処刑台から始まる悪役令嬢の王国改革 きちんと滅んでくださいませ、殿下
第一章 悪役令嬢は処刑台で微笑む
王都中央広場に設けられた処刑台の上で、クラリッサ・エルベルト公爵令嬢は静かに微笑んでいた。
広場を埋め尽くす群衆から、罵声が飛んでくる。
「稀代の悪女!」
「偽聖女様を殺そうとした毒婦め!」
「王太子殿下に捨てられて当然だ!」
春の風にさらされた銀髪が、クラリッサの頬をかすめる。
白い囚人服の裾は泥に汚れ、華奢な両手には重い枷がはめられていた。それでも、彼女の立ち姿には公爵令嬢としての気品が残っている。
いや、残っているという表現は正しくない。
クラリッサの気品は、これほどの辱めを受けても傷一つついていなかった。
「ずいぶんと余裕だな、クラリッサ」
処刑台の正面に設けられた貴賓席から、王太子レオナードが口を開いた。
金髪碧眼。整った顔立ち。民衆の前では常に穏やかに微笑む、理想の王子。
その隣には、桜色の髪をした男爵令嬢ミレイユが寄り添っている。
この国に現れた聖女。
傷を癒やし、病を退け、枯れた大地に花を咲かせるという奇跡の少女。
そして、クラリッサからレオナードの心を奪った女。
「最後に罪を認め、ミレイユに謝罪するならば、斬首だけは免じてやってもよい」
レオナードは慈悲深い王子を演じるように言った。
「北の修道院で生涯を過ごすことになるが、命までは取らぬ」
「まあ」
クラリッサは目を細めた。
「殿下は本当に、お優しいのですね」
「ようやく理解したか」
「いいえ。国民の目の前で、証拠もない罪を婚約者に着せ、処刑寸前まで追い詰めておきながら、命だけは助けてやるとおっしゃる。その見事な自作自演に感心しただけですわ」
広場がどよめいた。
レオナードの顔から笑みが消える。
「まだ罪を認めぬつもりか」
「認めるべき罪がございませんもの」
「お前はミレイユの食事に毒を入れた!」
「毒が発見されたのは、わたくしが贈った銀食器からでしたわね」
「そのとおりだ」
「では、その銀食器を管理していたのは誰ですか?」
レオナードは答えなかった。
代わりにミレイユが震えた声を出す。
「クラリッサ様、もうおやめください。わたしは、あなたを恨んでなんていません。殿下を愛してしまったことも、あなたにとっては許せなかったのだと思います」
「おかしなことをおっしゃいますのね」
「え?」
「毒殺未遂のお話をしているのに、なぜ男女の愛憎へ論点を移されるのです?」
ミレイユの表情が固まる。
「わ、わたしはただ……」
「それから、わたくしの質問に答えていただけます?」
クラリッサは澄んだ青い瞳で、まっすぐミレイユを見た。
「銀食器を管理していたのは、あなた付きの侍女です。そしてその侍女は事件の翌日、何者かによって殺害された。違いますか?」
「その侍女は罪を悔いて自害したのだ!」
レオナードが怒鳴った。
「遺書も残されていた!」
「文字の読めない方が、どうやって遺書をお書きになったのでしょう」
群衆のざわめきが大きくなる。
クラリッサはレオナードから視線を外し、貴賓席の中央に座る国王へ顔を向けた。
「陛下。王都警備隊の調書には、侍女の識字能力についての記録がございます。彼女は自分の名前さえ書けなかった。それにもかかわらず、遺書は宮廷で使われる正式な文体で記されていたそうです」
国王の顔が険しくなる。
「そのような報告は受けておらぬ」
「当然でしょう。調書を提出する前に、担当官が地方へ左遷されましたから」
「誰の命令だ」
国王が問うと、クラリッサはわずかに首を傾けた。
「恐れながら、ここでわたくしがお答えするのは適切ではございません。ですが、命令書には王太子殿下の印章が押されておりました」
「でたらめだ!」
レオナードが立ち上がった。
「父上、この女は処刑を逃れるために虚言を並べております!」
「でしたら、現物をご覧になりますか?」
クラリッサの声は穏やかだった。
その瞬間、広場の外から馬車の車輪が石畳を打つ音が聞こえた。
群衆が左右に分かれる。
黒塗りの馬車から降りたのは、王国司法卿グレゴリー侯爵だった。その後ろには、地方へ左遷されたはずの警備隊員と、数人の騎士が続いている。
グレゴリー侯爵は処刑台の前で立ち止まり、国王に深く頭を下げた。
「陛下。王太子殿下による司法妨害、証拠隠滅、官吏への圧力に関する資料をお持ちいたしました」
民衆の声が止まった。
レオナードの顔が青ざめる。
「なぜ、お前が……」
「なぜ今日、この場に来ることができたのか、とお尋ねですか?」
クラリッサは微笑んだ。
「簡単なことですわ。殿下がわたくしを陥れようとなさっていることには、半年前から気づいておりましたもの」
「半年前だと?」
「はい」
クラリッサが両手を上げると、鉄の枷が音を立てた。
「ですから、処刑台へ送られる準備も、処刑台から生還する準備も、すべて整えておきましたの」
レオナードは腰の剣に手をかけた。
だが、剣を抜くより早く、王国騎士団長の号令が響いた。
「王太子殿下を拘束せよ!」
「何をする! 私は次代の王だぞ!」
「現在は司法卿より重大な嫌疑が提出されています。陛下から正式な命令が下るまで、剣をお預かりします」
「離せ!」
騎士たちがレオナードを取り囲む。
ミレイユが悲鳴を上げ、彼の腕にしがみついた。
「殿下は何も悪くありません! 全部、わたしを守るためにしてくださったことです!」
