開校!混沌の初日~教育は、戦いだ~
ユナイティア国立料理大学、開校当日。
朝の六時、リナはすでに大学の正門前に立っていた。
「...すごいわね」
目の前には、白亜の五階建て校舎。最新設備を備えた二十の実習厨房、大講堂、研究棟、そして学生寮。わずか三ヶ月で建設された、この国の本気の表れだ。
そして、校舎の東側には――
「あれが、『並行世界交流棟』か...」
リナは、特殊な建物を見た。
大統領府の次元ゲート技術者たちが、三ヶ月かけて建設した施設。ユナイティアと日本を結ぶ、常設の次元転送ゲートがある。
「これで、いつでも日本に帰れますね」
ジョン・スミスが、コーヒーを二つ持って現れた。
「ありがとう」
リナはカップを受け取った。
「でも、まさか江戸時代にも繋がるなんてね...」
「大統領府の科学者たちも驚いていました」
ジョンが言った。
「次元ゲートを調整していたら、偶然、江戸時代の日本に接続してしまったと」
リナは、資料を見た。
『江戸時代・天保年間(1830-1844年)との接続を確認』
「向こうの人たちも、驚いてるでしょうね」
「ええ。でも、興味深いことに――」
ジョンが続けた。
「江戸時代の料理人たちが、こちらに来たいと言っているそうです」
「本当に?」
「はい。特に、女性の料理人が何人か」
リナの目が輝いた。
「江戸時代の女性料理人...会ってみたいわね」
午前九時、開校式。
大講堂には、選抜された新入生五百人、教職員、そして大統領をはじめとする政府関係者が集まっていた。
壇上に立ったリナは、深く息を吸った。
「皆さん、おはようございます。ユナイティア国立料理大学、校長のリナ・ナツメです」
拍手が響いた。
「私は、この国の人間ではありません。日本という、別の世界から来ました」
リナは、会場を見渡した。
「だから、この国の五百年の歴史を、身をもって知りません。料理が禁じられた時代を、体験していません」
リナは、続けた。
「でも、だからこそ言えることがあります」
リナの声が、力強くなった。
「料理は、人類共通の文化です。どの世界でも、どの時代でも、人は料理をして、一緒に食べて、絆を深めてきた」
リナは、新入生たちを見た。
「あなたたちは、今日から料理を学びます。化学式、栄養学、調理技術――たくさん勉強することがあります。大変だと思います」
リナは、微笑んだ。
「でも、忘れないでください。料理の目的は、試験に合格することでも、完璧な化学反応を起こすことでもない」
リナは、胸に手を当てた。
「料理の目的は、誰かを幸せにすること。それだけです」
会場が、静まり返った。
「科学は大事。でも、科学だけじゃない。心も大事。でも、心だけでもダメ」
リナは、力強く言った。
「両方を学んで、両方を使って、素晴らしい料理人になってください!」
リナは、一度言葉を切った。
「そして――今日、特別なお知らせがあります」
リナは、舞台の袖に目配せした。
「この大学には、現代の日本だけでなく、江戸時代の日本とも繋がる通路があります。そして今日――」
扉が開いた。
そこから、着物を着た三人の女性が現れた。
会場が、どよめいた。
先頭を歩くのは、四十代半ばの女性。凛とした佇まい。
「はじめまして。わたくし、お駒と申します」
女性――お駒は、丁寧にお辞儀をした。
「江戸は神田で、料理屋を営んでおりました」
お駒の後ろには、二人の若い女性。
「わたくしはお吉と申します」
「おりんと申します」
二人も、お辞儀をした。
リナが前に出た。
「お駒さんたちは、江戸時代の料理人です。この大学で、伝統的な日本料理を教えていただくことになりました」
会場が、再びどよめいた。
「江戸時代...?」
「時代を超えて...?」
「本当に可能なのか...?」
大統領が立ち上がった。
「皆さん、驚かれるのも無理はありません。しかし、これは事実です」
大統領は、次元ゲートの研究資料を示した。
「私たちの次元転送技術は、空間だけでなく、時間も超えることができると判明しました。そして、江戸時代の日本との交流が可能になったのです」
