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甘く誘う冬の悪魔  作者: まっちゃ
第三週 死した未来に建つ牢
19/32

2/17 廻る命の甘味は―欠けた月見るは―

朝の空は、夜の名残をまだ引きずっていた。

明るくなりきらない青が、空全体に薄く伸ばされている。星はもう見えないはずなのに、消えたという確信だけが、なぜか曖昧だった。


吐く息は、今日も白くならない。

それを不思議だと思う前に、雪宮悠は制服に腕を通していた。昨日と同じ動作。昨日と同じ時間。昨日と同じ朝だと、頭のどこかが結論づけている。


玄関を出る。

冷たいはずの空気は、やはり均されていた。刺すような感覚も、身をすくめる必要もない。冬という季節だけが、名前として残っている。


足取りは一定。

速くもなく、遅くもなく、止まる理由もない。

進んでいる、というより、進む以外の選択肢が最初から用意されていないような感覚だった。


街の音が、薄く届く。

車の走行音。遠くの人声。どこかのドアが閉まる音。

それらは確かに存在しているのに、重なり合うことはなく、すべてが一枚の平面に押し潰されている。



信号は、赤だった。


悠は足を止める。

意識するより先に、身体がそうしていた。

横断歩道の前で立ち止まることに、理由は要らない。赤は止まれという色で、それ以上でも以下でもない。それを疑う必要は、どこにもなかった。


信号の色を、確かめようとはしなかった。

見なくても、分かっている。なぜ分かっているのかを、考える必要がなかった。


周囲の人間も、同じように足を止めている。

誰かがスマートフォンを覗き込み、誰かが空を見上げ、誰かが、ただ前を向いている。

動かない人間たちが並んでいる光景は、

正しい――はずだった。


――大丈夫だ。


そう思ったのが、自分の意思なのかどうか、

判断する前に、その感覚は胸に沈んだ。

不安はない。

迷いもない。ただ、止まっているという状態だけが、理由を持たないまま、続いている。


横断歩道の白線に、影が落ちた。


雲が流れたのだろう、と思う。そう考えれば、それで足りた。

影の濃さを確かめる理由は、やはり、なかった。


影は、一瞬だけ、羽ばたく形をしていた。


黒く、輪郭の定まらない何か。

見えた、というより、そこに在った、と言うほうが近い。

だが、それを確かめなかった。

確かめないことが、ここでは正解だった。


信号が変わる。

赤が消え、白い音が鳴る。


影は、もう、どこにもない。


悠は歩き出す。

足は自然に前へ出て、横断歩道を渡る。

後ろを振り返ることはなかった。


振り返らなかった理由を、考える必要もなかった。

止まるべきときに止まり、進むべきときに進んだ。

それだけで、十分だった。


横断歩道を渡り切ったとき、胸の奥に、かすかな甘さが残る。

何も起きなかったことへの、安堵ともつかない感覚。


――今日もまた、正しく渡れた。


その事実だけが、静かに、命を循環させていた。

――昨日も、こんな朝だった。


そう思った瞬間、胸の奥で小さな違和感が生まれた。

「昨日」という言葉に、重さがない。記憶として思い出しているはずなのに、確認しているだけのような感触だった。


空を見上げる。

雲は高く、流れは遅い。

夜は完全に終わったはずなのに、どこかでまだ沈みきっていない気がした。


星は見えない。

それでも、沈んだままでいる何かがある。

その正体を考える前に、悠は視線を戻し、歩き出す。


今日もまた、何も起きない朝が、正しく始まっていた。


帰り道は、朝と同じ道だった。

同じはずなのに、同じだと断言するには、どこかが違う。


空はすでに暗く、街灯が一定の間隔で灯っている。

その光は地面を照らしているはずなのに、影の輪郭だけが妙に強かった。

影は、重なり合い、伸び、時々、意味のない形を作る。


交差点に差しかかる。

朝、立ち止まった場所。

信号の色は覚えていない。ただ、止まったという事実だけが、記憶に残っている。


赤だったのか、青だったのか。

それすら、どうでもよかった。


横断歩道の白線に、また影が落ちる。

今度は、雲ではないと、はっきり分かった。


黒い。

闇よりも濃く、夜よりも深い。

それは鴉の形をしていた――と思う。

見えた、というより、そう在った、と言った方が近い。


翼は静止しているのに、羽ばたきの気配だけがあった。

純白が一瞬、闇の中で浮かび上がり、すぐに溶ける。

目が合った気がしたが、瞳の色までは分からない。

分からないままでいることが、正しい気がした。


周囲の人間は、誰も気づかない。

車は流れ、信号は役目を果たし、世界は何事もなかったように進んでいる。


鴉は鳴かなかった。

ただ、そこにいて、次の瞬間には、いなかった。


悠は歩き出す。

今度も、振り返らない。


――振り返れば、割れてしまう気がしたから。


足元は、相変わらず、薄い。

けれど今日は、その下に何があるのかを、少しだけ、理解してしまった気がした。


家に着くまでの記憶は、途切れ途切れだった。

鍵を回した感触も、靴を脱いだ音も、確かにあったはずなのに、どれも後から貼り付けたみたいに薄い。


部屋の電気を点ける。

白い光が広がり、影が壁に張りつく。

その影が、少し遅れて動いたような気がした。


気のせいだ。

そう判断するには、慣れすぎている。


制服のまま椅子に座り、机に肘をつく。

朝、教室で触れた机と同じ感触。

硬くて、平らで、しかし信用しきれない。


――割れる。


理由もなく、そう思った。

割れたら、落ちる。

落ちたら、戻れない。


「戻る」という言葉が、どこを指すのか分からないまま、スマホに手を伸ばす。

画面が点き、通知が一つだけ、残っていた。


見慣れない名前か、

見慣れすぎた名前か。


どちらでもいいはずなのに、指が止まる。

触れた瞬間、何かが確定してしまう気がした。


画面の黒に、自分の顔がぼんやり映る。

その奥で、一瞬、紫紺が揺れたように見えた。


瞬きのせいだ。

そう結論づけるには、少し遅かった。


夜は、静かに深まっていく。

窓の外、雲に隠れた星は一つも見えない。


瞼を閉じても、あの影は消えなかった。


闇より深い黒。

純白の羽。鳴かない鴉。


思い出した、という感覚ではない。

まだ、そこに在る。

目を閉じたから見えなくなっただけで、

いなくなったわけではないと、分かってしまった。


――見ている。


そう思った、のではなかった。

そうだと、気づいてしまった。


その瞬間、胸の奥で、薄氷が小さく軋む。

割れはしない。

けれど、欠けた音だった。

戻らない形で、ほんの一部が、欠け落ちた。


眠りに落ちる直前、本来なら見えるはずのない光景が、当然のように、差し込んでくる。

立ち込める黒雲の下、純白をはばたかせ、紫紺で、こちらを見下ろす存在。


次の瞬間、すべては消える。


――今日もまた、割れることはなかった。


そうして、闇夜に沈む星々だけが、確かに、そこに在り続けていた。

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