クラリッサはゆっくりと振り返った。
「今のご発言は、実に興味深いですわね」
「え……」
「司法卿は、証拠隠滅と官吏への圧力について述べただけです。何の証拠を、誰から守るために消したのかまでは、まだ一言もおっしゃっておりません」
ミレイユから血の気が引いていく。
「それなのに、殿下があなたを守るために行ったと、なぜご存じなのです?」
「ち、違うの。今のは……」
「言葉というものは不思議ですわね。心の奥に隠した真実ほど、ふとした瞬間にこぼれてしまう」
クラリッサは処刑台の上から、王太子と聖女を見下ろした。
王国中から悪女と罵られた令嬢の瞳には、怒りも悲しみもなかった。
ただ、凍るほど冷たい決意だけがあった。
「さて、殿下。これでようやく始められますわ」
「何をだ」
「裁判を、です」
クラリッサは美しく微笑んだ。
「今度は、わたくしが告発する番でございます」
第二章 完璧な婚約者という名の使用人
クラリッサとレオナードの婚約が決まったのは、二人が十歳のときだった。
王城の謁見の間で、幼いレオナードはクラリッサの手を取り、こう言った。
「君は将来、僕の妃になる。僕を支えてくれ」
当時のクラリッサは、その言葉を信じた。
正確には、信じようと努力した。
王太子妃教育は苛烈を極めた。
外交、法律、歴史、軍事、経済、礼法、外国語。朝から深夜まで教師に囲まれ、少しでも間違えれば、未来の王妃にふさわしくないと叱責された。
一方、レオナードは狩猟や舞踏会に明け暮れた。
彼が授業を抜け出すたび、クラリッサが二人分の課題をこなした。
彼が外交使節の名前を忘れれば、クラリッサが会話の流れを変えた。
彼が予算会議で数字を読み間違えれば、クラリッサが訂正案を作成した。
レオナードはいつも、人前では彼女を褒めた。
「さすがは私の婚約者だ」
けれど、二人きりになると決まってこう言った。
「完璧すぎる女は可愛げがない」
十六歳のクラリッサは、その言葉に傷ついた。
十八歳のクラリッサは、傷ついたことを悟られない術を身につけた。
二十歳のクラリッサは、もはや何も感じなくなっていた。
転機は、ミレイユという少女が王都に現れたことだった。
地方男爵の庶子として育った彼女は、触れただけで擦り傷を癒やす力を持っていた。
教会は彼女を聖女と認定し、王宮は保護を名目に迎え入れた。
レオナードは初対面で彼女に夢中になった。
「ミレイユは純粋だ。君とは違う」
「左様でございますか」
「彼女は私を王太子ではなく、一人の男として見てくれる」
「聖女様は殿下から宝石を贈られるたびに、王太子殿下からの贈り物だと皆様に自慢なさっていますが」
「嫉妬か?」
「事実を述べただけです」
クラリッサが何を言っても、レオナードは嫉妬と決めつけた。
やがて、クラリッサが執務室へ入ることを拒むようになった。
「ミレイユが君を怖がっている」
「わたくしは、聖女様と二人きりでお話ししたことすらございません」
「お前の冷たい目が彼女を傷つける」
「では、目を閉じて執務をいたしましょうか」
「そういうところだ!」
レオナードは机を叩いた。
「お前はいつも私を馬鹿にしている!」
机の上には、クラリッサが作成した穀物価格安定化法案が置かれていた。
王太子名義で提出される予定の法案だった。
「では、この法案もご自身で完成なさいますか?」
「何?」
「わたくしが殿下を馬鹿にしているとお感じになるのでしたら、今後は政策立案から手を引きます」
「待て。そういう話ではない」
「殿下はわたくしを必要としていらっしゃらないのでしょう?」
「公務は別だ」
その一言で、クラリッサはすべてを理解した。
レオナードが必要としているのは、クラリッサという人間ではない。
面倒な公務を代行し、失敗を修正し、手柄だけを差し出す便利な道具だ。
「承知いたしました」
クラリッサは法案を机に戻した。
その日から彼女は、レオナードを支えることをやめた。
ただし、すぐに投げ出しはしなかった。
自分が作成した政策、交渉記録、予算案をすべて複写した。
誰から何を依頼され、誰の名義で提出したか。年月日を添え、公証人に保管させた。
同時に、王太子周辺の金の流れを調べ始めた。
すると、次々に異常が見つかった。
災害復興費が、ミレイユの衣装代に流用されていた。
騎士団の装備更新費が削られ、レオナードの狩猟場が建設されていた。
教会へ寄付された薬草は、聖女の奇跡を演出するため、倉庫に隠されていた。
クラリッサはすべてを記録した。
やがて、ミレイユの毒殺未遂事件が起きた。
彼女が倒れ、クラリッサの贈った銀食器から毒が見つかった。
あまりにも分かりやすい罠だった。
だからこそ、クラリッサはあえて逃げなかった。
もし、その場で無実を証明してしまえば、レオナードは証拠の不備を認め、別の罪をでっち上げただろう。
ならば、彼に最後までやらせればいい。
婚約破棄。
公爵家への捜査。
司法への圧力。
偽証。
証拠隠滅。
そして、正式な手続きを無視した処刑命令。
一つの罪では逃げられても、十の罪からは逃げられない。
クラリッサは、自分自身を餌にした。
王太子が自ら破滅の穴を掘り、二度と這い上がれない深さになるまで待ったのである。
第三章 公開裁判
三日後、王立大法廷で公開裁判が開かれた。
被告席にはレオナードとミレイユが座っている。
レオナードは王族用の正装を許されず、簡素な紺色の服を着せられていた。