大統領は、お駒たちを見た。
「お駒さんたちは、自らの意志でこちらに来てくださいました。私たちは、彼女たちの勇気と好奇心に、深く感謝します」
会場が、大きな拍手に包まれた。
開校式の後、新入生たちは実習厨房に案内された。
「すごい...」
学生たちは、最新設備に目を輝かせた。
IH調理器、スチームオーブン、真空低温調理器、分子ガストロノミー用の機材――
「皆さん、注目してください」
教壇に立ったのは、マックス・レッドフィールド。
「俺の名はマックス。『伝統調理技術』の教授だ」
マックスは、腕組みをした。
「お前たちは、これから最新設備を使って料理を学ぶ。それは素晴らしいことだ。でも――」
マックスは、一本の包丁を取り出した。
「料理の基本は、これだ」
マックスは、まな板に玉ねぎを置いた。
そして――
一瞬。
マックスの手が動いたかと思うと、玉ねぎは完璧な薄切りになっていた。
学生たちから、どよめきが起こった。
「五百年の伝統は、こういう技術だ。機械に頼るな。自分の手を信じろ」
マックスは、学生たちを見渡した。
「お前たちは、科学を学びに来た。それでいい。でも、科学だけじゃ、人の心は掴めない」
マックスは、切った玉ねぎを手に取った。
「この玉ねぎ、均一に切れてるだろ? これは、何千回も練習した結果だ。科学じゃない。努力だ」
マックスは、厳しい目で学生たちを見た。
「楽な道はない。覚悟しろ」
隣の厨房では、お駒が和包丁を手に立っていた。
「皆の衆」
お駒の声は、優しいが威厳があった。
「わたくしは、江戸の料理屋で四半世紀、板場に立ってまいりました」
お駒は、まな板の前に立った。
「江戸の料理は、『旬』を大切にします。その時、その季節に一番美味しいものを、一番美味しい状態で出す」
お駒は、大根を手に取った。
「例えば、この大根」
お駒は、包丁を構えた。
「皮を剥く時、薄く剥きます。なぜだかわかりますか?」
学生の一人が手を挙げた。
「栄養が皮の近くにあるからですか?」
「その通り」
お駒が微笑んだ。
「大根の皮の近くには、ジアスターゼという消化を助ける成分がございます」
お駒は、大根を切り始めた。
「そして、切り方」
お駒の包丁が、リズミカルに動く。
「繊維を断つように切れば、柔らかく煮える。繊維に沿って切れば、歯ごたえが残る」
お駒は、切った大根を示した。
「同じ大根でも、切り方一つで、まるで違う料理になるのです」
学生たちは、真剣に聞いていた。
お吉が前に出た。
「わたくしは、出汁の引き方をお教えいたします」
お吉は、昆布と鰹節を示した。
「江戸の料理の基本は、出汁でございます。この出汁が、すべての味を決めます」
お吉は、鍋に水を入れた。
「昆布は、60℃でゆっくりと旨味を出します。沸騰させてはなりません」
お吉は、温度計を見た。
「あら...この便利な道具は...?」
「デジタル温度計です」
学生が説明した。
「正確な温度がわかります」
「まあ! 便利ですこと!」
お吉が目を輝かせた。
「江戸では、手の感覚で温度を測っておりましたが...」
お吉は、温度計を使いながら言った。
「60℃...本当に正確にわかるのですね。これなら、誰でも同じ出汁が引けますわ!」
おりんが、笑顔で言った。
「この時代の道具は、本当に素晴らしゅうございます。でも――」
おりんは、真剣な顔になった。
「道具は道具。大切なのは、心でございます」
おりんは、出汁を飲んだ。
「この出汁を飲む方の顔を思い浮かべながら作る。それが、江戸の料理人の心得でございます」
【化学コラム①:玉ねぎを切ると涙が出る理由】
玉ねぎを切ると涙が出るのは、化学反応のせいだ。
玉ねぎの細胞には、硫化アリル(C₃H₆S)の前駆体が含まれている。細胞が破壊されると、酵素アリイナーゼが働き、硫化アリルが生成される。
この硫化アリルが気化して目に入ると、涙腺を刺激する。目を守るために、涙が出るのだ。
