第三章
――私をお前の聯にせよ!
怒声が冷たい壁に反響する。火影に、男の姿は巨大だった。己の手首には太い鎖――まるで犬猫のように枷を嵌められて――動くたびにそれが錆びついた音をたてた。少し離れた壁際に、母親が蒼褪めた顔で座っている。この恐ろしい場所に囚われて何日経ったのか、それすらもわからなくなっていた。
男が母親の顎を掴む。無理矢理に仰のかせて、美しい顔を覗きこむ。
――お前が愛した聯は私が殺した。私を新しい聯に選べ。そうすれば何不自由のない生活を保証してやろう。魄であることを隠して逃げ惑う必要もない。
母親の無表情な瞳は、男の姿を映してさえいない。永い生の伴侶にと選んだ者の死を、既に彼女は知っている。己も、知っている。涙はもう枯れているけれど、悲しみは痛みすら伴う。
何故、父親が殺されなければならなかったのか、その理由はわかっていた。――お母さんが魄だから。魄の聯として選ばれれば、奇跡が与えられるから。だから、父も母も、母が本当は魄であることを秘していた。
――お母さん。
必死に呼びかける。母親の顔が、ほんの少し動いた。それを、男は見逃さない。男が笑った。
――なるほど、従う気がないか。ならばお前の娘を私のものとしてやろう。まだ岐とはいえ、いずれ魄に覚醒する。
母親の凍りついた表情、そこに浮かぶのは紛れもない恐怖だった。男の顔が振り向けられる。逃げようにも、後ろは壁。重たい鎖は到底切れるものではない。男が何かを叫ぶ。言葉はわんわんと反響して聞き取ることが出来ない。
――やめて! その子だけは!
母親の叫び。まろぶように駆け寄ってくる母親を、男は無造作に払いのける。
――私に逆らえばどうなるかよく見ておけ!
腕を掴まれ、引きずられる。冷たい床に押さえつけられて、悲鳴が零れた。背中の衣が切り裂かれる。逃れようともがきながら横目で見上げると、男が鉄の棒を掲げていた。その先端に象られているのは男の胸に美しく刺繍されている印と同じだった。熱せられて鈍い赤に染まるそれが、迫ってくる。
次の瞬間、それが背中に押し付けられる。熱さ、痛み、恐怖――叫び声に、世界が震えた。
いや、叫んだのは母親だっただろうか――そして、全てが白く塗り潰された。
クジョウは目を見開くと、がばりと身を起こした。全身が嫌な汗に濡れていた。どくどくと鼓動が鳴り響く。
「また……あの夢……」
零れた声は、震えていた。
辺りはまだ暗い。広い寝台に、クジョウは一人だった。夢の中で感じた恐怖が体の芯に凝っている。全てが克明に、押さえつけられた冷たい床の感触さえ思い出すことが出来た。忘れようはずもない。夢は、遠い記憶を映したものだ。
クジョウは己を抱きしめるように蹲る。掛け布に額をつけると、ひんやりと冷たかった。頭の奥の鈍い痛みが、やがて瞼の裏で熱となって疼く。
――泣くな。
己に命じる。泣いたところで、何が変わるわけでもない。背中に焼き付けられた刻印のように、決して消えない記憶のように。過去も未来も、同じ悪夢の延長線上にある。
クジョウは小さく体を丸めた。確かめるように左耳の耳飾りに触れる。
夜は長く、眠りはもう訪れなかった。
リュウドウに潜り込んでいた人身売買組織の者達は、警邏と兵士達の丹念な捜索で、全員が捕縛された。しかし、思いの外手間取り七日を要した。シンカゲ自身も捕縛に協力し、捕縛が終わるまでの間は早朝に屋敷を出て深夜に戻る毎日だった。
漸く事が落ち着き、シンカゲが久しぶりにカガリとアワユキの顔を見たのは、騒動が起こってから八日目、朝食の席でのことである。食事の後、カガリはすぐにでも屯所へ向かおうとするシンカゲを、自身の執務室へと呼び出した。
改まって呼び出しなど珍しいことである。シンカゲはカガリと対面することはさほどない。毎日自由兵士団の活動に参加するシンカゲと、公会議員としてリュウドウを動かしているカガリとでは、互いに時間を共有する程の余裕がなかったせいである。
カガリは執務室でシンカゲと向き合い、言った。
「あの蠱使いはどうだ? 不審な様子はあるか?」
覚悟していた問いだった。シンカゲは慎重に答える。
「不審なところなどない。はじめから信用の出来る奴だと言っているだろう」
「お前は甘い。すぐに人を信用するからな」
