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甘く誘う冬の悪魔  作者: まっちゃ
第三週 死した未来に建つ牢
16/32

2/16 眠るあなたの、死因は凍死

朝の空気は、凍るほど冷たいはずなのに、どこか均されていた。


吐く息は白くならず、それが当たり前のこととして受け入れられている。雪宮悠は、制服の袖に指を通し、特別な感情もなく家を出た。

足取りは一定だった。速くも、遅くもない。迷いも、躊躇もない。ただ前に進むという動作だけが、正確に繰り返されている。冬の朝特有の緊張感は、いつの間にか剥がれ落ちていた。

街の音は聞こえている。車の走る音、人の話し声、遠くで鳴る踏切。けれどそれらは、どれも薄く、どれも浅かった。


――もう、冷えない。


そう思った瞬間、胸の奥で何かが静かに凍った気がした。

失ったものがあるはずなのに、それを思い出す理由が見つからない。その事実だけが、朝の光の中で、ひどく穏やかに横たわっていた。


その横断歩道の先は、赤が光っていた。無意識に足を止め、それが正解であることを認識する。

信号の色を、悠は確かめなかった。見なくても、止まるべきだと分かっていた。

周囲の人間も同じように足を止めている。

誰も不審がらない。誰も迷わない。そのことに、安心とも違う感覚が胸に落ちた。


横断歩道の白線に、薄く影が落ちる。

雲が流れたのだろう、そう思った――思った、はずだった。


影は、ほんの一瞬だけ、羽ばたく形をしていた。

黒く、輪郭の曖昧な何か。見えた、というより、そう動いていた気がした。


信号が変わる。赤が消え、白い音が鳴る。

影は、もう、どこにもない。


悠は歩き出す。振り返らない。

――振り返らない理由もわからないままに。


教室の空気は、均一だった。

暖房は効いているはずなのに、暖かいとも寒いとも感じない。

悠は席に着き、机の上に手を置く。

――その感触が、ひどく薄い。

硬さはある。

確かに、机はそこにある。

だが、力をかけすぎれば、簡単に割れてしまいそうだった。

それは薄い氷のようでもあった。

そんな、言葉にならない比喩が、頭に浮かぶ。

氷の奥、底の見えない虚無が、静かに口を開けている。


落ちる感覚は、ない。

怖さも、ない。

ただ、「落ちてはいけない」という知識だけは、きれいに残っていた。

周囲の声が聞こえる。

ノートをめくる音、椅子の軋み、誰かの咳。

どれも現実的で、どれも正しい。


だからこそ、確信してしまう。

ここは安全だ。割れない限りは。


悠は姿勢を正す。慎重でも、緊張でもない、ちょうどいい角度で。

氷に余計な負担をかけないように。


授業は始まり、時間は流れる。

誰も落ちない。

誰も割らない。


――薄氷は、今日も無事だった。


その事実だけが、窓の外を黒く、染め上げた。


気づけば、交差点だった。朝も見た信号の色が、朝とは違って映る。

交差点を曲がり、カーブミラーが見えた。

奥から来る車、曇りゆく空。

一瞬、雲の中が、紫に滲んだ気がした。明日は雷雨だろうか。


家につき、無意識にスマホを弄る。

今までにはなかったようなメッセージを横目に、頭から離れず、けれど、ぼやけていくあの光が、なぜか、画面よりも近くに感じられた。


部屋の中は、外よりも静かだった。

暖房の音だけが、一定の間隔で鳴っている。


鞄を床に置き、ベッドに腰を下ろす。

スマホの画面が点き、通知が一つ、残っていた。見慣れない名前か、見慣れすぎた名前か。

確かめようとは、思わなかった。


指は伸びなかった。理由を考える前に、画面を伏せる。

光は消え、部屋は元の色に戻る。それで十分だった。


――今日もまた、割れることはなかった。

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