姉が私の聖魔法を借りパクしていたので、そろそろ返してもらいます
きいと音を立てて、窓を開ける。そこから見える景色が、いつからか私の世界のすべてになった。
公爵邸の小さな部屋で暮らすようになってから、もう十数年。季節の移り変わりを同じ場所で見届けるだけの、変わり映えのしない生活。
部屋の外に出ることは許されないし、訪ねてくる人もいなくて、使用人も目を合わせてはくれない。
なぜかって?
六歳のとき、姉が「ノクシアがルミナに意地悪するの。ルミナだけ聖女でずるいって」と泣いたから。
ルミナの額には赤い腫れができていて、私がそれをやったことになっていて…
父は泣き続けるルミナをぎゅうっと抱きしめ、私を睨んだ。「聖女の父だから」という理由で男爵から公爵にまでなった父は、ルミナを何よりも大切にしているから。
「私は本当に、何もしていません!信じてください、お父様!」
「…ノクシア、お前は無能なうえに卑怯な嘘つきだ。だからここから出てはいけない」
ルミナ、なんであんなことを言ったの?
この国で唯一の聖魔法の使い手。荒れた大地で植物を育て、身分問わず怪我人を癒す、慈悲深い聖女。王太子殿下の愛を一身に受ける、高貴で美しい王太子妃。
誰もがその名を敬い、称賛する存在であるルミナが、どうしてあんな嘘を?
私が「何の能力ももたない無能として生まれたうえに、姉を敬愛するどころか妬んでいじめる性格破綻者」だから?
小さい頃は仲が良かった気がするけれど、いつからかルミナは私を怖がって避けるようになって…
私が、気づかないうちに何かしてしまったのだろうか。
「だったら私が悪い…のかな。きっとそうなんだろうな」
だってみんながそう言うんだし。
思考はいつも、そうやって止まってしまう。
気分が沈んで、窓を閉めようと手を伸ばす。
「…きゃっ!?」
思わず声をあげてしまって、自分の口を塞ぐ。「声を出すな」とは言われていないけれど、誰かに聞かれていたら、睨まれたり何か言われたりするかもしれないから。
びくびくしながら、窓から飛び込んて来た黒い塊に近づく。
それは、ちょうど両手で抱きかかえられるくらいの、大きな…
「カラス…?」
メイドが食事を運んで来たときにカラスなんかが部屋にいたら、びっくりさせてしまう。それこそ何か企んでいるとか思われて、お父様に告げ口されるかもしれない。
だから、早く部屋から出ていってもらわないと。
おっかなびっくり近づいても、カラスは逃げようとしない。
「逃げる力がないのだ」と気づくのに、時間はかからなかった。くちばしからヒューヒューという苦しそうな音がするだけで、ぴくりとも動かないのだから。
「怪我…は、してないみたいだけど」
ひとまずベッドに移してあげようと思って抱き上げると、嫌な気配がした。
「中に…何か、ある…?」
重苦しくて冷たくて、禍々しい何かがカラスの中に…
「ここ…かな?」
その「何か」がある場所に触って、禍々しさに集中する。
「この子を苦しめないで」
その瞬間、自分の手がぶわりと温かくなる。
光が指先から溢れて、温もりと一緒にカラスの体へと流れ込んでいくのが見えた。
そしてカラスの体内で黒く淀んでいた気配が、じわりと薄れていくこともはっきりと感じて。
カラスが大きく息を吸い込んだ音がして、閉じていた目がゆっくりと開いた。
赤い、澄んだ、きれいな目。
「…よかった」
思わず、笑みがこぼれる。笑ったのは、たぶん久しぶり。
そっと頭を撫でてやり、水差しの水を皿にいれてやると、カラスはくちばしで水をすくって上手に飲む。
「飛べそう?」
カラスはじいっと私を見つめて、首を何度かかしげる。そしてぴょんぴょんと窓枠まで移動して、翼を広げた。
ああ、行ってしまう。
「カラスさん!あの…!また…っ!また来てね…!」
カラスは丸を描くようにくるりと空を一周してから、飛び去った。
◆
「また来てね」とは言ったものの、カラスに人間の言葉が通じるはずもない。
だから本当にまた来てくれるなんて、思ってもみなかった。
「カラスさん、来てくれてありがとう…!」
カラスはくちばしに咥えている紙を、私に差し出す。
《後ろを向いて、いいと言うまで振り向くな》
「…?」
私は首をかしげるけれど、カラスが赤い目で睨んでくるので、とにかく後ろを向く。しばらくすると「いいぞ」と声がした。
…声?