ミレイユは泣き腫らした目で傍聴席を見回している。
彼女が視線を向けるたび、若い貴族たちが気まずそうに顔を背けた。
以前なら、彼女が涙を見せるだけで多くの者が味方した。
しかし今は、誰も手を差し伸べない。
「被告レオナード」
裁判長を務めるグレゴリー侯爵が呼びかけた。
「そなたは王太子の権限を用い、捜査記録の改ざん、証人の追放、証拠の隠匿を命じたとされている。間違いないか」
「私は王太子だ」
レオナードは不機嫌そうに答えた。
「国家の安全を守るため、官吏に命令を下す権限がある」
「国家の安全とは、具体的に何を指すのか」
「聖女の保護だ」
「聖女を守るためならば、偽の遺書を作ってよいと?」
「偽物だという証拠はない!」
「遺書を作成した書記官が、すでに証言している」
法廷の扉が開き、中年の男が騎士に付き添われて入ってきた。
レオナードが目を見開く。
「お前は国外へ行ったはずだ」
「殿下のご命令で、行かされるところでした」
書記官は震える声で言った。
「ですが、国境でエルベルト公爵家の方々に保護されました」
「裏切り者め」
「家族を人質に取られ、従うしかなかったのです!」
書記官は机に、一通の命令書を置いた。
「こちらが、侍女の遺書を作成するよう命じた文書です。王太子殿下の署名と印章がございます」
「印章など盗むことができる!」
レオナードはクラリッサを指差した。
「その女なら可能だ! 何年も私の執務室に出入りしていた!」
「確かに、わたくしなら可能でしたわ」
証言台に立つクラリッサは、あっさり認めた。
傍聴席がざわつく。
「ですが、王族の印章には偽造防止の仕掛けがございます。押した際、台座の一部に使用日時が刻まれる。その台座は今も殿下がお持ちですね?」
王宮侍従が、布に包まれた印章を差し出す。
鑑定官が確認し、裁判長に告げた。
「命令書が作成された日時と、台座の記録は一致しています」
「それも細工だ!」
「では、その時間に殿下が印章を使用した事実はございますか?」
「覚えていない!」
「わたくしは覚えておりますわ」
クラリッサは一冊の帳面を取り出した。
「その日の午後、殿下はミレイユ嬢と王宮庭園にいらっしゃいました。人払いを命じ、侍従長に印章を持ってこさせた。その後、侍女の遺書を作成する命令書へ押印なさった」
「なぜお前が知っている!」
「殿下ご自身が認めてくださいました」
「何を言っている?」
法廷内に、レオナードの声が流れた。
『あの侍女が生きていれば、ミレイユに疑いが向く。死んだ者に罪をかぶせれば、すべて丸く収まる』
記録用魔道具から再生された声だった。
続いて、ミレイユの声が聞こえる。
『でも、クラリッサ様が罪を認めなかったら?』
『処刑命令を出せばいい。死人は弁明できない』
『殿下って、本当に頭がいいのね』
レオナードが立ち上がった。
「止めろ!」
騎士たちが彼の肩を押さえ、座らせる。
「これは違う! 言葉を切り貼りしたのだ!」
「映像も記録されております」
魔道具の上に、淡い光景が浮かび上がった。
庭園の東屋で抱き合うレオナードとミレイユ。
レオナードの手には命令書があり、ミレイユは笑いながら印章を押す彼を見つめている。
完全な証拠だった。
ミレイユの唇が震えた。
「どうして……」
「東屋には一時期、王宮警備用の記録水晶が設置されておりました」
クラリッサが説明する。
「半年前、不審者が侵入したためです。殿下は警備報告書をお読みにならなかったので、ご存じなかったようですが」
「卑怯だぞ!」
レオナードが叫んだ。
「隠れて私たちを監視するなど、悪女のすることだ!」
クラリッサは一瞬、言葉を失った。
それから、心から不思議そうな顔で尋ねた。
「証拠隠滅と殺人の相談をなさった方が、警備用記録水晶に倫理を説かれるのですか?」
傍聴席のあちこちから失笑が漏れた。
レオナードの顔が赤く染まる。
「笑うな! 私は王太子だぞ!」
「元王太子です」
国王の声が法廷に響いた。
全員が立ち上がり、頭を下げる。
国王は沈痛な面持ちで、息子を見つめた。
「たった今、王家の評議会において、そなたの王位継承権剥奪が全会一致で可決された」
「父上……?」
「そなたを王族籍から除外する」
「お待ちください! 私はあなたの息子です!」
「だからこそ、何度も責任を学ぶ機会を与えた」
国王の声は震えていた。
「だが、そなたは過ちを認めず、力の弱い者へ罪を押しつけた。それは王として最もしてはならぬことだ」
レオナードは言葉を失った。
国王は次にクラリッサへ向き直った。
「クラリッサ嬢。王家の者が、そなたの名誉と命を傷つけた。国王として謝罪する」
国王が頭を下げた。
法廷に衝撃が走る。
クラリッサは深く礼をした。
「陛下のお心を、ありがたく受け取ります」
「望む補償があれば申してみよ」
「では一つ、お願いがございます」
「何だ」
「わたくしを傷つけたのは、殿下一人の愚かさではございません」
クラリッサは法廷を見渡した。
「殿下の命令というだけで捜査を打ち切った官吏。聖女様が泣いたというだけで、証拠を求めずわたくしを悪女と決めつけた貴族。王家に逆らいたくないという理由で、違法な処刑命令を受け入れた者たち。彼ら全員の沈黙が、処刑台を作り上げたのです」
誰も反論できなかった。
「ですから、わたくしは宝石も領地も望みません」
