第2章 風の中のラベンダー
その夜から、真尋の生活は少しだけ変わった。
駅を出ると、無意識に歩道橋へと足が向く。
夜風の匂いを確かめるように深呼吸をし、
月が出ているかどうかを確かめてしまう。
滑稽だとわかっていても、それをやめられなかった。
――月が出ていれば、彼女に会える。
そんな根拠のない確信が、彼の中に芽を出していた。
だが、あの夜のような香りはしなかった。
ラベンダーの匂いが混じる風も、
夜を溶かすような微笑みも、もうどこにもいない。
けれども、その“いない”ことさえ、どこか温かく感じるのだった。
あの瞬間に何かが確かに残っていて、それが胸の奥でゆっくりと灯っている。
数日後。
仕事を終えた真尋は、帰り道でふと足を止めた。
路地裏に並ぶ古い花屋の前で、
扉を開け放った店の中から、あの香りが漂ってきた。
ラベンダー――。
吸い寄せられるように中へ入ると、
薄い月の光がショーウィンドウを照らしていた。
花束が並ぶ棚の奥、籠を抱えた少女がいた。
「……真尋さん?」
その声を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
彼女が、そこにいた。
歩道橋の夜と同じ服、同じ笑顔。
「沙月……?」
「ふふ、やっぱり覚えてた」
まるで何事もなかったかのように、彼女は笑った。
ラベンダーの花を一輪手に取り、鼻先に近づける。
その仕草が、夜風のように柔らかかった。
「ここ、時々手伝ってるの。夜のほうが、落ち着くから」
「……夜のほうが、似合う気がします」
「そう?」
彼女は小さく笑って、花束を束ね始めた。
細い指が花びらをすくい、リボンを結ぶたび、香りがふわりと立ちのぼる。
そのたびに、真尋の胸の奥がざわめく。
「この花、好きなんですか?」
「うん。ラベンダーの香り、落ち着くでしょ? 少し寂しいけど、安心する」
「……そうですね。なんだか、夢を見てるみたいで」
「夢、か。夢の中なら、会いたい人に会えるのにね」
その一言に、なぜか胸が締めつけられた。
彼女は花束を抱えたまま、月の方を見上げる。
――まるで、その月に誰かを重ねるように。
「沙月さん」
「うん?」
「また、会えますか」
「……月が出ている夜なら、きっと」
前と同じ言葉。
でも、その声には、どこか影があった。
その瞬間、風が吹いた。
ショーウィンドウのカーテンが揺れ、香りが外へ零れる。
月の光が彼女の髪を照らし――
ほんの一瞬、彼女の姿が、風に溶けるように薄れた。
真尋が瞬きをしたとき、そこにはもう誰もいなかった。
ただ、カウンターの上に、ラベンダーの花が一輪だけ残されていた。
帰り道。
胸の奥で、あの香りが静かに広がる。
懐かしく、切なく、そしてどこか優しい。
それは彼女が残していった存在の残り香だった。
触れられない恋が、ゆっくりと形を持ちはじめていた。