…カラスの?
ぱっと振り向くと、そこには黒髪に赤い目をした、黒ずくめの若い男性が立っていた。あのカラスはいない。
「だ…誰?」
「さっきのカラスだよ」
つまりは…
「魔法使い様…だったのですのね」
「ああ」
彼は私に手を差し出した。同じように手を差し出すと、ぎゅっと握られる。
「魔塔主レイヴンだ。先日は危ないところを助けてもらい、心から礼を言う」
「いえ、そんな…魔塔主様にお礼をいっていただくようなことでは」
「敬語はやめてくれ」と言われるけど、敬語をやめたところで、これ以上話すことが何もない。
聖女と同様に希少な存在で、畏怖の念をもって崇められる魔法使い。しかもこの国の魔法使いの長である、魔塔主だなんて。
そんな人を相手に、何を話していいかなんてわからない。髭の長いおじいさんじゃなくて随分若いけれど、それでも私にとって目上の存在であることは間違いないのだから。
けれど彼は、私に聞きたいことがたくさんあるらしい。
「君の名は?」
「ノクシア・セレナ・ヴァレンティアです」
「聖女の双子の妹か」
「はい」
レイヴンに睨まれて「…うん」と言い直すと、彼はちょっと赤い目を細めて微笑んだ。とてもきれいな、ルビーみたいな赤い目だ。大人の男の人に笑顔を向けられるなんて初めてで、「男の人の笑顔って、こんなにきれいなんだ」と初めて知る。
「ところで…君が俺を助けたときに使った力は、聖魔法だろ?」
「聖魔法」と言われて、私はきょとんとする。聖魔法が使えるのはルミナであって、私ではない。
「そんなはずない。聖女は姉のルミナよ」
「いや、呪いを浄化できるなんて、どう考えても聖魔法だ」
「違うわ、私は何もできない無能だって…みんながそう言うし」
レイヴンはしばらく黙ってから、小さく息を吐いた。
「…なるほど」
そして私に手のひらを向ける。
何か怖いものが来ると感じて、反射的に後ずさる。
「やだ…!やめて…っ!」
目をつぶったときに、ぱちんと音が鳴った。
「目を開けろ」
彼の手から出ている黒い波が、私の前で光の壁のようなものにあたって、堰き止められている。
「これが君の結界だ。やはり君は聖女だよ」
「…信じられない」
レイヴンは「これを見てもまだ信じないのか」とため息をつく。
「聖女だ」
「絶対違う」
そう押し問答をしているうちにメイドが食事を運んでくる時間になってしまい、レイヴンはカラスに姿を変えた。ばさりと服が床に落ち、カラスになったレイヴンはごぞごそと服の中から這い出す。
事前に言われていた通りに彼が着ていた服をカバンにつめ、彼の首にかける。カバンは瞬時に小さくなって、レイヴンはばさりと窓から飛び立った。
その姿を見送って、ふと気づく。
「…後ろを向けって言ったのは、裸だったからってこと?」
思わず顔を手で覆ったとき、無表情のメイドがパンとスープの昼食を運んできた。
◆
次の日も、レイヴンはやってきた。
裸の状態から急いで服を着ているとわかるから、前よりもどきどきしながら「いいぞ」と言われるのを待つ。
合図されて振り返ると、彼は手にガラス玉のようなものを持っていた。
「それは…?」
「記憶の水晶だ。手を当ててみろ」
恐る恐る手を当てると、遠い記憶の底に沈んでいたものが、水晶の中にゆっくりと浮かび上がる。
「これを見たら、君も納得するはずだ」
私とルミナが、言葉にもなっていない言葉で会話して、笑い合っている。
と、私が鉢植えの花に小さな手を伸ばすと、まだまだ硬かったつぼみがぽんと花を咲かせた。ルミナが目を丸くし、手を叩いてきゃっきゃと喜ぶ。
ルミナが喜んでくれて嬉しかったのだろう。私はまた鉢植えに手を伸ばして、花を満開にした。
ルミナがきゃあきゃあと大喜びして、私も笑顔になってしまう。私たちは本当に仲が良かったんだと思い出して。
…微笑んでいる私にレイヴンが優しくて悲しそうな視線を向けているなんて、気づきもしない。
そして水晶の中では、ルミナが私の手を不思議そうに触って…その瞬間、私の中から「何か」が引き抜かれた。
「見たか」
「…うん」
「聖魔法を引き抜かれたんだ」
つまりは、盗られた?
