻と、ふっくらとしながらも柔らかな品の良さを感じさせる唇――全てが繊細に整い、男という性を感じさせない清らかさがある。そして、それだけではない、一度気付くと目が離せないような艶やかさをも宿していた。

 何故今まで気づかなかったのだろう、と思う。少年が常に顔を隠すように髪を垂らしているせいか、それとも視線を避けるように俯いているせいか――あるいは、厳しく内省するような、少年が持つ雰囲気のせいなのか。眠っているからこそ、少年の持つ生来の美しさが無防備に晒されていた。

「クジョウ、どこだ?」遠く聞こえた声に、アワユキはびくりとした。シンカゲの声だ。カガリの話が終わり、自由兵士団の屯所へ向かうのだろう。クジョウを呼ぶ声は次第に近付いて来る。アワユキは咄嗟に傍らに茂る灌木の中へと身を潜り込ませた。カガリがシンカゲにアワユキとの結婚の話をしただろう後に、他の者を差し挟んでシンカゲと対したくはなかった。

 アワユキは身を屈め、密生した葉の隙間から様子を窺った。幾度目かの呼び声に、クジョウがゆっくりと瞼を開けた。その瞳が束の間宙を彷徨う。光の加減か、澄んだ灰色の瞳が僅かに藤色を帯びて見えた。

「クジョウ、ここにいたか」

 小道の先から姿をあらわしたシンカゲに、クジョウが立ち上がった。その動きに、煙るような花の帳が揺れる。近付いて来るシンカゲをクジョウが見上げる。その顔が硬質なものとなっていた。張り詰め翳りを帯びた表情が、クジョウの持つ美しさを隠しているのだと、アワユキは気付いた。

「寝ていたのか? 顔色が悪いな」シンカゲが覗き込むようにして言うと、クジョウは僅かに身を引いた。

「少し寝不足なんだ」

「辛いようなら、屯所に行くのはやめるか?」

「大丈夫だ。別に体調が悪いわけじゃないから」

 クジョウは殊更に素気ない口調である。案じる表情はそのままに、シンカゲはそれならいいが、と答えると、門の方向へと歩き出した。

 二人の姿が完全に見えなくなってから、アワユキは小道へと出た。胸の内が蠢いていた。吐き気を伴うような、それ。

 シンカゲを見た時のクジョウの表情――全てを覆い隠す鎧のような硬質な表情を浮かべる前、ほんの一瞬クジョウの顔を過ったものがあった。まるで焦がれるかのように、眩しいものを見るかのように――そして何かに怯えるように――それは確かにシンカゲへと向けられていた。

 アワユキは掌に張り付いた青い花びらを振り落とす。鮮やかな、そして憂うように深いその色彩が、不意に気に障った。靴の先で踏み躙ると、花弁は小道に汚らしいしみを残した。

 その時アワユキが感じたのは、少年への猛烈な嫉妬だった。自由兵士団に入ってからのシンカゲは、アワユキには知ることも触れることもかなわぬ世界を築いている。だが、クジョウはアワユキが入り込むことが出来ない領域で、当たり前のようにシンカゲの傍らにいるのだ。クジョウがシンカゲに向けた表情でさえ、アワユキには不快だった。

 シンカゲは、アワユキだけのものだ。他の者が知らないシンカゲをアワユキは知っている。街の娘がシンカゲのことを騒いでいるのは知っていたが、これまでさして気にもせず、むしろ娘達に憐れみの気持ちさえ抱いていた。それは偏に、シンカゲの中でアワユキが特別な位置を占めると――それが家族に対するものと同じであっても――わかっていたからだ。

 だが、クジョウとシンカゲの間には、アワユキにさえわからないものがある。

「馬鹿らしい」口に出して言う。クジョウは男だ。何を惑う必要がある。

 アワユキは踵を返す。これ以上庭園を散策する気にはなれなかった。もはや花々には目をやらず、地面を睨みつけて歩く。歩きながら、アワユキは眉を顰めた。苛立ちと不快感の底に、小さく渦巻く疑念が生まれていた。

 誰もがクジョウを男だと信じている。アワユキ自身、間近にクジョウの顔を見るまではそう信じていた。だが、本当にそれは正しかったのだろうか。性から遊離したようなクジョウの容貌は、男性というよりも女性を感じさせる。例えば顔がはっきりと見えるように髪を切り、男の身形を女性の衣服に改める。それだけでクジョウは少年から少女に変貌するのではないだろうか。

 先程見たクジョウの美しさに胸がざわついた。

(まさか……そんな筈はないわ。ただ単に外見が男らしくないだけなのよ)

 そもそも、クジョウが少女なら、何故少年だと偽る必要があるのか。仮に偽っているとしても、行動をともにしているシンカゲが気付かぬ筈がない。

「考え過ぎよ」

 己に言い聞かせるようにアワユキは呟いた。疑念を無理矢理胸の奥に沈め、アワユキは庭園を後にした。



 クジョウは歩きながら、小さく溜息をついていた。無意識に零れ出たそれに、前を行くシンカゲが気付いた気配はない。

 朝食の後、光に誘われるようにして庭園を彷徨い、少し休むつもりで腰をおろしてそのまま寝入ってしまったらしい。毎夜のように続く悪夢に、クジョウはもう五日以上まともに眠っていなかった。寝不足に頭の芯が痺れたような感覚がある。

