第3章 月の記憶、香る夜
あの夜から、真尋の中に変化が訪れた。
机に向かっていても、街を歩いていても、
ふとした瞬間にラベンダーの香りを探してしまう。
風が動くたびに、記憶の奥からあの微笑みが呼び覚まされる。
月と香り――その二つが重なる瞬間、彼の世界は色を取り戻すのだった。
数日後の夜。
仕事帰りの道すがら、再びあの花屋の前で足が止まる。
扉は閉まっていたが、店先には灯りがともり、
ウィンドウの向こうに、彼女の姿があった。
淡いラベンダー色のワンピースを着て、
花を一輪ずつ束ねている。
「……また会えましたね」
声をかけると、彼女は微笑んだ。
「会いたかった?」
「……ええ。たぶん、想像してたよりずっと」
彼女は照れくさそうに目を伏せ、
指先で花びらを撫でた。
「この香り、ね。不思議なの。
夜になると、風に混じって、どこからか流れてくるの」
「まるで、月が運んでくるみたいだ」
「そう。――月の香り、なのかもね」
ふたりの距離が、少しずつ近づく。
店の灯りが彼女の頬を照らし、
真尋は思わず息を呑んだ。
その瞳の中に、月が映っていた。
けれど、それはどこか儚く、
まるで、光が彼女の内側から滲んでいるようでもあった。
閉店後、沙月は店の外へ出て、月を見上げた。
空は静かで、薄い雲が月を包んでいる。
「ねえ、真尋さん。月って、誰かを想って光ると思う?」
「……想い?」
「うん。寂しい夜ほど、強く輝く気がするの。
まるで、誰かを探してるみたいに」
彼女の横顔を見つめながら、
真尋は言葉を失った。
寂しさの中に、微かな微笑み。
それは、涙を堪えるような優しさを帯びていた。
「……探してるのは、誰なんですか?」
「さあ。――でも、もし見つかったら、
その光はきっと消えちゃうのかもしれない」
その言葉の意味を、真尋はまだ理解できなかった。
ただ、その一瞬、風が吹き抜け、
ラベンダーの香りが二人の間を通り過ぎていった。
その香りに混じって、
ほんのわずかに、涙の匂いがした。
帰り道。
真尋は夜空を見上げた。
雲の切れ間から覗く月は、
まるで何かを隠すように、淡く揺らめいている。
――あの夜と同じ月。
けれど、どこか違う。
胸の奥に、名も知らぬ痛みが芽生えていた。
その夜、夢を見た。
月の下で、ラベンダーの花が風に揺れている。
その中に、沙月がいた。
彼女は微笑みながら手を伸ばす。
けれど、触れようとした瞬間――
彼女の姿が、光の粒になって消えた。
目を覚ますと、部屋中にラベンダーの香りが漂っていた。
窓を開けると、夜風が流れ込み、月がぼんやりと滲んでいた。
その光の中で、真尋は初めて気づいた。
――彼女の温もりが、この世界のものではないのかもしれないと・・・