だけど…
「わざとじゃないはずよ。だってこんな小さな…子どものときのことだもの。ルミナ自身も気づいていないのよ」
「…そうだろうか」
「見ろ」という言葉で目をやると、もう少し大きくなった私たちが水晶の中にいた。
ルミナが私に手の小さなすり傷を見せて、「痛い」とわざとらしく泣いている。
彼女がかわいそうになって、傷に手を当てて、傷を消す。その様子をルミナは凝視していた。
そしてルミナが私の手に触れ、力が引き抜かれて…ルミナがにやりと笑った。
「最初は本当に偶然だったのだろう。けれどこれは…」
そう、意図的だ。
能力を見て、触れて、力を引き抜く。
ルミナは自分の力の使い方に気付いている。そして、聖魔法を使えるのが私だということにも。
すべて思い出したら、疑いようがない。ルミナが私から聖魔法を奪って、聖女のふりをして、みんなを騙して私を閉じ込めていたのだ。
呪いの浄化と結界を張る能力が奪われなかったのは、ルミナの前で使ったことがないから。
「聖女によって使える能力には個人差があるから、疑われることもなかったようだな」
目の周りが熱くなってくる。
「どうして…」
「泣くな」
気づけば、レイヴンの指がそっと私の涙を拭っていた。
「だって…ルミナが私から聖魔法を盗んだなんて…」
「借りる、だ。正確には」
私を落ち着かせてから、レイヴンは淡々と説明する。
「魔法というものは、周囲に与える影響が大きいほど、自分に返ってくる反動も大きい」
他人の魔法を盗んで使うのはリスクが高く、盗んだルミナ自身も「強い疲労」「寿命を削る」など大きな影響を受けてしまう。
だから能力を「借りて」、いつでも元の状態に戻せるようにしておくことでリスクを減らしている、というのがレイヴンの見立てだった。
「正直言って賢いよ。日常生活でも、買うより借りるほうが懐は痛まないからな。まあ、彼女に返す気はないようだが」
けれど、借りているのであれば…
「…返してもらえるってこと?」
「ああ」
「どうやって…?」
「その方法を、昨日から今日まで、寝ずに魔法式を解析して探してたんだよ」
「思ったより単純だった」と、レイヴンは私の頬に手を伸ばしたのだった。
◆
その一週間後、私は雷鳴のような祝砲の音の中を飛んでいた。眼下には王都の灯りと、鳴り響く音楽。
「すごい…」
今日は王都最大の祭典である「聖女祝福授与祭」だ。その名の通り、聖女が国と国民に祝福を授ける日であり、主だった王侯貴族や神官のほか、市民も大勢が王都に集まってくる。
景色に見惚れていると、ふざけてレイヴンが私を揺するので、「きゃっ」と彼にしがみつく。魔塔主ともなると、人の姿のままでも空を飛べるらしい。
「一張羅が皺になるぞ?高かったんだからな、ノクシアのドレス」
「だ、だって…レイヴンのせいでしょ…っ!」
「はは、表情豊かになったな」
レイヴンは笑いながら、ふわりと王宮の大広間からつながるテラスに降り立った。
空から登場した二人。漆黒の正装に身を包んだ魔塔主と、白銀のドレスを纏った聖女の妹。
会場がざわめき、動揺が波のように広がっていく。
「聖女様に仇なす、双子の妹御だ」
「招待されていないはずでは?」
「しかもあのドレス…聖女様にしか許されない白銀の…」
「何様のつもり?本当に性格に問題があるみたいね」
誰もが囁きながらこちらを見ている。
大広間の一番高いところで祝福を授けていた、ルミナも。
「…ノクシア?」
目が見開かれ、顔に恐怖が浮かぶ。
今ならわかる。彼女が怖がっているのは…ずっと怖がっていたのは…私ではなく「自分が犯した罪」と向き合うことなのだと。
ゆっくりとルミナに近づく。
と、父が私たちの前に立ちはだかった。
「ノクシア、招待もされていないというのに…!しかもそんな…ルミナのみに許される姿で…!!どういうつもりだっ!?」
レイヴンがふっと笑う。
「どういうつもりもなにも…聖女祝福授与祭に真の聖女が不在では、話にならないでしょう」
その一言で、会場の空気が変わった。ざわざわと声が揺れ始める。
「真の聖女?」
「ノクシア嬢が聖女だとでも?無能だという話だが…」
「しかしレイヴン卿は不確かなことを言うような方では…」
