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甘く誘う冬の悪魔  作者: まっちゃ
第四週 灰舞う極寒の終幕へ
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2/28 甘く誘う冬の悪魔

雪の匂いが鼻を突いた。冷たい、鋭く乾いた雪の匂い。河川敷に立ち尽くす私の視界は、白く霞んで、何も見えない。けれど、脳は止まらなかった。悠の声、笑顔、手のひらに触れた温もり――それらすべてが、私を押し潰す。胸の奥で、何かが、絶え間なく泣いていた。


「なんで……なんで置いてっちゃうの?」

思わず声にならない叫びを吐く。返事はない。雪の粒が肩や髪を濡らすだけ。手を伸ばしても、悠はいない。あの日の図書館の机、クッキーを渡したときの笑顔、すべてが私の中でぐちゃぐちゃに絡まって、吐き出すこともできずに膨れ上がる。胸が裂ける。心臓が凍りつく。


思い出すたびに胸が痛む。転んだ公園、入学式の慌ただしさ、休み時間のドッチボール。悠が隣にいたから、何でもできた気がした。――もういないのに。息を吸うたび、涙が頬を伝い、白く冷たい雪と混ざった。泣くべきじゃない、でも止められない。憎しみが生まれた。悠にじゃない、世界に対して、運命に対して――生きているすべてに対して。


心の中で何度も、怒りと絶望がぶつかり合う。冷たい風が頬を打つたび、涙が凍りつくかと思った。けれど、それでも胸は熱を持っていた。怒りが、悲しみが、まだ私を生かしている。足を踏み出すたび、砂利の音が雪に吸われ、孤独の音になる。


そして視界の端、黒い影が舞った。鴉――漆黒の体、純白の翼。右眼は黄金、左眼は紫紺。悠の残滓か、それとも、未来を映す観測者か。私の絶望を、憎しみを、冷徹に、静かに映す。振り返る勇気はなかった。ただ、心の奥で、未来が動く音を感じる。


「どうして……」

声は雪に消え、凍てついた河川敷に私だけが取り残された。息を吐くたび、胸の奥が痛む。悠はもういない。でも、この痛みだけは、確かに私の中に残った。逃げ場のない絶望が、私の血となり、涙となり、呼吸を重くする。息をするたび、苦しい。息ができない。


雪の河川敷で、私はただ立ち尽くす。心の奥で微かに響く怒り。小さな希望の欠片も、雪に埋もれたまま。悠は……戻らない。けれど、この胸の痛みは、私を動かす。必ず、あの夜の記憶を抱えたまま、私は歩き出さねばならない。


――――――――――――――


窓の外の雪は、静かに、しかし絶え間なく降り続けている。教室の暖房の熱が、私の冷たい体に染み込むことはない。悠はもういない。胸の奥で、心臓の拍動が止まったように感じられる。


「……もう、仕方ないよね」

小さな吐息が、自分の胸に返ってくる。諦め。怒りでも、哀しみでもなく、ただ淡々とした、氷のような感覚。悠が消えた世界を、私は静かに観測している。


けれど、その冷たさの奥に、微かな温もりがあるのを、私は知っている。悠が残したもの、灯が抱えた苦悶、そして――あの鴉が映す未来の残滓。すべては私の手の届かないところにあるけれど、それでも、かすかな“可能性”がまだ息づいている。


教室の片隅で、窓の外を見つめながら、私は思う。悠がもしここにいたら、何を選んだだろうか。怒りを抱え、涙に沈む灯を、ただ見守っただろうか。それとも、自分の意思で、誰かを守ろうとしただろうか。


絶望の中に希望を見出す――そんなことは、昔の私にはできなかった。けれど今、雪の冷たさと教室の温もりの狭間で、私は知る。失ったものの中にも、まだ光は潜んでいる、と。


「悠、あなたは……」

名前を呼ぶこともなく、心の中でだけ、その存在に手を伸ばす。届かないけれど、それでも、触れようとする意志は確かにある。諦めた世界の中で、私だけの小さな光。


雪は窓を叩き、教室に白い音をもたらす。その音は、私の冷えた心に、わずかに震えを与える。希望、と呼ぶには微かすぎるけれど、確かに存在する。それだけで、私は立ち上がれる。歩き出せる。


諦めと希望の境界で、私は静かに息をつく。悠の痕跡はもう触れられないけれど、その存在を、胸の奥で抱き続けることだけはできる。冷たく閉ざされた世界の中で、私の心は、まだ微かに震えていた。


―――――――――――――――――――――――――


雪の匂いが街を満たしている。悠は手を鞄の紐に掛けたまま、歩く速度を落とすことも加速することもせず、ただ歩いた。校舎も教室も、誰も変わっていない。けれど、世界は確実に変わっていた。胸の奥にくすぶる痛みは、灯の笑顔でも、こおりの冷ややかな目線でも、消せやしない。手の中の何か――爆薬と呼ぶにはあまりに形のないもの――が、重く、確かにそこにあることを、悠は知っていた。


