葬式のあと
空には雲が立ち込め、街中の空気は重たく渦巻いていた。行きかう人や車もその重みに耐えかね、夢遊病患者のようにふらふらとさまよっている。モノトーンの建物が現れるそばから遠くへ流れていき、重たい遠景に同化してゆく。俺はその様子を窓からぼんやりと眺めていた。俺の乗る車の前には、塗りの霊柩車が一台、淡々と火葬場に向かっていた。
俺は昔を思い出していた。腹水がたまった親父が倒れたのは、俺が大学に入って間もない頃だった。B型肝炎ウイルスによる肝硬変だった。いつ死んでおかしくないとまで言われた親父だったが、薬がよく効いたのか、入院して一ヶ月ほどで帰ってきた。退院直後には、アンモニアが頭に回っておかしくなることもあった。最初はものの名前が言えなくなったり、体がきついと言ったりするだけだったので、誰も気にしていなかった。しかし症状が悪化すると、親父はべたつくような汗を体中に浮かべ、ものも言えずに意味不明な行動をとった。トイレの場所を間違えたり、玄関で寝転んだり……。と思ったら、丸二日間くらい寝込んでしまう。深い眠りから覚めた親父は、何ごともなかったかのようにけろっとしていたが、狂ったときの記憶は失われていた。親父が何度目かに倒れたとき、俺と母は救急車を呼んだ。結局、親父は再入院することになった。
親父の病気のことを何も知らなかった俺は、親父が狂うたび頭に死がよぎっておろおろしていたが、そんな俺を叱咤したのは母だった。母は気丈だった。毎日懸命に、俺と親父を支えた。親父は何度かの入退院を繰り返し、どうにかよくもなく悪くもなく、自宅で暮らせるほどに病状が安定してきた。しかし、親父の体は労働に耐えられないほどまでに衰弱していた。親父は仕事をやめざるを得ず、母が家計を支えることになった。そんな母を少しでも助けようと、俺もアルバイトに励んだ。
そして、長い長い四年が過ぎ、俺はようやく仕事についた。その矢先だった。
親父は朝早くに、口から大量の血を吐いて倒れた。救急車を呼んだが手遅れだった。親父は肝臓を悪くした結果、みぞおちのあたりに動脈瘤ができていた。その破裂が直接の死因だったそうだ。
母からの悲報を会社で聞いたとき、まさかと思った。その思いは上司に休みを申し入れるときも、新幹線に乗っている間も、親戚だけで通夜を済ました後も残っていたが、さっき親父の棺を霊柩車に運びこむ段になって、ようやく親父の死を心の底から実感した。棺は俺が思った以上に軽かった。
霊柩車の助手席には、目を赤く腫らした母が座っている。俺はそんな想像をめぐらしながら、前に視線を移した。
家では葬式で僧侶を呼ばないから、俺は親戚の人たちと一緒に車に乗っていた。後部座席に俺の母方のいとこの兄と姉が一人ずつ、運転は母の妹であるおばがしていた。今回の葬式には、親父方の親戚は誰一人いない。何かしらの理由で付き合いをまったくしていないらしい。といっても、母方の親戚とも大して付き合いはなかったのだけれど。
車で一時間ほど揺られたころ、俺たちは前にいるはずの霊柩車を見失っていた。俺はなおも外の景色を眺めたままだったが、車内はざわつき始めた。おばは火葬場の場所を知っていたらしいが、なぜか見当たらないと苦い表情を浮かべた。おばは携帯をとりだし、後部座席の姉に手渡した。
「もしもし――」
どうやら母に連絡を取っているらしかった。
「……わかった。それじゃ、また」
電話を切った姉は後部座席の真ん中に体を移動させ、前方を見ながらおばに指示をした。
「ガソリンスタンドの四つ角の先にコンビニがあって、その向かい側に入り口があるんですって」
おばは言われたとおりに車を走らせたが、どうも見つからないようだ。車は同じ場所をぐるぐると回った。それでも見つからない。そもそもコンビニなんていくらでもあるから、目印には何の役にも立たない。せめてコンビニ名くらい言えばいいのに。けれど、そういう妙な部分が抜けているところを母らしいな、とも思う。
「おい、いい加減に見つからないのかよ」
後ろから兄の声がした。トラック乗りの兄は、茶色に染めた髪を逆立て、目はぎらぎらと光っていた。声には凄みがあった。