 悪夢は、嘗ては頻繁に見ていたが、最近では見ることもなくなっていた。それが何故今になって再び見るようになったのか。発端は、人身売買組織にはくとして売られそうになっていた少女――胸を真赤に染めたその骸を見たことだと、推測は出来ていた。

 少女が哀れだった。だが、少女を悼むことは、少女の命に対して失礼に過ぎるような気がした。そもそも魄という存在さえなければ、少女があのような目に遭うこともなかったかもしれない。

「本当に大丈夫か? やはり休んだ方が良くはないか?」

 シンカゲの声に物思いが破られた。振り返り、心配そうな眼差しを注ぐ彼に、クジョウは大丈夫だから、と繰り返した。

「今日は体術の鍛練はやめておこう。体調が悪かったら、リラのところで眠らせてもらえよ」

 頷きながら、クジョウは僅かに安堵していた。この調子では、体術の鍛練の途中で倒れかねない。シンカゲに、無用な心配はかけたくなかった。シンカゲのことだ。倒れた理由を知れば、何故眠ることが出来ぬのか、それを知ろうとするだろう。夢見が悪いから――などと言える筈もない。

 クジョウは胸元を押さえた。鼓動が速い。寝不足による体調不良だけではない。常になく重く感じる体の奥には、熾火のような不穏な熱が凝っている。ここ数日感じ続けているそれに、クジョウは不安を覚えていた。のまま成長を止めた体――その体がはじめて感じる違和感である。

(何でもない。きっと大丈夫だ)

 クジョウは内心に呟き、シンカゲの後を追った。



 一方のシンカゲも、注意深くクジョウの様子を窺っていた。クジョウは大丈夫だと言うが、やはり顔色が冴えないように思う。

 クジョウが決して己の不調や痛みを訴えようとせぬことに、シンカゲは気付いていた。体術の鍛練でも、滅多に表情を変えない。そのせいで、はじめの頃は鍛練を些か厳しくやり過ぎていたくらいである。今回の捕縛の一件でも、クジョウ自身が捕縛に加わるようなことは無論ないのだが、シンカゲの動きにあわせて早朝から深夜まで屯所に詰めることになっていた。気付かぬうちに無理をさせていたのかもしれないと、今更ながらにシンカゲは考える。

 クジョウは話していても素気なく、感情を読み取ることが難しい。己の自由を奪っている人間に、そもそもクジョウが良い感情を持つ筈がない。いまだクジョウが打ち解けぬのも無理はないと思う。それでも時折、掠めるようにクジョウが感情を表すことがあった。先程庭園でクジョウを見つけた時もそうだ。ほんの僅か、その顔に過ったもの――それが何かシンカゲにはわからなかったが、そのような表情を目にするたびに、クジョウの内心を知りたいと思う。

 ――クジョウを生かしたいなら、我らの中に取りこめ。このリュウドウに繋ぎ止め、真実我らの一員とするんだ――

 ふとカガリの言葉を思い出し、シンカゲは憂鬱な心持になった。ラザンとの密約のことを思えば、カガリにとって最大の譲歩だったのだろう。それがわかっても、シンカゲは納得することが出来なかった。

 クジョウをリュウドウに繋ぎ止め、リュウドウの人間とする。無論、クジョウ自身がリュウドウで生きることを望めば良いが、そうでなければクジョウは何時までも虜囚のままだ。鎖に繋ぐわけではなくとも、命を脅しクジョウの自由を縛りつけている。

 カガリは明確な信念のもと、目的のためならば冷酷な手段も辞さない。割り切ることの出来ない己は、カガリが言うようなリュウドウの中枢に相応しい人材とは到底思えなかった。

(アワユキとのこともあったな……)

 シンカゲは複雑な心地になる。

 アワユキはここ数年で眩いばかりに美しくなった。リュウドウ一の美女だと、周囲の男達が騒ぐのも頷ける。だが、シンカゲにとってアワユキは、真実妹のような存在である。気が強く、我儘で、自信に満ち溢れているアワユキ――大切に感じてはいても、一人の女性として愛せるか、と問われるとシンカゲには答えられない。シンカゲとて女性を知らぬわけではないが、少なくともアワユキをそのような対象として見たことは一度もなかった。

 何故アワユキが己のことを一人の男として愛しているのか、それさえシンカゲにはわからなかった。アワユキに相応しい男ならば他にごまんといるだろう。

 ――いずれ、心を決めなければならない。

 背後に聞こえるクジョウの足音を無意識に耳で追いながら、シンカゲは思う。

 その時出す答えによって、シンカゲがこの先リュウドウで生きていくのか否か、それが決まるだろう。

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