対策は、いくつかある:
包丁をよく研ぐ: 切れ味が良いと、細胞の破壊が最小限になる
冷やす: 玉ねぎを冷蔵庫で冷やすと、硫化アリルの気化が抑えられる
水にさらす: 硫化アリルは水溶性なので、水で洗い流せる
換気: 気化した硫化アリルを外に逃がす
ちなみに、硫化アリルは加熱すると、プロピルメルカプタン(C₃H₈S)という甘い香気成分に変化する。これが、玉ねぎを炒めると甘くなる理由だ。
―――――――――――――――
別の厨房では、ハリソン博士が講義をしていた。
「皆さん、これを見てください」
ハリソンは、スクリーンに分子構造を表示した。
「これは、グルコース(C₆H₁₂O₆)。糖の最も基本的な形です」
ハリソンは、次のスライドを表示した。
「これを加熱すると、カラメル化が起こります。具体的には――」
ハリソンは、化学式を書き始めた。
C₆H₁₂O₆ → (加熱) → C₆H₈O₄ + 2H₂O
「脱水反応によって、カラメランという褐色色素が生成されます。さらに加熱を続けると――」
ハリソンは、複雑な構造式を表示した。
「数百種類の化合物が生成され、独特の香りと苦味が生まれます」
学生の一人が手を挙げた。
「先生、じゃあカラメルを作る最適温度は?」
「良い質問です」
ハリソンが微笑んだ。
「カラメル化は、約170℃から始まります。しかし、温度が高すぎると焦げて苦くなる。最適温度は、180℃から190℃です」
ハリソンは、実演用の鍋を取り出した。
「では、実際にやってみましょう」
午後、リナは校長室でお駒たちとお茶を飲んでいた。
「お駒さん、江戸時代から来て、驚くことばかりでしょう?」
「はい」
お駒が頷いた。
「この建物、この道具、そして――この『化学』という学問」
お駒は、お茶を飲んだ。
「わたくしたちは、経験と感覚で料理をしてまいりました。でも、こちらではすべてに理由がある」
お駒は、感慨深げに言った。
「『なぜ出汁が美味しいのか』『なぜ煮物が柔らかくなるのか』――すべてが、化学式で説明できる」
お吉が目を輝かせた。
「リナ様、わたくしたちにも、その化学というものを教えていただけませんか?」
「もちろん」
リナが微笑んだ。
「というか、逆にお駒さんたちから学ぶことの方が多いわ」
「まあ」
「江戸時代の料理は、科学的な道具がなくても、完璧に美味しい料理を作ってきた。それは、長年の経験と観察の積み重ね」
リナは、真剣な顔で言った。
「その『暗黙知』を、科学で『形式知』に変える。それができれば、誰でも江戸料理を再現できる」
おりんが、小首を傾げた。
「でも、リナ様。すべてが数字で説明できてしまったら...料理の神秘が失われてしまうのではございませんか?」
リナは、考えた。
「いい質問ね」
リナは、窓の外を見た。
「私もずっと考えてた。科学で説明することが、料理の魅力を奪うんじゃないかって」
リナは、おりんを見た。
「でも、違った。科学で『なぜ美味しいのか』がわかっても、『美味しい』という感動は消えない。むしろ、『こんな仕組みで美味しくなるのか!』って、もっと感動するの」
お駒が、静かに笑った。
「わかりました。わたくしたちも、学ばせていただきます」
その時、ノックの音がした。
「はい」
入ってきたのは、エミリーだった。表情が暗い。
「どうしたの?」
「リナ...実習厨房で、問題が起きました」
「問題?」
「学生同士の、喧嘩です」
リナは立ち上がった。
「案内して」
実習厨房に着くと、二人の学生が睨み合っていた。
一人は、背の高い男子学生。もう一人は、小柄な女子学生。
「何があったの?」
リナが尋ねた。
男子学生が答えた。
「こいつが、俺の食材を勝手に使ったんです!」
「勝手じゃない!」
女子学生が反論した。
「あなたが間違って私の分まで取ったのよ!」
「嘘つくな!」
「嘘じゃない!」
二人は、再び睨み合った。
お駒が、静かに二人の間に立った。
「お待ちなされ」
お駒の声は、静かだが威厳があった。