「お兄ちゃん、そんなに大きな声ださないでよ!」
姉が後ろを向いてたしなめる姿がバックミラー越しに見えた。透き通る首筋に青い血管が浮いている。何の予備動作もなく前を向き直った姉と目が合って、俺は思わず視線をそらした。なんとなく気恥ずかしかった。おばはなおも前方に集中している。
俺の前には何度目かの光景があった。俺は左右の景色を観察した。人の往来はほとんどなく、車が道を埋めている。先ほどと同じように重い空気が垂れ込めていて、排気ガスがそれを静かに揺らしていた。この風景に飽き飽きしてきた俺は、火葬場を探し始めた。
ガソリンスタンドの四つ角を曲がって、再び道をまっすぐ進む。少し進んだところで、街中とは違う空気をまとった場所が俺の目に留まった。反対車線の一角が緑で覆われていて、それが俺の目を引いた。コンクリート製の灰色の門が大きく口を開いていて、そこから緑の中に坂道が一本通っていた。坂道は大きく右にうねって、先が見えない。俺は門の上に張り付いた黒い大理石に目を留めた。そこには真っ白な文字が刻まれていた。俺はそこに人差し指を向けた。
「あれ……あれじゃないんですか?」
みなの視線が俺の指し示す先に向けられた。
「おお! あれだあれだ!」
最初に気づいたのは兄だった。次に姉も気づき、俺と同じように入り口を指さした。
「どこどこ? 私にゃわからないよ」
「あっちです。あの向こう」
「お母さん、あそこよ! ……ああ、通り過ぎちゃった」
俺たちはもう一周したところで、ようやく入り口に入ることができた。
大きい火葬場だ。建物はガラスと白い壁面で構成されている。おばは先についたもう一台の親戚の車を見つけると、その隣に車を止めた。おばは携帯で連絡をとった。
「次が来てたから、もう棺を納めて、火葬してるって。早く行きましょ」
納棺に間に合わなかったのか……。
自動ドアをくぐると、中は冷房が効いてひんやりとしていた。床は白く覆われ、同じように白い天井を、表面を磨かれた黒い柱が支えていた。間接照明とモノクロの室内はどこまでも無機質だ。入り口からまっすぐに通路が続き、奥の階段には外光が重くのしかかっていた。その途中、左右にいくつもの通路が垂直に枝分かれしていた。階段から、黒一色の団体が神妙な顔つきでこちらに降りてきた。彼らは僕らとすれ違う前に右の通路のひとつに吸い込まれていった。
正面にあるガラス製の階段を上り、母と親戚たちに合流した。母は葬式の時のまま、暗い顔をしてソファーに腰掛けていた。おばが母に駆け寄って、隣に腰を下ろした。二人が並ぶと、やはり姉妹なのだと俺は実感した。
二階には想像以上の人がいた。若い子供連れの夫婦、ハンカチで顔を覆ったおばあさん、礼儀正しく悔やみの言葉を述べるサラリーマン風の男など、あたりはがやがやとうるさかった。そこに館内放送が降ってきた。個人の名前と、部屋番号が告げられると、どこかの親戚一同がまとまって階段に向かっていった。なんともシステマチックな火葬場だ。
火葬が終わるまで一時間ほどかかるらしい。母とおばの二人を残し、親戚たちと俺は時間をつぶすことにした。三階に食堂があるらしく、親戚の多くはそこへ向かった。もう一時を過ぎていた。俺もいつもは腹が減っているころなのに、今は何も食べる気がしない。俺は一階の喫煙所でタバコをふかして、窓の外を眺めたりした。空の雲が分厚く、雨が降りそうな気配だ。
三十分ほどして二階に戻ってくると、先ほどの場所におばが一人で座っていた。おばがこちらに気づいたので、俺はそばの自動販売機でお茶を二つ買った。そのひとつをおばに手渡してから、隣に座った。
「母は?」
「姉さんなら、三階の食堂に行ったよ」
「そうですか」
俺はお茶を一口飲んだ。彼らと一緒なら、母も少しは気がまぎれるだろう。
「ねえ、康幸さん」
おばが改まって顔を向けた。
「これからは、あなたが姉さんを支えないといけないわねえ」
「はい、もちろんそのつもりです」
俺は覚悟していた。いずれ俺は死ぬ。そのときまでに、母を食わせていけるようになれ。これは親父がいつも言っていたことだ。