クラリッサは胸を張った。
「王族を含むすべての者が、法の下で同じように裁かれる制度をお作りください」
第四章 聖女の奇跡
レオナードに対する審理が終わると、次はミレイユの番となった。
彼女には毒殺未遂事件の共謀だけでなく、聖女の奇跡を利用した詐欺の疑いがかけられていた。
「詐欺だなんて、ひどいです!」
ミレイユは被告席から立ち上がった。
「わたしには本当に治癒の力があります! たくさんの人を救いました!」
「確かに、あなたには軽傷を治癒する力があるのでしょう」
クラリッサは否定しなかった。
「ですが、死に至る病や重傷を癒やせるほどの力はない」
「あります!」
「では、この方をご存じですか?」
一人の老女が法廷へ入ってきた。
その姿を見たミレイユの顔色が変わる。
「聖女様」
老女は深く頭を下げた。
「あなた様のおかげで、息子は一度、元気になりました」
「ほ、ほら、やっぱり……」
「三日後に亡くなりましたが」
ミレイユが黙り込む。
「息子は、あなた様から聖なる水をいただきました。その日は熱が下がり、食事もできるようになった。けれど、教会の医師が処方した薬を飲もうとすると、聖女様の奇跡を疑うのかと取り上げられたのです」
「わたしは知りません!」
「取り上げた神官は、指示を受けたと証言しています」
クラリッサは聖なる水の入った瓶を掲げた。
「この中身を宮廷薬師に調べていただきました。解熱剤を薄めたものです」
「違う!」
「さらに、奇跡によって花が咲いたとされる荒野には、前夜のうちに園芸職人が球根を植えていた。歩けなかった少年が立ち上がった奇跡では、最初から歩ける子どもを患者役として雇っていた」
職人や子どもの母親が次々に証言する。
ミレイユは耳を塞いだ。
「違う、違う! わたしは何も知らない! 全部、教会の人たちが勝手にやったの!」
「では、こちらをご覧ください」
クラリッサが提出したのは、ミレイユの署名が入った契約書だった。
奇跡の興行で得た寄付金の四割を、ミレイユが受け取るという内容である。
「寄付金は、貧しい人々のために使われるはずでした。しかし実際には、その大部分があなたの衣装、宝石、屋敷の購入費に消えている」
「わたしは聖女なんです! 聖女がみすぼらしい格好をしていたら、みんなが不安になるでしょう?」
「一着で農民百人が冬を越せるドレスが必要なのですか?」
「それは……」
「あなたが本当に聖女なら、なぜ薬を必要とする患者から薬を取り上げたのです」
「わたしの奇跡を信じてほしかったからよ!」
ミレイユが叫んだ。
法廷内が静まり返る。
彼女自身も、自分が口にした言葉の意味に気づいたらしい。
瞳を大きく見開き、慌てて首を振った。
「違うの。今のは違うのよ」
「何が違うのです?」
クラリッサの問いに、ミレイユは答えられなかった。
「あなたが欲しかったのは、病人を救うことではない。自分が奇跡の聖女として崇められることだった」
「だって、仕方ないじゃない!」
ミレイユの声が法廷に響き渡った。
「ずっと馬鹿にされてきたのよ! 男爵家の庶子だからって、使用人よりひどい扱いを受けた! だから聖女だと分かったとき、やっと幸せになれると思ったの!」
「過去につらい思いをしたから、他人の命を犠牲にしてよいと?」
「あなたには分からないわ!」
「分かりませんわ」
クラリッサは静かに答えた。
「理解したくもございません」
「あなたは最初から全部持っていたでしょう! 公爵令嬢として生まれて、美しくて、頭もよくて、王太子の婚約者で!」
「では、あなたにすべて差し上げたら満足でしたか?」
ミレイユが息をのむ。
「わたくしの地位を差し上げ、婚約者を差し上げ、功績を差し上げ、最後に命まで差し上げれば、あなたはようやく幸せになれたのでしょうか」
「それは……」
「いいえ、ならなかったでしょうね。あなたが望んでいたのは幸福ではありませんもの」
クラリッサの声には、憐れみさえ含まれていた。
「自分より恵まれているように見える者を、不幸にすること。それだけです」
ミレイユは唇を噛んだ。
やがて俯き、か細い声を漏らす。
「殿下は、わたしを愛してる」
「そうですね」
「クラリッサ様には勝ったのよ。殿下はあなたではなく、わたしを選んだ」
クラリッサは否定しなかった。
「ええ。お二人は、確かに選び合われました」
ミレイユの顔に、一瞬だけ笑みが浮かぶ。
「ですから、最後までお二人で責任をお取りくださいませ」
その笑みは、すぐに凍りついた。
第五章 愛の価値
レオナードとミレイユは、一時的に別々の牢へ収監された。
二人が再会したのは、判決前の最終尋問でのことだった。
「レオナード様!」
ミレイユは彼の姿を見るなり駆け寄ろうとした。
だが、手枷につながった鎖を看守に引かれ、床に膝をつく。
「助けてください! わたし、怖いんです!」
「私に近づくな」
レオナードは冷たく言った。
ミレイユが顔を上げる。
「え……?」
「お前が余計なことを言ったせいで、私は王太子の地位を失った」
「わたしは殿下を守ろうとしたんです!」
「守る? お前は法廷で、私がお前のために証拠を消したと認めたではないか!」
「あれはクラリッサ様に誘導されて……」
「お前が愚かなだけだ!」
ミレイユの目に涙が浮かんだ。
「そんな言い方、ひどいです」
「泣くな。もうお前の涙など何の役にも立たない」