歩くたびに、息は薄く、心は厚く、世界との距離が微かに広がっていく。誰かが笑う声、風が木々を揺らす音、遠くで車が走る音。それらすべてが悠の神経に触れる。息苦しさは、感情を殺すためのものではない。逆に、感情を観測するための冷却装置だった。怒り、憎しみ、絶望――それらは一つにまとまり、静かに、確実に胸を占拠していた。あの日、手から手へと渡されたものが、今になって初めて意味を持つ。それは選択の装置であり、逃げられぬ現実の証明だった。


放課後、悠は河川敷に立つ。雪の結晶がゆっくりと舞い落ちる中、過去の光景がフラッシュのように押し寄せる。灯の笑顔、こおりの冷ややかな瞳、そして自分自身の何も選べなかった日々。すべてを思い出すたび、胸の奥で鈍い音が鳴る。だが、諦めはすでに身に染みついていた。「終わったこと」と自分に言い聞かせる声が、冷たい風にかき消される。けれど、その諦めの底に、微かに光が差していた。それは希望ではない、けれど絶望でもない。未来を感じる余白だった。


鴉が頭上を横切る。漆黒の体に純白の翼、右眼は黄金、左眼は紫紺――悠はその目を避けることも、追うこともせず、ただ見上げた。観測者は何も言わない。何も介入しない。ただ、存在する。それだけで、悠は自分の立場と、世界の残酷さ、そして自分の選択が如何に意味を持たないかを理解する。怒りは淡く、絶望は深く、そして微かな希望は静かに胸をくすぐる。悠はそれを抱え、再び歩き出す。世界の中で、自分だけが知る冷たく重い真実を胸に。


雪がやむ気配はなかった。河川敷に立つ悠の指先には、まだ重さのないはずの爆薬があった。いや、もはや「物」ではない。手に残るのは、記憶でも、感情でもない。選択の残滓。それは自分が生きる証であり、世界が残酷であることの象徴でもあった。寒風が耳を刺す。悠は目を閉じ、全てを受け入れる準備をした。


「悠…お前は、何者なんだ?」――声は自分でもない、記憶の底から響く の声だった。思わず背筋が震る。胸の奥、鈍い痛みが波のように押し寄せる。幼馴染、そして悪魔の力を帯びたこおり…二人の存在が、悠をこの日まで守り、同時に縛っていた。だが、その縛りはもう意味を持たない。悠は誰かに説明する必要も、求める義務もなかった。ただ、存在する。雪に覆われた世界で、静かに、確かに。


目を開けると、鴉が悠の頭上を旋回していた。漆黒の体に純白の翼。右眼は黄金、左眼は紫紺。観測者――  の残滓が宿るその瞳は、悠の存在をただ観ている。問いもせず、介入もせず。だが、その視線だけで、悠は自分が誰よりも特別であり、誰よりも孤独であることを理解した。全てを見通す観測者の瞳が、世界の残酷さを鮮明に映し出していた。


思い出す。左小指のこと。あの日、川の河川敷で切り落とされた指先――犯人の癖、事件の痕跡、あるいは自分が隠していた何か重要なもの。その全ては、悠の体の一部ではなく、運命のパズルの欠片に過ぎなかった。けれど、その欠片さえも、悠の存在を不可逆に形作る。爆薬の重さは物理ではなく、存在の確定。撃つことも撃たぬことも、選択としてはすでに終わっていた。


悠は雪を踏みしめ、ゆっくりと歩き出す。世界の色は蒼く、澄んでいた。希望でも絶望でもなく、ただ静かに、残酷な現実だけが広がっている。その静けさの中で、悠の胸には微かに怒りが息づいていた。怒りは誰かに向けられるものではない。世界に、運命に、自分自身に。選ばなかった代償は、悠の全てを押し潰すほどの重さを持ち、同時に生きる理由でもあった。


「これが…私の、最後の自由か。」声は出さずとも、心の中で悠はそう呟く。全てを見通す観測者の瞳が、自分を映し続ける中で、悠は確かに生きていた。失った友人、狂った世界、残酷な運命、そして自らの正体――それら全てを抱え、悠は静かに歩く。冷たい雪が頬を打つたび、痛みは胸に、思考は深淵に沈む。だが、歩くしかない。止まることは許されない。


鴉が悠の視界の端に浮かぶ。  の意思を宿し、操影者の残滓を纏うその影は、静かに悠を見下ろす。悠は振り返らない。振り返る必要はない。全ては見られている。全ては決まっている。そして、全ては静かに終わる。雪の宮殿の中で、悠の歩みは止まらず、やがて世界の中心で、孤独と冷酷の中に存在することになる。


最後に悠は手を握る。形はなくとも、重さはある。爆薬でも、残滓でも、観測者の眼差しでもない。それは、悠自身。誰かに与えられたものでも、奪われたものでもない。完全に、確実に、自分のものだ。静かに、神秘的に、悠の存在は世界に刻まれる。雪は降り続け、風は冷たく、夜は深く、そして未来は――悠だけが知る真実として、凍りついたまま、広がっていた。

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