「康幸さんも落ち込んでいるでしょうけど、姉さんのこと、よろしくね。お母さん、やっぱりまだショックを受けているみたい……」
「はい」
俺はおばの言葉にうなずいた。おばは安心したのか、ちょっと笑ってから、ペットボトルの成分表示を覗きこんだりした。遅刻したせいで俺は納棺に立ち会えなかったのだけれど、おばは全く気にしていないようだ。やはり姉妹だ。どこかが抜けている。
それから俺はおばとしばらく話をした。再びみなが集合したのは、二時をすぎたころだった。俺の親父の名前と部屋番号が館内に流れた。俺たちは階段を下りていった。右側の前から四番目の通路が、俺たちの呼ばれた部屋番号だ。通路は薄暗かった。部屋に着くと、職員らしい中年の男性と若い女性がいた。中年の男性が白い扉をゆっくりと開けた。
俺たちは、真っ白な部屋に通された。部屋には窯の中のように熱い空気が残っていた。おそらく、この部屋全体で火葬を行っているのだろうと俺は思った。部屋の真ん中には、腰くらいの高さの台があった。そこに親父の少し煤けた骨だけが横たわっていた。骨の回りには熱い空気がまだ固まっている。熱を持った空気からは、何のにおいもしなかった。いつも枕に染みていた親父臭も、気が違っている時のアンモニア臭も。もう親父の体は分裂してしまって、親父ではない。これはただの骨の塊だ。親父の肉片は煤やダイオキシンをまき散らしながら、骨だけを残して、空気中へ持ち去られてしまったのだ。
親父の骨が乗る台の周りを、俺たちは取り囲んだ。ちらりと横を伺うと、母は言葉を失って、凝然と骨を眺めていた。
女性の職員は骨壺と長い竹箸を持っていた。それらを男性へ手渡すと、男性は骨上げのやり方を丁寧に説明し始めた。
母と俺と、親戚の数人が竹箸を受け取って、言われたとおりに骨を拾っては骨壺の中に入れていった。骨が大きすぎて入らないとき、職員の男性は箸の先で骨を小さく割った。骨はウエハースを割るようにさくさくという音を立てた。最後に頭蓋骨を入れると、骨上げも終わりとなる。
布にくるまれた骨壺を紙袋に入れて、俺と母は親戚たちに別れを告げた。親戚たちはこのまま地元まで帰らなければならないと、母が言った。けどそれは嘘で、本当は、母が精進落としなんてしたくないということらしかった。精進落としのお金もない、付き合いのあまりない人たちの手も借りたくないと言っていたと、俺はおばから聞いていた。車の中から、おばが俺にがんばれというような目線を向けた。俺はやはりうなずいた。
俺と母は近くのバス停までゆっくりと歩いた。母は俺の声にもあまり反応せず、脱力したような歩き方をした。俺は母をいたわって、話しかけるのをやめた。
バスに揺られながら、俺は今後のことを考えていた。母は俺が就職してもなお働いているが、親父も亡くなってしまった今、親父を養うという母の目的も終わってしまった。今度は、俺が母を養っていく番じゃないのか? 給料は母より少ないけど、夏と冬にはボーナスも出るし、親父の退職金も残っているし、もう、母に苦労はかけさせたくない。とりわけ今の状態の母には。
そうだ、母と一緒に暮らそう。母はマンションを借りて暮らしているから、引越しにそれほどのお金も手間もかからないだろう。俺の職場近くで適当な物件を調べておこう。
窓から空を見上げると、垂れ込めていた雲は分厚く積みあがり、表面がうっすらと赤く色づいていた。俺は昔の小説で読んだ、火葬場の煙突を思い出した。死人を燃やし尽くした炎の起こす煙が、煙突の先から上空へと吐き出されていく。今見えている雲が、その煙突の煙で形成されているような気がしたのを、俺は頭を横に振って否定しようとした。すると雲の薄い赤色が、親父の吐いた血や、消えたはずの肉片のように見えてきた。その想念はいくら頭を振っても消えなかった。
俺たちはバスを降りた。いつもの見慣れた景色は、厚い雲と日光のせいか、全体的に赤く染まっていた。俺は片手に遺骨の入った紙袋、もう一方の手に母のハンドバッグ、背中に自分のリュックを担いでいた。俺は正直疲れていたが、母の歩調に合わせて歩いた。