「愛してるって言ってくださったでしょう?」
「あのときは、お前が聖女だったからだ」
「違います! 一人の女として愛してるって……」
「聖女でもなく、奇跡も偽物だと知られた今のお前に、何の価値がある?」
ミレイユは呆然とした。
部屋の隅で、クラリッサが二人の様子を見ていた。
レオナードは彼女に気づくと、顔色を変えた。
「クラリッサ」
「何でございましょう」
「やっと分かった。私はこの女に騙されていたのだ」
「そうですか」
「魅了の力だ。そうに違いない」
レオナードは必死に訴えた。
「本来の私なら、君を傷つけるはずがない。ミレイユの力で操られていたのだ!」
「わたしに魅了の力なんてありません!」
「黙れ、魔女め!」
「魔女?」
ミレイユの表情がゆがむ。
「わたしのことを聖女だって言ったじゃない! クラリッサ様は冷たい悪女だって!」
「私は正気ではなかった!」
「正気じゃないのは今でしょう!」
二人は互いを罵り始めた。
レオナードはミレイユが自分を誘惑したと叫び、ミレイユはすべてレオナードの命令だったと反論した。
永遠の愛を誓った二人は、わずかな時間で互いに罪を押しつけ合っている。
クラリッサは黙って見守った。
やがてレオナードが、縋るような目を向けてきた。
「クラリッサ。私は間違っていた」
「どの件についてでしょう?」
「すべてだ。君の忠告を聞くべきだった。君こそが私にふさわしい女性だった」
「左様でございますか」
「私を助けてくれ」
レオナードはクラリッサに近づこうとした。
「君ならできるだろう? 司法卿も貴族たちも、君の言葉には耳を傾ける。私の処罰を軽くするよう頼んでくれ」
「お断りいたします」
「私たちは十年間、婚約していたではないか!」
「殿下ご自身が破棄なさいました」
「もう一度、婚約すればいい!」
クラリッサは彼を見つめた。
これが、自分がかつて人生を捧げようとした男性なのか。
そう思うと、怒りよりも悲しさが湧いた。
だが、その悲しさはレオナードへの未練ではなかった。
彼を信じようと努力し続けた、過去の自分への哀悼だった。
「殿下」
クラリッサは静かに告げる。
「わたくしが助けて差し上げるたびに、殿下はご自身の力で成功したとお考えになりました」
「何の話だ」
「外交会議で他国の使節を怒らせたときも、予算を使い込んだときも、法案を理解できず議会で立ち往生したときも、後始末をしたのはわたくしです」
「婚約者なら当然だろう!」
「その結果、殿下は失敗から学ぶ機会を失った」
「私が学ばなかったことまで、君の責任だと言うのか?」
「いいえ」
クラリッサは首を横に振った。
「これからは、ご自身の責任をすべてご自身で負ってくださいと申し上げているのです」
「待ってくれ!」
クラリッサは背を向けた。
「私は君を愛している!」
彼女は足を止めなかった。
「君が必要だ!」
その言葉にだけ、クラリッサは振り返った。
「ええ、存じております」
レオナードの顔に希望が浮かぶ。
「殿下は、わたくしを必要としていらっしゃる」
クラリッサは微笑んだ。
「ですが、愛してはいらっしゃらない」
扉が閉まる。
部屋に残されたレオナードの声は、もう彼女には届かなかった。
第六章 落ちた王子と枯れた聖女
判決の日。
レオナードには王族籍の永久剥奪と、北部鉱山での二十年間の強制労働が言い渡された。
かつて彼が予算を削減したことで、鉱山労働者の安全設備は十分に整っていなかった。
クラリッサの提案により設備は改善されたが、労働そのものが過酷であることに変わりはない。
「私は王子だ!」
連行されながら、レオナードは繰り返し叫んだ。
「お前たちは必ず後悔する! 私は王になる男だ!」
誰も答えなかった。
ミレイユには十五年の服役と、詐取した寄付金の返還が命じられた。
さらに、彼女の治癒能力は王立治療院の監督下でのみ使用することとされた。
報酬は一般の治療師と同額。
かつて身につけていた宝石やドレスはすべて売却され、被害者への補償に充てられた。
「聖女にこんな服を着せるの?」
粗末な治療師の制服を渡されたミレイユは、信じられないという顔をした。
「わたしが手を触れれば、傷が治るのよ。もっと特別な部屋を用意してくれてもいいでしょう?」
「次の患者が待っている」
監督官は淡々と答えた。
「今日は軽傷者二十名の治療だ」
「二十人も?」
「その後、薬草の仕分けを行う」
「そんな地味な仕事、聖女がすることじゃないわ」
「嫌なら治癒能力を使わなくてもよい。その場合は一般囚と同じ作業になる」
ミレイユは仕方なく治療室へ入った。
そこには労働中に腕を切った男性が座っていた。
以前の彼女なら、華やかな衣装をまとい、聖歌と香を用意させ、大勢の信者が見守る中で治療を行っていた。
今は称賛する観客も、ひざまずく神官もいない。
ただ、傷ついた一人の人間がいるだけだった。
ミレイユは男性の腕に触れた。
淡い光が生まれ、傷口がゆっくりとふさがっていく。
「ありがとう」
男性は、それだけ言った。
ミレイユはしばらく彼の顔を見ていた。
「それだけ?」
「何がだ?」
「わたしを聖女様と呼ばないの?」
「治療師殿ではないのか」
男性は不思議そうに首を傾げた。
ミレイユは唇を震わせた。
治したことへの感謝では足りない。
特別な存在として崇拝されなければ満足できない。
その事実を、彼女は初めて突きつけられた。
