2/16 眠るあなたの、死因は凍死
朝の空気は、凍るほど冷たいはずなのに、どこか均されていた。
吐く息は白くならず、それが当たり前のこととして受け入れられている。雪宮悠は、制服の袖に指を通し、特別な感情もなく家を出た。
足取りは一定だった。速くも、遅くもない。迷いも、躊躇もない。ただ前に進むという動作だけが、正確に繰り返されている。冬の朝特有の緊張感は、いつの間にか剥がれ落ちていた。
街の音は聞こえている。車の走る音、人の話し声、遠くで鳴る踏切。けれどそれらは、どれも薄く、どれも浅かった。
――もう、冷えない。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが静かに凍った気がした。
失ったものがあるはずなのに、それを思い出す理由が見つからない。その事実だけが、朝の光の中で、ひどく穏やかに横たわっていた。
その横断歩道の先は、赤が光っていた。無意識に足を止め、それが正解であることを認識する。
信号の色を、悠は確かめなかった。見なくても、止まるべきだと分かっていた。
周囲の人間も同じように足を止めている。
誰も不審がらない。誰も迷わない。そのことに、安心とも違う感覚が胸に落ちた。
横断歩道の白線に、薄く影が落ちる。
雲が流れたのだろう、そう思った――思った、はずだった。
影は、ほんの一瞬だけ、羽ばたく形をしていた。
黒く、輪郭の曖昧な何か。見えた、というより、そう動いていた気がした。
信号が変わる。赤が消え、白い音が鳴る。
影は、もう、どこにもない。
悠は歩き出す。振り返らない。
――振り返らない理由もわからないままに。
教室の空気は、均一だった。
暖房は効いているはずなのに、暖かいとも寒いとも感じない。
悠は席に着き、机の上に手を置く。
――その感触が、ひどく薄い。
硬さはある。
確かに、机はそこにある。
だが、力をかけすぎれば、簡単に割れてしまいそうだった。
それは薄い氷のようでもあった。
そんな、言葉にならない比喩が、頭に浮かぶ。
氷の奥、底の見えない虚無が、静かに口を開けている。
落ちる感覚は、ない。
怖さも、ない。
ただ、「落ちてはいけない」という知識だけは、きれいに残っていた。
周囲の声が聞こえる。
ノートをめくる音、椅子の軋み、誰かの咳。
どれも現実的で、どれも正しい。
だからこそ、確信してしまう。
ここは安全だ。割れない限りは。
悠は姿勢を正す。慎重でも、緊張でもない、ちょうどいい角度で。
氷に余計な負担をかけないように。
授業は始まり、時間は流れる。
誰も落ちない。
誰も割らない。
――薄氷は、今日も無事だった。
その事実だけが、窓の外を黒く、染め上げた。
気づけば、交差点だった。朝も見た信号の色が、朝とは違って映る。
交差点を曲がり、カーブミラーが見えた。
奥から来る車、曇りゆく空。
一瞬、雲の中が、紫に滲んだ気がした。明日は雷雨だろうか。
家につき、無意識にスマホを弄る。
今までにはなかったようなメッセージを横目に、頭から離れず、けれど、ぼやけていくあの光が、なぜか、画面よりも近くに感じられた。
部屋の中は、外よりも静かだった。
暖房の音だけが、一定の間隔で鳴っている。
鞄を床に置き、ベッドに腰を下ろす。
スマホの画面が点き、通知が一つ、残っていた。見慣れない名前か、見慣れすぎた名前か。
確かめようとは、思わなかった。
指は伸びなかった。理由を考える前に、画面を伏せる。
光は消え、部屋は元の色に戻る。それで十分だった。
――今日もまた、割れることはなかった。




