2/17 廻る命の甘味は―欠けた月見るは―
朝の空は、夜の名残をまだ引きずっていた。
明るくなりきらない青が、空全体に薄く伸ばされている。星はもう見えないはずなのに、消えたという確信だけが、なぜか曖昧だった。
吐く息は、今日も白くならない。
それを不思議だと思う前に、雪宮悠は制服に腕を通していた。昨日と同じ動作。昨日と同じ時間。昨日と同じ朝だと、頭のどこかが結論づけている。
玄関を出る。
冷たいはずの空気は、やはり均されていた。刺すような感覚も、身をすくめる必要もない。冬という季節だけが、名前として残っている。
足取りは一定。
速くもなく、遅くもなく、止まる理由もない。
進んでいる、というより、進む以外の選択肢が最初から用意されていないような感覚だった。
街の音が、薄く届く。
車の走行音。遠くの人声。どこかのドアが閉まる音。
それらは確かに存在しているのに、重なり合うことはなく、すべてが一枚の平面に押し潰されている。
信号は、赤だった。
悠は足を止める。
意識するより先に、身体がそうしていた。
横断歩道の前で立ち止まることに、理由は要らない。赤は止まれという色で、それ以上でも以下でもない。それを疑う必要は、どこにもなかった。
信号の色を、確かめようとはしなかった。
見なくても、分かっている。なぜ分かっているのかを、考える必要がなかった。
周囲の人間も、同じように足を止めている。
誰かがスマートフォンを覗き込み、誰かが空を見上げ、誰かが、ただ前を向いている。
動かない人間たちが並んでいる光景は、
正しい――はずだった。
――大丈夫だ。
そう思ったのが、自分の意思なのかどうか、
判断する前に、その感覚は胸に沈んだ。
不安はない。
迷いもない。ただ、止まっているという状態だけが、理由を持たないまま、続いている。
横断歩道の白線に、影が落ちた。
雲が流れたのだろう、と思う。そう考えれば、それで足りた。
影の濃さを確かめる理由は、やはり、なかった。
影は、一瞬だけ、羽ばたく形をしていた。
黒く、輪郭の定まらない何か。
見えた、というより、そこに在った、と言うほうが近い。
だが、それを確かめなかった。
確かめないことが、ここでは正解だった。
信号が変わる。
赤が消え、白い音が鳴る。
影は、もう、どこにもない。
悠は歩き出す。
足は自然に前へ出て、横断歩道を渡る。
後ろを振り返ることはなかった。
振り返らなかった理由を、考える必要もなかった。
止まるべきときに止まり、進むべきときに進んだ。
それだけで、十分だった。
横断歩道を渡り切ったとき、胸の奥に、かすかな甘さが残る。
何も起きなかったことへの、安堵ともつかない感覚。
――今日もまた、正しく渡れた。
その事実だけが、静かに、命を循環させていた。
――昨日も、こんな朝だった。
そう思った瞬間、胸の奥で小さな違和感が生まれた。
「昨日」という言葉に、重さがない。記憶として思い出しているはずなのに、確認しているだけのような感触だった。
空を見上げる。
雲は高く、流れは遅い。
夜は完全に終わったはずなのに、どこかでまだ沈みきっていない気がした。
星は見えない。
それでも、沈んだままでいる何かがある。
その正体を考える前に、悠は視線を戻し、歩き出す。
今日もまた、何も起きない朝が、正しく始まっていた。
帰り道は、朝と同じ道だった。
同じはずなのに、同じだと断言するには、どこかが違う。
空はすでに暗く、街灯が一定の間隔で灯っている。
その光は地面を照らしているはずなのに、影の輪郭だけが妙に強かった。
影は、重なり合い、伸び、時々、意味のない形を作る。
交差点に差しかかる。
朝、立ち止まった場所。
信号の色は覚えていない。ただ、止まったという事実だけが、記憶に残っている。
赤だったのか、青だったのか。
それすら、どうでもよかった。
横断歩道の白線に、また影が落ちる。
今度は、雲ではないと、はっきり分かった。
黒い。
闇よりも濃く、夜よりも深い。
それは鴉の形をしていた――と思う。
見えた、というより、そう在った、と言った方が近い。
翼は静止しているのに、羽ばたきの気配だけがあった。
純白が一瞬、闇の中で浮かび上がり、すぐに溶ける。
目が合った気がしたが、瞳の色までは分からない。
分からないままでいることが、正しい気がした。
周囲の人間は、誰も気づかない。
車は流れ、信号は役目を果たし、世界は何事もなかったように進んでいる。
鴉は鳴かなかった。
ただ、そこにいて、次の瞬間には、いなかった。
悠は歩き出す。
今度も、振り返らない。
――振り返れば、割れてしまう気がしたから。
足元は、相変わらず、薄い。
けれど今日は、その下に何があるのかを、少しだけ、理解してしまった気がした。
家に着くまでの記憶は、途切れ途切れだった。
鍵を回した感触も、靴を脱いだ音も、確かにあったはずなのに、どれも後から貼り付けたみたいに薄い。
部屋の電気を点ける。
白い光が広がり、影が壁に張りつく。
その影が、少し遅れて動いたような気がした。
気のせいだ。
そう判断するには、慣れすぎている。
制服のまま椅子に座り、机に肘をつく。
朝、教室で触れた机と同じ感触。
硬くて、平らで、しかし信用しきれない。
――割れる。
理由もなく、そう思った。
割れたら、落ちる。
落ちたら、戻れない。
「戻る」という言葉が、どこを指すのか分からないまま、スマホに手を伸ばす。
画面が点き、通知が一つだけ、残っていた。
見慣れない名前か、
見慣れすぎた名前か。
どちらでもいいはずなのに、指が止まる。
触れた瞬間、何かが確定してしまう気がした。
画面の黒に、自分の顔がぼんやり映る。
その奥で、一瞬、紫紺が揺れたように見えた。
瞬きのせいだ。
そう結論づけるには、少し遅かった。
夜は、静かに深まっていく。
窓の外、雲に隠れた星は一つも見えない。
瞼を閉じても、あの影は消えなかった。
闇より深い黒。
純白の羽。鳴かない鴉。
思い出した、という感覚ではない。
まだ、そこに在る。
目を閉じたから見えなくなっただけで、
いなくなったわけではないと、分かってしまった。
――見ている。
そう思った、のではなかった。
そうだと、気づいてしまった。
その瞬間、胸の奥で、薄氷が小さく軋む。
割れはしない。
けれど、欠けた音だった。
戻らない形で、ほんの一部が、欠け落ちた。
眠りに落ちる直前、本来なら見えるはずのない光景が、当然のように、差し込んでくる。
立ち込める黒雲の下、純白をはばたかせ、紫紺で、こちらを見下ろす存在。
次の瞬間、すべては消える。
――今日もまた、割れることはなかった。
そうして、闇夜に沈む星々だけが、確かに、そこに在り続けていた。




