第4章 ラベンダーの約束
夜は、静かに街を包み込んでいた。
屋根の上を淡い光が滑り、
窓ガラスの中で、月が揺れていた。
真尋は、花屋の前に立っていた。
閉まった扉の向こうから、かすかに香りがした。
それは、どこか懐かしい、柔らかな匂い。
――ラベンダー。
心の奥にまで沁みてくるその香りに導かれるように、
彼はそっとドアを押した。
鈴の音が夜を震わせた。
その響きはまるで、
眠っていた記憶を呼び覚ますように。
「真尋さん、来ると思ってた」
月明かりの下、沙月がいた。
彼女の白い肌に月が宿り、
肩のあたりで光が柔らかく跳ねている。
淡いラベンダーの花束を抱えたまま、
彼女は微笑んだ。
「この花、夜になると香りが変わるの。
昼の香りは明るくて素直。
でも、夜になると、少し寂しい匂いに変わる」
「それは……どうして?」
「きっと、光が恋しくなるから」
その言葉に、真尋の胸が静かに震えた。
二人の間を、夜風が通り抜ける。
ラベンダーの香りが流れ、
その中に、彼女の声が溶けていく。
「ねえ、真尋さん」
「うん?」
「あなたといると、時間が止まる気がするの。
この香りみたいに、消えてしまいそうで……」
彼女の指先が、真尋の袖をつまんだ。
ほんの少しの距離。
けれど、それだけで世界が息を潜めた。
真尋は言葉を失い、
ただ、その温もりを確かめた。
「沙月……僕、君に――」
「言わないで」
彼女は静かに首を振った。
その瞳の奥で、月が揺れていた。
「その言葉を聞いたら、きっと私はここにいられなくなる」
そう言って、彼女はラベンダーの花束を抱き寄せた。
花弁が微かに揺れ、香りが濃くなる。
まるで、月の光が香りに溶けていくようだった。
「ねえ、真尋さん。
私がいなくなったら、
この花を嗅いで。
それだけで、きっと思い出せるから」
「何を?」
「私が、ここにいたこと」
沙月の笑顔が、月の中に溶けていく。
それは儚くて、美しかった。
真尋は思わず、彼女の名を呼んだ。
その瞬間、
風が止まり、香りがふっと消えた。
目の前には、もう誰もいなかった。
ただ、ラベンダーの束が床に落ちていた。
その花から、淡い香りが微かに漂っている。
月の光が、その花束を照らしていた。
まるで、誰かの涙を静かに包み込むように。
真尋は花を拾い上げた。
花弁の端に、乾きかけた雫がついている。
それを指で触れると、甘い香りが滲んだ。
――沙月。
呼んでも返事はない。
けれど、不思議なことに、
その名を口にするたび、
胸の奥が少しだけ温かくなった。
外に出ると、夜空が広がっていた。
月はまるで涙のように、ゆらゆらと滲んで見えた。
風が頬を撫で、ラベンダーの香りが運ばれてくる。
その匂いに、彼は微笑んだ。
――君は、まだここにいる。
そう思えた。
そう信じたかった。
月が静かに光り、
その下で、ラベンダーが揺れた。
音もなく、世界が息を潜める中で、
ただその香りだけが、生きていた。




