2/13 灰に残った温度に
こんにちは、まっちゃです。1日1話企画、13日目。今日は13日の金曜日。皆さんの身に、不幸が降らないことを願います。
十三日の金曜日。
けれど、目覚めた瞬間、雪宮悠はそれを思い出さなかった。
カーテンの隙間から差し込む光は、いつもと同じ色をしていた。
白すぎず、暗すぎず、ただの朝。
胸の奥を探っても、不安も、嫌な予感も、ざらついた感触も見当たらない。
――何も、ない。
それが、まずおかしかった。
祝日でもない。
特別な行事もない。
ただ、平日と平日の間に挟まれた、意味のない一日。
制服に袖を通しながら、悠は自分の心拍数を確認する。
速くもない。遅くもない。
生きていることを主張しない、行儀のいい鼓動。
台所でココアを淹れる。
気づけば、それが朝の儀式になっていた。
湯気は立つ。甘い香りもする。
なのに、鼻腔を通り抜けるだけで、体の奥には降りてこない。
舌に残るのは、温度の記憶だけだった。
「……十三日の金曜日、だっけ」
独り言は、空気に溶ける。
それ以上、思考は続かなかった。
怖がろうとしたのに、感情が反応しない。
不吉であるはずの日に、不吉さを感じられない。
それが、ひどく不安だった。
登校途中、雪はもうほとんど残っていない。
歩道の端に、汚れた白が名残のように貼りついているだけだ。
こおりの姿は、ない。
灯の姿も、ない。
それを見て、胸が痛まないことに、悠は気づいてしまう。
昨日までなら、会えなかったら理由を探していた。
姿を探し、声を思い出し、勝手に感情を動かしていた。
今日は、違う。
探そうという意志が、最初から湧かない。
「……楽、だな」
口にした瞬間、
その言葉が自分に向けられた刃だと気づく。
楽であることは、何も失っていない証拠じゃない。
何も持っていない証明だ。
教室は、いつもよりざわついていた。
理由は分からない。
誰かの笑い声が、遠くで弾ける。
悠は席に座り、鞄を机に掛ける。
視界の端で、窓の外を横切る黒い影。
鴉。
一羽だけ。
電柱に止まり、こちらを見下ろしている。
左目が、やけに暗かった。
紫紺――そんな言葉が浮かんで、すぐ消える。
次の瞬間、鴉は飛び立った。
羽音はしない。
何も残さず、消える。
まるで、
「確認しに来ただけ」みたいに。
昼休み。
悠は一人で席に残った。
誰かに話しかけられても、返事はできる。
笑うことも、たぶんできる。
でも、それ以上が続かない。
感情が、平坦すぎる。
嬉しいも、寂しいも、好意も、不安も、同じ高さで並んで、すべて無害になっている。
安全。
完璧な安全圏。
十三日の金曜日なのに、
何も起きない。
何も壊れない。
何も選ばない。
選ばない、という選択だけが、
静かに進行している。
放課後。
昇降口で靴を履き替えながら、悠はふと思う。
今日は、誰の声も思い出していない。
それが、致命的だった。
こおりの心配する声も、灯の柔らかな距離感も、
意識しなければ、思い出せない場所に追いやられている。
忘れたわけじゃない。
思い出す必要が、なくなっただけ。
それは、冷却でも、拒絶でもない。
ただの、無関心。
帰宅後、またココアを淹れる。
カップを持つ手は、震えない。
口に含んで、悠は確信する。
――これは、もう「甘い」でも「苦い」でもない。
ただの、液体だ。
温度も、味も、意味も、すべて剥がされたもの。
十三日の金曜日。
本来なら、不幸が起きてもおかしくない日。
でも、今日は違う。
不幸ですら、悠を選ばなかった。
布団に潜り込み、目を閉じる。
心臓は、相変わらず規則正しい。
静かで、安全で、何ひとつ、傷つかない夜。
――そして、気づく。
これが、
最悪の状態だということに。
呪われないという呪い。
何も奪われない。もう、何も奪われない存在になる。
灰に残った温度に、悠は虚無を見た。
翌日、その虚無に、何かが手渡されることも知らずに。