会場中の視線が、ルミナと私の間を行ったり来たりする。
「聞き捨てならんな、レイヴン」と国王陛下が声をかけた。
「王家の嫁が、聖女ではないと言いたいのか?」
「いかにも」
「しかしルミナは確かに聖魔法の使い手だ。幾度も枯れた大地を実らせ、怪我人を癒してきたことは知っておろう」
王太子殿下がルミナを守るようにぎゅっと抱き寄せて、「大丈夫だ。君の妹御がまた低俗な嫌がらせをしているだけだ」と囁いたのが聞こえた。
彼女は「そうね」と必死に笑おうとして…けれど笑えていない。
「ルミナ」
呼びかけると、彼女の肩がピクリと跳ねた。王太子殿下が私を睨んでくるけど、今あなたは関係ない。これは私と姉の問題だから。
「自分で言わなくて、いいの?」
ルミナはちらりと私を見て、しばらく逡巡して、目を逸らした。
チャンスをあげたつもり。けれどそれがあなたの答えなら…
私は陛下の前に跪いた。
「発言をお許しください。我が姉ルミナは、”他人の能力を借り受ける魔法”をもって私の聖魔法を借り受け、それを返さないまま己のものと偽り続けております」
「なっ…んて馬鹿げたことを言うんだ!」という、父の怒声が大広間に響く。
「お前はそんな荒唐無稽な嘘をついてまで、ルミナを貶めたいのか!昔からお前は、無能のくせに本当に嫉妬深くて嘘つきで…っ」
「違います、お父様」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「ずっと嘘をつき続けていたのは、ルミナです。私は嘘はついていませんし、ルミナを傷つけたことも一度だってありません」
みんなの視線が、私に集まる。
怖くて足が震える。
もし…レイヴンに教えてもらった方法で失敗したら…?あんな単純な方法で、本当にできるの…?
思わず隣にいるレイヴンを見上げる。
赤い目が「大丈夫だ」と無言で頷いてくれて、私はルミナを見た。
「ルミナ」
その呼びかけに、ルミナの肩がまた大きく跳ねた。
私にそっくりの彼女の顔が、恐怖に歪む。真実が暴かれ、「元の自分」に戻ることへの恐怖に。
「私があなたに貸している聖魔法…外傷を癒す能力と植物の成長を促進する能力を返して」
ルミナの胸元から、光が弾ける。私がレイヴンの呪いを解いたときと同じ、温かい光。
「嫌…っ!だめ…っ!嫌なのぉ…っ!!」
ルミナが悲鳴を上げて胸を抑えるけれど、金色の光は糸のように伸び、まっすぐに私の胸へと吸い込まれていく。
懐かしい。春の日差しみたいな、やさしいぬくもり。
空虚だった身体の中が満たされて、ひとつ、またひとつと灯りが戻ってくる感覚。
「おかえり」
すべてがあるべき場所に完璧に収まり、「どくん」と心臓が大きく鳴った次の瞬間。
私の足元から、白銀の光が一気に広がった。
床を、柱を、天井を、会場の隅々まで。そしてすべての窓から空の彼方へ。
「まるで漆黒の闇を照らす太陽…」
「すごい…!これが、本物の…!?」
「ルミナ様とは比べ物にならない…」
人々が思わず膝をつき、神官たちは祈るように頭を垂れる。
「脚が…腰が…痛くない!」
「傷が…消えた!」
「目が見える…!」
会場にいた誰もが祝福を授かり、奇跡と真実を目の当たりにする。
そしてルミナは…圧倒的な「本物」の力を知って、その場に崩れ落ちた。王太子殿下はルミナから一歩離れる。
「ルミナ」
呼びかけても、彼女は反応しない。けれど聞いておきたい。
「…最初は偶然だったとわかってる。でも二回目は故意だった。どうして…?」
彼女は唇を噛み、無言で私を睨む。
そして「記憶水晶の映像を、ここで晒してもいいんだぞ」とレイヴンに言われて初めて、「仕方なかったの」と低く答えを絞り出す。
その言葉に、ほんの少し残っていた「ルミナを擁護する声」も消える。
「みんなが私を褒めてくれるから…返したら私じゃなくて、あなたが褒められることになるから…称賛も愛も、何も失いたくなかった。全部自分のものにしたかったの」
あまりに幼い、けれど罪深い欲望。
「それで私を部屋に閉じ込めたのね。私を隔離して、誰も…私自身でさえも、私が本物の聖女だと気づかないように」
「…そうよ」
ルミナは崩れ落ちたまま、けれど周囲に助けを求めるように声を張り上げた。