「誰をも信用出来ないよりはましだと思うが」
カガリはシンカゲの物言いに苦笑した。だが、その笑みもすぐに消える。
「シンカゲはクジョウとやらを自由にしてやりたいのだろう。だが、シンカゲがどれ程必死になろうと、それは出来ぬ相談だ」
「どういうことだ」
「少しでも情報が漏れる危険があれば排除する、ということだ」
「だからと言って問答無用で命を奪うのか!?」
思わず声を荒げたシンカゲに、カガリは緩く首を振った。
「私とて無闇に人の命を奪う程冷酷ではない。出来るならば奪いたくはない。クジョウを生かしたいなら、我らの中に取りこめ。このリュウドウに繋ぎ止め、真実我らの一員とするんだな」
「クジョウがリュウドウの者になるなら、命は奪わないということか」
「ああ、そうだ」
「それではクジョウはいつまでたっても真の意味で自由にはなれない」
「要は主観の問題だ。クジョウにとってこのリュウドウが、己が属すべき場所となればよい、ということだ。我らの同胞となり、リュウドウの一部となるならば、私もクジョウを信頼しよう」
森で迷った商人を救い出すという依頼が偽のものであったことはクジョウならば気付いているだろう。リュウドウに戻ってからクジョウと行動をともにし、シンカゲはそのことを確信していた。クジョウは愚かではない。だが、クジョウは依頼が偽であることに気付いていても、彼らの真の目的がラザンからの密書を携えた使者を探し出すことであった、ということまでは知らない。シンカゲは、何故カガリがここまで頑ななのか、訝しく思う。
窓から差し込む光には、まだ朝の色彩がある。カガリの姿は、その中で不穏に浮かび上がって見えた。己を凝視するシンカゲに、カガリは言った。
「何故私がそこまでするか、シンカゲにも話した方がよさそうだな。シンカゲがハザカイで救い出した使者達が、ラザンからの密書を運ぶ途中だったということは言ったな。密書の内容は、セクトールが万が一リュウドウに攻め込んだ時に備え軍事的な協定を結ぶ、というものだ」
「軍事的協定!?」
「ああ、そうだ。お前もセクトールが以前からリュウドウへと支配を広げようとしていることは知っているだろう。セクトールにとっては、リュウドウの技術力と富は喉から手が出るほどに欲しいものだろうからな。一方のラザンにとってはセクトールがリュウドウの力を手に入れれば己の存亡にも関わる問題だ。故に、我らと密かに軍事的な協定を結ぶことに同意した」
曰く、セクトールがリュウドウに軍事的侵攻を開始した場合、ラザンが背後からセクトールに攻め込むという。現在の力関係を鑑みれば、セクトールが一つ抜きん出ている。まともにぶつかれば、まず間違いなくセクトールがラザンを圧するだろう。公に協定を結べば、牽制になるどころか自ら危険を呼び込むことになりかねない。故に密約である。セクトールの意識がリュウドウに向いている時、背後から奇襲をかければ、セクトールの力を大きく削ぐことが可能となる。
「私が何故これほどまでに先の件に拘るか、わかっただろう。事はリュウドウとラザンの存亡に関わる。どれ程に小さな穴からでも、秘密は漏れる可能性がある。危険の芽は決して残しておくわけにはいかない」
カガリの話に、シンカゲは驚きを隠せずにいた。おそらく、密約は公会議の決定のもと結ばれたのだろう。だが、実質カガリが公会議を動かしていると言っても過言ではない現在、密約の構想を練り、実行に移したのはカガリその人に違いない。
シンカゲはカガリが密約の内容を明かしたことが意外だった。シンカゲは密約を知るような立場にはない。例えクジョウのことがあっても、普段のカガリならば決して機密を漏らすようなことはしないだろう。
「何故、俺にそのような話をする?」
問うたシンカゲに、カガリは満足気な笑みを浮かべた。まるでそう問われるのを待っていたかのように、カガリの答えには迷いがない。
「私と同じ立ち位置で、物事を見てほしいからだ。リュウドウを守り、より発展させるために、私は大きな変革が必要だと考えている。シンカゲには、そのための補佐として私につき、力を発揮してもらいたい」
シンカゲは息を呑んだ。
「そのようなことは公会議員が考えることであって、一介の自由兵士が関わることじゃない」