一方、鉱山へ送られたレオナードは、一日目でつるはしを投げ出した。
「こんなことができるか!」
「割り当てを終えなければ、食事はない」
「私に命令するな! お前の名を覚えたぞ!」
「俺はお前の名を覚えちゃいない」
監督官は肩をすくめた。
「ここじゃ、働く者が飯を食う。それだけだ」
「クラリッサを呼べ!」
「誰だ、それは」
「エルベルト公爵令嬢だ! あの女なら私を助ける!」
「お前をここへ送る証拠を集めた令嬢か?」
周囲の労働者たちが笑った。
レオナードは顔を真っ赤にした。
「あれは私の婚約者だ!」
「婚約を破棄したって聞いたぞ」
「一時的なものだ!」
「処刑しようとしたとも聞いた」
「誤解だ!」
「ずいぶん物騒な誤解だな」
笑い声が大きくなる。
レオナードは初めて、自分の言葉だけでは誰も従わない場所に立っていた。
王子の肩書もない。
クラリッサの助けもない。
自分で積み上げた功績すらない。
彼に残されたものは、何もなかった。
第七章 悪役令嬢の改革
裁判から半年後。
クラリッサは王国初の法務監察官に任命された。
王族や高位貴族による権力乱用を調査し、必要に応じて司法へ告発できる役職である。
就任初日、執務室には書類の山が積まれていた。
「予想以上ですな」
司法卿グレゴリーが疲れた顔をする。
「王太子の不正だけでも、調査に数年かかりそうだ」
「殿下お一人で行えた規模ではございませんから」
クラリッサは帳簿をめくった。
「見て見ぬふりをした者。権力にすり寄り、利益を得た者。彼らを放置すれば、第二のレオナード殿下が現れるでしょう」
「元殿下です」
「失礼いたしました」
「ところで、この請願書の数は何だ?」
机の端には、別の書類が黄金の箱に収められていた。
「クラリッサ嬢への求婚状です」
補佐官が答えた。
「国内から三十二通、国外から十一通届いております」
グレゴリーは笑い出した。
「つい半年前まで悪女と呼んでいた連中が、今度はこぞって求婚か」
「人の評判とは、移ろいやすいものですわ」
クラリッサは求婚状の束を補佐官へ返した。
「すべてお断りしてください」
「中をご覧にならなくてもよろしいのですか?」
「悪女と呼ばれていた間、わたくしを信じてくださった方からの求婚はございますか?」
補佐官は答えに詰まった。
「ございません」
「でしたら、読む必要はございません」
その日の午後、北方の隣国から使節団が到着した。
代表者は、第二王子ユリウス。
黒髪と灰色の瞳を持つ、物静かな青年だった。
隣国との穀物貿易に関する交渉のため、クラリッサは会議へ同席した。
「エルベルト公爵令嬢」
会議の終了後、ユリウスが彼女へ声をかけた。
「以前、国境地域の関税制度について報告書を提出されたことがありましたね」
「三年前の報告書でしょうか」
「はい。非常に興味深い内容でした」
クラリッサは少し驚いた。
あの報告書はレオナード名義で提出されたものだ。
「わたくしが書いたと、なぜご存じなのです?」
「あなたの文章には特徴があります。問題を批判するだけでなく、必ず実行可能な代案を三つ提示する」
「よくお読みになっているのですね」
「七回ほど」
「七回?」
「我が国の制度にも応用できないか検討しました」
ユリウスは一冊の報告書を差し出した。
クラリッサの提案をもとに、隣国で試験的に導入した制度の成果がまとめられている。
「貧困地域の税収が増え、同時に餓死者が減りました」
「それは素晴らしい成果です」
「あなたの功績です」
クラリッサは言葉を失った。
これまで、彼女の仕事は常にレオナードの功績とされた。
誰かから正面から評価されたことなど、ほとんどない。
「いいえ。実行された皆様の功績ですわ」
「では、発案者と実行者、双方の功績ということにしましょう」
ユリウスは穏やかに微笑んだ。
「功績を正しく記録することは、国家にとって重要です。誰が正しい決断をしたのか分からなければ、次に誰の意見を採用すべきか判断できませんから」
その言葉を聞き、クラリッサも笑った。
「殿下とは、よいお仕事ができそうです」
「仕事だけでしょうか」
「何か?」
「いえ。今は、それで十分です」
ユリウスは礼をして立ち去った。
その背中を見送りながら、クラリッサはわずかに首を傾げた。
けれど、追及はしなかった。
言葉の意味を考える時間は、これからいくらでもある。
第八章 裁かれなかった者たち
改革が進むにつれ、クラリッサを批判する者も現れた。
「女が権力を持つなど、王国の伝統に反する」
「過去の恨みから貴族を粛清している」
「元婚約者を鉱山へ送った冷血な女だ」
中心となったのは、ベルクール侯爵だった。
レオナードの側近として多くの利益を得ていた男である。
ある晩、侯爵は自邸へ有力貴族を集めた。
「クラリッサを追い落とさねば、次に裁かれるのは我々だ」
「しかし、彼女には隙がない」
「隙がないなら、作ればよい」
ベルクール侯爵はクラリッサが隣国へ機密を流しているという噂を広めた。
ユリウス王子との会談を密会と呼び、恋文を偽造し、新聞社に金を支払った。
数日後、王都中に見出しが躍った。
『悪役令嬢、外国王子と通じる』
『王国改革の裏に隣国の陰謀か』
以前と同じ手口だった。
虚偽を繰り返し、人々が真実だと思い込むまで広げる。
だが、一つだけ違いがある。
今のクラリッサには正式な捜査権限があった。
「記事を差し止めろ!」