「だけど私は聖女としてこの国に尽くしてきた!あなたから借りた能力だけど、部屋でただただぼーっと過ごしていたあなたと違って、戦場で兵士の傷を癒し、荒れた土地で小麦を育ててきたの!私は…私の功績は…揺るぎないもののはずよ!」
「私が部屋で過ごすことになったのは、ルミナのせいでしょう」
「…っ!」
「ノクシアであれば、お前以上に多くの人間と土地を救っていたろうな」というレイヴンの言葉で、ルミナの顔が真っ赤になる。
「ノクシアの力を見ただろう。借り物を何とか扱っているお前とは比べ物にならない。お前がノクシアを隠したせいで失われた命と、救われなかった土地がいくつあることか」
「違、違う…私…私は…っ、聖女として血反吐を吐く思いで一生懸命…っ」
ルミナは美しくセットされていたはずの髪を掻きむしって訴えるけれど、その声は誰にも届かない。
「なにが聖女として一生懸命、だ!偽物のくせに!」
「泥棒、泥棒!」
今の今までルミナから祝福を受けようと群がっていた人々が、彼女に言葉の礫を投げつけ始める。
彼女を庇い、私を「低俗な嫌がらせをする女」と呼んでいた、彼女の夫までも。
「ルミナ…離婚だ。聖女だから結婚したのに、偽物だったとは…」
「…あ、愛してるって言ったじゃない…っ!」
「それは聖女だからだよ」
「ああああ…っ、そんな…っ」
父は私にすり寄るように手を揉む。
「すまなかった、ノクシア…ルミナの嘘があまりに巧妙で…ルミナがあまりに嘘つきで気づかなかったんだ…父を許してくれ。許して…くれるな?」
正直言って、許すとも許さないともわからない。そんなことを…父のことを考えたくもない。ただ父が私を信じようともしなかったことは一生消えないし、忘れないだろう。
「考えたくもありません、お父様。もう私に話しかけないでください」
「そ、そんな…頼むノクシア…」
その横から王太子が私に「ノクシア、君は素晴らしい」と声をかけ、国王陛下が「新しい聖女に敬愛を」を叫んで会場に拍手が満ちる。
この茶番は、一体何なのだろう。
私はただ、「聖女が交代しようが、聖女がどんな思いをしていようが、この人たちには何も関係ないのだ」と悟る。
レイヴンがそっと手を差し伸べた。
…私に「本当の自分」を信じさせてくれた人。
「これ以上ここにいる必要はなさそうだな」
「…うん。もういたくない」
レイヴンが私を抱き上げて、テラスからふわりと空に舞い上がる。
ぐんぐん上昇して、今まで見上げるばかりだった夜空の星が、今はすぐそこにある。
「ノクシア、待ってくれ…!どこ行くっ!聖女がいなくなったら我が家は…私はどうなる…っ!?」
「どうか僕と結婚してともに王国を統べて…」
「ああ、偉大なる聖女よ」
父や王太子や国王の声が遠くなる。後ろ髪を引かれるような思いは、まったくない。
これまで聖女として生きてこなかったのだから、あの人たちに対する義務感も、まったくない。
「義務感に縛られない」という選択肢をくれた意味では、ルミナに感謝すべきなのかもしれない。そう思って、「聖女を騙った罪」で神殿騎士に引き立てられていくルミナにちらりと目をやる。
「行きたいところに連れて行ってやろう」というレイヴンの言葉に、私は首を振った。
六歳で部屋に閉じ込められてからほとんど外に出たことがないのだから、行きたいところはたくさんあるようでいて、実際には思いつかない。
それに…
「連れて行ってもらうんじゃなくて、自分で行きたい…かな」
彼の赤い目が細められる。
「いい答えだな」
その言葉に背中を押されるように、私はまっすぐ前を向いた。
窓から見ていた景色の、もっと先へ。
レイヴンの腕の力が、強くなる。
「…呪いを受けて死にかけたことだし、そろそろ魔塔の仕事を離れようかと思ってるんだ」
「…そうなんだ」
「それで…君の旅に同行するのは、許されるか?」
レイヴンが私を抱えてくれている手に、そっと自分の手を乗せる。
「もちろん。一緒に来てくれたら…すごく嬉しい」
距離が近づいて、ほんの少し唇が触れる。私は恥ずかしくなって、彼の肩越しに夜空に目をやる。
閉ざされた窓の向こうにあった世界は、こんなにも広く温かく…こんなにも煌めいていて美しかった。