「公会議員制度は既に限界に来ている。すぐにとはいくまいが、公会議員の選出を、私はなくすつもりだ。選出はもはや硬直化している。一部を除き、殆どが惰性で選ばれているのだからな。リュウドウは大きくなりすぎた。従来のやり方ではまとめることが出来ない。これからは、確固たる強い指導者が必要だ」
シンカゲの驚きは、ラザンとの密約に感じたものよりも大きかった。リュウドウの在り方を根底から揺るがす、カガリの言葉である。
「カガリがリュウドウの王になる、ということか?」
ひそりと問えば、カガリの答えは淡々としていた。
「王ではない。私はあくまでもリュウドウを牽引する指導者として立つだけだ」
どう違うのか、とシンカゲは問いたかった。リュウドウが自由都市と呼ばれるのは、人が皆平等であり、君主を戴かないからだ。公会議員制度はそのための基盤と言える。だが、カガリが言っているのは、リュウドウに絶対的な支配者を置く、ということだ。今の時点で、支配者となるのはカガリ以外に考えられない。
「不満か?」
シンカゲはカガリを睨みつけた。
「ああ、不満だな。仮に、今の公会議員制度がもたなくなっているにしても、誰か一人が支配者になるのはリュウドウの在り方を根底から揺るがしかねない。百歩譲って誰か一人が実権を握るにしても、実権を握る者が永久的な力を持ってしまえば、リュウドウはもう自由都市とは呼べない。それに、カガリは俺に補佐になれ、という。身内を重用して公平な人選をしないなら、既にカガリは人々の代表者などではない。単なる独裁者になってしまう」
「シンカゲを選ぶのは、身内だからじゃない。身内でも無能ならば、このようなことを頼みはしない。シンカゲは自由兵士にしておくには勿体ない人材だ。私がしようとしているのは、優秀な人材をもっとリュウドウの政治の中枢に集めることだ。そのうえで、安定した政の場を整える。私が代表に立つのは、より確固たるリュウドウの基盤を作るためだ」
カガリは熱の籠った口調で続けた。
「シンカゲはいずれリュウドウを去ると、そう考えているのではないか? だが、リュウドウに腰を据えることを考えてみてほしい。シンカゲのように能力ある若い者が、この先のリュウドウには必要だ」
何時かリュウドウを去る――心に秘めていたシンカゲの思いに、カガリは気付いていたのだ。
「これは何も私だけの願いではない。アワユキも、シンカゲがリュウドウで生きることを望んでいる」
「アワユキが?」
「ああ、そうだ。アワユキはシンカゲを一人の男として愛している。シンカゲと結ばれたいと願っているのだ。気付いていただろう?」
問われてシンカゲは言葉に詰まった。二歳年下のアワユキは十九歳になる。既に夫を持ってもおかしくはない年齢である。カガリの妹である彼女には、実際のところ縁談の話は引きも切らない。幼い頃から知るアワユキを、シンカゲ自身は妹のように思っているが、いつしかアワユキから向けられるようになった眼差しの、その意味に気付かぬ程、シンカゲは鈍くはなかった。
「私からも頼みたい。アワユキを妻とし、このリュウドウに留まってくれ。そして私の片腕として、ともに闘ってほしい」
「アワユキには、俺などよりもっといい相手がいる筈だ。俺には富も力もない」
「シンカゲがその気になれば、富と力など、すぐに得ることがかなう。それに、私は妹を悲しませて意に染まぬ結婚をさせるつもりなど毛頭ない。私がどれ程アワユキに甘いか、忘れたわけではないだろう」
「確かに、そうだな」
シンカゲは溜息混じりに言った。何時からカガリがシンカゲをリュウドウの政治の中枢に引き込もうと考えていたかは知らぬが、当然アワユキとの結婚もその思惑の範疇に含まれることなのだろう。年の離れた妹を殊の外愛しているカガリならば、もしかするとアワユキとシンカゲの結婚という考えの方が先にあったのかもしれない。
いずれにせよ、シンカゲにはカガリが己を買い被っているようにしか思えなかった。
「答えをすぐに出せとは言わぬ。だが、この先どのように生きるか、シンカゲもそろそろ真剣に考えるべき時期だ。リュウドウの未来のために、そして私とアワユキのために、ここに留まりその力を活かしてほしい」
重く響くカガリの言葉に、シンカゲは答えることが出来なかった。