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第1章 月の香りに出逢う夜

夜の街は、少しだけ紫がかっていた。

 それは月が滲むせいか、それとも、風の中に混ざるラベンダーの香りのせいか――真尋には分からなかった。


 残業帰りの駅前。人波の切れた歩道橋の上で、彼はイヤホンを外した。

 音楽が止まると、代わりに夜の音が溢れ出す。

 遠くの信号音、虫の声、そしてどこからか漂う甘い香り。

 その香りはどこか懐かしく、けれど思い出せない記憶をくすぐるようだった。


 ふと、視界の端に白い影が揺れた。

 欄干の向こう――月の光の中に、ひとりの少女が立っていた。

 肩までの黒髪が、風に流れている。

 その髪先をかすめるように、ラベンダー色のワンピースが月光をはじいて揺れた。


 ――綺麗だ。


 気づけば、言葉が漏れていた。

 少女がゆっくりと振り返る。

 その瞳は夜のように深く、どこか遠くを見ているようで、けれど確かにこちらを映していた。


「……こんばんは」

 小さな声だった。

 それなのに、真尋の胸の奥で波紋のように広がる。


「こんな時間に……危ないですよ」

「あなたも、こんな時間に立ってるじゃない」

 くすりと笑う声が、風に溶ける。


 その瞬間、また香った。

 ラベンダー。

 夜風が運ぶその香りが、彼女の周りだけを包みこんでいるようだった。


 言葉を探そうとして、見つからない。

 ただ、胸の奥に温かいものが灯る。

 懐かしさでも、恋でもない。

 まだ名も知らぬ何かが、確かに芽生えたような気がした。


「……名前、教えてもらってもいいですか?」

「沙月。月の“さ”に、季節の“つき”。」

「きれいな名前ですね」

「ありがとう。あなたは?」

「真尋、っていいます」

「“真っすぐに尋ねる”……ね。ふふ、似合ってる」


 彼女は笑った。

 その笑顔が、月よりも柔らかく見えた。

 風がまた吹き、香りが流れる。

 その一瞬、彼女の輪郭がふっと薄れたように見えた。

 けれど瞬きをしたら、そこにちゃんと彼女がいた。


 まるで幻のように現れて、夢のように留まる。

 真尋は自分でも不思議なほど、その光景から目を離せなかった。


「また会えるかな」

 思わず口にした。

 沙月は少し首をかしげ、夜空を見上げる。


「月が出ている夜なら……きっと」

 そう言って、微笑んだ。


 その笑みが残り香のように夜に溶けて、

 次の瞬間には、彼女の姿はもう消えていた。


 風だけが残っていた。

 ラベンダーの香りと、月の光を混ぜながら。


 真尋は立ち尽くす。

 胸の奥で、何かが小さく囁いた。

 “あれは夢じゃない”と。


 夜が深くなるたびに、彼の心にはあの香りが蘇る。

 それはまだ名前のない恋の匂い。

 月影の下で始まった、儚くも確かな記憶のはじまりだった。

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