と、急に雨が降ってきた。母が久しぶりに口を開いた。
「ごめん、私、傘の準備してなかった」
俺は手荷物を置くと、急いで自分のリュックから折り畳み傘を取り出した。傘を母に手渡し、俺は手荷物を持ち直した。少しずつ雨音が強くなってきた。
「母ちゃん、俺は走って帰るから」
「だめよ、ほら」
母は傘を差すと、俺にかからないようにしてくれた。折りたたみ傘は小さすぎて、二人分には足りなかった。母の肩が雨に濡れた。だんだんと周りの音が聞こえなくなってきた。
「おい、濡れてっぞ」
「いいから、私のことは気にしないで。お骨をぬらしたらいけないでしょう」
正直、母には濡れてほしくなかった。さっきの雲からの雨が、母を汚してしまうような気がした。けれど俺は母に言われるまま、体を丸めて傘の中を歩いた。
自宅にたどり着くと、時計はもう五時を差していた。俺はリビングのテーブルに荷物を置いた。リビングに敷かれたカーペットには、変色した吐血の後がまだ残っていた。
俺は遺骨を仏壇に供えた。二人で手を合わせる。俺は仏前で、親父の肉体の行方に思いを馳せた。もはや親父の肉体は、水蒸気や二酸化炭素のように完全な気体となって、空へ消えてしまったのだ。俺はごった返す火葬場を思い出した。火葬が行われるたび、死んだ肉体は空気と混ざりあって、骨だけが燃えずに取り残される。俺は吸い込む空気にほんのわずかな死臭らしきものを感じて、気分が悪くなった。
「母ちゃん、風呂にでも入ったら?」
「そうね……」
母は体の半分までずぶ濡れだった。
母が風呂で体を流している間、俺は荷物を片付けた。俺は胃がむかむかしながらも、着替えを済ませてから、夕食の準備に取り掛かった。今日のような悪夢もいずれ消えてしまうだろう。俺は包丁やなべを駆使しながら、新しい生活について、より具体的にイメージした。そして今日、仕事を辞めて俺と暮らそうと、母に提案する決意をした。
母が風呂から上がったとき、食事の支度はもう終わっていた。風呂上りの顔はやつれていたが、心なしかさっぱりしていた。俺はお茶碗の水滴をふきんで拭い去ると、母に渡した。
「俺、明日まで忌引きで休みだから、明日の夕方に向こうに戻るよ。それまで家事はするから」
「うん、ありがとう、でも無理しすぎないようにね」
二人でテーブルに向き合って座った。
「いただきます」
さて、俺もご飯をよそっては見たものの、食欲はまったくなかった。視線を落としたまま、俺はしばらく思案した。
「あのさ、これからのことなんだけど……」
と言いながら、俺は顔を上げた。母はどこかあらぬ方を見ていた。俺の声は届いていないようだ。
「そういえば、ご飯のことをなんでシャリって言うか知ってる?」
母は遠くを見ながら、唐突にこんなことを言った。いきなり発せられた質問に俺は気味悪さを感じた。
「え? 知らないけど」
「シャリって、仏様のお骨のことなんだって」
「そ……そうなんだ……」
母は食卓を正面に見据えると、箸を持ち勢いよく食べ始めた。今まで食べられなかった分の栄養をすべて補おうとしているかのように。一方俺は、母の言葉の前に立ち尽くしていた。手元のご飯が遺骨とリンクし、色とりどりのおかずが死人の肉の塊に見えた。そのとき、世界は死人の塊でできている、という生々しい感触が俺の体を満たした。
「食べないの?」
「……食欲がなくって」
「そんなこと言っててどうすんの。食べとかないと、しっかり働けないよ。それと、明日は仕事に行くから」
「え? 聞いてねえよそれ」
「言ってなかったっけ?」
俺は箸を置いたまま、食卓を前にして黙っていた。その間にも、母は次々に箸を進めていき、卓上の血と肉と骨とを、すべて胃の中に押し込んでしまった。
一緒に暮らそうなんて、俺にはまだ言えそうにない。
こんにちは、時雨沢 翔です。
文学しようと思ったら、なんだかよくわからないお話を書いてしまいました。文学なんて書き慣れてないですから。
ちなみに文学というジャンルも今回初めての挑戦でした。
何をどうしたらいいのかさっぱりです。
それと、なぜかあらすじが全然うまく書けないです……。