ベルクール侯爵が新聞社へ怒鳴り込んだとき、そこではクラリッサが待っていた。
「ずいぶんお急ぎですのね、侯爵」
「なぜ貴様がここにいる!」
「わたくしが隣国と通じているという記事を、侯爵が書かせた証拠を確認するためです」
「知らん!」
「編集長から証言をいただきました」
壁際に立つ編集長が、気まずそうに頭を下げる。
「金貨の製造番号も確認しております。侯爵家の銀行口座から引き出されたものと一致しました」
「罠だ!」
「わたくしを陥れようとなさる方は、皆様同じことをおっしゃいますのね」
クラリッサは机の上に偽造された恋文を並べた。
「ところで、この手紙には、ユリウス殿下がわたくしを夜会へ誘ったと書かれています」
「それが何だ」
「その日、殿下は本国で軍事演習に参加しておられました。三万人の兵士が証人です」
侯爵の頬が引きつる。
「それから、手紙に使用された紙ですが、王都南区の工房が先月から販売を始めた新製品です」
「だからどうした!」
「手紙の日付は二年前です」
編集長が吹き出した。
「笑うな!」
「さらに、隣国王室の紋章が左右逆です」
「……」
「偽造なさるのでしたら、もう少し真面目に取り組んでいただきたいものですわ」
侯爵は逃げようとしたが、扉の外には監察官が待機していた。
「離せ! 私は侯爵だぞ!」
「奇遇ですわね」
クラリッサは涼しげに笑った。
「以前、同じようなことをおっしゃった方がいらっしゃいました」
ベルクール侯爵の邸宅からは、不正会計の帳簿と大量の偽造印章が発見された。
彼は爵位を剥奪され、財産の大部分を没収された。
クラリッサを冷血と呼んだ新聞は、翌週には手のひらを返した。
『正義の令嬢、国家転覆の陰謀を阻止』
その見出しを見たクラリッサは、新聞を小さく折りたたんだ。
「記事に抗議なさいますか?」
補佐官が尋ねる。
「いいえ。報道の自由は守られるべきです」
「では、このままに?」
「ただし、事実と意見を明確に区別する規則を作りましょう。虚偽を事実として掲載した場合には、同じ大きさで訂正記事を出していただきます」
「厳しいですね」
「嘘の記事は一面で、訂正は隅に小さくでは、真実が追いつけませんもの」
クラリッサは新たな法案へ署名した。
かつて彼女を悪女にした噂は、もう彼女を傷つけることができなかった。
今のクラリッサは、噂そのものが武器にならない国を作ろうとしていた。
第九章 王子からの求婚
二年後。
王国の司法改革は大きな成果を上げていた。
身分を理由に捜査を拒否することは禁止され、裁判記録は原則として公開された。
被告人には弁明の機会が保障され、王族による処刑命令にも司法の審査が必要となった。
クラリッサは王宮の庭園を歩いていた。
隣には、外交使節として何度も王国を訪れるようになったユリウスがいる。
「また求婚状が増えたそうですね」
「どこでお聞きになったのです?」
「あなたの補佐官が教えてくれました」
「余計な情報を」
「全部断っているとも」
「仕事が楽しいのです。結婚を急ぐ理由がございません」
「では、私にも望みはありませんか?」
クラリッサは足を止めた。
ユリウスは冗談を言っているようには見えない。
「求婚なさっているのですか?」
「そのつもりです」
「ずいぶん簡素ですのね」
「派手な求婚がお好みですか?」
「いいえ。ただ、外交交渉と同じ調子でしたので」
「では、改めます」
ユリウスはクラリッサの前に立った。
「クラリッサ・エルベルト嬢。私はあなたを尊敬しています」
愛しているではなく、尊敬している。
その言葉が、クラリッサの胸に静かに落ちた。
「あなたの知性も、勇気も、行動力も尊敬しています。もちろん、一人の女性としてお慕いしておりますが、私の妃としてだけでなく、一人の政治家として歩むあなたを支えたい」
「隣国の王子である殿下と結婚すれば、わたくしはこの国を離れることになります」
「その必要はありません」
「ですが……」
「私は第二王子です。王位を継ぐ予定はない。こちらへ婿入りすることもできます」
「簡単におっしゃいますが、王族の婚姻ですわ」
「父には話しました」
「もう?」
「兄にも話しました。二人とも賛成しています」
「外堀を埋めましたのね」
「不快でしたか?」
クラリッサは少し考えた。
「いいえ。仕事のできる方だと思いました」
「それは褒め言葉でしょうか」
「わたくしからすれば、最大級です」
ユリウスは笑った。
クラリッサは庭に咲く白い花へ視線を落とした。
「一つ、条件がございます」
「何でしょう」
「わたくしの仕事を、あなたの功績にしないこと」
「当然です」
「わたくしが反対意見を申し上げても、可愛げがないとおっしゃらないこと」
「むしろ歓迎します」
「間違えたとき、身分の低い者へ責任を押しつけないこと」
「約束します」
「最後に」
クラリッサはユリウスを見つめた。
「わたくしを必要とするだけでなく、きちんと愛してくださること」
ユリウスは彼女の手を取った。
「それは条件ではありません」
「では、何です?」
「すでに果たしている事実です」
クラリッサはしばらく彼を見つめ、やがて笑った。
「合格ですわ」
それは、悪役令嬢と呼ばれて以来、彼女が初めて見せた無防備な笑顔だった。
第十章 きちんと滅んでくださいませ
クラリッサとユリウスの婚礼が行われる頃、レオナードの刑期はまだ十八年残っていた。