二人が、ビクッとして黙った。
「喧嘩の原因は、玉ねぎ一個でござるか?」
「...はい」
お駒は、冷蔵庫から玉ねぎを取り出した。
「では、これを差し上げます」
お駒は、新しい玉ねぎを二人に渡した。
「でも、その前に」
お駒は、二人を見た。
「江戸の板場では、このような言葉がございます。『板場は船場。一人が沈めば、皆が沈む』」
お駒は、厨房を指差した。
「料理場は、船と同じ。一人一人が役割を果たし、助け合わねば、良い料理は作れません」
お駒は、優しく言った。
「玉ねぎ一個で争う暇があったら、二人で協力して、美味しい料理を作りなされ」
二人は、恥ずかしそうに頭を下げた。
「...すみませんでした」
リナは、お駒に感謝の目を向けた。
お駒は、微笑んで頷いた。
夕方、リナは疲れ果てて校長室のソファに倒れ込んだ。
「疲れた...」
エミリーが、お茶を持ってきた。
「お疲れ様です、リナ」
「ありがとう...」リナはお茶を飲んだ。
「初日から、いろいろありすぎよ...」
クロエが、資料を持って入ってきた。
「リナ、明日の予定です」
「明日...?」
「はい。午前中は新入生向けの『栄養学基礎』の講義。午後は『調理化学実習』。夕方は教授会議。それから――」
「待って待って」
リナが手を上げた。
「私、全部出るの?」
「校長ですから」
クロエが当然のように言った。
「無理よ! 体が持たない!」
「大丈夫です」
クロエが微笑んだ。
「私とエミリーが、サポートしますから」
エミリーも頷いた。
「私たちも、講義の準備を手伝います。資料作成、実習の補助、学生の質問対応――全部やります!」
リナは、二人を見た。
「...あなたたち、学生でしょ? 自分の勉強は?」
「大丈夫です」エミリーが言った。「私、もう栄養学の基礎は理解してますから」
「私も、調理化学の講義なら、リナから学んだことで十分対応できます」
クロエが付け加えた。
リナは、二人の決意を感じた。
「...ありがとう。本当に、助かるわ」
その時、校長室の扉が激しくノックされた。
「リナ先生! 大変です!」
ジョンが、慌てて入ってきた。
「どうしたの?」
「食材の発注ミスです!」
「発注ミス?」
「明日の実習用に牛肉を五十キロ発注したはずが...五百キロ届きました!」
「...は?」
リナは、立ち上がった。
「五百キロって...どこに保管してるの?」
「倉庫です。でも、冷蔵庫が満杯で...」
リナは、頭を抱えた。
「どうすんのよ、これ...」
クロエが、冷静に言った。
「リナ、発想を変えましょう」
「発想?」
「五百キロの牛肉があるなら――全校生徒と教職員に、牛肉料理を振る舞えばいいんです」
エミリーが目を輝かせた。
「そうです! 『開校記念特別ディナー』にしましょう!」
リナは、二人を見た。
「...でも、五百人分の料理を、今から作るの?」
「大丈夫です」
クロエが微笑んだ。
「マックス先生とハリソン先生、それにお駒さんたちにも協力してもらいましょう。それに――」
クロエは、窓の外を見た。
「新入生たちも、きっと手伝ってくれますよ」
一時間後、大学の中央厨房。
リナは、集まった教職員と学生たちを前に立っていた。
「皆さん、聞いてください!」
リナの声が響いた。
「発注ミスで、牛肉が大量に余りました。このままだと、無駄になります」
リナは、冷蔵庫を指差した。
「だから、今夜、全員で料理を作りましょう! 『開校記念特別ディナー』です!」
学生たちが、どよめいた。
「でも、五百人分って...」
「時間がないんじゃ...」
「大丈夫」
マックスが前に出た。
「俺が、段取りを指揮する」
ハリソンも前に出た。
「私が、栄養バランスを計算します」
お駒が、着物の袖をたくし上げた。
「わたくしたちも、お手伝いいたします」
エミリーとクロエも並んだ。
「私たちが、調理の補助をします!」
リナは、笑った。
「じゃあ、役割分担よ!」
リナは、ホワイトボードに書き始めた。
