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甘く誘う冬の悪魔  作者: まっちゃ
第三週 死した未来に建つ牢
20/32

2/17 廻る命の甘味は―星亡き夜の虚無―

朝の空は、夜の名残をまだ引きずっていた。

明るくなりきらない青が、空全体に薄く伸ばされている。星はもう見えないはずなのに、消えたという確信だけが、なぜか曖昧だった。


吐く息は、今日も白くならない。

それを不思議だと思う前に、雪宮悠は制服に腕を通していた。昨日と同じ動作。昨日と同じ時間。昨日と同じ朝だと、頭のどこかが結論づけている。


玄関を出る。

冷たいはずの空気は、やはり均されていた。刺すような感覚も、身をすくめる必要もない。冬という季節だけが、名前として残っている。


足取りは一定。

速くもなく、遅くもなく、止まる理由もない。

進んでいる、というより、進む以外の選択肢が最初から用意されていないような感覚だった。


街の音が、薄く届く。

車の走行音。遠くの人声。どこかのドアが閉まる音。

それらは確かに存在しているのに、重なり合うことはなく、すべてが一枚の平面に押し潰されている。


信号は、赤…だった、はずだ。


悠は足を止める。

意識する前に、身体は止まったのか、止まらなかったのか、微かに迷っていた。

横断歩道の前で立ち止まることに、理由は要らないはずだった。赤は止まれという色で、それ以上でも以下でもないはずだ。


信号の色を、確かめようとはしなかった。

だが、ほんの一瞬、何かが違う気もした。

間違えたことは、一度もない、はずだ。


周囲の人間も、同じように足を止めている、ように見えた。

誰かがスマートフォンを覗き込み、誰かが空を見上げ、誰かが視線を落とす。

だが、並んでいるはずの人間たちの輪郭が、わずかに揺れている気がした。


――大丈夫、なのか?