鉱山の休憩所で、一枚の新聞が回されている。
王都から届いた、数週間遅れの新聞だった。
「おい、元王子」
労働者の一人がレオナードに声をかけた。
「お前の元婚約者、結婚したらしいぞ」
「何?」
レオナードは新聞を奪い取った。
紙面には、婚礼衣装をまとったクラリッサとユリウスの肖像画が掲載されている。
クラリッサは幸福そうに笑っていた。
レオナードが一度も見たことのない表情だった。
「嘘だ」
「何がだ?」
「クラリッサは私を待っている」
「十八年も?」
「あの女は私を愛していた! だから嫉妬してミレイユを陥れたんだ!」
労働者は呆れた顔をした。
「まだそんなこと言ってるのか」
「私が戻れば、すべて元どおりになる!」
「ならんだろ」
「なる!」
「お前、自分が王子だった頃から何一つ変わってないな」
その言葉に、レオナードは殴りかかった。
だが、毎日働いて鍛えられた労働者に簡単に腕をつかまれ、地面へ転がされた。
「昔は誰かが、お前の失敗を片づけてくれたんだろうな」
労働者は新聞を拾う。
「その人がいなくなったのに、自分だけ昔のままでいられると思うなよ」
レオナードは泥の中で、遠ざかる新聞を見つめた。
一方、王立治療院のミレイユも婚礼の知らせを聞いた。
彼女は以前ほど騒がなくなっていた。
二年間で何千人もの軽傷者を治療し、薬草の名前を覚え、包帯の巻き方も学んだ。
相変わらず称賛を求める癖は残っている。
それでも、目の前の患者を見ず、観客ばかり見ていた頃よりはましになっていた。
「クラリッサ様、幸せそうね」
同僚の治療師が新聞を眺める。
「悪女だって噂されていたのが嘘みたい」
ミレイユは薬草を仕分けながら答えた。
「あの人は、最初から悪女じゃなかったわ」
「知り合いなの?」
「ええ」
同僚が興味を示したが、ミレイユはそれ以上話さなかった。
自分が彼女を悪女に仕立てたのだとは、まだ言えなかった。
けれど、いつか刑期を終えるまでには、口にできる日が来るかもしれない。
ミレイユは目の前の薬草へ視線を戻した。
華やかな奇跡では治せない病を、本物の薬が治すことを、今の彼女は知っていた。
王都では婚礼の鐘が鳴り響いていた。
式典の後、クラリッサは王宮のバルコニーに立った。
広場には多くの民衆が集まっている。
二年前、彼女に罵声を浴びせた場所。
処刑台はすでに撤去され、代わりに司法改革を記念する石碑が建てられていた。
石碑には、クラリッサの希望で次の言葉が刻まれている。
『人を裁くとき、涙ではなく証拠を見よ。身分ではなく行いを見よ。そして、沈黙によって不正に加担するな』
「過去を思い出しますか?」
隣に立つユリウスが尋ねた。
「少しだけ」
「つらいですか?」
「いいえ」
クラリッサは首を横に振った。
「あの日、処刑台へ上がったわたくしは、何もかも失ったと思っておりました」
「実際には?」
「必要のないものを、ようやく手放せたのです」
愛してくれない婚約者。
努力を当然と考える王家。
完璧でなければ価値がないという思い込み。
そして、他人からどう呼ばれるかを恐れる心。
悪役令嬢。
冷血な女。
裏切り者。
正義の令嬢。
王国の救済者。
どの名前も、クラリッサ自身のすべてを表すものではない。
「ユリウス様」
「はい」
「わたくしは、善良な人間でしょうか」
ユリウスは少し考えた。
「善良であろうと努力できる人だと思います」
「褒めていらっしゃいます?」
「最大級に」
クラリッサは笑った。
「では、あなたはよい夫になれそうです」
「今のところは?」
「今後の実績次第ですわ」
「厳しいですね」
「当然です」
二人は顔を見合わせた。
眼下から歓声が巻き起こる。
クラリッサは民衆に向かって手を振った。
もう、彼らの歓声に心を奪われることはない。
罵声が真実ではなかったように、称賛もまた絶対の真実ではないからだ。
自分の価値は、自分の選択によって決める。
そして、犯した罪の責任は、身分や涙や愛の言葉で消えるものではない。
かつてクラリッサを処刑しようとした者たちは、自らが軽んじた法によって裁かれた。
彼女の功績を奪った者は、彼女の助けなしでは何もできない現実を知った。
偽りの奇跡で称賛を集めた者は、誰にも崇められない場所で、人を救うことの本当の意味を学び始めた。
それは残酷な復讐ではない。
彼ら自身が積み上げた行いに、ふさわしい結末が与えられただけだ。
「さようなら、殿下」
クラリッサは、遠い過去へ別れを告げるようにつぶやいた。
その声は春の風に運ばれ、誰にも聞かれることなく消えていく。
「救って差し上げることは、もう二度とございません」
彼女は夫の手を取り、未来へ続く扉に向かって歩き出した。
後ろを振り返る必要はない。
悪役令嬢はもう、物語の中で誰かに裁かれる女ではなかった。
自らの手で運命を書き換え、国の未来を選び取る者となったのだから。
そして彼女を踏みにじった者たちは、彼女のいない世界でようやく理解する。
自分たちが見下し、奪い、捨てた女性こそが、失敗だらけの人生を支えていたのだと。
けれど、気づいたときにはすべてが遅い。
クラリッサはもう、彼らのために指一本動かさない。
謝罪を受け入れる義務も、愚か者を導く責任もない。
だから彼女は最後まで、美しく微笑んで告げるのだ。
「ご自身で選ばれた破滅ですもの」
どうぞ、きちんと滅んでくださいませ。
完