「チーム1:肉の下処理。牛肉を適切なサイズにカット。マックス先生とお駒さんが指導」
「チーム2:野菜の準備。玉ねぎ、人参、セロリを刻む。お吉さんとおりんさんが指導」
「チーム3:ソース作り。トマトベースの煮込みソース。ハリソン先生が指導」
「チーム4:調理。大鍋で牛肉を煮込む。私が指導」
「チーム5:盛り付けと配膳。エミリーとクロエが指導」
リナは、学生たちを見た。
「五つのチームに分かれて、協力して作りましょう! これが、あなたたちの最初の実習よ!」
学生たちが、一斉に動き出した。
【化学コラム②:牛肉の煮込み料理の科学】
牛肉を長時間煮込むと、柔らかくなる。これは、化学反応のおかげだ。
牛肉の「硬さ」の主な原因は、コラーゲン(C₁₀₂H₁₄₉N₃₁O₃₈)という結合組織タンパク質。コラーゲンは、三本のポリペプチド鎖が螺旋状に絡み合った、非常に強固な構造を持つ。
しかし、長時間加熱すると、この構造が分解される:
60℃以上: コラーゲンの三重螺旋構造が緩み始める
80℃以上: コラーゲンがゼラチンに変化し始める
90℃以上: ゼラチン化が加速
ゼラチンは、コラーゲンが水を吸収して膨潤したもの。これが、煮込み料理の「とろみ」と「柔らかさ」の源だ。
さらに、煮込み料理では、メイラード反応(アミノ酸+糖→褐色色素)と脂質の酸化によって、複雑な風味が生まれる。
トマトを加えると、クエン酸(C₆H₈O₇)が肉を柔らかくし、グルタミン酸(C₅H₉NO₄)が旨味を増す。
つまり、煮込み料理は、時間と温度を味方につけた、化学的に最適化された調理法なのだ。
―――――――――――――――――――
厨房は、熱気と活気に包まれた。
チーム1の学生たちが、マックスとお駒の指導のもと、包丁を握っている。
「いいか、肉の繊維を見ろ! 繊維に対して直角に切ると、柔らかくなる!」マックスが叫ぶ。
お駒が、隣で優しく補足する。
「そうでございます。肉の繊維は、見た目でわかりますゆえ、よくご覧なされ」
チーム2では、お吉とおりんが、野菜の切り方を教えている。
「玉ねぎは、繊維に沿って切りますと、煮崩れしにくゅうございます」
おりんが、実演しながら説明する。
「人参は、乱切りにいたします。こうすることで、火の通りが均一になりますのよ」
チーム3では、ハリソンが化学式を説明しながら、ソース作りを指導している。
「トマトのリコピン(C₄₀H₅₆)は、脂溶性です。だから、オリーブオイルと一緒に加熱すると、吸収率が上がります!」
チーム4の大鍋では、リナが煮込み具合をチェックしている。
「温度は95℃。もう少し下げて。90℃をキープして」
学生が温度計を確認する。
「はい! 90℃に調整しました!」
「よし。このまま一時間煮込むわよ」
リナは、鍋の中を見た。
牛肉、玉ねぎ、人参、セロリ、トマト――すべてが一つの鍋の中で、溶け合っている。
「...料理って、不思議ね」
リナは、呟いた。
「別々の食材が、一緒に煮込まれることで、新しい味になる」
クロエが、隣に来た。
「人間と同じですね」
「人間?」
「はい」
クロエが微笑んだ。
「別々の背景を持つ人たちが、一緒に何かを作ることで、新しい何かが生まれる」
クロエは、厨房を見渡した。
「ユナイティアの人たち、現代日本のリナ、江戸時代のお駒さんたち――みんな違う時代、違う場所から来たのに、一緒に料理を作っている」
クロエは、感慨深げに言った。
「今日、喧嘩してた二人の学生、見てください」
リナが見ると、あの二人は一緒に玉ねぎを刻んでいた。笑顔で、何か話しながら。
「...そうね」
リナが微笑んだ。
「料理は、人をつなぐのかもしれないわね」
お駒が、リナの隣に来た。
「リナ様」
「はい」
「わたくし、思いますに――」
お駒は、厨房全体を見渡した。
「料理とは、時代を超える言葉なのでございますね」
お駒は、微笑んだ。
「江戸の板場も、この未来の厨房も、やっていることは同じ。食材を切り、火を使い、誰かのために料理を作る」
お駒は、リナを見た。