そう思ったのが、自分の意思なのか、あるいは錯覚なのか、判断はつかなかった。

迷いも、不安も、正確には消えていなかった。

ただ、止まっているという状態だけが、かろうじて続いている。


横断歩道の白線に、影が落ちた。


雲が流れた、のだろうか、と悠は考える。

影はいつもより、少し濃く、ほんの少しだけ揺れている。

日常は、多少の違和感を飲み込むことで、形を保っている――はずだった。


影は、一瞬だけ、羽ばたく形をしていた。


黒く、輪郭の定まらない何か。

見えた、というより、漂っている気がした。

それを確かめる理由は、どこにもなかった。


信号が変わる――ように見えた。

赤が消え、白い音が鳴る、ような気がした。


影は、もう、どこにも……いない、のだろうか。


悠は歩き出す。

足は自然に前へ出て、横断歩道を渡る。

後ろを振り返ることはなかった。


振り返らなかった理由を、考える必要もなかった。

止まるべきときに止まり、進むべきときに進んだ。

それだけで、十分だった。


横断歩道を渡り切ったとき、胸の奥に、かすかな甘さが残る。

何も起きなかったことへの、安堵ともつかない感覚。


――今日もまた、正しく渡れた。


その事実だけが、静かに、命を循環させていた。

――昨日も、こんな朝だった。


そう思った瞬間、胸の奥で小さな違和感が生まれた。

「昨日」という言葉に、重さがない。記憶として思い出しているはずなのに、確認しているだけのような感触だった。


空を見上げる。

雲は高く、流れは遅い。

夜は完全に終わったはずなのに、どこかでまだ沈みきっていない気がした。


星は見えない。

それでも、沈んだままでいる何かがある。

その正体を考える前に、悠は視線を戻し、歩き出す。


今日もまた、何も起きない朝が、正しく始まっていた。


帰り道は、朝と同じ道だった。

そう認識しているだけで、本当に同じなのかは、確かめていない。


同じはずだ、という感覚だけが先にあり、

それを否定する理由も、肯定する理由も、見当たらなかった。


空はすでに暗く、街灯が一定の間隔で灯っている。

光は、そこに在る。

だが、照らしているという実感だけが、欠けていた。


地面は見える。

建物も見える。

それなのに、影の輪郭だけが、必要以上に強い。


影は重なり合い、伸び、

やがて形を保つことをやめ、意味を失っていく。

何を象っているのか、分からない。

分からないままでも、困らなかった。


交差点に差しかかる。

朝、立ち止まった場所。


信号の色は思い出せない。

赤だったのか、青だったのか。

あるいは、本当に色があったのか。


止まった、という事実だけが、切り離されたように残っている。


横断歩道の白線に、また影が落ちる。

今度は、雲ではないと、はっきり分かった。


黒い。

闇よりも濃く、夜よりも深い。


それは、鴉の形をしていた。

――と思った。

だが、その形に名前を与えた瞬間、

何か重要なものを、見落とした気がした。


翼は静止している。

それでも、羽ばたきの“結果”だけが、そこにあった。


純白が一瞬、闇の中で浮かび上がり、

すぐに、光と影の区別がつかなくなる。


目が合った気がした。

だが、それは「見られた」という感覚ではない。

ただ、視線という概念が、そこに在った。


分からないままでいることが、

正しいのかどうかも、もう考えなかった。


周囲の人間は、誰も気づかない。

車は流れ、信号は役目を果たし、世界は、機能だけを残して動いている。


鴉は鳴かなかった。

鳴く必要がない、というより、

音という手段を、持っていないように見えた。


ただ、そこに在り、

次の瞬間には、在ったという事実だけを残して消える。


悠は歩き出す。

今度も、振り返らない。


――振り返れば、割れてしまう気がした。


足元は、相変わらず、薄い。

だが今日は、その薄さが、

地面ではなく、世界そのものに広がっていると、理解してしまった気がした。


家に着くまでの記憶は、途切れ途切れだった。

鍵を回した感触も、靴を脱いだ音も、確かにあったはずなのに、どれも後から貼り付けたみたいに薄い。


部屋の電気を点ける。

白い光が広がり、影が壁に張りつく。

その影が、少し遅れて動いたような気がした。


気のせいだ。

そう判断するには、慣れすぎている。


制服のまま椅子に座り、机に肘をつく。

朝、教室で触れた机と同じ感触。

硬くて、平らで、しかし信用しきれない。


――割れる。


理由もなく、そう思った。

割れたら、落ちる。

落ちたら、戻れない。


「戻る」という言葉が、どこを指すのか分からないまま、

悠はスマホに手を伸ばす。


画面が点き、通知が一つだけ、残っていた。


見慣れない名前か、

見慣れすぎた名前か。


どちらかを選ぶ必要がある気がした。

だが、選ばなかった。

選ばない、という行為だけが、静かに成立していた。


触れた瞬間、何かが確定してしまう――

そう思ったのかどうかも、曖昧だった。


画面の黒に、自分の顔がぼんやり映る。

その奥で、一瞬、紫紺が揺れた。


揺れた、というより、

そこに在ることを、思い出させられた気がした。


瞬きのせいだ。

そう結論づけるには、

理由が足りなかった。


夜は、静かに深まっていく。

音はある。

時間も流れている。


けれど、夜であることの意味だけが、

どこかに落ちていた。


窓の外、雲に隠れた星は一つも見えない。

見えないのではなく、

最初から、数えられるものではなかったようにも思える。


ベッドに横になり、天井を見つめる。


白いはずの天井は、

色を失っていくのではなく、

「白である理由」を手放していく。


暗闇ではない。

ただ、光が、ここに在る意味を放棄していく。


瞼を閉じると、あの影が浮かぶ。


闇より深い黒。

純白の羽。

鳴かない鴉。


――見ている。


そう思った瞬間、胸の奥で、薄氷が大きく軋んだ。


割れはしない。

だが、次に軋めば、どうなるかは分かった。


眠りに落ちる直前、選ばれなかったはずの光景が、今度は、拒まれもせずに差し込む。

立ち込める黒雲の下、純白をはばたかせ、紫紺で、こちらを見下ろす存在。

目の前で横たわる彼は、生きているとも、死んでいるとも言えなかった。


吐息に温度はない。

あるいは、温度という概念が、そこには適用されていない。


それを疑問に思うことすら、もう、必要なかった。


次の瞬間、すべては消える。


――今日もまた、割れることはなかった。


だがそれは、「無事だった」という意味ではない。

そうして、

星を失った夜の虚無だけが、確かに、そこに在り続けていた。

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