「科学という言葉は、わたくしたちの時代にはございませんでした。でも、わたくしたちも、経験という名の科学を積み重ねてきたのだと、今日わかりました」
リナは、お駒の言葉に感動した。
「お駒さん...」
「リナ様、わたくしたち、この大学でたくさん学ばせていただきます。そして、江戸の料理の心を、この時代の方々に伝えさせていただきます」
お駒は、深くお辞儀をした。
「よろしくお願い申し上げます」
リナは、お駒の手を取った。
「こちらこそ。一緒に、素晴らしい料理人を育てましょう」
午後八時、大学の食堂。
長テーブルに、五百人分の料理が並んだ。
「すごい...」
学生たちは、自分たちが作った料理を見て、感動していた。
大鍋で煮込まれた牛肉のトマト煮。湯気が立ち上っている。
リナが、マイクを手に立った。
「皆さん、お疲れ様でした!」
拍手が響いた。
「今日は、いろいろありました。喧嘩もあった。ミスもあった。でも――」
リナは、料理を指差した。
「最終的に、こんな素晴らしい料理が完成した。これは、皆さんが協力した結果です」
リナは、笑った。
「料理は、一人で作るものじゃない。みんなで作るものなんです」
リナは、お駒たちを見た。
「そして今日、私たちは時代を超えて、一緒に料理を作りました。江戸時代も、現代も、未来も――料理で繋がっています」
リナは、グラスを掲げた。
「では、ユナイティア国立料理大学、開校を祝って――乾杯!」
「乾杯!」
全員が、グラスを掲げた。
食事が始まると、食堂は笑い声と会話で満たされた。
「美味しい!」
「この肉、柔らかい!」
「トマトの酸味が絶妙!」
お駒、お吉、おりんも、料理を味わっていた。
「まあ、なんと美味しい」
お吉が感動した声で言った。
「トマトという野菜、江戸にはございませんでしたが、こんなに料理に合うとは」
おりんが続けた。
お駒は、静かに料理を味わっていた。
それから、リナを見た。
「リナ様、この料理は...」
「はい」
「科学と心、両方が入っておりますね」
お駒は、微笑んだ。
「正確な温度管理、化学式に基づいた調理法――それでいて、作る人の心が感じられます」
お駒は、食堂を見渡した。
「これが、リナ様の目指す料理なのでございますね」
リナは、頷いた。
「はい。科学だけでも、心だけでもない。両方です」
リナは、大統領が入ってくるのを見た。
大統領が、リナのテーブルにやってきた。
「大統領、いらしてたんですか?」
「ええ。様子を見に来ました」
大統領が微笑んだ。
「素晴らしいですね。開校初日から、こんなに活気がある」
大統領は、料理を一口食べた。
「...美味い」
大統領は、お駒たちに目を向けた。
「江戸時代の料理人の方々、ようこそユナイティアへ」
お駒たちは、立ち上がって礼をした。
「恐れ入ります」
大統領は、真剣な顔で言った。
「あなたたちの時代の知恵と、私たちの時代の科学。それが融合することで、きっと素晴らしいものが生まれるでしょう」
大統領は、リナを見た。
「リナ先生、あなたは本当に、この国を変えつつある」
「いえ」
リナが首を振った。
「変えているのは、この国の人たちです。私は、きっかけを作っただけ」
大統領は、食堂を見渡した。
「でも、そのきっかけがなければ、この光景はなかった」
大統領は、真剣な顔でリナを見た。
「リナ先生、お願いがあります」
「何でしょう?」
「この大学を、成功させてください。そして――」
大統領は、窓の外を見た。
「この国全体に、料理を広めてください」
リナは、しばらく黙っていた。
それから、答えた。
「...やってみます。約束はできないけど、全力でやります」
大統領は、笑った。
「それで十分です」
その夜、リナは一人で大学の屋上にいた。
街の灯りが、遠くまで続いている。
「疲れたけど...良い一日だったわね」
リナは、夜空を見上げた。
星が、輝いている。
日本の港町で見た星と、同じ星。
「父さん、見てる? 私、校長になっちゃったよ」
リナは、小さく笑った。
「『ナツメ亭』の店主が、大学の校長。変な話よね」
風が吹いた。
リナは、目を閉じた。
父の声が、聞こえる気がした。
『料理は、人を幸せにするもんだ』
「...そうだね、父さん」
リナは、目を開けた。
「私、ここで頑張るよ。あなたが教えてくれたこと、この国の人たちに伝えるから」
その時――
「リナ」
クロエが、屋上に上がってきた。
「クロエ、どうしたの?」
「探しましたよ」
クロエが隣に座った。
「一人で何してるんですか?」
「ちょっと、父のことを思い出してて」
「...そうですか」
二人は、しばらく黙って夜景を見ていた。
それから、クロエが言った。
「リナ」
「何?」
「私、決めました」
「何を?」
クロエは、リナを見た。
「私、本気で料理人になります。そして、いつか――」
クロエは、照れくさそうに笑った。
「リナに認められるような、素晴らしい料理人になります」
リナは、クロエを見た。
「もう十分すごいわよ、あなた」
「まだまだです」
クロエが首を振った。
「私が目指すのは、リナの隣に立てる料理人。対等のパートナーになることです」
クロエは、真剣な顔で続けた。
「片思いは続けます。でも、それに甘えません。実力で、リナの隣に立ちます」
リナは、しばらくクロエを見ていた。
それから、微笑んだ。
「...楽しみにしてるわ」
二人は、もう一度夜景を見た。
そこに、お駒も上がってきた。
「まあ、お二人とも、こんなところに」
「お駒さん」
リナが驚いた。
「眠れないんですか?」
「少し、この時代の夜を見たくなりまして」
お駒は、夜景を見た。
「江戸の夜は、真っ暗でございました。月と星の明かりだけ」
お駒は、感動した様子で言った。
「でも、この時代の夜は、こんなに明るい。まるで、昼のよう」
お駒は、リナを見た。
「リナ様、この大学で、わたくしたちは何を教えればよいのでしょう?」
「お駒さんたちには――」
リナは、考えた。
「江戸時代の料理の『心』を教えてほしいんです」
「心...でございますか」
「はい」リナが頷いた。「科学は、私やハリソン先生が教えられる。技術は、マックス先生が教えられる」
リナは、お駒を見た。
「でも、『なぜ料理を作るのか』『誰のために作るのか』――その心は、お駒さんたちが一番よく知っている」
お駒は、静かに微笑んだ。
「わかりました。わたくしたち、精一杯教えさせていただきます」
三人は、夜景を見た。
明日も、きっと大変な一日になる。
でも――
「やってやるわよ」
リナは、小さく呟いた。
「料理革命、これからが本番ね」
【今回の化学式解説】
コラーゲン: C₁₀₂H₁₄₉N₃₁O₃₈
動物の結合組織に含まれる強固なタンパク質。長時間加熱でゼラチン化する。
リコピン: C₄₀H₅₆
トマトに含まれる赤色色素。脂溶性で、油と一緒に摂取すると吸収率が向上。
クエン酸: C₆H₈O₇
トマトや柑橘類に含まれる有機酸。肉を柔らかくし、保存性を高める。
グルタミン酸: C₅H₉NO₄
旨味成分。トマトに豊富に含まれる。
硫化アリル: C₃H₆S
玉ねぎを切った時に生成され、涙を誘発する揮発性化合物。
【今回の簡単レシピ:牛肉のトマト煮込み】
材料(4人分):
牛肉(カレー用) 400g
玉ねぎ 2個
人参 1本
セロリ 1本
トマト缶 400g
赤ワイン 100ml
オリーブオイル 大さじ2
塩、胡椒 適量
ローリエ 1枚
作り方:
牛肉に塩胡椒をふり、オリーブオイルで表面を焼く(メイラード反応で旨味アップ)
野菜を粗めに刻む
鍋に野菜、トマト缶、赤ワイン、ローリエを入れる
牛肉を戻し、水を加えて材料がひたひたになる程度に
弱火で90℃をキープしながら、1.5〜2時間煮込む
塩胡椒で味を調えて完成
ポイント: 90℃前後の温度を保つことで、コラーゲンがゼラチン化し、肉が柔らかくなります。強火で煮立たせると肉が硬くなるので注意! トマトのグルタミン酸が、牛肉の旨味と相乗効果を起こします。




